原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

大学教官氏達よ、学生を静かにさせるのは貴方達の使命だ!

2014年08月07日 | 教育・学校
 「原左都子エッセイ集」の一つのカテゴリーとして、 「左都子の市民講座」なる記述が存在する。

 これは、「原左都子エッセイ集」開設直後期の今から遡ること約6年半前頃に、我が高校教員時代に「商業法規」や「現代社会」の授業にて使用した「授業ノート」を参照しつつ、(おそらく法律素人にも分かり易く)綴った“法学基礎講座”の位置付けにある。

 ところがどうしたことか、この“バックナンバー群”にはエッセイ公開から7年近くの年月を経た今尚、(特に大学の試験やレポート提出時期に合わせて?)閲覧が殺到する現象が起きている。
 この現象を考察するに、“法学基礎講座”とは時代の変遷にかかわりなく、ある程度の普遍性があるものと推測する。
 現世は劇的に移り行くものの、法解釈や法適用に於いては時代の変遷を超越した「力」があるものと元法学経験者としても信じたいのが実情だ。
 (無断転載はお断りします。 転載・引用する際には必ず「原左都子エッセイ集より転載・引用」の一文を明記して下さい。)


 前置きが長引いてしまい恐縮だが、今回のエッセイは朝日新聞7月26日”悩みのるつぼ”から取り上げよう。
 30代 大学講師氏からの相談によると、「学生がひどく講義できません」 との事だ。
 早速、その内容を要約して以下に記そう。

 30代後半の女性だが、大学で講師を始めて5年ほど経っている。 自分の専門分野について講義をするのは楽しく、やりがいも感じている。 しかし意欲・興味を持っている受講生は1割程度の事も。 多くの学生は私語やスマホ、内職ばかりで、注意しても改善されない。  私の方針としては「出席しなくても試験の基準に達していれば単位を与える」と学生に指導しているし、大学とはそもそも基本的には自由な場であるのだから、私の講義を聞きたくなければもっと楽で興味がある講義を取ればいいとも指導している。
 ところが、私の考えがどうしても学生達に通じない。 講師の目の前の席で化粧、イヤホン、居眠りも日常茶飯事…。 自分自身が感情的にならず、講義に集中するにはどうしたらいいのか?


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。 

 なるほどねえ。 30代との人生経験では、大学講師にして確かにそのレベルでしか学生達に対応するしか手立てが打てないかもしれない。
 原左都子から少しだけ相談者にアドバイスしよう。
 貴方自身のやりがいよりも何よりも、今一度大学の教壇に立てる地位を得ている自分自身が置かれている身を、その責任の所在から振り返るべきである。
 ここは今一度、貴方の講義を聞かされる学生達の身になって物事を考え直しては如何なのか? と言うことだ。


 さてさて、7月26日“悩みのるつぼ”回答者であられる 評論家 岡田斗司夫氏のご回答も、何とも生ぬるい。
 以下に、岡田斗司夫氏の回答の一部を紹介しよう。

 私も大学の教員だが、学生に聞くと授業中にスマホや私語をするのは当然の権利だそうだ。
 教員の立場としては「やる気がない奴は講義に来るな」はダメ。 入試をパスして授業料を払っているからには大学側は学生を選ぶ権利はない。 今やほとんどの大学は大衆化してファミレス状態だ。 もしも相談者が現状に不満なら、高級大学に転職するしかない。 貴方に選べるのは「マシな転職しかない」。
 でも私(岡田氏)は転職しない。 大衆大学にも「ちゃんとした教育」を渇望している学生がいるからだ。 我々大学教員とは、今後「お客さま」な若者を一人でも多く「学生」に育てる義務がある。 これを諦めるのが「教育の敗北」だ。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”回答者岡田斗司夫氏よりの回答を要約引用。)


 原左都子の反論を展開しよう。

 岡田斗司夫先生、ちょっと待って欲しい。
 貴方が現在勤務されている大学のレベルの程を私は少しも掌握していないのだが、そもそも「大学」とはいかなる学府であるべきかを貴方は理解されているのだろうか!??
  
 大学とは現在の法律上「学問の府」であることを認識した上で議論を展開して欲しい思いだ。
 その「学問の府」に於いて、それを伝授する立場にある教員たるものは必ずや現行法に従って学生を指導するべきなのだ。
 原左都子の私論としては、教官氏が培ってきた「学問実力のみ」によって、学生達を授業に集中させて欲しい思いに偽りがない!
 
 それでも、現行法に準拠出来ずにあえぎつつ我が国に存在する“下部大学”が今尚少なからず存在する事実に関しても、私は把握している。 そうだとしても、現在に於いては国内大学が国公立私立問わず自然淘汰されている現状に於いて、その存命を各大学毎に必死で切磋琢磨している現実ではなかろうか?

 ここで、大学を支えて立つはずの教員達が切磋琢磨せずしてどうするの?  岡田斗司夫先生!?!
 “本気”の教官には必ずや学生達は心打たれるものだ。 単位も点数も何も要らない。 教官の知名度や人気度などにも一切興味がなかった私だ。  ただただ本気で自らの専門学問を貫いている教官達をどこまでも追っかける覚悟で、私は大学及び大学院を全うした。

 貴方は評論家としての地位を既に築いていらっしゃるので、今後ご自身が所属している大学の未来など二の次であられることだろう。
 ただ、今回“悩みのるつぼ”に相談を寄せた女性講師は、おそらくしばらく大学講師として世を渡る覚悟と私は見る。

 朝日新聞“悩みのるつぼ”相談とは、回答者である著名人の今現在の近況を知らせる場ではないだろうに…
 そうではなく、一庶民の切実な「真の悩み」に誠実に寄り添って欲しい思いだ。

笹井副センター長自殺はSTAP不正を証明したも同然

2014年08月05日 | 時事論評
 本日(8月5日)正午のNHKニュースのトップ報道には仰天させられた。

 以下にそのトップニュースの内容について、ネット情報より引用しよう。

 5日午前8時40分ごろ、神戸市中央区の先端医療センター内で、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB、同区)の笹井芳樹副センター長(52)が首をつっているのを職員が発見した。 笹井氏は市内の病院に運ばれたが、死亡が確認された。 笹井氏はSTAP(スタップ)細胞論文の共著者の一人で、関係者に宛てた複数の遺書が残されていた。 自殺とみられる。
 笹井氏はCDBの小保方晴子研究ユニットリーダーが英科学誌ネイチャーにSTAP細胞を発表した際、論文執筆を主導。 理研の調査委員会は重大な責任があったと指摘していた。
 兵庫県警によると、笹井氏が発見されたのはCDBに隣接する医療センター研究棟の4、5階の間の踊り場。 ひものようなもので首をつっていた。 半袖シャツにスラックス姿で、靴は脱いでいた。かばんの中に遺書があったという。理研によると、笹井氏の研究室にも遺書のようなものがあり、秘書の机の上に置かれていた。
 STAP細胞の論文問題で、理研調査委は小保方氏が実験画像の捏造(ねつぞう)や改ざんを行ったとして不正行為を認定。 笹井氏の不正は認めなかったが、論文投稿前に実験データを確認しておらず、「立場や経験などからしても、責任は重大」と指摘していた。
 1月末にネイチャーに発表した論文は、7月2日に撤回され、科学的成果としてのSTAP細胞は白紙に戻った。理研は懲戒委員会で小保方氏や笹井氏の処分を検討していたが、論文疑惑の追加調査を理由に中断。外部の有識者でつくる改革委員会はCDBの解体と笹井氏ら幹部の更迭を要求していた。 

 笹井氏はSTAP論文を執筆した理研の小保方研究ユニットリーダーの指導役で、再生医療研究の第一人者。 STAP細胞の有無を確かめる検証実験が続いているが、論文に関係する主要研究者の1人が亡くなったことで真相究明への影響も懸念される。
 (以上、ネット情報より引用。)


 ここで顰蹙ではあるが、上記ネット情報内に記されている “笹井氏が(首を吊った状態で)発見された理研研究棟階段の踊り場” に関して原左都子の記憶にある私事を述べよう。

 私は過去にアルバイトの身分だが、(関東地方に位置する)理研某研究所へ勤務した経験がある。
 その時の私にとっての理研とは、(たかが“アルバイト”との職務範囲を限定されている立場だった事が第一の理由で)何とも居心地の悪い職場であった。
 例えば正職員の立場であれば実験の待ち時間等の合間に、当然ながら自分の研究課題である参考論文等のチェックが可能だ。 ところがこれが一旦アルバイトともなると、研究機密等の理由があるためやむを得ないのだが自由に閲覧させてもらえない立場だ。  そのため実験待ち時間を如何に過ごすかと言うと、(自らの元科学者としてのプライドを押し殺し)研究室内のゴミ集めをしたり、実験器具の洗い物をこなしたり……。  ところがその作業専門に雇われているアルバイト氏が存在するため、私が勝手に手出しし過ぎるとそれらアルバイト氏達の業務妨害ともなり得る事態だ。
 そんなこんなで、元々客観力のある私は実験の空き時間を如何に過ごすかに関して、知恵を振り絞ったものだ。 ある時はトイレで時間を稼いだりもしたが、これとて時間制限がある。

 そんな時我が脳裏にひらめいたのは、理研研究棟階段の昇降を繰り返す事によりストレッチ運動して過ごす事だった!
 と言うのも理研研究棟の階段とは薄暗く、普段“誰も使用していない”状態なのだ。 そもそも理研研究棟とは人口密度が低いのに加えて職員の皆さん“エレベーター派”だった様子で、ここを通行する人間が皆無状態である事を私は見抜いていた!  そんなこんなで、私はこの階段を自らの実験の空き時間に“ストレッチ運動場”として利用出来たのである… 

 だからこそ、理解できるのだ。  何故笹井氏が「理研研究棟の階段踊り場」を自分の“死に場所”に選んだのかを…
 冗談抜きで訴えたいのだが、もしも理研研究棟の階段がもっと人が通行する場として機能していたならば、笹井氏はそこで自殺する必然性など無かったのではないかと!

 一旦私論だが、どうも理研とは様々な意味合いで「閉鎖的要因」が大きいのではなかろうか? 
 「アルバイト」には研究機密保持目的で、すべての情報収集を禁止する??
 はたまた理研は研究員等の健康目的でも、もっと研究棟の階段使用を奨励するべきであろう。


 話題を、表題に掲げたテーマに戻そう。

 「原左都子エッセイ集」2014年7月29日バックナンバー 「小保方氏はもはや不正疑惑から逃れなれない」 に於いて、私は本日自殺した笹井氏に関する記述をしている。 
 その内容を以下に振り返らせて頂こう。
 NHKの取材は、小保方晴子氏を大々的に取り上げ世に売り込んだとも言える笹井氏にも及んでいた。 笹井氏なる人物こそが、若き小保方氏を利用して自らの利益(例えば将来の「ノーベル賞」受賞等)を得ようと企んだ張本人ではなかろうかと、私も以前より感づいていた。  
 NHKの取材によると、笹井氏とはES細胞分野で名を挙げている科学者にして“マルチタレント性”があるとの事だ。  そこで小保方STAP研究にその“力量”を発揮して、ネイチャー論文として仕立て上げ、自分こそが「STAP特許」でも取ってその後「ノーベル賞」に発展させれば、今後国家からの理研への膨大な資金援助にもつながると企んだとの原左都子の理解でもある。
 NHK報道によると、笹井氏とは国家から「プロジェクトマネー」が取れる類まれな人物として、理研神戸センター長である竹市氏らからも大いなる期待を寄せられているらしい。  その理研神戸センター長の立場としては今後も事件解決を先送りして、神戸センターの存続を望みたいとのNHKの報道だが…。


 最後に私論でまとめよう。
 
 この時期に笹井副センター長に自殺されて一番頭が痛いのは、CDBセンター長の竹市氏であり、また理研総長氏であり、更には理研に巨額な財源を提供しようと目論んでいた安倍政権であろう。

 ただ庶民の立場としては、どうしても根拠無き科学研究に血税を投入する過ちを国政には繰り返して欲しくないのだ!
 今回の笹井氏の自殺とは、表題に示した通りSTAP不正を証明したに過ぎないと私論は捉える。

 せめても、笹井氏を崇拝していたらしき周囲研究者や上司達の心理面でのケアを望みたいものだ……

絵むすび(朝日新聞2014.8.2編)

2014年08月03日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞2014年8月2日別刷「be」に掲載されたパズル「絵むすび」に原左都子が解答したもの。)


 今回の「絵むすび」レベル4は、難易度が高かったですね!


 四角の4隅すべてが空欄だった設問は、今回が初めてだったと記憶しています。
 
 解答のポイントとしては、4隅それぞれにどの絵を通すか? 
 

 そして、私が一番注目したのは、右から3列目に4つの絵が縦に並んでいる点でした。

 特に後者の、4つ並んだ「風鈴」「なす」「かき氷」「うちわ」の結び方を工夫したところ、後は簡単に解答が叶いました!

       

集団で実施する「命の教育」など、教委の気休めに過ぎない

2014年08月02日 | 時事論評
 級友の命を奪ってまでも「人体解剖」を実行したいとの内面から湧き出る欲求を、自己コントロールし切れない一少女がこの世に存在し得る事実を、我々は如何に捉えるべきか?

 原左都子の観点から正直に述べると、そういう人物がこの世に存在しても不思議ではない感覚を、私は過去の経験から一部承知している。


 例えば医学部の学生達とは、必ずや「人体解剖」実習を通過せずして医師免許状が取得出来ない運命だ。
 医学部学生の中には、元々「人体解剖」に興味があった人種もいるだろう。
 あるいは、そうではなく医師免許を取得するためやむを得ず「人体解剖」を義務として何とかこなした人物も存在するであろう。
 もしかしたら「人体解剖」がどうしても受け入れられずに、医学部を中途退学した人材もいるかもしれない……。

 私自身の医学部経験を述べると、私の専攻が“パラメディカル分野”であったがために、「人体解剖」に関しては医進者(医師を志す学生達)による「人体解剖」場面を見学しさえすれば、授業単位が取れる立場にあった。
 それでも見学途中で“吐き気”を訴え、その場から退室し実際に吐いた女子学生が存在した。
 私自身に関しても、大学病院内科実習に於いて生前の姿を認識している患者氏の死後直後の解剖実習場面は見学するに忍びなかった思い出がある。 生前病室で「具合はいかがですか?」などと質問すると、病状の悪化にかかわらずいつも丁寧に応えて下さる患者さんだった。 生前病室にいつも付き添っていた奥方氏の無念と共に、若気の至りの我が身にしては実に辛い「解剖実習」だったものだ。

 要するに私自身は「人体解剖」の場で吐き気に耐えられない程の拒絶感はなく、自分が置かれている立場を客観視して冷静に振る舞う事により、何とか理性で持ちこたえられた人種なのであろう。

 そのように私自身を考察した場合、自己コントロール力を完全に失ってまで級友相手に「人体解剖」がしたかったとの佐世保事件加害者女性とは、精神構造を異にすると自己分析する。 
 そういう意味で佐世保事件の加害者女子には、せめてもう少し自己コントロールが可能なまでに成長した暁に、大学医学部にでも進学させて「人体解剖」を正当な手段で実施して欲しかった思いだ。
 極論ではあろうが、この女子の育て方を誤らなければそのような人生を導いてやることも可能だったのではなかろうかと、悔やまれるのだ……。
 
 各種続報を見ると、当該少女は経済面や社会的地位に於いて恵まれた家庭に育っているようだ。
 その傍ら、少女は幼き頃よりいわゆる“猟奇趣味”の片鱗がみられたとの報道もある。 せっかく恵まれた家庭に生まれ育っていながら、その特異性に気付き真剣に対処出来る人物が家庭内に存在しなかったのだろうか?? 

 しかもこの少女の不運は、1年ほど前に母を“膵臓癌”で亡くした事で加速したとも受け取れる。
 少女の成長を一番に見守っていたはず(?)の母の死がもたらしたショックにより、おそらく少女の“猟奇趣味”に火が付いたことであろう。 更に追い討ちをかけたのが、その直後に父親が愛人を作り少女を家から追い出して「ワンルームマンション」を与えるとの(一般家庭に於いては信じ難い)事実でもあろう。


 我が国に於いては、過去にも同様の“猟奇趣味的事件”が複数発生している。
 その一つは、既に死刑が実行されこの世にはいない宮崎勤による、幼女連続殺害事件だった。
 1997年に神戸市で発生した(通称)「酒鬼薔薇事件」に於いても、幼い子供が複数犠牲になっている。
 上記両事件と、今回の佐世保高1女子事件との間に共通項が多いと私も認識している。


 それにしても、その後の佐世保市教委の対応が混乱状態かつ貧弱極まりないのだ。

 今回の事故後の佐世保市教委の対応に関するネット情報を以下に紹介しよう。
 佐世保市で県立高校1年の女子生徒(15)が殺害され、同級生の少女(16)が逮捕された事件を受け、市議会文教厚生委員会は29日、市教育委員会から事件への対応について報告を受ける会合を開いた。少女が小学生のときに給食に異物を混入した事案が取り上げられ、当時の市教委の対応をただす声が上がった。 県教委によると、少女は小学6年生のとき、家から漂白剤や洗剤を持ちだし、学校の給食に混ぜて大きな問題になった。 会合で市教委は、当時の対応について「学校から混入事件に関する報告があり、県にも報告した。心のケアなどもさせていただいた」と説明。「市議会に報告しなかった点は反省したいと考えている。その後の県教委の対応については知らない」と話した。 永元太郎・市教育長は「(児童や生徒の情報の)引き継ぎ対応システムが県側とつながっていない」などと釈明。 市議からは「県教委と市教委の連携がどうなのかと以前から疑問に思っていた」などの意見が相次いだ。


 皆様もご存知の通り、佐世保市は過去にも市立小学校に於いて小6女子同級生同士の間で殺傷事件を経験している。
 この事件を受けて、佐世保市教委はその後「命の教育」とやらを公立小中学校で定期的に実施しているらしい。
 ところが、佐世保市によるこの「命の教育」とやらをテレビ報道で一見した私は、大いなる失望感を募らされたのだ。

 全校生徒を猛暑の体育館に強制的に座らせ校長から“下手な訓辞”をしたとて、何らかの思いが生徒達に伝わるとでも思っているのか!?
 生徒一人を“犬死”させるとのこんな非常事態に直面した時にこそ、子供の教育とは如何にあるべきかを振り返る絶好の機会であるのに、何故教委の年寄達は未だ子供達を体育館に集合させてろくでもない訓辞を述べたいのか!?


 最後に私論に入ろう。
 
 ここは是非共専門家氏に、個々の生徒一人一人のカウンセラー力を頼って欲しい。 
 このような事件があった暁に、学校現場で下手な全体集会を開催したところで、個々の生徒の精神面での負担を募るばかりであり無意味な結末となろう。
 今の時代に於いては、地域教委長や学校長が専門力無き無駄な訓辞をせずして、必ずや個々の子供の成長に寄り添える専門力あるカウンセラー氏が存在するはずだ。
 
 どうか教委や学校には自分らのプライドより何より民間力に頼ってでも、本気で個性ある子供達一人一人と直に対面する事により、子供達の将来を守って欲しい思いだ。