原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

小池さんが集めた“都民ファースト”メンバーの貧弱さが気になる

2017年06月04日 | 時事論評
 いやまあ、たとえ大都会東京都とは言えども、所詮「地方議会選挙」など党員を頭数だけ揃え勝利すれば党首としてはそれで済むのだろうし…


 それにしても東京都知事の小池さんて、もしかしたら「学歴・経歴コンプレックス」でもおありなのだろうか???  と疑りたくもなる。
 と言うのも、今回都知事であられる小池百合子氏が都議会選挙に向け「都民ファーストの会」公認予定者を集めたらしいのだが、その立候補者面々の学歴・経歴の数々を小池氏が誇って曰く…
 
 「商社マン、弁護士、医学博士。 すごい人材がそろった。」
 このように、総決起大会会場で小池氏が豪語したとの事だ。

 何をもって“すごい人材”と評価するのかが分かりにくい発言だが、要するに小池氏が自身の“インテリ好き”を暴露したという事だろうか??

 一旦、原左都子の私見だが。
 えっ? 商社マンって凄いの?? どんなところが?? と小池氏にお聞きしたいものだ。
 医学博士に関しては過去に医学関連職歴がある私としては、普通に知り合い素通りして来た職種かもしれない。 確かに医学博士と名乗る人の中には医学専門力が凄かった人材がいるにはいたが、政治家としてはどうだろう?と思い浮かべる人物もいる。 (参考だが「医学博士」とは医学研究により博士号を取得しさえすればそう名乗れる肩書きに過ぎない。「医師」と「医学博士」を混同している一般人は多いようだが、「医師」でなくとも「医学博士」を取得している人物は数多い。) それにしても、小池氏は「職業」と「肩書」を一緒くたにする過ちを犯している事は確かだ。
 弁護士ねえ。 そう言えば、この私も弁護士を目指した時期もあったなあ。 まあ、法律の専門職という点では、一番政治に近い人材かもしれないが。


 朝日新聞6月2日付記事によれば、小池氏が集めたそれらの“すごい人材”の半数は全く政治経験が無いらしい。
 一応自民党や民主党から移った地方議員経験者も19名いるらしいのだが。
 その多くが小池氏が昨年10月に開校し、訳4千人が参加した政治塾の塾生だそうだ。 このうち都議連対策講座に応募した役1千人を、一般教養テストや政策立案にかかわる論文で抜粋し面接等で最終的に絞り込んだとの事だ。 今後さらに都民ファーストの会は10人ほどを公認・推薦する予定という。
 ある公認予定者は、都議選で争点になるとみられる築地市場移転問題について、「知事が移転の可否を判断していない」との理由で、自分の意見を街頭で訴えないよう指示されたという。 都民ファーストの会幹部は「政治経験の無い人達が、それぞれ勝手に発言すると収拾がつかなくなる。」と説明する。
 同会が5月23日に公表した都議選の公約には、市場移転問題について「知事の立場を尊重します」と書かれている。 自民党側からは「小池地位のイエスマンが議会で過半数を握ったら、都政は停滞する。」と批判した。
 元宮城県知事の浅野氏は「都民ファーストの会都議が『上司』である小池氏に意見できるのか?」と指摘する。 その一方で、都政は近年、都職員の都議に対する過剰な配慮で議会の力が大きくなり過ぎた。 都庁と都議会の健全な緊張関係を保つにはどう改革するべきなのか、都知事選で問われる」と述べた。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)


 最後に私論でまとめよう。

 この私とて一東京都民であるが故に、7月第一日曜日に実施される「東京都議会選挙」に出向かねばならない。
 その立場として、実際「都民ファーストの会」党首であられる小池氏の発言があまりにも幼稚である事実に、現在困惑させられている。

 まず、その小池氏の “インテリ好き” に嫌気が指す。
 もちろん、選挙戦で闘うには立候補者には表立ってアピール可能なバックグラウンドは重要であろう。
 ところが今回小池氏が集めた“人材”とは、まさに “表立った経歴アピール力しかない” 有様と、都民に受け入れられてもやむを得ない状況なのではなかろうか?

 更には、その“インテリ”達はもしかして都議会選挙に当選した暁には、本気で今現在の専門をかなぐり捨ててでも、都議会議員として都民のために誠実にその役割を果たす志があるのだろうか?? 
 そうでないとすれば、それは都民に対する“裏切行為”であろうし、はたまた、実は元々自身の専門分野で行き詰まっているからこそ、小池氏が立ち上げた新党に安易に応募しただけの話のような気もするのだ。

 もしも小池氏が、それら自ら選出した人材に真に都政改革可能な潜在力があると信じるのならば、むしろ選挙戦にて、思い切って立候補者個々の選挙公約を発表させては如何だろうか??!
 私など、それを聞かせてもらった上で、投票する人材を自分で見抜きたいと考える都民だ。

 何はともあれ、小池氏が操る「都民ファーストの会」とは、小池氏自らが自覚し欲する程には成熟していない未だ未熟段階であろう。
 今後、都民からの絶大な支持を得られる程の政治団体に成熟するには、党首であられる小池氏自らが「独裁制脱却」等々越えねばならないハードルが大きいと、私は指摘したいのだが。

「普通取引約款」 に関する学説研究

2017年06月02日 | 左都子の市民講座
 久しぶりの「左都子の市民講座」カテゴリーエッセイの執筆だが、今回は先だって公開した「左都子コレクション —大学(大学院)講義ノート編― 」より引用しよう。


 以下に紹介するのは、「商法総則」の講義内容より「普通取引約款」に関して、定期試験対策用に原左都子がまとめた内容である。
 何分、20数年前の大学講義よりの引用であり、また、あくまでも当時一学生であった私が自ら記述したノート内容であるため、学問的誤りや不十分な点がある場合お詫びします。


 普通取引約款とは、企業がその顧客と取引するに際し契約諸条件をあらかじめ定型化し、不動文字にて書面に印刷したものであり、これにより多数の顧客との個々の取引を一律になそうとする場合の定型的契約諸条件をいう。 
 約款が拘束力を持つのは何故か、約款は如何に解釈されるべきか、更には約款に対する国家規制が問題となる。

 まず、約款が「法規制」であるか否かに関して。

 「約款が自治法であるとする代表的学説」は“社会あるところに法あり”に法諺を援用して、団体の自主制定法規に法源制を認め約款もその一例とみる、とする。 これが我が国に於ける通説である。

 これに対し、「契約型理論」は約款それ自体としては直ちに拘束力は持たず、拘束力を持つためには企業と顧客の意思を何らかの形で媒介する必要がある、とする。
 そのうち、「意思の推定説」はその根拠として契約者が署名した事実を挙げる。 我が国の判例の立場でもあるが、契約者が意思の不存在を証明した場合には拘束力が認められなくなり、取引の安全を害するとの批判が多い。 
 あるいは「白地慣習説」は、契約が約款によること自体が商慣習化している点に拘束力の根拠を求める。 我が国の多数説であるが、この説に関しては新種企業に於ける新約款採用の場合の説明が出来ないとの批判がある。
 また、約款とは企業の理念実現のために企業に装備されている制度的所産であるとする「制度説」もある。
 これらの説は約款の拘束力を当然視するものであり、消費者保護意識が希薄と言えよう。

 これらに対し全く違った観点から、約款の拘束力根拠を契約両当事者の“意思の合致”に求める事により、約款の内容的限界付けをなそうとするのが「客観的合意説」である。 この説によると、客観的合意の範囲に於いてのみ、すなわち、企業の意思と契約者の対価性確保の期待へ向けられた意思が合致してのみ、約款は拘束力を持つこととなる。

 さらに「法律行為的合意説」とは、約款の使用者が約款を使用する旨を相手方に明確に指示し、相手方である企業がこれに異議を唱える事無くして契約締結することを要するとの説である。 要するに、あくまでも消費者保護観点よりの学説だ。

 (以下は、20数年前当時の原左都子の私論のようだが…)

 約款の拘束力を相対視する学説では、両当事者により合意されたところの約款の範囲、内容的限界付けが解釈に於ける基本的問題となるが、対価性を基準として約款条項の相当性・不当性が判断されてこそ当該学説が活きよう。
 最後に掲げた「法律行為的合意説」に於いては、立論の基礎に“個々の当事者の意思”が置かれているため、契約締結時の個々の事情を含め契約内容の限界付けが成されねばならない事態となろう。
 私論としては、「普通取引約款」問題に於いても、企業側及び消費者、両当事者同士の地位互換性が失われている現代社会に於いて真の意味での“消費者保護”がなされると共に、企業の計算可能性維持も図られるべきとの結論に至る。

 (以上、20数年前に記した「原左都子コレクション -大学(大学院)講義ノート編」より、商法総則「普通取引約款」ページより引用したもの。)


 「左都子の市民講座」カテゴリーに於いては珍しい事だが、最後に今現在(2017.6.2)の原左都子の私論を述べさせていただこう。

 どうやら私は20数年前の当時から、「普通取引約款」に関し“企業側の利便性”を優先するべく解釈をしている「通説」ではなく、“消費者保護”も吟味している学説群を支持していたようだ。
 人間の思想とは、時代の変遷や社会の変動によってもさほど揺らぎが無い事に自分ながら安堵する。

 ただ、悲しい事に現状の「普通取引約款」が置かれている状況を自ら体験するに、どうしても「通説」である“企業側の利便性”優先で成り立っている事実に落胆させられる。
 それはもしかしたら、アベノミクス経済政策後に更に急速化した感もあるのが恐怖でもある。 
 今となっては、国民誰も「普通取引約款」など一読すらしないのではあるまいか??

 どうか国民の皆様、法律学者達の中には上記のような「学説論争」に消費者保護の観点から取り組んでいる人物も存在する事実に鑑みて、企業との諸契約締結時には何卒「普通取引約款」をご一読し、異議があれば契約締結前に相手方企業と議論される事をお勧めします。


 (ついでだが、当時の文章の“論調”が現在の「原左都子エッセイ集」同様である事に自分で驚かされる。 20数年前に大学(大学院)にてノートを聞き取り書きした当時以前より我が論調が育まれて来たことを物語るものであり、我ながら感慨深い。)