原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“開放感”に浸るつもりが、どっぷり病院通いの日々…

2018年01月13日 | 医学・医療・介護
 (写真は、現在入院中の亭主の体内から手術により摘出された“物体”。)


 前回エッセイの続編だが、我が亭主は上記写真の“物体”を摘出する目的で現在入院中だ。

 昨日、手術によりこの“物体”が亭主の体内より無事摘出され、亭主の入院生活も峠を越えた。

 
 一昨日、担当医との手術前面談のため病院(東大付属病院だが)へ出向いたところ。
 当該病院では患者の手術の際、必ずや家族が手術前より終了後まで病院内で待機せねばならない決まりとの事だ。 病院側の意図とは、手術時に想定外の事態に至った場合すぐ家族にその状況を伝え、家族の意思に従うとの意向のようだ。

 この話を手術前面談の際聞かされた私は、すぐさま異議を唱えた。
 「手術中に想定外の事態に陥ったとして、その場に家族が同席していても何らの役に立たないのではなかろうか? 同意事項はすべて今同意したのだから、手術中有事の際には医療スタッフの皆様に最大限の努力をして頂くしか方策がないだろう。 何も家族が無駄に同席せずとて、スタッフのご努力にお任せしたいが。 手術が終了する頃には必ず病院へ到着するようにするが、それでよいのではないか?」

 これを聞いた担当医師氏は、大いに意表を突かれたご様子だ。
 おそらく、こんな不謹慎は家族は私のみだろう。
 「一応当病院ではそのような決まりとなっておりますので、手術前より病院内で待機をお願いします。」 
 これがまた優秀かつ若きイケメンの良き医師先生で、その先生よりこう言われてしまったならば、それに従うしかない。


 そんなこんなで昨日は未だ暗闇の朝5時半に起床し、-2℃の厳寒の中、電車を乗り継ぎ病院へ向かった。
 病院からの指定時間に亭主の病室へ到着してみると、まだベッドで寝ている状態。
 「もうっ! こんな早い時間に来る必要なかったのに!!」と怒りつつ、亭主の体調を確認する。
 それから40分程が経過して、やっと看護師氏が手術用着替え補助のため病室へやって来た。(怒りは内面に抑え)ニコニコ作り笑いで挨拶と御礼を申し上げた。
 その後更に20分程経過して、やっと手術室へ向かう事となる。 手術室へ行くエレベーター付近で前日に面談したイケメン先生が待っていて下さり、合流する。
 (こんな朝早い時間帯から医療スタッフの皆さんが亭主の手術のために誠実に仕事をされているのに、家族の私がいつまでも不謹慎な心得では失礼だ。 心を入れ変えよう。)とやっと真摯な態度に戻れた私だ。

 その後、病院内で亭主の手術終了を待つ事となるが。
 暇つぶし用に書物を持参したのだが、なんせ眠いし身体がだるいし頭痛はするし目の奥が痛むし、到底読む気になれない。
 亭主の病室から東京スカイツリーがすぐそこのように展望できるため、しばらくボーッとそれを眺めていたのだが、時間はなかなか過ぎてくれない。

 少し歩こうと考え、病院内散策に移る。
 今回の亭主の手術の場合失敗例は極めて少数と聞いていたため、特段手術に関する不安感はない。 ただただ、だるい自分の身体を引きずりながら病院内を散策していると、緊急病棟のソファーが空いていたためそこに座って病棟内を行き交う人々の人間観察に入る。 スタッフ氏達の急ぎ足と患者氏達の足取りがまるで違う。 私同様に家族の手術終了を待っているのか、目的無くソファーに座っている人々も多い。
 しばらく座って落ち着いた後院内ショップを探索し、ミネラルウォーターとティッシュを亭主のために買った後、院内ラウンジで少し早めの昼食をとる。  このラウンジからもスカイツリーが間近に展望でき、また(何池かは不明だが)病院近くの大きめの池の周囲をジョギングを楽しむ人もいる。(私も手術の付添よりも、あの池の周囲をランニングする役割を担いたいものだ、と今は叶わぬ邪念が脳裏を過ぎる…) (先ほど地図を確認したら、この池は不忍池だ! 東大は上野からも近いのだと再確認、実感。)
 お昼近くまでそのラウンジで時間を潰し、病室に帰り亭主の手術終了を待つこととした。

 その後、亭主は体中ドレーンで繋がれ酸素マスク姿で病室へ無事生還した。
 手術は予定通り成功。
 イケメン先生より、プレゼントとして冒頭写真の“物体”を頂いた。 色目が透明に近く薄いのは珍しいとの説明だった。
 後は回復を待つのみだ。


 本日午後も病院へ出向き、亭主の回復具合を確認する我がスケジュールである。
 

“ひとり” って開放感があるなあ

2018年01月11日 | 自己実現
 自宅で“ひとり”になれるのは何年ぶりだろう。


 亭主が定年退職して以降、いつもほぼ自宅に居る亭主の世話をして既に6年近くの年月が流れている。

 特に娘が就職して以降は娘の帰宅が遅く、日中は亭主と二人の生活が長くなった。
 特段邪魔な人種ではなく、元々私の自由度は高いのだが、それでも、やはり配偶者として亭主の面倒をみる責任感が強い私は、昼になれば不本意にも昼飯を作らねばならない。 
 掃除をするにせよ布団を干すにせよ、亭主の生活を乱さないように気を配りつつの作業になるし、宅配便が到着すれば「貴方、何か頼んだ? だったらあなたが出て。」等々の押し付け合い小バトルも発生する。 トイレも混むし(どうもいつもトイレに入るタイミングが一緒になり嫌になるが)……。
 
 一人で旅にでも出てくれればよいが、亭主にはその趣味がまったく無く、いつも旅に出るのは私ばかり。
 等々の理由により、我が家の場合、まさに自宅で私ひとりになれる機会が滅多にないのだ。


 実は、本日より亭主が手術入院した。
 こんな時に不謹慎なエッセイを綴って罰当たり者かもしれないが、亭主が病院へ出発した直後より実際私は開放感に浸っている。

 とは言えども、この開放感は本日午前中限りかもしれない。 午後には手術担当医師と面談して、手術に関する説明を受け質疑応答の後同意書にサインせねばならない。
 ただそもそも私の診断では、極端な表現をすれば、亭主は“不必要な手術”を自ら好んで受けようとしている。  医師側も亭主の手術を受けたいなる意思を尊重してくれた結果、本日の入院に至っている。

 何分、亭主(一応科学者だが)とは育った環境がまったく異質だし、学問分野に於けるバックグラウンドも異なるため、どうしても思考・行動パターンも違ってくる。 若い頃にはお互いに喧々諤々よく議論バトルしたものだが、既に高齢域に入って以降はもう面倒臭いのが本音だ。 現在は本人の意思を尊重して好きにさせてやり、穏便に済ませるべきとの心境に変化している。

 おそらく今回の手術もさほどの危険性はないものと判断しているが、あわや手術ミスなる事態も想像が付き、そうなると後が厄介だ。
 その辺を中心に、本日午後、担当医師とじっくりと話し合ってくる予定だ。


 話題を戻して、現在開放感に浸っている私は一体自宅で何をして過ごしているかといえば、結果としてはいつも通りだ。
 洗濯干して、食器を洗い、布団も干して、掃除をして…
 少し時間が余りそうなので、今こうやってエッセイを綴っている。
 あっ、そろそろ御用聞きが来る時間だ。 いつもなら亭主と「どっちが出る」ナンタラの小競り合いもあるが、一人だと話が簡単。 私が出りゃ済む。 こりゃ楽だ。 

 
 ただ、何と言っても家族が更に高齢域に達すると、今後ますます体調不良状態が頻発するのであろう。
 亭主が入院したといって開放感に浸れるのは、おそらく今のうちだろう。
 せいぜい自分自身の健康に留意しつつ、束の間の“開放感”に浸りたいものだ。
 

一通の年賀状に新たな未来を頂いた!

2018年01月09日 | 人間関係
 「原左都子エッセイ集」 2017.11.18 付バックナンバーに、「郷里医学部故恩師より贈り届けられた小論文集」と題するエッセイを綴り公開している。

 当該バックナンバーの書き出し部分のみを、今一度以下に反復させていただこう。

 昨夜遅い時間帯に帰宅した娘が、我が故恩師よりお贈り頂いた書物を郵便受けから持ち帰って来た。 随分と分厚く重い書物と感じつつ、一体恩師が如何なる書物を私にお送り下さったのだろうとの興味深い思いで開封した。
 恩師ご本人は、2016年秋にお亡くなりになっている。 その記憶が未だ浅い中、当該書物をお送り下さったのは恩師の奥様と二人の息子さんの連名となっていた。
 昨夜届いたばかりで、恩師著「道を求めて」との小論文集に未だほんの少ししか目を通していない段階だ。
 そのため、本日のエッセイでは右側の我が卒業研究論文を通して、恩師中村先生との学生時代の思い出を振り返ることとする。
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより冒頭の一部を再掲載したもの。)


 実はこの故恩師先生、郷里のお寺の跡継ぎとしてこの世にご生誕されておられる。
 そのお寺の歴史に関して、上記恩師著「道を求めて」より少し引用させて頂こう。
 観音寺(正しくは「観」の字が少し異なるのだが、変換不能なためこれで代替する失礼をお詫びします。)の歴史は堀江村姫田村の宝福寺から始まる。 天生10年(1582年)長曽我部元親の焼き討ちにあい、地蔵菩薩を当寺へ奉請。 慶長7年(1602年)現在地より南方にある南州に観音寺を開いた。 宝永5年(1708年)洪水で陥没、天保4年(1833年)当地へ移転。 嘉永6年(1853年)地震で本堂が破壊されたが、法道師により1857~74年に再建された。
 (以下略。 余談だがそう言えば、郷里中学校の同級生に“堀江くん”も“姫田くん”も“曽我部さん”もいたなあ。)

 この由緒あるお寺の跡継ぎとして生誕された中村先生は、我が学生時代にも休日はお寺の住職を兼任されていた記憶がある。 
 要するに、医師・大学医学部教授そして微生物学研究者としてご活躍の傍ら、ご住職業にも打ち込まれるとの、世にも類まれな多彩な才能を発揮されつつ多忙な人生を送られた方だ。
 まさに“天才肌”の人物で、(お名前が「かんぜん」さんなのだが)医学部学生間で“パーフェクト先生”との異名をとっておられた。 ニコニコ笑顔が素敵な先生でもあられたが、その笑顔の奥に医学に賭ける想像を絶するエネルギーを秘めておられるのを、私は学生当時から見逃していなかった。
 大学教授ご退官後は、昨年亡くなるまで住職業を全うされたご様子でもある。
 参考だがお二人の息子さんのうちご長男が観音寺の住職を継がれ、ご次男は医師(感染症専門医)・郷里医学部教官として現在ご活躍中の様子だ。


 さて、話題を表題に戻そう。

 故恩師著「道を求めて」をお送り頂いたご遺族(特に奥様)に如何なる御礼をなすべきか、しばらく私は無い知恵を絞った。
 御礼状をしたためて出すとの凡案は誰しも思いつくだろう。 ただ、そうする場合“よほど立派な”御礼をしたためねば、中村先生のご偉業の程を慮った場合、自らの未熟さの恥を晒すだけだ。

 そこで考え付いたのが、上記「原左都子エッセイ集」公開2017.11.18付エッセイをそのままコピーして御礼状に添付するとの手段だ。
 そうすれば本体の御礼状が短くて済み楽が出来るし、我が10年に及ぶエッセイ執筆の宣伝効果にもなろうかと企んだ。  もちろん逆効果の危険性を片隅で勘案しつつも、果敢にも奥様宛にその御礼状を投函した。


 そうしたところ。
 1月6日の事だっただろうか。 中村先生の奥様より私宛の年賀状が届けられた。 (参考だが、私の方は奥様へ年賀状は差し上げていない状況下。)
 その年賀状に記されていた直筆の文面に、感慨無量の境地に浸った私だ。

 奥様が年賀状に如何なる文章を記して下さったのかを紹介すると。
 私が現在“素人エッセイスト”として活躍している現状に感激して下さり、それを故中村先生ご本人も喜ばれているであろうとのご記述。 私の今後の活躍にもエールをお送り頂き、恐れ入った次第だ。 まさに“穴があったら入りたい”とはこのことだ。
 更には、郷里へ帰省の際は是非ともお立ち寄り下さい、お会いしたい。 とまで記されていた。

 恐悦至極に存じつつも、私は早速奥様に年賀状の返信をした。
 そして、“穴があったら入りたい”思いと、郷里帰省時には必ずや観音寺へ立ち寄り、奥様にお目にかかりたい旨を記した。

 実際、あの“天才肌”中村先生のパートナーの立場で生涯付き添われ、しかも息子さんお二人をその跡継ぎとして立派に育て上げられた、これぞ“類まれな”女性であることには間違いない。
 是非とも次回帰省時には観音寺へ出向き、奥様にお目にかかりその“爪の垢を煎じて飲ませて”頂きたいものだ。

 近年郷里を尋ねても、正直なところ年老いた実母の様子を見る以外に大したサプライズも無かったのだが、これで我が郷里行脚の近未来的目標が定まった!
 
 今年は是非とも、郷里観音寺の中村先生の奥様にお目にかかる旅に出よう。 
 

自分の価値を見誤らないために “経験の幅” を広げよう

2018年01月08日 | 自己実現
 昨日(2018.01.06) の朝日新聞 “悩みのるつぼ” 相談は、20代会社員男性による「人を見下してしまう」だった。
 この表題だけを見て、呆れ果てた私だ。
 20代との若輩者にして、「人を見下してしまう」からどうすればいいか、だと!?
 一体、何を勘違いしているんだ??
 アホらし過ぎて到底読む気になれず、一昨日は素通りして捨て置いた。

 昨日、気持ちを入れ換えて相談内容を読んでみたのだが。
 見えて来たのはこの男性は“場の空気”が読めない体質の人物であり、実質「寂しい」のではないか? との印象だ。


 それでは、“悩みのるつぼ” 20代会社員男性による相談内容を以下に要約引用しよう。

 20代の男性会社員だが、自分の中に人を見下す傾向があることを感じ悩んでいる。 それを感じるようになったのは仕事を始めてからだ。
 入社1年目は同期たちと一緒に昼ご飯を食べていたが、彼らがその場のノリや盛り上がりばかり重視したり、芸能ネタや恋愛話など中身のない話を延々としたりしているのにだんだん耐えられなくなり、最近は一人で昼食をとるようになった。
 彼らと話していると、「そんな事も知らないのか」と感じる場面が多々ある。  個人レベルでは共通の趣味や関心がある人もいるが、知的レベルでの思考の浅さや薄さ、向上心のなさに愕然とし「バカなやつ」だと感じ、心の中で見下してしまう場面が増えてきた。 大学時代にはこのように感じたことはほとんどない。
 もちろん、私が彼らより人間的に優れているとは思わない。 私より知識や教養がなくても優しくて人格者でもある人は沢山いるはずだ。  彼らに助けてもらったりサポートされることもある。 だから、人を見下すのはよくない、自分は醜い人間なのかと思う。 
 どう考えたらいいのか、ぜひ金子勝先生のご意見をちょうだいしたい。
 (以上、“悩みのるつぼ” 相談内容を要約引用したもの。)


 一旦、原左都子の私見だが。

 この相談に対する回答者を、社会学者の上野千鶴子氏でもなく評論家の岡田斗司夫氏でもなく、敢えて 経済学者の金子勝氏を指定している事実からして気にかかる。 (若輩者にして美輪明宏氏指名は、さすがに敬遠したのであろうが…)
 我が希望とすれば、まさに辛口派の三輪氏か上野氏か、はたまた最近回答が冴えている岡田氏よりの解答を期待したかったものだが。


 それが叶わなかった現実に於いて、20代会社員氏への原左都子からの回答を以下に申し上げよう。

 第一印象として相談者の場合、「人を見下す」云々よりも、若者達の会話に入れない事実の方が辛そうだ。 
 相談者曰く、周囲の若者達の「知的レベルでの思考の浅さや薄さ、向上心のなさに愕然とする」らしく、「自分より知識や教養がなくても優しい人格者でもある人は沢山いるはず」のだそうだが…
 そのステレオタイプな人を見る目、どうにかならないものだろうか?  これぞ、“経験値”が少ない証拠だろう。

 相談者自身が20何年かの短い人生に於いて如何なる知識や教養を身に付けて来たのかに関して、相談内容からはまったく見えてこないのも残念だ。 
 ただ、同じ職場に入社している仲間達の様子を観察する相談者の目を通して見えてくるのは、彼らは比較的“健全な”20代として成長している様子だ。 芸能ネタ、恋愛話、… いいじゃないの? 何が悪い?? 仕事中ならともかく、昼休みの時間帯に小難しい会話を持ち出す事こそがタブーだと思うけど。
 その種の会話に入れない相談者こそが、これまた“経験値”が足りないと結論付けられそうだ。
 要するに、貴方は「醜い」のではなく「未熟」ということだろう。


 ここで我が20代の私事を持ち出したとて、相談者とは時代背景や男女の性差故に参考にはならないだろうが。
 1980年代前後期に20代を職場で過ごした私だが、当時の職場とは特に女性達が20代半ばになると「寿退社」を目指し躍起になったものだ。 その頃から結婚願望が希薄かつ更なる仕事の充実・発展を目指していた私と、彼女達の間の溝が深まり始めた。 
 溝が埋められないと判断した私がとった手段とは、積極的に彼女達から距離を置き、昼休みは一人でそそくさと昼食を済ませた後は新聞を熟読する時間に充てる、という行動パターンだった。
 20代後半期になると次々と同年代の女性達が退社して去り行き、残った数少ない同年代女性陣の仕事に対するポリシーはおそらく私と同質だったことだろう。 その後の職場での女性達との付き合いの記憶は一切ない。 (上司・同僚男性達に喧嘩を売った記憶は盛沢山だが。。)
 同類“売れ残り”女性より面と向かって「貴方が嫌いです」と直言された事件に関しては、バックナンバーに於いて既述している。 嫌われて結構、その方が社内で行動し易かったものだ。

 相談男性の場合も、周囲の仲間がどうのこうのを優先して、肝心の仕事に精を出してはどうかとも思うのだが。
 たかが昼休み時間くらい、一人で昼飯食べて新聞でも読んでりゃすぐに時間が経つというものだ。
 何も周囲の話題が低レベルだとくだらない事で嘆いていないで、それこそプライベートでは恋愛でも楽しめばよかろう。 それも20代青春期にして“経験値”を増やすべく大事な行動だ。 (男同士の恋愛自慢話など聞きたくもないのも本音だが。)


 最後に、今回の相談回答者 金子勝氏の回答の最後の一言のみを紹介しよう。
 「これからの人生、人間の価値を見誤らように心がけてみて下さい。」

 この「人間の価値」だが、原左都子としては 「相手の価値」ではなく「自分の価値」こそを見誤らない事が肝要と心得る。 
 そのためにも日々積極的に“経験の幅”を広げ、広い視野を持つべく努力を続けるべきだろう。 

バブリー高校生達の快挙

2018年01月06日 | 音楽
 (写真は、朝日新聞2018.01.05 付テレビ欄に掲載されていた 2017紅白歌合戦の一場面、郷ひろみと共演する大阪府立登美丘高校ダンス部の生徒たち。)


 私が一番最初にテレビで登美丘高校ダンス部のダンスステージを観た時から、度肝を抜かれていた。

 何分、歌好き、ダンス好きで今でも暇があれば下手な歌を歌い中途半端なダンスを踊って自己満足に浸っている私だ。
 そんな素人ダンス愛好者である私の目から見た彼女たちのダンスは、文句なしに“パーフェクト”だった。

 しかも、荻野目洋子氏が歌った「ダンシングヒーロー」は今でも私のカラオケ持ち歌だ。 いつも(決して登美丘高校レベルの素晴らしいダンスではなく)、荻野目洋子氏が当時踊っていた軽めのダンスステップを踏みながら今でもカラオケで歌っている。


 以下にネット情報より、登美丘高校ダンス部のダンスコンテストの実績の一部を引用紹介しよう。

 圧巻のパフォ−マンスに観ていた全ての観客を感動の渦に巻き込んだ彼女達のダンス。 実はHSDCだけにとどまらなかった。
 2015年だけでも、
  ライオンズダンスコンテスト 優勝
  ダンススタジアム新人戦  優勝
  DANCE DELIGHT 高校ストリートダンス選手権  SPECIAL PRIZE
  日本ダンス大会  審査員特別賞
  日本高校ダンス部選手権 ダンススタジアム 全国優勝
と計り知れない経歴を残している。
 YouTubeには今までのパフォーマンス動画が公開されている。 高校生らしいエネルギッシュかつインパクトに残る彼女達の作品を一部紹介していきたい。
 まずは1970年代大ヒットしたABBAのGimme! Gimme! Gimme!を使用したこちらの作品。 ”登美丘叔母ダンス部”では大阪を象徴するようなおばちゃんファッションで街中を練り歩き踊りまくる。その気迫溢れる表情は彼女達の何十年後かを彷彿させるかのようだ。
 (以下略すが、以上ネット情報より引用したもの。)

 
 昨年末にNHKにて紅白歌合戦を視聴した時の情報によれば。
 登美丘高校ダンス部の振付に関しては、プロの振付氏が担当しているらしい。  まあ、そうだろう。 あの振付を彼女達が成したとなればもっと快挙だろうが、どう見ても“プロ技”だ。
 私の感想では、昨年末の紅白にて郷ひろみ氏と共演した「二億四千万の瞳」よりも、やはり彼女達の得意ダンスである「ダンシングヒーロー」の方が、ダンスパフォーマンスに於いてずっと完成度が高いように感じた。

 冒頭写真に添えられていた朝日新聞記事から引用すると。
 紅白舞台裏通路でひときわ目立っていたのは「バブリーダンス」が話題になり、郷ひろみ氏と共演を果たした彼女達だった。 肩パット入りのボディコン姿に派手な化粧を施している姿。 本番ではキレのあるダンスで会場を盛り上げ、郷氏は「彼女達の最高のパフォーマンスに触発されて、素晴らしい締めくくりを一緒にする事が出来た」と話した。
 (以上、朝日新聞記事より引用したもの。)


 彼女達の衣装に話題を移そう。
 登美丘高校ダンス部の「ダンシングヒーロー」ダンスを視聴して度肝を抜かれるもう一点とは、まさにそのボディコン衣装だ。

 私が高校教師を勤めていた時代背景が経済バブル期(及び、バブル崩壊期に差し掛かった頃)だったのだが。
 彼女達のダンスパフォーマンスを見てプラスの意味で唖然とさせられたのは、まさに我が高校教師時代に、彼女達が着用している衣装及びヘアスタイルと“瓜二つ”のファッションスタイルで、教員の立場として勤務先の学校へ出向いた事だ。 
 (一度だけ「その格好で有事の際に生徒を救えますか?」と一男性教員より非難されたことがある。 私側も「そのジャージ姿で日々教壇に立つ事こそが生徒に対して失礼ではないですか!?」と反論した記憶もある。 この話題はバックナンバーにて公開済みだが。)
 それを懐かしく思い出しながらの感想だが。
 よくぞまあ登美丘高校ダンス部は、これ程までにバブル期女性ファッションスタイルを再現したものと感嘆させられる。  いやいや私の高校教員時代は、彼女達よりもっとスカート丈が短かったし、もっとボディコン度(身体へのフィット度合い)が大きかったものだ。 おそらく彼女達の衣装はダンスのし易さを勘案して仕立てられているものと推測する。 

 それにしても、登美丘高校ダンス部のバブル期のヘアスタイルの再現度は物凄いものがあり、これまた衝撃的だ。
 ロン毛で前髪を立ち上げねばならない“作業”に、私も日々出勤前に多大な時間を費やした記憶がある。 このヘアスタイルを実現するには特に前髪部分をヘアスプレーでバリバリに固めねばならず、日々苦労したものだ。
 その後このヘアスタイルのリバイバルが一切無いのは、その手間の大変さ故と推し量るのだが…。
 
 その意味では、「肩パット」にせよ「ボディコン」の窮屈さにせよ 「ヘアスタイル」を作る作業の煩雑さにせよ…  ある意味では、バブル期のファッションとはその完璧を目指す人種にとっては忍耐と努力の下に叶う対象であったような気もする。 


 ダンスを心得ない世間の皆さんにとって、彼女達は如何に映っているのだろうか??
 まさか、何を馬鹿な事を学校はやらせているんだ?!? との勘違いの怒りを抱いていない事に期待したい。

 一度でも本格的なダンスにチャレンジしてみるとお分かりいただけるだろうが、究極に厳しい世界だ。
 まず、持って生まれた身体の柔軟性が無いと立ち行かない。  リズム感も重要だ。  更には、舞台映えする体格・体型も重要視される。 
 私の場合、過去に於いてジャズダンスをプロ指南した経歴があるが、どうしても「身体の柔軟性」がクリア不能なため、ダンスレッスンを断念した歴史を抱えている。 
 その後は、単にダンスを素人域で楽しむしか選択肢がない状況だ。

 そんな私にとって、大阪府立登美丘高校ダンス部の今までの実績の程は“素晴らしい!”以外の何ものでもない。
 ブラボー!!