原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「子どもの人生は、その子が持つ“パワー”によって決まる!」

2021年09月24日 | 教育・学校
 暑いな~~~。
 9月も終わりが近づいているにもかかわらず、朝から真夏の暑さだ!
 台風が近づいているせいだろう。
 
 これじゃあ、高齢の我が集中力が続かない。

 という訳で、本日も「原左都子エッセイ集」バックナンバーの公開でお茶を濁させていただこう。
 本日再掲載するのは、2020.03.29付公開の「子どもの人生は、その子が持つ“パワー”によって決まる!」と題するバックナンバーだが。
 早速、以下に引用しよう。



 本日朝、元教育者として“首をかしげる”ネット情報に出くわした。

 これは放置しておけない! と朝から苛立っている私だ。 😡
 本日のエッセイテーマはこれ以外に無い!
 
 それでは、早速そのネット情報の一部を以下に引用しよう。

 子供の人生は「生まれた家庭と地域」で決まる……日本の“教育格差”の厳しすぎるリアル  早稲田大学准教授の松岡亮二氏が昨年7月に上梓した『 教育格差 』(ちくま新書)が話題だ。 膨大なデータを丁寧に分析し、日本の「教育格差」の実態に迫っている。

 発売中の「文藝春秋」4月号では松岡氏と慶應義塾大学教授の中室牧子氏との対談が実現。 このまま教育格差が広がれば日本はどうなってしまうのか、徹底的に議論した。
  < 「生まれ」で最終学歴が決まってしまう >
松岡 日本では、データをしっかり取得・分析して「社会の現状がどうなっているか」を把握しようとする情熱がすごく弱いです。
中室 確かに、問題の所在がはっきりしないままに、たくさんの対策が打たれている例を見ることが多い 。例えば、不登校やいじめ、暴力が増加している原因がはっきりしないのに、思いつくままに対策が打たれているというようなケースです。
松岡 教育は結果が出るまで時間がかかるので、政策が的外れでも空が割れるわけでもないし人が大量死するわけでもありません。 しかし、実際には子供たちの可能性という血は毎日流れています。 このままでは「生まれ」によって人生の可能性が大きく制限されている現状が繰り返されてしまう可能性が高いことを多くの人たちに知っていただきたくて、『教育格差』を書きました。
 詳しくは拙著に様々な視点によるデータをまとめましたが、端的に述べますと、戦後日本社会はいつの時代も、「出身家庭の社会経済的地位(経済的・文化的・社会的要素を統合した地位)」と「出身地域」という、本人が選んだわけではない「生まれ」によって最終学歴が異なる「教育格差社会」です。 日本全体を対象とした大規模社会調査のデータを分析すると、出身家庭の社会経済的な状況に恵まれなかった人や地方・郡部の出身者が非大卒にとどまる傾向が、どの世代・性別でも確認できます。 こうした日本の教育格差を経済協力開発機構(OECD)のデータで国際比較すると、OECD諸国の中では平均的です。 つまり日本は国際的にみて「凡庸な教育格差社会」だといえます。
  < 日本では教育格差がタブー視される >
中室 社会学だけではなく、経済学もまた「教育格差」を研究対象にしています。 最近の研究では、住民税の支払い記録と国勢調査を照合し、貧困世帯の子供が、「親よりも所得が高くなる確率」(=貧困の世代間連鎖から脱出できる確率)を推定し、これには大きな地域差があることを発見しています。 つまり、貧困の世代間連鎖が生じやすい地域とそうではない地域があるのです。そして、政府が引っ越しのためのバウチャー券を提供し、貧困の世代間連鎖が生じやすい地域から子供が幼少期のうちに引っ越しをすれば、大人になってからの学歴や経済状況が改善することもわかっています。
 これはアメリカのデータを用いて行われた研究ですが、日本ではこのように格差のメカニズムそのものに焦点を当てた研究は多くありません。教育現場でも、教育格差の議論はタブー視されているように感じます。
松岡 教育格差の存在を感じている人は多いと思いますが、日本では「生まれ」による格差が目に見えづらいからこそ社会問題化しにくい状況があると私は考えています。 たとえば高校だと、偏差値60以上の進学校と偏差値40以下の「教育困難校」では、生徒の「生まれ」が平均的には大きく異なりますが、大半の生徒の見た目は同じ日本人です。 でも、進学校と「教育困難校」に通う生徒を比べると、たとえば親の学歴はかなり違います。 高校によって生徒の「生まれ」は全然違うのに、それが「見た目」ではわからない。 そのため、高校受験の結果は個人の能力や選択によるものだと見なされてしまうという解釈です。
  < データに基づく議論がない >
松岡 一方、米国では事情が異なります。 私はあちらに10年いましたが、米国社会は肌の色と社会経済的地位が大きく重なっているので、「生まれ」が「可視化」されています。 たとえば、高校でも勉強ができる特進クラスは、白人と東アジア系ばかりだったりする。 一方、基礎クラスは東アジア系を除く有色人種の割合が明らかに高い。 能力で選抜すると「生まれ」で別クラスに振り分けているのとあまり変わらないことが可視化されているわけです。 だから米国では、「生まれ」による格差が社会の問題だという共通認識を得やすいのだと思います。 貧困を含む格差は大統領選でも候補者に問われる重要課題ですし、その対策として真っ先に上がるのは教育です。
中室 なるほどね。
松岡 ただ、このような指摘に対して「経済的に恵まれない家庭や地方の出身であっても、刻苦勉励して大学を卒業し、成功した人を知っている」という反論があります。 しかしながら、データが示すのは全体の傾向ですから、それと一致しない例を意図的に探し出すのはそう難しくないんです。 「データが示す社会全体の実態」と「個人の見聞に基づく実感」に乖離があり、萩生田大臣の身の丈発言の背景にもそれがあると思います。

 (以上、今朝見たネット情報より一部を引用したもの。)


 私見に入ろう。

 この対談形式のネット情報を読むと、あくまでも“弱者救済観点”にて記述されているところには一応救われる気もする。
 ただ、子ども達の格差の分類基準が“通り一遍”的であり、どうも著者である論者ご自身に潜在的な「差別意識」が内在しているのではないか?? との疑問も抱く。

 米国の事例が上げられている。
 それを繰り返すと、「米国社会は肌の色と社会経済的地位が大きく重なっているので、『生まれ』が『可視化』されています。 たとえば、高校でも勉強ができる特進クラスは、白人と東アジア系ばかりだったりする。」との文言があるが。 
 我が姉(現在絶縁中)が米国暮らし30余年になり、姉が米国で産んだ息子は白人と東アジアのハーフになる訳だが。  その甥は米国の公立・州立学校・大学にて何の差別環境も不自由も無く勉学に励み、州立大学院修了後はNASAへの就職を早期に決定している。
 「米国では、『生まれ』による格差が社会の問題だという共通認識を得やすい」との記載もあるが。  我が甥などずっと公立学校の環境下に於いて、“人種のるつぼ”の真っ只中との境遇下で、現在も学問に励んでいることだろう。

 上記ネット情報の最後の部分、 「このような指摘に対して『経済的に恵まれない家庭や地方の出身であっても、刻苦勉励して大学を卒業し、成功した人を知っている』という反論があります。 しかしながら、データが示すのは全体の傾向ですから、それと一致しない例を意図的に探し出すのはそう難しくないんです。 「データが示す社会全体の実態」と「個人の見聞に基づく実感」に乖離があり」 との箇所も、大いに気がかりだ。

 加えて、「経済的に恵まれない家庭…… 刻苦勉励して大学を卒業した人を知っている…」に関してだが。
 経済的に恵まれずとも生まれ持っての資質に恵まれているため、 “刻苦勉励”とまでの涙ぐましい努力をせずとて、成功している事例もあろう。
 何だかこの辺の記載も実にステレオタイプであり、私など何だか“せせら笑っちゃいそう”だが。 😁

 その事例がこの私だ、とは言わないが。  ただ、近いものはあろう。
 私の場合、“経済的に恵まれない”と表現するほどの貧困家庭では決してなかった。 むしろ両親共々共働きとの環境下のため、経済面で難儀させられてはいない。
 ただ、親どもに “放ったらかされて育った” のは揺るぎない事実であろう。
 何故私はそんな環境下で2度も大学・大学院へ通い、十分過ぎる程に勉学に励めたのか? 
 その一番の素質として、私が先天的に持って生まれた「勤勉・努力家・律儀さ・負けず嫌い」等の資質が挙げられるであろう。
 加えて、幼稚園児のIQ検査に於いて園創立以来の最高得点である168点を樹立した! との事実を、幼少時に親から聞かされたことも大きなプラス要因であろうかと考える。(その後も小中とIQ高得点を挙げ続けていたようだが。)
 その事実とは正直言って未だ幼い私が勉学に励むに当たり、大いなる“パワー”の源となったものだ。
 親などいなくても、私は一人で勉学に励める能力に恵まれている! と信じて疑っていなかったと我が子ども時代を振り返る。 

 まとめに入ろう。
 要するに子どもを活気づけ、一生に渡り頑張り抜く“パワー”を与えるきっかけとは。
 “いい家に生まれた” だの、 “親が教育熱心” だのはあくまでも二の次の位置づけに過ぎず。
 子ども本人が何でもよいから“自分は何らかの能力に恵まれている!” との実感を引き出す一番のきっかけを、周囲の大人が与える事ではなかろうか?

 もちろん、そんな子どもの足を引っ張るがごとくのマイナス環境(虐待・いじめ等々)を親や周りの大人が作り出すべきではないのは当然の事だ。

 今の時代、「生まれ」「地域」どうのこうのよりもこれ(虐待・いじめ環境)こそが、子ども生育環境に於いて深刻な社会と移ろいでいる事態を実感させられざるを得ない。



 我が1年半前のバックナンバーに、異議なし!
 というのが、2021.09.24 現在の我が結論だ。


携帯会社乗り換え時には“料金プラン”の詳細に要注意!

2021年09月23日 | 時事論評
 (冒頭写真は、私が3か月程前の6月中旬に乗り換えた UQモバイル のパンフレット類。)


 原左都子が携帯電話をauから同系列KDDI子会社のUQモバイルに乗り換えて以降、3か月以上の月日が流れている。

 使用月から使用料引き落としまである程度の月日があるため、未だ8月までの請求しか届いていない段階だが。
 
 (参考だが、UQモバイルの場合“家族割”等の制度が一切なく個々人契約となり、各自名義の金融機関から料金が引き落とされることになる。 夫婦間“独立採算制”を貫いている我が家の場合、これが魅力でUQモバイルを選択したとの理由もあった。)

 このUQモバイルの最大の売りは、“UQ電気”を追加で契約することにより、月々の基本料金が¥990-まで安くなるとのサービスがあるのだが。
 亭主と同時に契約に行ったのだが、「それは大きなメリットだね!」などと糠喜びしつつ契約完了して帰宅した。

 
 さて、それから3か月余りが経過した一昨日のことだ。

 その8月の「利用料金照会(詳細)」を同時期にUQモバイルへ乗り換えた亭主と初めて“比べっこ”した。 
 亭主と初めて、UQモバイルの「利用金額照会(詳細)表」を見せ合たところ。

 大きな契約ミスを発見した!!

 何と私名義のその表内に、「UQ電気割引額」欄が無いではないか!!😱 

 「あれ?? これ契約者一人ひとりに割引が適用されると聞いてるよね。パンフレットにもその旨記載されているし。 私の欄にそれが無いということは、これ、契約時にその適用がなされていないということだよね!?!」

 
 そして私は早速契約を実行したau店舗に来店予約をし、昨日その確認に出かけた。

 感じの良いイケメン担当者がテキパキと対応をして下さったのだが。

 結果としては、予想通り契約時に私の契約のみ、「UQ電気割引」の契約がなされていない事実が判明。 
 イコール、その分返金となるのが常識だろうが…

 ここで格安スマホの販売とは、巧妙な販売促進方式を取り入れている事実に気付かされることとなる。

 その「UQ電気割引」の適応に於いて、まず6月分は途中からの契約のため半月料金となり「UQ電気割引」の適応は無し。
 7月・8月分に関しては、割引分を返金措置とするとのこと。 
 そして、問題は9月分だ。 担当者曰く、9月に新たに契約する顧客に関しては「UQ電気割引」を中止しているとのこと。 故に、私の場合も“未だ「UQ電気」を契約していない立場であるため、返金は無し。とのこと。

 10月に再び「UQ電気割引」を再開するので、私も10月から新たにUQモバイルに契約し直す必要が生じる、との説明だった。

 これ、顧客としては合点がいかないようで、法律を学んでいる私としては納得だ。 確かにUQ側がその手しか方策が打てない事実を受け入れざるを得なかった。

 その後が、大変!
 契約のやり直しに時間がかかること! 早く帰宅して夕食の準備をしたいものの。 それでも、イケメン担当者が誠意をもってその処理をして下さるのに情が移り、契約やり直しに付き合った。

 所要時間1時間半を費やし、やっと処理が終了したものの。
 担当者氏曰く、「10月に今一度御来店いただき、本契約となります。」

 (そっちのミスなのに、何故こちらが何度も足労しなきゃいけないのよ!)と内心思いつつも。 担当男性の誠意とイケメン度と笑顔にほだされ…
 「それでは、10月に今一度伺います。」と素直に応え、店舗を去った。



 現在、格安モバイルに乗り換えている方々は数多いと推測する。

 原左都子のいじわる観点からの考察だが。
 各社の「料金プラン」は、もしかしたらあえて顧客の“めくらませ”をせんと企み作成されている、とも捉えることが可能かもしれない。
 例えば、契約初年度は安価だが、次年度以降大幅に利用料金が上がるとの格安携帯会社が多々あると聞く。

 そのドツボにはまらないためには。
 必ずや「料金プラン」詳細の確認を、契約時にくれぐれも落ち度なく実施されることをお勧めすると共に。
 常に携帯会社のネット情報を閲覧しつつ、毎月のご自身の「利用料金明細」をまめにチェックされますように。


再々掲載 「お茶しよう!」

2021年09月22日 | 人間関係
 Microsoft Bing 検索にて「原左都子エッセイ集」を検索すると、毎日数ページに渡って我がエッセイ集のバックナンバーが羅列されている。
 それをクリックして、私自身がそれらバックナンバーを読み直すのが日々の愉しみとなっている。

 本日も先程それをしていて、自分でも懐かしく興味深いバックナンバーを発見した。


 早速、表題に掲げた2019.08.19付「再掲載 お茶しよう!」を、いただいたコメント群と共に再々掲載させていただこう。


 まだまだレトロな「原左都子エッセイ集」過去のバックナンバーが続くが…

 早速、2008.09.12 公開の「お茶しよう!」を以下に再掲載させて頂こう。

 昔、“お茶をする”という文化があった。
 この“お茶をする”というのは、喫茶店で人と会って珈琲でも飲みながらゆったりと談話することである。

 現在は、この“お茶をする”文化がすっかり陰を潜めてしまっている。そもそも“正統派”の喫茶店をほとんど見かけない。 街で見かけるのは「スターバックス」等の、飲料をセルフサービスで提供され、軽く腰掛けて短時間で飲むような外食チェーン店ばかりである。 そこには“語りの場”はないのが特徴である。
 
 私が未だ過疎地の田舎で暮らしていた頃の学生時代に、この喫茶店がよく流行っていた。

 2008年9月7日の朝日新聞別刷の「喫茶店」の記事の中でも取り上げられていたが、ちょうどフォークグループ「ガロ」の“学生街の喫茶店”が流行った頃だ。“君とよくこの店に来たものさ、訳もなくお茶を飲み話したよ♪”
 まさにその通りで特にこれといった理由もないのだが、女友達と話す時も、彼氏とデートをする時も、どういう訳がとりあえず喫茶店なのだ。

 そのうち、女友達と喫茶店に行く時は飲み物だけでなくデザートや軽食などの食べ物にもこだわった。
 当時、我が過疎地の田舎においてすら喫茶店は多くの店が競合していて、各店が様々な工夫を凝らしていた。 珈琲等の飲料のみならず、パフェの美味しいお店があれば、ホットケーキは絶品の店もある。 夏ならばフラッペ(かき氷)がたまらない。 またピザならお任せのお店やら、ドリアならこのお店に限る等々、より取り見取りなのである。 次々と新しい喫茶店を開拓しては、日替わりで色々な喫茶店に通ったものだ。
 女友達とは大学で1日中話しているのに、どういう訳かいつも帰りの時間になると「サテンに寄ってから帰ろう!」という話になるのだ。(“サテン”とは茶店、すなわち喫茶店の略語であるが。) そして喫茶店で美味しいデザートや軽食を食べて珈琲を飲みながら、1、2時間は喋り続ける。 一体何をそんなに話すことがあったのだろうかと今になっては不思議に思うのだが、きっとお互いに好きな男子の話でもして盛り上がったのだろう。

 一方、彼氏と“サテン”に行く場合は、珈琲専門の純喫茶や、ジャズ喫茶、ロック喫茶などが多かったように記憶している。あるいは、ドライブがてらドライブインの喫茶店にもよく行った。
 当時、珈琲にこだわっている男子は多かった。私など珈琲と言えば“ブレンド”しか注文しないのだが、彼氏の方は、ブルマン、キリマン、モカ、等々、彼女の前でカッコつけたい年頃だ。 そしてブレンドを注文しようとする私にも勧めてくれる。“ガテマラ”は学生時代に彼氏に教えてもらって初めて知った銘柄だ。
 そしてやはり1、2時間は語り合う。 一体何をそんなに語り合ったのだろう。お互いの将来の夢でも語り合ったのだろうか、記憶にないなあ。

 喫茶店には音楽がつきものである。 ジャズ喫茶やロック喫茶等の音楽専門喫茶店でなくとも、必ず音楽が流れている。洋楽であったり、歌謡曲であったり…。 喫茶店で流れていた音楽が、その時喫茶店で話し合った内容や自分の心情と交錯する。

 この喫茶店での音楽に関して、今尚忘れ得ぬ思い出がある。 
 私が上京する直前の3月のことだったが、彼氏と喫茶店で珈琲を飲んでいた。 既に二人の関係はギクシャクしていて、私の上京と共に別れが訪れることは特に取決めを交わさずとも二人共暗黙の了解だった。
 そんな別れを目前に、それでも尚未練を引きずって向かい合っている二人の空間に流れたのが「甲斐バンド」の“裏切りの街角”だった。 “わかったよ、どこでも行けばいい♪”“プラットホーム…”“切符を握りしめ…”“あの人は見えなくなった…♪” 未練を引きずる私の壊れかかった心に、これらの歌詞がグサリ、グサリと突き刺さる…
 そして数日後、彼氏を郷里に残して私は一人で東京に旅立った…。

 “お茶をする”文化とは“語り合う”文化でもある。 珈琲を味わいながら気の合う相手とゆったりと語り合う…、何とも贅沢な文化である。 あの頃は人々の心にはまだ、そういう時間や空間を人と共有できる余裕が持てる時代背景だったのであろう。

 セルフサービスのチェーン店では、人は順番待ちをして飲み物を注文し高椅子に腰掛け一人で短時間を過ごした後、そそくさと席を立ち喧騒の街の中へと消え去っていく。
 現在は、そんな風景を日々見慣れる時代にすっかり移り変わっている。

 (以上、本エッセイ集2008.09.12バックナンバーを再掲載させていただいたもの。)


 この我がバックナンバーには、同時期に生きていたと思しき読者の皆様の心を再燃したのか、数々のコメントが押し寄せたものだ。

 それらコメント群も、以下に再掲載させていただこう。


♪しとしと五月雨プラットホーム♪なんて部分もありましたね。(江古田のヨッシーさん)
懐かしいよく歌いました。
 さて喫茶店の話ですが、クラシック喫茶やジャズ喫茶、歌声喫茶(これはちょっと古すぎ)あとマスターが物知りで、いろいろと教えてくれる。いい店がたくさんあったのに、今探すと、本当にないですよね。
ちょっと寂しいですね。こだわりのある音楽を流し、
この曲は?と聞くと答えてくれる。そういう店に私は行きたい。


喫茶店嫌いを克服したきっかけ (愛煙家)
2008-09-12 19:25:31
こんにちは
>お茶しよう!
私は喫茶店での飲食が嫌いでした。
あのインベーダーブームがなければ
喫茶店でお金を使うことはなかったでしょう
ゲームセンターでは
インベーダーゲームは満席で
仕方なく喫茶店でインベーダーゲームをするようになってしまった。
インベーダーゲームが流行していたときは
マクドナルドも単価が高かったと思います。
だから喫茶店のモーニングは魅力でしたね。
モーニングとストレスなくゲームが出来る
一石二鳥を好むようになりました。
男性なのでマスターより
ウエイトレスで店選びした記憶があります。
通えば、「いらsっしゃいませ」から
「おはよう♪」の挨拶が嬉しくてハハハ。
余談2
大阪の喫茶店はアンチ巨人当たり前なので、
報知新聞が置いてなかったり
BGMよりテレビを置いているところが多いのでテレビ見ながらお茶する感覚ですね。


そういえば (don-tracy)
2008-09-12 21:45:49
ダベる(駄弁る)という言葉を耳にしなくなりました。
かつては頻繁に同僚と飲んだものですが、それもなかなか財布が許してくれないご時勢です。
あらためてコミュニケーションの希薄な時代になったものだと思います。


ヨッシーさん、今チェーン店ばかりですよね。 (原左都子)
2008-09-12 22:26:27
私、甲斐バンドと言われて頭に浮かぶのがこの曲なんです。
喫茶店って本当になくなりましたね。どこに行ってもファストフードっぽいチェーン店ばかりで、まったく個性がありません。そしてフランチャイズで雇われオーナーばかりで、ただ単にノルマをこなすのみです。自分のお店のプライドとかポリシーがまったくないですよね。
客側にも、そういう没個性を嗜好する人種が増殖している現状でもありますね。
音楽も今やパソコン動画で聴く時代のようで、周囲と同時に共感するということがなくなったようですね。


愛煙家さん、喫茶店嫌いだったのですね。 (原左都子)
2008-09-12 22:35:24
類は友を呼ぶで、私の周囲は喫茶店好きばかりでしたので、初めて喫茶店嫌いな方に会ったように思います。
私はむしろ、喫茶店にインベーダーゲームが置かれるようになったころから喫茶店の趣がすっかり変わってきましたので、敬遠するようになりました。
その後、どんどん喫茶店は廃れてファーストフードのお店に変わって行きましたよね。
奥様と毎日喫茶店デート、それはなかなか出来る事ではありませんよ。奥様は喫茶店がお好きなのですか?
そう言えば、私もずっと昔大阪の喫茶店に入ったら、テレビがあって皆がテレビを見ている風景に出会ったことがあります。何だか、食堂のノリですよね。


don tracyさん、私は今は専ら居酒屋でお酒です。 (原左都子)
2008-09-12 22:47:18
そうでしょ。私も記事を書きながら今は“ダベる”なんて誰も言わないなあと思いました。
そう言えば、喫茶店が廃れかけた頃から居酒屋が繁盛してきたように思います。一時期両方が重なっていた時代もありましたかね。少し早い時間に喫茶店で待ち合わせをしてから、居酒屋に繰り出したりもしましたね。そして、3次会位まで飲んだ後、再び喫茶店で珈琲で締めくくったりもしました。


よく行きました (ドカドン)
2008-09-13 08:32:54
学生時代は、喫茶店巡りでした。男友達と・・・。
もちろんデートにも喫茶店を使いましたね。
ところで、「喫茶店のマッチを集めると、婚期が遅れる」って、よく言われたのですが、海苔のビン2個にマッチ一杯でした。
かくして、37歳の結婚だったので、当っています。


ドカドンさん、私もマッチ集めました! (原左都子)
2008-09-13 08:58:48
ドカドンさん、そうなんですよ! 私も喫茶店のマッチを集めました。行動パターンが一緒ですね。同じくお菓子の缶に何缶もきれいに並べて物凄い量でしたよ。それで、私の場合も婚期が遅れたんですね。ガッテンしました!
話が変わって夜の世界の話になりますが、バーとかクラブとかで昔はウイスキーやブランデーのボトルをキープしましたよね。そのボトルカードも集めました。ボトルをキープしてカードを作っても大抵は一夜で飲み干してしまい、カードばかりが溜まるのです。これがまた物凄い量で、その“コレクション”を友人に披露すると、どういう夜の生活をしているのかと呆れられたものです。
話をずらして失礼しましたが、ドカドンさん、懐かしい昔を思い出させて下さってありがとうございます。


お茶しよう (江古田のヨッシー)
2008-09-13 14:46:52
御茶ノ水に「ウィーン」という
クラシック喫茶があったのを
覚えている人はこの欄を見ている人に
いらっしゃるのですか?
高校時代古本屋めぐりをした後に
よく行きました。


どなたか、御茶ノ水の「ウィーン」をご存知ないですか? (原左都子)
2008-09-13 15:12:42
ヨッシーさん、残念ながら私は知らないです。
このコメント欄は現在繁盛してますので、どなたかご存知でしたらお書き込み下さい。
私は御茶ノ水は東大病院に医学関係の仕事で少し通ったのと、最近順天堂医院に子どもの付き添いで通った程度でほとんど土地勘がありません。
ヨッシーさん、「ウィーン」でクラシックを聴きながら珈琲を味わって本を読んだのですか?


ウィーン行きました (梅)
2008-09-13 22:43:00
ウィーン・マロニエ・ジロー
懐かしいです。
マロニエが一番多いです。


確かに、お茶してないですね。 (きんたろう)
2008-09-13 22:50:47
確かに原左都子さんのおっしゃるとおり、
最近は、落ち着いて喫茶店に行ってないですね。
あいにく、家の近所にもお気に入りの喫茶店が今は見当たらず、
ドトールコーヒー、スタバ、NetCafeなどに行く日々。
誰かと落ち着いた空間で話をしてみたくなりました。


古き良き時代… (mr.ichi)
2008-09-13 23:19:39
こんばんは!
またまた、
古き良き時代を
想い出させていただきました。
ありがとうございます!
彼女との初デート
徳島駅前の喫茶店でした。
待ち合わせ、飲み物の種類、会話の内容、サテンを出た後、OSグランド(映画館)までのコースの選択、ドキドキしながら、何日も前から、予行演習付きで、決めていました。
ずいぶんと記憶は薄れましたが、
確か、彼女は、ホットケーキセットでレモンティ…
それは、学生街の喫茶店の流行った頃でした。


Unknown (梅さん、「ウィーン」の書き込みありがとうございます。)
2008-09-14 10:56:57
早速、江古田のヨッシーさんにお伝えしました。
そう言えば梅さんとも、昔一緒に喫茶店に行きましたよね。
「ジロー」というのは私も何となく憶えているような気がします。
梅さんは、何でお茶の水界隈をうろついていたのですか?


きんたろうさん、家の近くに喫茶店があるといいですね。 (原左都子)
2008-09-14 11:02:17
きんたろうさん、そうでしょ。
近頃、お茶をゆっくりする機会なんてないですよね。
私も今はまだ子育てに追われ、ゆっくりと寛げる時間が取りにくいのですが、子どもが育った暁には、近くの喫茶店へでも歩いて行って、ゆっくりと音楽を聴きながら美味しい珈琲でも味わって寛ぎたいものです。
これをやるのはやっぱり喫茶店がいいですね。家は寛ぐという感覚の場所ではないですね。


梅さんへの「ウィーン」の返答は原左都子が書きました。 (原左都子)
2008-09-14 11:05:07
2つ上(↑)の梅さんへの返答は名前が抜けましたが、原左都子が書きました。


mr.ichiさん、懐かし過ぎます! (原左都子)
2008-09-14 11:19:00
いや~、同郷の私としてはものすごく懐かしいです。
徳島駅前の喫茶店って、もしかしたら「テラス」じゃないですか? あそこはホットケーキが美味しいので有名だったんですよ。若い女の子に人気の喫茶店でした。私も女友達と何度も行きましたよ。
それから、OSグランドは私にとっても初デートの場所でした。高1の時に好きな同級生の男の子と一緒に行ったんです。緊張してしまって、映画に集中できなかったことを思い出します。それで、何の映画だったのかも覚えてないのです。
この夏帰省時に耳にしたのですが、OSグランドはもうないそうですね。
ichiさんは、夜の秋田町は行かれましたか?「コンパ」や「グラスホッパー」など、学生に人気のパブによく行きました。
ichiさんとおそらく同世代ですね。


お茶しよう (江古田のヨッシー)
2008-09-14 15:09:25
梅さん、ありがとうございます。
 左都子さんのいわれる読書というほどのものではないのですが、今でも大事にしている本に「フレッド・アステア」の写真集があります。家に着くまで我慢できないので安全な「ウィーン」に行ったという訳です。今でも「いらっしゃいませ、こんにちわ」とうるさい店ではなく、神保町へ足を運ぶこともあります。
当時は地下鉄が丸の内線しか知覚を通っていなかったので、御茶ノ水から池袋それから西武池袋線で育った東長崎まで帰りました。


ウィーン行きました (梅)
2008-09-14 15:27:16
追加を書こうと思ったらすでに、ヨッシーさんのコメントが。
私は過去の記憶が、薄れる性格なのを前提にして下さい。
ウィーンの記憶を取り戻そうと思いにふけりました。
言われてみれば、あの様な喫茶店は、当時も今もないですね。
あのいい音量・空間・・・・
私は一人で行くことが多かったです。
音楽を聴きながら読書したり、学生でしたので勉強したり、
一人で過ごすいい空間でした。
レコードを持っていけばかけてくれると言ってました。
ヨッシーさんのお陰で懐かしい青春時代に思いを馳せる時間が
持てました。
ガロの「学生街の喫茶店」が似合う街でしたね。


ヨッシーさん、梅さん、「ウィーン」はそんなにすばらしかったのですね。 (原左都子)
2008-09-14 16:10:24
お二人のお話を拝見しておりますと、私は羨ましい限りです。
当然「ウィーン」はもうないですよね。
もし、まだあるならば是非行って、ひとりで過ごしてみたくなります。
そういう“ゆとり”は人の心を育み、文化を育てると思うのですが、マニュアルで機械的に「いらっしゃいませ、こんにちは」と言われたところでうるさいだけですよね。
そうなんですか。お茶の水は私には土地勘がなく病院しか知らないのですが、昔は(今でも?)学生にとって文化を育んだ街だったのですね。


交流の場、コミュニケーションを育む場としての喫茶店 (ガイア)
2008-09-20 13:50:24
以下に思い付くままにだらだらとコメントを記します。纏りはありません。
「ガロ」の「学生街の喫茶店」は懐かしいですね。
正統派の喫茶店を殆ど見かけなくなったことは寂しいです。街の中の憩いの空間であり、都市空間のコミュニケーションと健全さを育む場として機能していたと
考えます。
学生時代は貧乏していましたが、喫茶店にはよく行きました。上野毛の大学近くの古い喫茶店が溜まり場で、ここで学生同士のみならず、先生も交えて議論をする事が多かったです。早稲田界隈の喫茶店にもよく行きました。大袈裟な話ですが、喫茶店と言う空間が私を育んでくれたのだと思います。経済的な貧しさはありましたが、精神的に豊かな時代だったと思います。原さんの仰る人間関係、これが保たれていた、密であった、と言うことだと思います。
結婚前の土曜日は音楽好きの家内と梅田の名曲喫茶で落ち合って将来を語り合ったものです。今はその当時の事を思い出すのが恥ずかしいのか、お互いに口にもしません。
喫茶店と言う言葉が死後になったような感があります。街中で寛ぎながらコミュニケーションを育める空間と言えば、私にとりましては居酒屋です。
余談ですが、喫茶店のルーツは1650年のイギリスのコーヒーハウスにある様です。ここで新聞を読んだり、政治を論じたりと、交流の場であった様で。

日本では1878年の神戸本町「放香堂」が最初であり、1887年の東京下谷の「可否茶館」が本格的な喫茶店だそうです。上手い名前を付けたものです。
話が変わりますが、ある女子大生が「酒場の考現学」に近い書物を著していました。又、ある女子院生が
「ラブホテルの文化史」を著していました。


ガイアさん、喫茶店は“会話の文化”を創り上げましたね。 (原左都子)
2008-09-21 10:18:02
そして、人間関係の希薄化減少と共に、喫茶店は廃れていきました。
今の人々の関心は何に行ってしまったのでしょう。ネット世界ですかね? 味気ないですね。生身の人間の方がよほど刺激的ですのに…。
ガイアさん同様に居酒屋好きな私ですが、喫茶店との違いは“珈琲”か“酒”かにありますね。
今はすっかり居酒屋派の私ですが、昔は“酒”の力を借りずとて喫茶店で盛り上がって何時間でも話せたものです。あれは若気の至りだったからでしょうか。あるいは、語り合う相手と親しい間柄だったからでしょうか? 
もし今現在、大して親しくない人と喫茶店で会話しろ、と言われたらちょっと辛いかもしれません。もちろん相手の人柄等にもよりますが。それだけ、年齢を重ねたことで自分自身に“くせ”が出来て我がままになってきているのかもしれません。
話を大きくずらしてしまいました。

 以上、「お茶しよう!」に頂戴下さったコメント群を再掲載させていたたいだ。


 2019年8月に話題を移そう。

 この“喫茶店文化”が廃れたのは実に我が上京後のバブル期前期頃ではなかろうか?
 その後我が推測に寄れば、この世から初期の「居酒屋」文化も廃れた実感すらある。
 その後の我が国の「喫茶店文化」とは、そのすべてが“人間関係の希薄化”に対応するべく、“スターバックス”に代表されるべく安易なチェーン店化が劇的に進んでしまっている。
 純粋に“珈琲タイム”を一人で過ごしたい人にとっては画期的進化なのであろう。
 いえいえ集団嫌いのこの私にも、この進化は喜ばしい事とも捉える側面もあるのだが…
 故にそれを全面否定するつもりはないが。
 我が青春時代に味わった「お茶しよう!」文化こそが、私自身が当時の人間関係の活性化を図る一番の手段だった記憶がある事実を、懐かしく振り返る…



 2021.09.22、本日の原左都子の感想だが。

 「原左都子エッセイ集」のコメント欄を2011年11月頃に閉鎖するまで。
 我がエッセイ集のコメント欄が、読者の皆様に“語りの場”を提供していた事実を思い起こす。
 要するに「原左都子エッセイ集」コメント欄は、過去の「喫茶店」の役割を果たしていたんだ!?! 


太陽の自転における「差動回転」

2021年09月21日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、朝日新聞2021.09.14付夕刊記事「太陽の自転の謎『富岳』が計算」と題する記事より、富岳が再現した太陽内部の熱移動の様子の写真を転載したもの。)


 私め原左都子は、過去に「太陽」に関する小論文を作成している。
 それは決して我が専門業務に基づくものではなく。
 娘の中学生時代の夏休み自由研究のテーマに「太陽」を取り上げて、仮説検証をした内容である。
 元科学者の端くれである私は、過去に医学業務上、医学論文を数本仕上げて医学雑誌に投稿したり医学学会にて発表した経験がある。
 そのためこの手の科学関連の論文作成はある程度手馴れていて、娘の自由研究課題を(娘をそっちのけで😜 )積極的に楽しく手伝ったものだ。


 この自由研究に関しては、本「原左都子エッセイ集」2019.09.17及び2019.09.19付バックナンバーに於いて、「太陽はダイヤモンドになる?!」と題する表題にて取り上げている。

 当該自由研究の「結論及び考察、おわりに」部分のみを、以下に引用させていただこう。

 Ⅳ 結論及び考察 
          
 太陽をはじめすべての星には人と同じように一生があることがわかった。
 そして、太陽は今なお成長を続けており現在は壮年期であるが、この壮年期を過ぎるとコアが水素を使い果たす時期が来る。
 すると、水素核融合の産物であるヘリウムが燃え出す。このヘリウムが燃え尽きていく時に炭素が生産される。そして、この炭素がコアの圧縮によってダイヤモンドに変貌する可能性が高い。
 これは今から約70億年後のことである。
 ケンタウルス座の星のように既にダイヤモンドになっているとされる星も存在するため、将来的にコアの内部で炭素が生産され圧縮される太陽もダイヤモンドになると考えてよいと、私も結論付けたい。
 ところが、この自由研究の実証は大変困難である。
 星の内部の様子に関しては、地震の波の伝わり方で地球内部の様子を研究するのと同じ方法を応用して、星の振動の具合を調べることも可能であるそうだ。
 これによって、ケンタウルス座の星の内部がダイヤモンドになっていることがわかったということである。
 太陽に関しても、この方法で現在の内部の状態を調べることができる。
 ところが、太陽がダイヤモンドになるのは70億年後のことである。その頃に私はもちろん生きていないし、人類全体が生き残っているのかも不明なため、実証ができないことがこの自由研究の最大の弱点でもある。

Ⅴ おわりに
                    
  夜空に輝く星は、本当に宝石のようにキラキラ輝いて美しい。
  以前、私がもっと小さい頃、今回の話とは別のプラネタリウムの番組で、夜空から赤、青、黄、紫、ピンク、黄緑、金色、銀色、……
いろいろな色の宝石がキラキラ輝きながら舞い落ちてくる影像も見たことがある。その時、星が本当に宝石だったらすばらしいのになあ、と思ったものだ。
 ところが、夜空に既に本当のダイヤモンドがあって、しかも、現在の私たちにとって身近で、なくてはならない存在の太陽も遠い未来にダイヤモンドになるとすれば、夢物語の域を既に超えて、私の夢を叶えてくれる話である。
 科学技術の発展は、地球の環境破壊ももたらす側面もあるが、宇宙の神秘に触れさせてくれることでもあり、私たちに夢を運んでくれることでもある。 
 
 (以上、原左都子が大いに手伝った我が娘の夏休み自由研究「太陽はダイヤモンドになる?!」小論文のごく一部を紹介させていただいた。)



 さて、朝日新聞記事に戻って、当該記事を以下に要約引用しよう。

 太陽は、北極や南極より赤道付近が早く自転している。どうして速度の差が生じるのか、千葉大と名古屋大のチームがスーパーコンピュータ「富岳」を使て内部の熱や磁場の変化を計算し、確かに差が出ることを世界で初めて再現した。 論文が13日付の科学誌ネイチャーアストロノミーに掲載された。
 地球の自転周期はどこでもちょうど1日だが。ガスの塊であり太陽は、赤道付近が約25日、北極や南極付近は「差動回転」と呼ばれ、千葉大によると、1630年ごろから知られていたが、理由はよくわかっていなかった。
 チームは、太陽内で起きる核融合反応のエネルギーが、対流によって表面まで運ばれる様子を、富岳を使って54億点もの高解像度で計算した。 密度や圧力、温度などの観測データをもとに、熱の移動や磁場の変化を再現したところ、確かに赤道が速く自転するようになったという。
 太陽には、黒点が増えて活動が活発になる約11年の周期があり、太陽の自転速度の違いが重要な役割を果たしているとされる。
 千葉大の某準教授は「11年周期という、太陽物理学最大のなぞの解明にも取組みたい」と話している。

 (以上、少し前の朝日新聞夕刊記事より引用したもの。)


 最後に、原左都子の感想でまとめよう。
 
 過去に“曲がりなりにも”、まったく別の観点から“太陽研究もどき”を施したことがある立場にして。

 この朝日新聞記事に大いに興味を抱き、当該エッセイの公開と相成った。
 そうなんだね、維持管理に膨大な国家予算を要している??とのスパコン「富岳」も科学の進化に役に立っているんだ。
 
 皆さんもご記憶だろうが、民主党政権時代に蓮舫氏がテレビ映像を使用して 「事業仕分け」を施し、当時のスパコン「京」が歪んだ形で著名になった事実をご記憶の方々も多いことだろう。
 あの頃、蓮舫氏が発した、「1番にならなくてはいけませんか? 2番じゃダメですか?」が世間の流行り言葉となってしまったが…

 それでもなお、スパコン「富岳」のコスト対パフォーマンスに関しては、今後も科学者たちのその活用度合いにかかっていることには間違いない事実であろう。
 

原左都子撮影  “2021秋・中秋の名月 ” です。

2021年09月21日 | 芸術
 東京都心に近い自宅から撮影した 



 今年の “”中秋の名月” です。



 雲が多かったものの、それがまたとない風情となっていませんか??