原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

英語喋れたって、馬鹿は馬鹿???

2022年10月15日 | 自己実現
 上記表題は、決して原左都子に向けて発せられた言葉ではない。


 今となっては、特にここ3年程はコロナ禍の影響で一切海外旅行に行けない身だし…
 過去には海外留学をしたり、姉が米国在住だったりして姉との絶縁前には米国を訪ね姉の知人と交流を持ったりもしてきている。
 そんなこんなで、外国人の友人(や彼氏)が過去に少なくなかった私だが、これに関しても高齢化と共にその機会が極減していて…

 とにかく、今となっては英語を本格的に喋る機会が皆無だ!!

 この状態をどうにかしたいと思いつつも、手段が見つからない現在だ。


 さて、そんな私だが。
 今朝ネット上で、冒頭のタイトルの記事を見た。 

 以下に引用しよう。

 タレントのミッツ・マングローブがアシスタントとして14日放送のTOKYO MX「5時に夢中!」(月~金曜・午後5時)に生出演。 英国留学経験を持つ帰国子女の立場から英語力と個人の能力について持論を展開した。
 この日の番組では、「ある企業が行った調査で英語ができる人ほど年収が高い。ビジネスができる英語力になると、4人に1人が年収1000万円を超えている」とした記事を紹介。
 この件について司会の垣花正に聞かれたミッツは「(年収)1000万円はもちろん超えてますよ。でも、全然、英語がしゃべれないマツコ(・デラックス)さんが年収50億ですからね」と笑わせた後、「じゃあ、英語さえしゃべれれば、給料が上がっちゃうくらいの何らかの地位だったり、役職に就けちゃうっていう単純な構造がまだ日本にはあるかも知れない」と指摘。
 「『英語がしゃべれる、わ~、すごい!』みたいな。条件反射でね」と続けた上で「その単細胞な思考回路もそろそろいいんじゃない?って思うんですよ。英語しゃべれたってバカな人はバカだし」と話していた。

 (以上、ネット情報より引用したもの。)



 原左都子の私事に入るが。

 この私の専門分野は主に医学であり、教育であり、その分野にて私は長き独身時代を生き抜いてきた身だが。

 英語に関しては、英文文献(各種論文等々)を読む機会は少なくなかったものの。
 今一生懸命思い出して見るに、こと「英会話」が職業上必要だったかどうかが思い出せない程に、おそらくその機会は極少なかったのだろう。
  

 私的場面にて、英語を喋る機会はもちろんあった。

 例えば、都内六本木の飲み屋で外国人と隣り合わせになって英語で話しかけられた時など、それに喜んで応えたものだ。
 それを隣で見ていた友人が「英語が喋れていいね」などと言うのだが、所詮飲み屋で難しい英語が必要は訳はなく、何とか場がもったものだ。
 我がエッセイ集バックナンバーにて、ドイツ人CEOに六本木のサパークラブにて声を掛けられた話題を公開しているが。 あれなども、英語がとりもつ縁だった。


 私が過去に受けた“英語教育”に関して語ると。

 そのすべてが中高大学時代に学校にて学んだ「英語の授業」“のみ”に依存したものでしかない。 その他の英語教育など、私は一切受けていない。

 そんな私の「英会話力」とは、まさに当時の“受験英語”がものを言っているとしか言いようが無いのだが。
 特に私の中高大学時代とは、決して今のように「聞く・話す」教育など一切無かった時代だ。

 そんな私が思うには。

 こと「英会話」に関しても、過去に経験した “読み書き中心の受験英語” こそが大いに役に立っていると今尚思うのだが。
 要するに英語の発音が劣悪であれども、人との会話を繋ぐのはその会話の中身であることには間違いないであろう。
 誠意を持って下手な発音で英語を喋ろうと、会話の中身が相手に伝わればそれが続行可能とのことであろう。


 そう言う意味では、冒頭で引用したミッツ・マングローブ氏による引用文もさほど外してはいない、と受け取れよう。
 その英会話力がどういう意味で役に立っているのか、をミッツ氏は話題にしたいと欲しておられたのではなかろうか?

 国内の経済界に於いて「英語」が真に役立つ場面とは、確かにそれが国益につながることを言うのであろう。
 たとえば一般企業に於いては、その「英語」力が企業実績を向上させるほどの実績をともなうべきでもあろう。


 過去に英語をある程度喋れた私だが、確かにそれ故に私に有意義な時間をもたらせてくれた記憶も蘇る。

 それにしても、既に我が英会話力を発揮する機会に恵まれない時間が長過ぎて。

 既に形骸化している我が英会話力を、憂えるばかりだ…


たった今、長野県伊那市より秋のとれたて“ブロッ娘”が到着しました!

2022年10月15日 | 旅行・グルメ
 (冒頭写真は、長野県伊那市より届けられた秋収穫の“ブロッ娘”。)


 この“ブロッ娘(“ブロッコ”とよみます)”の贈り主は「原左都子エッセイ集」初期頃よりおなじみの、長野県伊那市にて大農場を営んでいるK氏です。



 現在原左都子多忙につき、続きは後程記載させていただきます。
 悪しからず…


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 本日も多忙につき、ブロッ娘の送り主であられるK氏に関して、2021.06.30付バックナンバーより以下に再掲載させていただこう。


 長野県伊那市にて大農場を経営するK氏に関しては、当該「原左都子エッセイ集」にて幾度も公開済みだ。 
 そこで今一度簡単に説明するならば、K氏は我が「原左都子エッセイ集」開設当初時期よりの読者であられ、その後も14年の年月に渡り、東京の我が家へ大農場にて収穫した農産物を年に数回の定期便としてお送り下さっている人物だ。

 その長年の御礼を申し上げるために、2017年夏に我が娘を伴って伊那市の“K氏大農場見学ツアー”を実施した。
 その際に感じたのだが、K氏とは、我がブログ読者、メル友、そして実際にお会いした印象のすべてが一致する“稀な人物”であられるとの事実だ。 
 (余談だが、実は私は他にも我がブログファンと、あくまでもあちら側の希望により直にお会いした経験が無きにしもあらずなのだが…。 大抵はその印象が“お互いに”大幅に異なる!!ものと結論付けている立場である。)😖 

 ことK氏に関しては、まるで“想像していた通り”の人材であられる!
 伊那市大地主の三男として誕生されたK氏だが、(私が勝手に言わせて貰うに)まさに“三男気質”の人物だ。
 東京の大学卒業後伊那市へ戻られ、ご自身が引き継いだ伊那の農場をその後更に発展させられている。
 何と言うのか、“自由度が高い”とでも表現すればよいのか、とにかく御兄弟の中で“三男坊”として一番自由に大規模農場業にかかわられている人材なのではなかろうか??

 それにしても農場経営とは日々自然天候との闘いでもあり、一時とて休む暇もない生業であろう。
 その天候に打ち勝ちつつ、伊那市に戻って以降ずっと三男の立場で引き継がれた農場経営を更に拡大されているその姿を、以前より賞賛申し上げている私でもある。
 加えて真面目かつ律義な人物であられ、このように四季折々にご自身が大農場で育てられた野菜類を、東京に住む私宛に定期便でお送り下さる事実に感謝申し上げない訳も無いではないか。

 Kさん、いつも本当にありがとうございます。
 今後共、伊那市Kさんの大農場主としての活躍を応援申し上げております!! 

 参考ですが「ブロッ娘(こ)」とは、まるでご自身の娘さんを大事に慈しむかのように、丹精込めて育てたブロッコリーに愛を込めてKさんが贈られたブランド名です。

 (以上、本エッセイ集バックナンバーより、一部を再掲載したもの。)


今や国内研究力は低下し続けている、と言うが…

2022年10月13日 | 学問・研究
 ここのところ我がエッセイ集に於いて今年のノーベル賞関連エッセイを多発してきたが、そのノーベル賞の発表がどうやら終わったらしい。


 
 本日は、今年のノーベル賞の総括として朝日新聞「社説」がまとめた記事を引用し、論評することとしよう。

 早速以下に、朝日IDより届けられた2022.10.13付「社説」のひとつ、「研究力の低下 政策検証し裾野を広く」を要約引用する。
     
 今年のノーベル賞の発表が終わった。 物理学賞は、社会を大きく変えると期待される「量子情報科学」のさきがけとなった欧米の3氏が受賞。 化学賞は、分子を効率的に結合させる手法の基礎を築いた欧米の3氏に与えられた。成果を上げてから約20~50年たっての栄冠だった。
 日本は00年以降、自然科学系の受賞が相次いだが、活気があった時代にはぐくまれた「昭和の遺産」とも評される。 今や研究力は低下し続けている。振興策をきちんと検証し、将来を見通す必要がある。
 文部科学省の「科学技術指標2022」によると、研究力の目安となる論文数は5位に下がった。 「注目度」でみると、引用された数が各分野のトップ10%に入る論文数はG7諸国で最低で、韓国、スペインにも抜かれ12位に後退した。この順位は00年代後半から急落している。
 日本は1995年に科学技術基本法を制定、5年ごとに科学技術基本計画を策定して、経済成長への貢献を期待する分野に予算を重点的に配分してきた。04年には国立大学が法人化され、人件費などを支える運営費交付金が削られ続けた。
 ノーベル賞受賞者ら有力研究者も、役立つ成果ばかり求める姿勢を問題視している。社会を変える飛躍的な成果を初めから狙うのは難しく、幅広い分野の基礎研究に予算を投じ、裾野を広げることが必要だ。
 研究資金が、基盤的経費から期限が限られた競争的資金にシフトしてきた弊害は大きい。伸び盛りの若手を中心に研究者の雇用が不安定になり、博士課程に進む学生も減りつつある。短期間で成果を求めるため研究の小粒化も指摘される。資金獲得や過大な事務作業にも労力を割かれ、研究時間が減少している。こうした負の連鎖を断ち切らなければならない。
 学術研究を花開かせるには多様性や交流が欠かせないが、米国の大学で博士号を取った人は過去10年で半分に減った。研究者の中長期的な海外派遣も停滞している。女性研究者の占める割合は2割に満たず、国際的にも極めて低い水準だ。
 研究者の雇用の安定、研究時間や若手のポストの確保、博士号取得後のキャリアパスの改善など、政府も課題だと認識しながらも解決策を打ち出せていない。政府は、研究力向上の目玉政策として大学ファンドを創設、数校に年に数百億円を投入する。「選択と集中」で成果がでなかった従来策の延長にならないか。同時に打ち出した地方大学などの振興予算のような幅広い支援の拡充こそ必要だ。
 目先の成長を求め過ぎては未来の飛躍の芽を摘みかねない。

 (以上、朝日新聞「社説」を引用したもの。)



 原左都子の私見に入ろう。

 私が少し前から気になっているのは、国家間の論文を比較するに当たり「論文発表数」にばかり視点が行っている点である。

 これに関しては、少し前の我がエッセイ集内にそれをテーマとして取り上げ論評したのだが。
 残念ながら探すと見つからないため、我が記憶に頼り論点の要点のみを復習させていただこう。
 要するに、国家間の論文を比較する場合に肝心なのは、論文の“発表本数”ではなく、あくまでもその研究内容こそを重視するべき、との我が主張エッセイだった。
 いや、分からなくはない。 個々の論文を比較して優劣をつけることとは、それをする側がよほどその専門に卓越していない限り所詮無理であろう。
 その点、数の比較とは容易だ。 
 だからと言って、やはり私はこと科学・学問分野においては “数打ちゃ当たる”ではあり得ない、と考える。
 ここはやはり何処の国家も、研究の内容で勝負して欲しいものだ。


 次に気になるのは。
 上記「社説」内に記されている箇所を反復するが。
 「ノーベル賞受賞者ら有力研究者も、役立つ成果ばかり求める姿勢を問題視している。社会を変える飛躍的な成果を初めから狙うのは難しく、幅広い分野の基礎研究に予算を投じ、裾野を広げることが必要だ。」

 まさに、その通りであろう。

 これに関してどうしても我が脳裏に蘇るのが、2014年に発生した「STAP細胞事件」である。
 あの事件程、医学論文界に於いて“低レベルな醜態”は未だかつて無かったものと記憶している。
 この「STAP細胞事件」に関しても、我がエッセイ集内にて幾度も繰り返し取り上げてきているため、ここでの再掲載はやめておくが。
 特に医学分野においては実験・研究における“改ざん・捏造”は直接人命にかかわるため。 個人の名誉欲に駆られてあの種の醜態を世に晒すのは、是が非でも今後共々撲滅して欲しい思いである。


 最後に正直な私見としては。
 
 特段我が国内の研究発表が少なくなっていようが、「STAP細胞事件」の如く直ぐにバレバレの醜態を世界規模で晒すことこそが、大いなる痛手と考える。
  
 無理をして、論文発表数を稼ぐことよりも何よりも。
 じっくりと研究者を育成するべく環境を整えることの方が先決問題ではなかろうか。
 上記「社説」内にも記されているが、「科学者が成果を上げてから約20~50年たっての今年のノーベル賞栄冠である。」

 現在活躍している研究者たちが日の目を見るのを焦るより。
 研究者たちにじっくりと取り組ませる環境づくりを成すことこそが。
 今やるべく科学分野に於ける先人達の方向性ではなかろうか。


プーチンはついに「核」を持ち出すのか?!?

2022年10月12日 | 時事論評
 (冒頭写真は、朝日新聞本日2022.10.12付朝刊記事より転載したもの。)


          
 同じく、朝日新聞記事より転載したもの。 ロシア攻撃によるキーウ中心部の様子。
        


 本日朝見たネット情報を、以下に引用しよう。


 報復から読み取るプーチン氏の狙い 核が使われうる2つのシナリオ
    2022年10月11日 20時30分
 
 ロシアが一方的に併合したウクライナ南部クリミア半島とロシアを結ぶ橋が爆破された後、ウクライナの首都キーウ(キエフ)中心部など各地に対し、ロシア軍によるミサイルなどの砲撃がありました。プーチン大統領の狙いは何か。防衛研究所の兵頭慎治政策研究部長に聞きました。
  • クリミア橋で謎の爆発 ロシアの実効支配の象徴、国内世論の動揺も
  • プーチン氏が出した「本気」カード 小泉悠さんが語る動員の真の狙い
 ロシア側の論理でいえば、ウクライナ全土への砲撃は、クリミア橋の爆破に対して取り得る通常兵器による最大限の報復措置といえる。インフラ設備の破壊で民心を動揺させ、首都キーウの中枢で大統領府などの本丸をあえて外して攻撃し、「いつでも狙える」と脅す狙いがあったのだろう。
 クリミア橋の爆破はプーチン大統領に衝撃を与えた。 南部への重要な補給路という軍事的意義と、クリミア併合の象徴としてプーチン氏が威信をかけて架けた橋という政治的意義があるからだ。 ロシア側の報復攻撃は一区切りになるだろうが、今回戦争のエスカレーション(過激化)の可能性が確認された。

 (以上、ネット情報より引用したもの。)



 原左都子の私見に入ろう。

 それにしてもだ。
 クリミア橋爆破のすぐ直後に、その100倍返しをしてくるプーチンのこのウクライナに対する恨みつらみの程は、一体どうしたことなのか!??

 首都キーウなどここしばらくはロシアからの攻撃が無く、首都としての機能を果たし直しているところと認識していたのに。
 またもやウクライナ全土を標的として、怨念を晴らすがごとくのこのプーチンの気違いじみた仕打が腹立たしく恐ろしい。


 こうなると恐怖なのは、まさにプーチンがいよいよ「核」を持ち出すのか!?!との点だ。

 これに関する朝日新聞記事を、以下に引用しよう。

 プーチン氏が核兵器使用の可能性をちらつかせていることについて、G7はオンライン首脳会合を開き。
 「意図的に事態を深刻化させ、世界の平和と安全を危険にさらしていることは遺憾だ」としたうえで、「ロシアによる生物化学兵器や核兵器のいかなる使用も、厳しい結果をもたらすことを再調査する」とした。
 
 (以上、朝日新聞記事より引用したもの。)


 再び、原左都子の私見だが。

 G7さん、オンライン首脳会合を開催して意見交換するのはいいのだが。
 
 この度のロシアによるウクライナ侵攻に対して、G7に実質的にその侵攻を阻止出来るがごとくの実行力があるのかどうか???
 世界人民の一庶民の立場から、いつも不安感が否めないでいるのだが…
 
 特に我が国の岸田首相など、「ロシアによる核兵器威嚇、ましてや使用もあってはならず、ウクライナを新たな被爆地にしてはならない」
 などとの、まるで底辺国民が発する一般論のごとくの発言しかしていない現状のようだが…😖 😵 


 とにかく、プーチンによるウクライナ侵攻に関して。
 
 「核」を持ち出される事態が、世界人民にとって一番の恐怖であることには間違いない。

 どうか世界的に権力を誇る団体組織こそが、“プーチンによる核戦争”を阻止するべく精力的に働きかけることに期待したいものだ。 


再掲載 「長生きは一生の得 (明るい未来編)」

2022年10月11日 | 自己実現
 先程「原左都子エッセイ集」昨日の閲覧トップ50を編集画面にて眺めていたところ。



 今からほぼ14年前の2008.08.09に綴り公開した冒頭表題のバックナンバーを見つけた。

 本日は多忙でもあるため、このバックナンバーを再度掲載させていただくこととしよう。

 “後期高齢者”という新語がある。
 “高齢者”は一般的な用語であるためともかく、“後期”とは一体どうしたんだ? 大学入試日程じゃあるまいし。
 まったく事務的で人間味のかけらもない貧弱な言葉である。
 この言葉から、私は“死”を連想してしまうのだ。 高齢者に“前期”と“後期”があるとすれば、“後期”の後は“死”を迎えるしかない。 とんでもなく人格無視の新語である。
 この言葉の背景には、人の人生を時間の経過のみで捉えるという単純な思想が感じ取れる。 そして、時間と共に人間は老いぼれ社会のお荷物的存在になるのだ、とする社会保障制度担当者の強者的論理が見え隠れしているようにも私は捉えている。

 はたまた、“加齢臭”という言葉がある。 中高年以降の人間に老化に基づき生ずる体臭のことを指すらしい。 ウィキペディアによれば、大手化粧品会社が作った造語であるとのことだ。
 この言葉には、私は嫌悪感すら抱く。 商業主義に則って作った造語であろうが、このような差別用語は一種の“高齢者いじめ”であり、人権侵害である。
 この言葉の背景には年齢を重ねていくこととは醜く汚らしくなっていくこととの、これまた単純で貧弱な思想しか感じられない。

 日本における、これら年配者を蔑む思想は一体いつからどのような社会的背景から生じたのであろうか。
 少なくとも私が幼少の頃には、まだ年配者を敬う思想が健在だった。 核家族化が進行する以前の頃で、何世代かが同居している家庭が多い時代だった。お年寄りの存在を身近に感じ、家族は年配者中心に機能していたような記憶がある。 例えば、食卓の席順も年配者が上座であったり、食事は年配者が箸を付けるまで家族の皆が待ったものだ。 家庭の重要事項の最終意思決定の権限は年配者にあった。
 経済高度成長期と平行して核家族化が進み、生産性の低いお年寄りはだんだんと社会の隅に追いやられていった。 そして、現在のような若い世代が年配者を蔑む時代へと落ちぶれてしまっている。

 さて、3編に渡り述べてきた「長生きは一生の得」であるが、そろそろまとめに入ろう。

 幼少時の火傷により私の体に残された“こと焼け”。 これがある人間は50歳位までしか生きられないという“神のお告げ”的迷信をものともせず、私はまだ生き抜いている。 50歳を過ぎて今尚、若い頃より更に充実した人生の真っ只中である。
 私なりの“ナイスバディ”も維持し続けている。“ナイスバディ”はほんの一例であり、あらゆる分野において自分なりの美学、哲学を持ちつつ私は日々精進を続けている。
 そんな私には若い頃に戻りたいだとか、若い人々が羨ましいなどという発想は一切ない。 20歳よりも30歳の方が、また40歳よりも50歳を過ぎている現在の自分の方が確実に成長している実感が持てるからである。
 そして、今後も今までのようにいや更に成長していくであろうことが予想可能だ。 だから私にとっての未来は明るいのだ。 長生きは一生の得である。

 年配者を蔑む人種の方程式に従えば、自らが年老いた暁には若い世代から蔑まれることになる。 そういう発想の貧弱さが“老い”を敬遠し、若さへの郷愁へと陥る後ろ向きの人生に繋がるのであろう。

 日本人の平均寿命は、今や(当時)女性は86歳、男性は79歳の時代である。 できればこの平均寿命以上生き長らえることを目標に、自分なりの美学、哲学を貫きつつ、今後共日々精進を続けたいものである。 

 (以上、「原左都子エッセイ集」2008年のバックナンバーを再掲載したもの。)



 上記記載の最終部分にある、腕のやけど跡の「こと焼け」だが。
 今現在確認すると、ほぼ消え去ったといえるだろう。 いや、よーーく観察すると少しその形跡がまだあるぞ。

 「ナイスバディー」なあ。😷 
 図々しくもその発言が出来る程に、50歳の頃は未だ心身共々若かったものだ。
 豪語させていただくならば、我がエッセイ集内に掲載した自分の写真を見返してみても、63歳頃までは見るに堪える写真を掲載出来ているではないか!! 😶 
 それがその後更に年齢を重ねるにつれ…
 コロナ禍もあって外出がままならないため撮影する写真が極減しているとの理由が大きく、エッセイに自分の写真を掲載する都度難義している。
 ただ言えるのは、今となっては「ナイスバディ」の言葉は口が裂けても使えないだろうなあ。😫 (全体像として「スリムボディ」ではあるけどね。)


 この14年間で、日本人の平均寿命も多少伸びた様子だが。 コロナ禍の影響が大きいのだろうが、ここのところ伸び悩んでいるようだ。

 「若さへの郷愁」との言葉も、現在に至っては“死語化”している感もある。
 自分の年齢を受け入れられる余裕が、全世代に育成されてきているようにも見受けられる。


 もうすぐ、1歳年齢を重ねる私だが。

 こんな“人の年齢”に関する人間の思考の進化を喜びつつ、今後共有意義に年齢を重ねていきたいものだ。