原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

突然降って湧いた我が高校教諭職務、最終章では肝心要の「授業」について語ろう

2023年07月23日 | 教育・学校
 (冒頭写真は、公立定時制高校にて原左都子が実施した授業の際に使用した「自作授業ノート」の数々。)


 この高校にての授業に関しては、当時大学院修士課程に同時入学した身にして“得意中の得意”と豪語させてもらってもよいだろう。

 高校教師を引き受けるに当たり、大学院にての勉学と同時進行で高校現場で授業をさせてもらえることとは まさに一石二鳥であり、“恵まれている!”と感謝したい程だった。
 
 私の場合は、自身の大学院での専攻が「経営法学」だったのだが、ちょうど我が勤務高校に於いても「商業法規」「商業経済」等々の授業を実施していたため、これらを喜んで担当させていただいた。

 それらに加えて、商業科の主たる科目である「簿記会計」をどうしても受け持って欲しいとの学校からの要望で、高1の「簿記会計Ⅰ」のみを担当させていただくこととした。 

 加えて、当時我が勤務先の定時制高校では「ワープロ」の授業を実施していたのだが。 この私は20代後半期に英文タイプ検定2級に合格しているそのキャリアを活かして、これも喜んで担当させてもらった。
 これが何ともラッキーだったのは、使用機種が富士通オアシス業務用ワープロだったことだ。 ワープロ等とは機種が異なれば新たな機種に慣れるのに多少苦労するものだが、医学関係業務時にも同じ機種の富士通業務用ワープロを使用していたため、スムーズに授業に入ることが叶った。


 更なるラッキーとは。
 最初に授業内容に関して確認したのだが、“何をしても良い”、との返答だった。😁 
 例えば、当然教科書が生徒達に配られているのだが、それを全く無視して自己流の授業展開でもOK!との事だった。😲 

 私の場合は これで俄然、授業に対する我がやる気が倍増したものだ!!

 特に私の場合、大学院での専攻が「経営法学」だったため、自分自身のためにも「商業法規」の授業には一番入魂した。
 この「商業法規」は、実は 商業科教諭の皆さん、一番苦手らしいのだ。
 大抵の先生は 「簿記会計」がお得意の様子だ。
 この辺の事情も、私にとっては何ともラッキーだった。 在校中の3年半の期間、「商業法規」(及び「商業経済」)は私一人で引き受けさせてもらったものだ。

     
           
 これらは、原左都子自作の「授業ノート」の数々だ。


 新任直後の頃は、黒板に板書の形式を採っていたのだが。
 これをやると、生徒たちは授業中に“板書”しかせず、肝心の授業を聞いていないことが判明したため。(これをさせておくと、授業中静かでよいと言えばそうなのだが、これでは生徒の学習効果が上がらないと、私は考えた。)
 すぐにきっぱりと「板書形式授業」を取りやめて、毎時間プリントを配り、それに重要用語や事項のみを書き入れる方式に切り替えた。
 そのため、毎時間そのプリント制作が大いなる負担とはなったのだが。 

 生徒にとっては、そのプリントさえ保存しておけば、試験前にはその確認で済んで負担が少ないとの利点もあっただろう。


 その試験に関しては、私なりの教育ポリシーに基づき、必ずや自己の意見を記入する設問を出題した。

 例えば、「商業経済」の例を挙げると。
 「今の日本は“経済大国”といわれるまでに経済成長をしたが、人々の暮らしが真に豊かな国だと言えるか? そうでないとすれば、どのような点が豊かでないのか。 またそれをどのように変えていけばよいのか、あなた自身の考えを自由に述べなさい。」
 といった具合だ。

 これ、定時制高校生には無理、と思われる方々がいるかもしれないが。
 何の何の、素晴らしいポリシーを育成している子もいたし。「自由に書きなさい」の文言がよかったのか、実にバラエティに富んだ生徒達の視点や正直な思いが伝わって、こちらこそが感激ものだった!!


 何だか授業や試験の事を思い出すに。
 今更ながら、私って実に素晴らしい生徒達に恵まれていたと実感させられる次第だ。

 国立大学や有名私立大学へ進学した生徒もいたし、自衛隊に入隊した子もいたなあ。
 3年半の短期間だったが、私は定時制高校にて実に有意義な様々な体験をさせていただけた。

 
 もう一校、私立女子高校にても1年間教鞭をとったが。
 それも含めて、高校教員経験とは私に数多くの貴重な体験をもたらしてくれたものだ。

 すべての経験が我が血となり肉となって現在の私を創り上げてくれていることを、今更ながら実感させられる。 
 

我が高校教諭時代、突然降って湧いた業務だった割には楽しく充実した日々でした!!

2023年07月22日 | 教育・学校
 (冒頭写真は、我が教務分掌の業務の一つとして、職員室内白板に月間行事を書き入れている際に教諭仲間が撮影してくれたもの。)



 昨日のエッセイの続きとなるが。

 既に“とうが立った”年齢にて神奈川県立定時制高校へ教諭として採用された際に。 私は「教務」分掌を担当することとなった。

 教務分掌の職務内容は数多いのだが、この私は「年間行事・月間行事」企画立案業務を一人で任された。
 教諭業務初経験にして、そんな大それた仕事が私に務まるのか最初は不安だったのだが、過去の前例を参照しつつその後退職するまでその業務を一人で頑張った。

 冒頭写真は、そのうち私が立案して職員会議で合意を得た「月間行事」を職員室内の白板に書き込んでいる時の写真だ。
 同僚教諭が撮影してくれた。 (何故か、私を撮影したい教諭が複数存在した?!?)


 この月間行事作成業務に於いて、一度だけ職員会議にて論争が発生した。
 私が勤務していた高校は、神奈川県内某七夕祭りで全国的にも著名な市に位置していたのだが。
 その開催時期が、ちょうど1学期の期末試験日程と重なってしまうのだ。
 ただ私の判断では、1学期の終業式までの多忙なスケジュールを勘案した場合、いつもの時期の試験期間を変更するとの方策を取るのは困難と判断した。
 そうしたところ、やはり某教員氏より反論が出た。
 「期末試験の時期を七夕祭りとずらすべきだ! そうでなくとて勉強嫌いな生徒が多い中、これじゃあ誰も勉強などしないで七夕祭が優先となる、ナンタラカンタラ…」
 これに私がすぐさま対抗して、「原案を通させていただきたい! そうでなくとて各種行事満載の学期末の時期だ。 それをずらすと後全ての行事遂行が困難となる。」
 結果としては我が反論意見賛同者が大多数で、期末試験時期はいつも通りの実施となった。

 まあ、この事件が私としては教務分掌最大の山場だったが、持ち前の気の強さを発揮して何とか乗り越えられたことで、記憶に残る事件だった。




 ついでと言っては何だが、我が高校教諭時代の写真を以下に列挙させていただこう。 (既に公開済みのものも含まれています。)


         
 学校の文化祭時に、生徒ロックバンドにキーボード担当として参加させていただきました!


         
 同じく、文化祭での「美術部展示」会場にて。


         
 この写真では、既に私は妊娠中だ。 その事実を生徒に公開したところ、特に女生徒たちが好意を持って反応してくれた事実が実に嬉しかった。 
 写真の隣の女生徒もその一人だった。 実際、本気でいい子たちに恵まれた我が誇れる教諭時代だった。
 ついでだが、(妊娠が判明したのがきかっけで)ロングヘアをバッサリ切って来た私を見た男子生徒が黄色いくちばしで曰く、「女が髪切っちゃだめだよ!」😖 😵 


         
 最後にこの写真。
 職員室内の光景を撮影したものだが、手前が我が席。 一番片付いているでしょ!?!

 ちょっと、先生達。
 もっと自分の席を片付ける能力も身に付けましょうよ!!
 
 と言いたくなる程、悲惨な光景です…
 (夜間定時制高校故に、若き男性教諭が大多数だった故かもしれません…)
 

突然降って湧いた我が「高校教師採用」劇、続編

2023年07月21日 | 教育・学校
 そんなこんなで、まさに突然「定時制高校教諭」に採用された私だが。


 採用直後の翌日(3月末頃)だっただろうか?

 私が勤務する予定の高校の教員氏より、我が家へ電話が掛かって来た。

 そして曰く、「未だ3月なのに申し訳ないのですが、明日登校していただけないでしょうか? 実は〇〇先生(私の事)は4月からの分掌担当が「教務」となります。 この教務分掌では、春休み中に学校全体の「時間割」を作成する義務を負っています。 それを早急に仕上げねばならず、人手が不足しています。 是非明日から学校へお越しいただいて、お手伝い願いたいです。」

 こう言われてしまえば、行かない訳にはいかないだろう。
 特段の予定も無かったため、私は翌日勤務校へ出掛けた。

 学校へ着いてみると、春休み中で部活をしている生徒以外いない中で。
 教務分掌の教員たち4,5名が理科実験室だっただろうか? 広めの机がある教室内で、「時間割づくり」に励んでいる。

 その時既に、私が4月から受け持つ授業(商業科の「商業法規」「商業経済」「簿記会計」「ワープロ」だっただろうか。 参考だが「簿記会計」以外は私側が希望科目を提出していた。)が決定していて。 
 一人の先生がおっしゃるには、「ご自分の授業を優先してお好きな時間にはめ込んで結構です。これは時間割作成担当の特権です」
 私は言われるがままに、それを最優先した。

 その時に判明したのだが、当該高校のみならずおそらく当時の公立高校はすべてそうだったのだろうが。
 「研修日」というのが週1で設定されていた。
 「これは何ですか?」と私が尋ねると、主任先生が応えて「文字通り教員が個々に研修を実施する日です。」
 分かりにくい私が更に問うて、「何の研修をするのですか?」
 主任先生が応えにくそうに、「教員個々が自主的に決定します。」
 「その日は登校しなくてよいのですか?」 聞きにくい事を問えるのは新任の特権だ!😖 😝 
 「その通りです」
 咄嗟に私が反応して、「それって、その日は休みという意味ですか?!?」
 主任先生、「そのような表現は避けて下さい。あくまでも研修に励む日です。」

 それ以上問うのはやめたが、要するに“自由研修が可能”との意味合いだろう。

 これ、正直言って私にとっては物凄く“美味しかった!!”
 学校現場とは、当時は土曜日半日出勤もあり週6日出勤が常だったのに、事実上週休2日との意味合いと解釈してよいだろう。
 それで、あの報酬がいただけるとは!
 私は何とラッキーなのだろう!! と教職を選択したことが大正解だったと思いつつ、慣れない時間割作成に精を出していると。


 外野から、声がかかった。
 「あれ、〇〇先生(私の事)は4月から出勤の辞令で、まだ辞令が下りていないのに誰が呼んだの? 〇〇先生、もうお帰りいただいていいですよ。今度は4月に入ってから作業をお手伝い下さい。」

 もうそんな細かい事どうでもいい程に、私はすっかり高校現場に馴染めたし。
 時間割づくりも楽しくて、(かなり“とうが立っている”)新任教師として幸先の良いスタートを切れたものだ。


私が高校教師を経験したきっかけは、自ら“選んだ”のではなく“突然降って湧いた”のだが…

2023年07月20日 | 仕事・就職
 ただ、そんな“突然降って湧いた”との思いもよらぬきっかけだったからこそ 我が高校教諭生活はあれ程に充実していたものと、後で思えるのだ。


 この話題は、本エッセイ集バックナンバー内にも幾度か既に記載しているが。

 時は、次年度より大学院修士課程生にならんとしている平成4年(1992年)春だった。
 2度目の大学時代よりずっと“勤労学生”を続けていた私は、大学院進学後も当然それを続行する予定でいた。
 特に修士課程大学院生とは、とにかく「修士論文」を作成するのが第一義だったため、授業自体はさほど多くはない。
 これが功を奏して週何日かを丸ごと仕事に当てられるのを利用して、私はそれまで続行していた「医学企業にての業務」を週3日務める契約を既に交わしていた。

 そうしたところ、大学院入学が近づく3月終わり頃のことだ。
 突然、夜遅い時間帯に我が家の電話が鳴る。 出てみると 相手は「神奈川県教育委員会」だった。
 担当者が命令口調で曰く、「貴方は4月から、県立定時制高校にて教諭として商業科を受け持つことが決定しています。」
 “寝耳に水”と言うのか、もっと言うなら“暴力的”な電話ですらあった!

 早速私が反論して、「私は元々医学関係者でもありますが、4月からは医学関係企業にて週3日の勤務が既に決まっています。 こんな時期にそんな電話を頂いても、受け入れる訳にはいきません!」

 そうしたところ 向きになった教委担当者が言うには、「これは教委からの命令です。必ず従っていただきます。 明日あなたの勤務予定高校に出向いて頂いての学校長及び教頭面談がありますので、必ず行って下さい!!」
 教委の無茶ぶりに驚きつつ、私も反論を続ける。「ちょっと話が無茶苦茶過ぎです!  それでは私側から条件を付けましょう。 報酬が多い方を選択させていただいてよろしいですか!?? 明日、勤務予定校へ行って学校長に報酬額を伺った結果、もしも神奈川県立高校教諭の報酬が私が予定している医学業務より高いようでしたら、教員を引き受けるという事でどうでしょうか?」

 教委担当者はかなり呆れつつも、それでも差し迫る4月新学期に教員欠員ではどうしようもないと考えたのであろう。 私の希望条件を承諾した上で、次の日の面談と相成った。

 そして次の日、我が勤務予定校へ単身で行ってみると。
 何とも人が良さそうな学校長と教頭2人が私を待ち構えていて、曰く。「よく我が校へお越し下さいました。 教委は何とも素敵な女性先生を紹介して下さったものです! こんな女性先生が我が校へ来て下さると、子ども達(生徒)が大喜びするでしょう! ナンタラカンタラ…」
 それを遮って早速私曰く、「私は元々医学関係者なのですが、4月から医学関連企業にての就業が決定しております。 それでも教委がどうしても面談を受けて欲しいと言うので本日参りました。 正直に伺いますが、私がこの学校に教員として採用された場合の「報酬額」の詳細が知りたいのですが。」
 どうやらこの話は教委から学校長に伝わっていた様子で、校長自らがさっそく給与体系の資料を開いて詳細を説明して下さった。
 その結果、大学生時代より非正規として採用してもらっていた医学企業よりも、教諭としての採用の高校の方がはるかに報酬が高かったのだ!!😲 

 これはもう、高校教諭の仕事オファーを引き受けるしかない! と即断した私は、その面談時に教諭としての採用を承諾した。
 (参考だが、夜間定時制高校の場合は昼間大学院生として通学しながら同時に教諭の仕事がこなせることが判明していたための、教諭⦅正確には“臨時的任用教諭”との名称だっただろうか。とにかくいずれにせよ、通常の教諭と報酬も業務内容も全く同一だった⦆としての正式採用となった。)


 その後、大学4年時より週2日ペースで派遣医学社員としてお世話になっていた某医学企業には、4月からは高校教諭として採用が決定した旨を告げ退職手続きを取った。 皆さん良き人たちばかりで、拍手喝采で私を送り出して下さった。
 結果として 私は生徒達や教員仲間に大いに恵まれつつ、その後私から「(高齢)出産退職」を申し出るまで、足掛け4年半に渡り高校教諭を充実かつ嬉し楽しく続行できたのは、我が経歴上の貴重な誇り高き過去歴でもある。
 (更に参考だが、その後高齢出産にて産んだ一人娘が5歳時に医学分野業務に舞い戻っている。)



 2023.07.19付朝日新聞、“教育の小径”コーナーに、「教職、なぜ選ばれない」なる記事があった。

 詳述は避けるが。
 これを読むと何故現在の学校教育現場における「教師」という職業価値がこれ程までに低下してしまったのか、虚しい思いにすら陥る… 

 
 私の場合、「医学」「教育」と大きな主柱2本の道程を経験してきた身だが。
 いずれの経験も我が血となり肉となってくれて、現在の我が身を大いに支えてくれている感がある。

 どちらの仕事も(内容、報酬共々)甲乙つけがたい程に、私にとっては“素晴らしい過去”を誇れる職業であることは間違いない!!
 

インドの人口が中国を抜いて世界一になったらしい

2023年07月19日 | 時事論評
 (冒頭写真は、原左都子が過去にインド現地にて撮影したインドの世界遺産「タージ・マハル」にて入場順番を待つインド女性達。)


 私は、今から15年程前にインドを訪れている。

 知人美術家女性が美術分野に於いて国際賞を受賞し その表彰式典がインドの工業都市・ボパールにて開催されたのだが、それへの出席にこの私をお誘い頂いたお陰だ。

 その出国前に、日本のインド大使館へ“インド入国ビザ申請のためにインド大使館を訪れた。
 その際の様子を我がエッセイ集バックナンバーにて公開しているので、それを以下に再掲載しよう。

 インド入国のビザ発給に当たっての審査は厳しいという情報をあらかじめ得てはいたのだか、確かに厳しい。 私の方は単なるお供のため、旅行目的がTourismの申請で何ら問題なかったのだが、美術家C氏の方は旅行目的が美術賞受賞式典への招待ということで審査が手間取った。 決して業務活動はしないという趣旨の誓約書のようなものを自作の英文で書き提出することを命じられた。 このいきなりの難題を突破してC氏にもビザは発給されることとなった。
 
 2023年現在に至って尚、このビザ発給のインド大使館での様子を鮮明に記憶しているのだが。
 まず申請用紙が「英語」オンリーだった。 一応英語はさほど苦手ではない私だが、やはり“最初からこの関門か!?!”と多少焦った記憶はある。
 しかも、B4申請用紙裏表にやたらと個人の詳細情報まで記載せねばならず、例えば郷里の両親の氏名・年齢・住所までをもすべて英語にて書かされたのには驚いた。

 2008.10のバックナンバーに戻ろう。

 さて出発に先立ちこのブログの場を利用して、インドという国について予習し、私なりに予備知識を得て出発に備えよう。(インド政府観光局作成のパンフレットを参照)
 本日は、まず総論からスタートしよう。
 インドは世界最古のインダス文明に続く5千年の歴史を持つ広大な国だ。
 国土は日本の約10倍で、327万平方キロメートル。
 人口は約10億2千万人で世界第2位。
 公用語はヒンズー語で、英語が準公用語。  
 北には世界の最高峰ヒマラヤ山脈がそびえ、南にはインド洋、ベンガル湾、アラビア海の3つの海に囲まれた悠久の大地である。西にはタール砂漠、東にはスンダルバンの森、そして中央のデカン高原に広がる肥沃な土地は、野生動物の宝庫としても知られている。 
 さまざまな地形と文化が混在するこの国にはいくつもの宗教と伝統が生まれた。インドの歴史はヒンズー教が確立された紀元前3200年にまで遡る。そして、現在では仏教、ジャイナ教、シーク教、キリスト教、イスラム教等の多宗教がこの国に混在している。
 昔ながらの生活様式を守る少数部族と都会で洗練された暮らしを営む上流階級、寺院の象と集積回路、古代遺跡と原子力産業、このように古いインドと若いインドが共存する国、これが近代インドの姿である。

 フランスの作家、ロマン・ローランはこう言った。
 
    人類が生活するという夢を
    見始めた大昔の頃から、
    全ての人間がこの地上に
    一つの憩いの場を見つけたとすれば、
    それはインドである。 

 (以上、2008.10.18付「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。


 ついでに、当時の「インド旅行」にて撮影した写真群の一部を、以下に列挙しておこう。

         

         
 デリー各所にある観光名所をドライバーと案内人付きでドライブ中に、案内人のサキール氏が屋台のバナナを買って来てくれてご馳走してくれた。
 参考だが、デリーでの観光名所を巡るのも各名所間のトライブが5時間ほどかかるとのハードなドライブでした。
 (参考ですが、車はインド製のTATA自動車。 右側のサイドミラーが壊れていて、ドライバーが紐で結び直しつつの運転でした。)😱 

         
 これは、観光自転車。 客を後部座席に2,3人乗せて観光名所を案内してくれるようだ。
 私がインドへ行ったのは10月~11月で観光シーズンでは無かったため、客がいないようです。 (気候的には最高の季節でした!)

         
 何処かの観光名所で出会った「蛇使いの親子」。
 この写真を私が撮影した後、この子が急いで追いかけて来て、「チップ‼チップ!!」とせがまれた。 確かにただで写真を撮影しては失礼だったなあ、と反省…

         
 こちらは、世界遺産「ファティーブシークリー」内を観光中に出会った、あちらは課外学習中の現地私立小学校の子ども達。 上流階級の子どもたちは、それなりの装いをしているし、笑顔がはじけている!
 私が拙い英語で話しかけるとたちまち生徒達に大人気!!となって、遠足中ずっと私についてきて皆がニコニコと話しかけてくれた。
 最後尾にいるのは担任の先生のようだが、この女性までが喜んでくれて、何だかここでは人気タレントになった気分だった。😜 
 (この子たちは、ファティーブシークリーを見学しないで、ここでは日本人の私とコミュニケーションをとったのみだったかも!?!)😖 😷 

 この写真の子ども達、今ではすっかりエリートに成長して、インド経済を中心に支えている世代だろう!!



 2023.07.15付朝日新聞社説によれば。
 このインドの人口が14億人余りとなって、中国を抜いて世界一になったとのことだ。

 以下に、その社説の一部を引用しておこう。

 混沌と発展のエネルギーが同居する巨象。 そんな形容がふさわしいインドが今年、人口で中国を抜き世界一となった。 経済、軍事でも米中に就く大国にふさわしい責任も求められる。 (中略)
 インドの人口は14億2860万人。 平均年齢が28歳と若く今後も成長が見込まれる。 数年以内に日独を抜き3位になると予測される。
 経済発展に伴って軍事費も増え、米中ロに次ぐ第4位だ。 核兵器も保有する。 (中略)
 非同盟の伝統から、米欧と中ロいずれにも過度に偏らない外交姿勢を貫く。(途中大幅略)
 インドは「世界最大の民主主義国」とも言われる。 確かに戦後一貫して自由で民主的な選挙による政権交代を成し遂げ、軍事クーデターなどもない。

 (以下略すが、以上朝日新聞「社説」より一部を引用したもの。)



 インド旅行を経験して後、既に15年の年月が流れているが。

 今尚我が脳裏に刻まれているのは。
 インドの大地にて生を営む“底辺の人々の姿”だ。
 日がな一日、道路端にただただ座って時を過ごす人々。 
 観光客目当てに「チチ・チチ」と言いつつ赤ん坊を抱いてやってきて金品をねだる幼女たち。
 世界遺産観光地にて、粗悪品のボールペン等々の押し売りに躍起な青年たち。

 あれら底辺人民も、インドの急激な経済成長により少しは報われるのだろうか???
 そればかりが、気がかりだ…… 


 (写真の説明文を追加しておきました。  2023.07.19 )