原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「その発言、当該生徒を受け持った教員として失礼過ぎやしないか??」

2023年07月12日 | 教育・学校
 本日のエッセイは 本エッセイ集“2022.07.11付バックナンバー”の再掲載もの であることを、最初からお断りしておきます。



  冒頭から、(2022年当時の)朝方見たネット情報の一部を以下に要約引用しよう。


 安倍晋三元首相を銃撃したとして、殺人未遂の容疑で逮捕された元海上自衛隊員の無職・山上徹也容疑者(41)。奈良で育ち、中学や高校の同級生からは「優等生」「努力家」とも評されていた山上容疑者だが、高校時代の恩師の感想は毛色の異なるものだった。

 山上容疑者は県内有数の進学校である県立高校に進学した。高校では応援団に所属し、野球部の応援で活躍していたという。同級生の一人が言う。
「卒業アルバムでは自分の将来について『わからん。』と素っ気なく書いていたことから冷淡な性格のように思うかもしれませんが、話し方は穏やかで暴力をふるったこともない。私たちの世代の野球部は春の甲子園に2回出場していて、応援団も忙しかったはずだが、成績も平均をキープしていて努力を重ねていたんだと思う。政治的思想を語ったこともなく、銃や軍事関係の話をしていたこともなかったはず。彼女がいたという記憶はないが、同級生からの人気はあった。いまでも事件が現実と思えない」
 同級生にとっては卒業から四半世紀近く経っても山上容疑者は記憶に残る存在だったが、教師からの見え方は違ったようだ。山上容疑者の恩師の一人である教諭は、こう話した。
「ニュースで名前を見ても、(山上容疑者が)自分が指導した生徒だと気付かなかったんです。20年以上前の話ということもあるのかもしれませんが……正直な話、マスコミからの電話で教え子だと知ったんです。報道では(山上容疑者のことを)『団長』と親しみを込めて呼んでいた教師がいたと言われていますが、何も思い出せないですし、分からないんです」
 思い出せないほど記憶に残らない生徒が、全国民に負の記憶を残す事件を起こしてしまった。

 (以上、ネット情報の一部を引用したもの。)

 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 この私も高校教諭経験がある。
 公立底辺高校(失礼な表現をお詫びします。)及び私立女子高校にて教鞭をとったことがあるのだが。

 公立高校の方は生徒数が少なかったこともあり、私が授業を受け持ったクラスの生徒のほぼ全員を記憶している。
 今となっては忘却している生徒も、当時の写真を見れば顔と名前とどのような生徒だったかを思い出せる。
 
 片や、私立女子高校の方は非常勤講師の立場だったし、とにかくマンモス高校で一クラスの生徒数が50名と多く、残念ながら忘却している生徒の方が多いかもしれない。
 それでも今尚保管している当時の「教務手帳」を見れば、生徒の氏名をほとんど記憶していて、(この子美人だったなあ。 にぎやかな子だった。)等々と過去の記憶が蘇る。

 そんな私にして、退職後間もない頃に私立女子高生から受け取った1通の手紙に関して。
 その氏名は記憶にあるのだが、その子のお顔も人物像も思い出せない生徒から手紙を頂いた。    
          
 手紙の内容を紹介しよう。

 Dear 〇ちゃん(私の事)
 お元気ですか?! 忘れちゃったかなー 3B(クラス名)のvery pretty な○○ちゃん(自身の名)だよ。 真面目に授業聞いてたじゃん。(その割にはTESTは悪かった 涙涙)
 今は卒業して一人暮らししてます。
 もう1か月もたっちゃったんだよネ。 新学期になっても〇ちゃんの顔みれないなんて… 寂しい 涙
 But、絶対▲高まであいに行くから!! 忘れないでちょーだいよ。
 今後も学生なんだ。 3年間の夢の第一歩です。 (中略)

 〇ちゃん、応援してネ。 励みになるから。
 学コつらくなったら〇ちゃんにあいに行く!!
 絶対私の事、忘れないでネッ!!
 1年間だっけ? 商業法規(我が担当授業)楽しかった!!
 ありがとう!!
 いつまでもあの明るい笑顔と優しい〇ちゃんでいてネっ。

           FROM By ○○○○

 この手紙が届いた住所が当時住んでいた神奈川県の住居地となっているため、私は未だ独身だったようだが。

 その手紙の内容が教師冥利に尽きたし、本気で感激させてもらえたものだ。
 それにしても、どうしてもこの生徒が思い出せない。
 文中に「新学期になったら▲高まで会いに来る」との文面があるが。その時には既に私は当該高校の非常勤講師を退職していた。
 もしも本気でこの生徒が会いに来てくれたとしたら、本当にごめんなさい。

 それよりも何よりも、この女生徒のことがどうしても思い出せない事実こそに、実に参った。(教務手帳で氏名は判明したが、写真が手元に1枚も無いせいだが。)
 思い出せないままに手紙の返答を書いたとて、形骸的な手紙となってしまい我が心が届かないと判断した。
 そして、結局は返信をしないままに現在に至っている。
 それだからこそ、今尚この手紙のことが気にかかって仕方がない。
 
 最後に、話題を冒頭の引用文に戻そう。

 安倍氏を襲撃した犯人の高校時代の恩師が、メディアの取材に応えて「何も思い出せないですし、分からないんです」なる発言をしている。
 そう応える前に、少しでも襲撃犯である過去に接した男子生徒のことを思い出す努力を、この教師がしたのかが気がかりだ。
 まさに「教務手帳」を見るなり過去の写真を探すなりすれば、その片鱗に触れられたかもしれない。

 もちろんのこと、取材者側も無差別に過去に襲撃犯に接した人物に取材をするのも慎むべきかもしれないが。

 それでももしも私がその種の取材を受ける身となったならば。
 絶対的に私が指導した生徒たちの弁護に回り切る!!であろう、と想像するのだが…

 それ程までに、私が過去に指導した生徒たちは本気で実にいい子ばかりだった!

 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーを再掲載したもの。)



 
 教職現場を去って既に30年近い年月が経過しているが。

 今現在思い起しても、我が教員時代には“いい子(生徒)達に恵まれていたことを思い浮かべて嬉しくなる。
 実に一人として、私側が嫌いだったり、くにったらしい子など存在しなかった。

 そういえば、“苦手な子”はいたかもしれない。
 例えば、「反応が乏しい子」というのは多少難義したかなあ。 それでも私なりに努力して、出来得る限りのコミュニケーションをとったものだ。
 この私の場合、生徒卒業までにこちらから声を掛けなかった生徒はただの一人もいない。
 必ずや一人一人の生徒と向き合うべく、何らかの用件を見つけては声を掛けたものである。
 (例えば授業中に課題を与えて、それを生徒達が解答している時間帯に全生徒の席を回って一人一人に声掛けしたりした。 それとは別に、特にあちらから教員に声掛けが苦手な生徒に対しては優先的に、合間を縫っては教員の私から声を掛けたものだ。 そうしたら大抵の生徒は喜んでそれに応じてくれ、私の方こそが嬉し楽しかったものだ!)
 
 そんな教員生活を送った身にして。

 上記再掲載内の「(山上容疑者が)自分が指導した生徒だと気付かなかったんです。20年以上前の話ということもあるのかもしれませんが……正直な話、マスコミからの電話で教え子だと知ったんです。何も思い出せないですし、分からない」
 と、ぬけぬけと発言した教員を。
 
 私は、どうしても許せない!!!

 記憶力の悪い人間を、そもそも教員に採用するなよ! とすら言いたくなる!!
 (おっと、言い過ぎました。 後で削除します…)