冒頭より、ネット情報を引用しよう。
日本の植物学の父、牧野富太郎氏をモデルに、激動の時代にひたすら愛する草花と向き合い続けた植物学者、槙野万太郎(神木隆之介)の波瀾万丈の生涯を描く「らんまん」。 俳優・要潤が万太郎が出入りしている東京大学植物学教室の教授、田邊彰久を演じている。
この日(07.28)の放送で、偶然見つけた水生植物を万太郎が植物学教室に持ち込んだ。助教授の徳永政市(田中哲司)や助手の大窪昭三郎(今野浩喜)らはその水草に興味を示すも、その正体がわからなかった。そこに田邊が現れ、自分の目で水草を確認。「心当たりがある」とつぶやき、本を見ながら「これだ…。Aldrovanda vesiculosa(アルドロヴァンダ ヴェシクローサ)」と述べた。さらに田邊は、この水草を「アルドロヴァンダ ヴェシクローサはかのダーウィンを魅了した植物だ」と説明。インドや欧州などでしか発見されておらず、日本で見つかったとなれば、それは世界を驚かすことになると強調し、万太郎に、論文と植物図を書いて世界に向けて報告をするよう命じた。
矢田部良吉(田邊教授の本名のようだが)の足跡と主な出来事
矢田部良吉は、嘉永4年(1851)に生まれ、明治32年(1899)に没した。
アメリカ留学、植物学者の道へ
良吉は、嘉永4年(1851)、蘭学者の父・郷雲のもとに生まれる。幼少期から西洋の影響を受けていた良吉は、外国人宣教師から英語を教わっていたとされ、明治2年(1869)に開成学校(東京大学の前身)にて教授を務めた。
さらに翌年、駐在公使として赴任する森有礼(もり・ありのり)とともに、アメリカへ留学することに。渡米した当初は外交官を目指していたようだが、やがて学者の道を志すようになる。そして、現地のコーネル大学に、日本人初の合格を果たす。
大学では植物学を専攻し、そこで培った近代的な植物学の知識が、帰国後の活動の原動力となった。
東大理学部の初代教授となる。
明治9年(1876)に帰国。翌年、東京大学が開設されたことを受け、東京開成学校で教授を務めていた良吉は、そのまま東京大学理学部生物学科の初代教授に就任した。留学時代には植物分類学のほか、生理学も学んでいたが、東大では専ら植物分類学に力を入れていたことで知られている。(中略)
良吉は、植物学の雑誌を作りたいという富太郎の案に賛同する。 さらに、彼が刊行した『日本植物志図篇』を称賛するなど、富太郎の植物学者への第一歩を後押しした。
(以下略すが、以上ネット情報より一部を引用したもの。)
NHKの連続テレビ小説「らんまん」だが、何処かの情報で、かなり史実よりもアレンジしていると見聞していたが。
結構 史実に忠実にドラマが作られている事実が判明し、驚かされる。😲
ここから原左都子の私事に入るが。
この私も最初の大学が医学部であり、在学中は大いに実験実習に励んだ経験があるため。 「らんまん」の映像の各所が我が経験とダブり、非常に興味深いものがある。
例えば、顕微鏡を覗く場面など。
当然ながら時代が進化していて、私の医学部在学中にはあんなレトロな顕微鏡は既に使用していなかった。 ただし、我が学生時代にはもしかしたらまだ「片眼顕微鏡」が使用されていたような記憶もある。???
私の医学部卒業研究テーマがヒトの「赤血球」に関するものだったため、まさに日々顕微鏡を覗き続けたものだ。
研究過程の中で一番記憶に深いエピソードを語ろう。
学生の卒研など大抵の場合、検体(研究材料、例えば血液等々)は学生同士で採血し合って試験体の数を確保したものだ。
ところが、どうしても臨床(各種疾患を患っている患者等々の)研究は欠かせない。
そこで私は指導教官だったN先生にお願いした。 「大学病院にて検査済みで廃棄処分になる患者さんの血液を、卒研用に拝借する訳にいきませんか?」
そうしたところN先生はそれに即座に対応して下さり、病院から各種疾患を抱えている患者さん達の検査済み血液を日々運んで下さった!
この事実こそが、我が卒研の成果を大いに上げてくれたものだ。
特に我が卒研の場合、溶血性疾患のある患者氏の血液に対応不能な検査薬が今現在尚実際に使用されているのがどうか?との疑問を呈することが可能となった。
その結果こそが、我が卒研を一段と医学的に有意義なものとしてくれたのだ。
後のことだが、我が卒研論文は私が大学卒業後にN先生が「BioMedical Jornal」に投稿して下さって、世の日の目を見ることとなった。 (参考だが、「BioMedical Jornal」は現在廃刊となっています… )
医学部時代にそんな貴重な思い出がある私は。
ドラマ「らんまん」にての実験室風景や研究内容の話題等々が、到底他人事と思えない気分で日々朝と昼の再放送を注視している。
そして 今週の田邊教授の態度は、心底腹立たしかった!!
なんだって!?!?
学生(万太郎は正確に言うと東大の学生ではないが)が教授である自分の名を提出論文中に入れなかったと激怒した場面など、「そんなチンケなアンタには、学生を指導する器や権利など一切無いよ!!!」とまさに怒り心頭だったものだ。😡
そんな場面を「らんまん」にて見せられた私は、自分自身の学生時代がどれだけ恵まれていたのか、と“過去の栄光”を懐かしく思い出させてもらったものだ。
(参考ですが、我が医学部恩師のN先生とは卒業後も例えば年賀状交換等々でずっと連絡を取らせていただき。 N先生ご他界後の現在に至って尚、郷里にお住いのN先生の奥様((本エッセイ集内に時折登場するマチ子さん))と懇親にさせていただいております!)