原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

貴方は電車等の「優先席」が空いていたら座る派ですか?

2023年07月17日 | 人間関係
 表題のテーマに関する記事が、2023.07.14付朝日新聞夕刊に掲載されていた。

 題して、「空いてる優先席 座ったらダメ? 『過剰な同調圧力には対抗できる強さ持ちたい」。


 今回は記事の引用は避けるが、この記事を読んで私は、本エッセイ集開設初期頃に公開したエッセイを思い起した。
 「優先席物語」と題するそのエッセイを、以下に再掲載しよう。 


  優先席(シルバーシート)をはじめ乗り物の座席をめぐるモラルについては、優先席が社会に登場した当初より今日に至るまで物議を醸し続けている。
 私は、当然ながら年齢的(当時、更年期真っ只中だった)にまだ優先席を利用したことはない。 立つ時でもなるべく優先席利用者の妨げにならないように一般席付近で立つよう心がけている。
 そんな私も一般席での出来事だが、今までの人生で何と2度も座席を譲っていただいたことがあるのだ。 いずれも妊娠中の出来事だった。
 一度目は妊娠8ヶ月目くらいの頃だったが、電車に乗り込んでつり革につかまるや否や、少し年上らしき女性がさっと立ち上がって「どうぞ」と座席を勧めて下さるのだ。 私が妊娠している事に気付いてご配慮下さったのだと直ぐに察知できたが、席を譲られるなど生まれて初めての経験だったし、予期せぬ出来事で戸惑い焦った。 私は高齢での妊娠ではあったが、元々つわり期と臨月以外は体調が安定していて、出産間近まで毎日片道2時間かけて電車とバスを乗り継ぎ通勤していたこともあって、電車で立つぐらい何の苦にもなっていなかった。 
 その日も体調は良く、実は駆け込み乗車で乗り込んだばかりのことだった。(危険ですので、駆け込み乗車はやめましょう。😖 )が、その見知らぬ女性の気配りがとてもうれしくて、丁重にお礼を申し上げて座らせていただいた。
 2度目もやはり臨月に近い妊娠中だったが、年老いた母と一緒に電車に乗ったときのことだ。 一般席が一人分だけ空いていたため、「お母さん、座りなさいよ。」と私が言うと、母は「あなたが妊娠中なんだから座りなさい。」と言い合い二人でその押し問答を繰り返していると、空席の隣に座っていた男性が黙って立ち上がって下さったのである。 この時は申し訳ない思いでいっぱいで、「いえ、大丈夫ですから。」とは言ったものの、まさかその男性も座り直すわけにもいかないだろうし、やはりお礼を申し上げて二人で座らせていただいた。 が、押し問答などせずに静かにさっさと一人だけ座るべきだったと、その男性や周囲の方々に迷惑を掛けたことに後悔しきりで、何ともばつが悪い思い出である。
 後者の例については、日常乗り物に乗るとよく出くわす風景だ。 先だっても、山手線電車内で立っていると目の前の席がひとつ空いた。 横に立っていたサラリーマン風中年男性の二人組が「お前が座れ。」「いや、お前が。」の押し問答になったため、私は座ることを控えた。 すぐさま空席の隣に座っていた若い男性がさっと立ち上がり男性二人組が座れる状況が整った。 すると立っていた二人組のひとりが、「そんなつもりじゃないのに。」と席を譲られたことをさも迷惑気に言い始めるではないか! 私はその無礼さに驚き、(あんたらが騒いでいるから譲ってくれたのに、そんな言い方はないだろ!御礼を言ってさっさと座れよな!)と心中穏やかではなかった。

 座席を譲った方の経験は多いが、その中で一番よく憶えているのは上京して間もない若かりし頃のことである。  お年寄りが電車に乗ってきたため、私は直ぐに立って「どうぞ」と座席を譲るとその男性は快く座ってくれた。 すると、その方はやわら買い物袋からおそらくご自身のために買ったと思われる“コーンの缶詰”を取り出して、私に「これ、持って帰りなさい。」と持たせてくれるので、若干躊躇はしたがご好意に甘えていただいて帰ったことがある。
 近年は、譲られる方が譲られて迷惑したごとくの話もよく耳にする。 
   譲られる側にも様々な事情があるようだ。 例えば、自分はまだまだ若いのに年寄り扱いされて自尊心を傷つけられた、と言う人もいれば。 自分は人様の世話にはならぬと恩を売られる事をかたくなに拒む人もいる。 また、健康のために立っている人もいる。 深刻なのは、体が不自由で立ったり座ったりの動作が難儀なため立っているのに席を譲られて困惑した人もいるようだ。
 昔は、見知らぬ人が席のお礼に“コーンの缶詰”を差し出すような(上記参照)、人と人とのかかわりが円滑な時代もあった。 
 席を譲られるのはとっさの出来事で、相手の好意に即時にそつなく応じるという、スマートな行為をやってのけられる人が激減しているのではないかと感じる。 (中略) 
 世の中、自分の知人なんてほんのひと握り、その他は皆知らない人たちばかりなのだ。 その知らない人たちとのちょっとしたコミュニケーションがうまっくいってこそ、自分の世界が広がり、ひいては社会全体が円滑に機能していくのであろう。 そのためには、場を把握する力、自分を客観視できる力を育て、他者に配慮するゆとりを持たねばならない。 たかが乗り物という小さな社会であるが、一期一会を大切にして、人々のささやかなコミュニケーションが息づいていくことに期待したい。

 (以上、「原左都子エッセイ集」より初期頃公開のエッセイを再掲載したもの。)



 話題を最近の出来事に移すが。

 少し前に本エッセイ集内で、「マイナカード作成」に区役所へ行った際に 左膝複雑骨折のため松葉杖をついた状態の私に、区民の複数の女性達がご親切にもパイプ椅子を譲って下さった話題を披露した。
 あの時など、情けなくもそれら女性達のご親切が無ければ私は「マイナカード作成」を諦めて役所を去るしか方策が取れなかったものと判断する。
 実に有難い出来事であり、そのご親切のお陰で私は「マイナカード」を手中にすることが出来たようなものだ。


 片や、電車やバス等の公共交通機関に関しては 最近は昼間しかそれを利用する機会が無い故か。  いつ乗車しても車内が比較的空いていて、「優先席」付近を見る機会すらない状況と言えよう。

 少しズルい方策かもしれないが。
 そもそも「優先席」を避けて通った方が “席を譲る”だの“譲られる”だのとの多少鬱陶しいとも表現できそうな“人間関係”を避けることが可能なり、それに越したことは無いような気すらする。😖 


 そんな現在の人間の“関係回避行動”に “待った!” をかけたのが、朝日新聞記事だったのかもしれない。
 
 「最初からみんなが座らなければ、席を譲るという面倒な行動を誰しもとらずに済む」
 これなど、まさに上記に私が記した “席を譲る”だの“譲られる”だのとの多少鬱陶しいとも表現できそうな“人間関係”を避ける、と同一思想であろう。

 ただ、この行動様式が更に発展すると、この世の人間関係が益々希薄になるのは明白だ。


 たかが公共交通車内優先席の話題だが。

 朝日新聞記事は、現在既に急速に希薄化している世の「人間関係劇場」の在り方を問うていて興味深い。