原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

貴方は電車等の「優先席」が空いていたら座る派ですか?

2023年07月17日 | 人間関係
 表題のテーマに関する記事が、2023.07.14付朝日新聞夕刊に掲載されていた。

 題して、「空いてる優先席 座ったらダメ? 『過剰な同調圧力には対抗できる強さ持ちたい」。


 今回は記事の引用は避けるが、この記事を読んで私は、本エッセイ集開設初期頃に公開したエッセイを思い起した。
 「優先席物語」と題するそのエッセイを、以下に再掲載しよう。 


  優先席(シルバーシート)をはじめ乗り物の座席をめぐるモラルについては、優先席が社会に登場した当初より今日に至るまで物議を醸し続けている。
 私は、当然ながら年齢的(当時、更年期真っ只中だった)にまだ優先席を利用したことはない。 立つ時でもなるべく優先席利用者の妨げにならないように一般席付近で立つよう心がけている。
 そんな私も一般席での出来事だが、今までの人生で何と2度も座席を譲っていただいたことがあるのだ。 いずれも妊娠中の出来事だった。
 一度目は妊娠8ヶ月目くらいの頃だったが、電車に乗り込んでつり革につかまるや否や、少し年上らしき女性がさっと立ち上がって「どうぞ」と座席を勧めて下さるのだ。 私が妊娠している事に気付いてご配慮下さったのだと直ぐに察知できたが、席を譲られるなど生まれて初めての経験だったし、予期せぬ出来事で戸惑い焦った。 私は高齢での妊娠ではあったが、元々つわり期と臨月以外は体調が安定していて、出産間近まで毎日片道2時間かけて電車とバスを乗り継ぎ通勤していたこともあって、電車で立つぐらい何の苦にもなっていなかった。 
 その日も体調は良く、実は駆け込み乗車で乗り込んだばかりのことだった。(危険ですので、駆け込み乗車はやめましょう。😖 )が、その見知らぬ女性の気配りがとてもうれしくて、丁重にお礼を申し上げて座らせていただいた。
 2度目もやはり臨月に近い妊娠中だったが、年老いた母と一緒に電車に乗ったときのことだ。 一般席が一人分だけ空いていたため、「お母さん、座りなさいよ。」と私が言うと、母は「あなたが妊娠中なんだから座りなさい。」と言い合い二人でその押し問答を繰り返していると、空席の隣に座っていた男性が黙って立ち上がって下さったのである。 この時は申し訳ない思いでいっぱいで、「いえ、大丈夫ですから。」とは言ったものの、まさかその男性も座り直すわけにもいかないだろうし、やはりお礼を申し上げて二人で座らせていただいた。 が、押し問答などせずに静かにさっさと一人だけ座るべきだったと、その男性や周囲の方々に迷惑を掛けたことに後悔しきりで、何ともばつが悪い思い出である。
 後者の例については、日常乗り物に乗るとよく出くわす風景だ。 先だっても、山手線電車内で立っていると目の前の席がひとつ空いた。 横に立っていたサラリーマン風中年男性の二人組が「お前が座れ。」「いや、お前が。」の押し問答になったため、私は座ることを控えた。 すぐさま空席の隣に座っていた若い男性がさっと立ち上がり男性二人組が座れる状況が整った。 すると立っていた二人組のひとりが、「そんなつもりじゃないのに。」と席を譲られたことをさも迷惑気に言い始めるではないか! 私はその無礼さに驚き、(あんたらが騒いでいるから譲ってくれたのに、そんな言い方はないだろ!御礼を言ってさっさと座れよな!)と心中穏やかではなかった。

 座席を譲った方の経験は多いが、その中で一番よく憶えているのは上京して間もない若かりし頃のことである。  お年寄りが電車に乗ってきたため、私は直ぐに立って「どうぞ」と座席を譲るとその男性は快く座ってくれた。 すると、その方はやわら買い物袋からおそらくご自身のために買ったと思われる“コーンの缶詰”を取り出して、私に「これ、持って帰りなさい。」と持たせてくれるので、若干躊躇はしたがご好意に甘えていただいて帰ったことがある。
 近年は、譲られる方が譲られて迷惑したごとくの話もよく耳にする。 
   譲られる側にも様々な事情があるようだ。 例えば、自分はまだまだ若いのに年寄り扱いされて自尊心を傷つけられた、と言う人もいれば。 自分は人様の世話にはならぬと恩を売られる事をかたくなに拒む人もいる。 また、健康のために立っている人もいる。 深刻なのは、体が不自由で立ったり座ったりの動作が難儀なため立っているのに席を譲られて困惑した人もいるようだ。
 昔は、見知らぬ人が席のお礼に“コーンの缶詰”を差し出すような(上記参照)、人と人とのかかわりが円滑な時代もあった。 
 席を譲られるのはとっさの出来事で、相手の好意に即時にそつなく応じるという、スマートな行為をやってのけられる人が激減しているのではないかと感じる。 (中略) 
 世の中、自分の知人なんてほんのひと握り、その他は皆知らない人たちばかりなのだ。 その知らない人たちとのちょっとしたコミュニケーションがうまっくいってこそ、自分の世界が広がり、ひいては社会全体が円滑に機能していくのであろう。 そのためには、場を把握する力、自分を客観視できる力を育て、他者に配慮するゆとりを持たねばならない。 たかが乗り物という小さな社会であるが、一期一会を大切にして、人々のささやかなコミュニケーションが息づいていくことに期待したい。

 (以上、「原左都子エッセイ集」より初期頃公開のエッセイを再掲載したもの。)



 話題を最近の出来事に移すが。

 少し前に本エッセイ集内で、「マイナカード作成」に区役所へ行った際に 左膝複雑骨折のため松葉杖をついた状態の私に、区民の複数の女性達がご親切にもパイプ椅子を譲って下さった話題を披露した。
 あの時など、情けなくもそれら女性達のご親切が無ければ私は「マイナカード作成」を諦めて役所を去るしか方策が取れなかったものと判断する。
 実に有難い出来事であり、そのご親切のお陰で私は「マイナカード」を手中にすることが出来たようなものだ。


 片や、電車やバス等の公共交通機関に関しては 最近は昼間しかそれを利用する機会が無い故か。  いつ乗車しても車内が比較的空いていて、「優先席」付近を見る機会すらない状況と言えよう。

 少しズルい方策かもしれないが。
 そもそも「優先席」を避けて通った方が “席を譲る”だの“譲られる”だのとの多少鬱陶しいとも表現できそうな“人間関係”を避けることが可能なり、それに越したことは無いような気すらする。😖 


 そんな現在の人間の“関係回避行動”に “待った!” をかけたのが、朝日新聞記事だったのかもしれない。
 
 「最初からみんなが座らなければ、席を譲るという面倒な行動を誰しもとらずに済む」
 これなど、まさに上記に私が記した “席を譲る”だの“譲られる”だのとの多少鬱陶しいとも表現できそうな“人間関係”を避ける、と同一思想であろう。

 ただ、この行動様式が更に発展すると、この世の人間関係が益々希薄になるのは明白だ。


 たかが公共交通車内優先席の話題だが。

 朝日新聞記事は、現在既に急速に希薄化している世の「人間関係劇場」の在り方を問うていて興味深い。 


老けない娘

2023年07月16日 | 自己実現
 昨日、一人娘が我が家まで2カ月ぶりにやって来た。

 
 娘が昨年5月に我が家を出て独り立ちして以降、1年2か月程の月日が流れている。

 娘が我が家にいた頃から通っていた自宅近くの歯科医師先生が、以前より娘のお気に入りの様子で。
 その歯科医師先生にずっとお世話になりたい!との本人の希望により、片道1時間半もの道程をものともせず、いつも電車を乗り換えて歯科医院へ行った後、我が家を訪れる習慣になっている。


 我が家の鍵を持たせてあるのに、いつも何故かそれを持参せずにやって来て、一階正面玄関で訪問のチャイムを押す娘だ。

 その様子を、上階の我が家内のセキュリティシステム画面に映し出された娘の姿を見るのだが。

 これが親の身贔屓以外の何でもないのだろうが、いつ見ても「老けない(もっと言えば、親馬鹿ながら“可愛い!”)😍 」のだ。

 今年の11月には30歳を迎える我が一人娘だが。

 我が娘がずっと老けないように見える(と言うよりも、親の私には今尚“妙齢の娘”に見える!)理由の一つとして考えらるのは、昔と何ら変わらぬ娘のスリム体形であろう。
 これに関しては、母親である私が娘幼少の頃より“厳しい指導!”をしてきた成果かもしれない。 
 「太って何の良きことも無い! 必ず日々体重計に乗って体重チェックをするように!」
 かく言う私自身は、高齢域に達している今尚 日々数回「体組成計」に乗って自己のそのデータ管理をしている。 やはり特に体重が大幅に増加するような事態となることが許し難く、厳しいチェックを続行している。😡 


 娘の場合はそれ程の体重管理をしていないにもかかわらず、スリム体形を維持できている様子だ。
 これぞ、理想形であろう。
 娘の場合は大学での専攻が「食文化」であった影響が大きく、おそらく大学現場で食と健康維持の教育を存分に受けているはずだ。 これが功を奏して、今尚体重を増やすことなく健康的な暮らしが出来ていることと想像する。

 加えて、娘のファッション等の好みのせいもあろう。
 どういう訳か、娘のファッション好みは昔とさほど変化が無い。
 時代の趨勢にもかかわらず、自身の体形や容貌に合ったファッションセンスが衰えていない事実にも驚かされる。

 まあこれは逆に言うならば、いつまでも惰性ファッションを続けているとも表現できよう。
 ただ、それが本人に似あっているならばそれに越したことは無いだろう。



 この最愛の我が娘が、今年の11月の誕生日に30歳の大台に乗る。

 健康、かつ外見もスリム体型を保ってその年齢を迎える娘は、素晴らしいと表現してよいだろう。


 娘の意向を確認すると、今後も親元離れて“一人暮らし”を続行すると言う。

 健康体も保てている様子であるし、親としては何も言う事は無い。

 どうか、今後も我が娘なりの自己実現を目指しつつ、この世を有意義に愉快に生き抜いて欲しいものだ。😃 


ヤマトグサ

2023年07月15日 | 学問・研究
 以下は 昨日ウィキペディア情報より引用した、牧野富太郎博士発見の「ヤマトグサ」に関する記述です。

 この「ヤマトグサ」は、日本人としては2番目に新種として1889年にその学名が与えられた植物です。

 

 ヤマトグサ(大和草、学名:Theligonum japonica Okubo et Makino)は、アカネ科ヤマトグサ属に分類される多年草。小柄な草本で、ややハコベに似ている。雄花は雄蘂が垂れ下がる独特の姿。
 特徴
軟らかい小柄な多年生草本で、全体にはハコベに似た草である。地下茎は短く、ひげ根がある。茎は高さ15-30 cm、断面は丸く、短い毛がある。茎は下部でまばらに分枝する。葉は対生し、長さ1-3 cm、幅0.8-2 cmで、5-10 mmの葉柄があるが、葉柄は上部の葉では短い傾向がある。葉身は卵形から狭卵形で、まばらに毛があり、先端は短く尖るか丸く、縁はなめらか。托葉は膜質で三角形、長さは2-3 mmで、基部は多少くっつき合っている。
花期は4-5月。雌雄同株で、雄花と雌花がある。花は茎の上部にある葉状の苞に対生する。
雄花は節に1-2個生じる。ほとんど柄はなく、つぼみは短い筒状をしており、開花すると3枚の外花被片が上向きに巻くように反り返る。この外花被片は狭長楕円形で長さ8-10mm、緑色で、他に花弁などはない。この外花被片の基部から20-25本の雄蘂が出る。雄蘂の柄である花糸は細く、先端の葯は長さ4-5 mmで花糸より少し長い。つまりくるりと上に巻いた緑の弁の根元から、多数の雄蘂の房が垂れ下がる形である。風媒花であると考えられている。
雌花は緑色で非常に小さい。柄はなく、基部に1個の小苞がある。外花被片は筒状で子房を囲み、外面には粗い毛がある。この外花被片の先端が二裂(3-4裂とも)し、その間から、子房のやや側面から出て、突き出して曲がった柱頭が顔を出す。
受粉すると子房は外花被片と柱頭を横に押しのけるようにふくらむ。果実(痩果)は狭倒卵形で長さ3-3.5 mm。花が終わると下部の側枝が伸び出して新芽を形成する。
 和名は牧野富太郎が「大和草は日本草の意味」と記していて、日本を代表する意が込められている。
分布と生育環境[編集]
日本固有種で、本州の関東以西から、四国、九州まで分布する。北限は秋田県、南限は九州で唯一の生息域である熊本県 。
山地の森林下に生育する。
分類[編集]
ヤマトグサ属には5種あるが、日本には本種のみが分布する。本属は単独でヤマトグサ科として扱ってきた経過があるが、その分類上の位置づけには議論が多かった。保育社の「原色図鑑」シリーズではこの科をヤマゴボウ科とヒユ科の間に置き、平凡社の「日本の野生植物」シリーズではこれをアリノトウグサ科とスギナモ科の間に置いていて、ほとんど正反対の位置にあることにも反映されている。
類似種など
本属(あるいは本科)の植物は日本ではこの種だけであり、花の形は他に似たものが無く、特に雄花の雄蘂が垂れ下がる姿は小さいなりに目立つので、それが確認できれば判別は容易である。花以外の特徴ではフタバムグラ属のハシカグサによく似ており、草の香りまで似ている、本種では托葉が半円形で、ハシカグサの櫛の歯状になっているのとはっきり異なる。
発見の経緯[編集]
1884年に牧野富太郎が本種を最初に高知県で発見した。しかしこのときの標本には花がなかったため彼はこれをハシカグサと同定していた。その後1886年に同じ場所でよい標本を得て、これを研究してその結果を大久保三郎との連名で1887年に「植物学雑誌」に記載論文を発表した。本種は日本固有種であり、しかも日本人の手によって記載され、それが日本の学術雑誌に発表された最初の植物である。和名はこれに基づく。1888年に伊藤篤太郎の記載したトガクシソウ(学名:Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô)が最初に日本人により学名が与えられたものであり、本種はその翌年の1889年に日本人として2番目にその学名が与えられた。
種の保全状況評価[編集]
日本では以下の多くの都道府県でレッドリストの指定を受けている。環境省によるレッドリストの指定は受けていない。秋田県、茨城県、千葉県、三重県、岡山県、徳島県と山口県では、絶滅危惧I類の指定を受けている。これらの地域では分布地そのものが少なく、森林伐採や林道工事の自然環境の破壊や園芸栽培のための採集などにより減少している。採集圧は問題になっていない。氷ノ山後山那岐山国定公園などで、自然公園法による指定植物の指定を受けている。

 (以上、ウィキペディア情報より一部を引用したもの。)



 詳細は、NHK連続ドラマ「らんまん」等をご参照下さい。


人間の脳力は「くじ引き」の結果?!??

2023年07月14日 | 自己実現
 少し古くなるが、本日のエッセイテーマは 2023.06.29付朝日新聞記事「説く」より、“偶然が起こす いい変化も」より引用する。


 早速、当該記事を以下に要約引用しよう。

 Q. 常識的な考えでは極端に思われるが、能力はほぼ外因によるのか?
 A.   よく誤解されるが、ほぼではなくすべてだ。 遺伝も環境も偶然も当人は選べない。 したがって内因はどこにもない。 能力は、くじ引きの結果に過ぎない。
 能力外因説は、主体外因説の一部。 主体同様、能力も外因が作り出す。
 Q. 主体や能力の外因説は、自己責任論にさいなまれる人を救う可能性がある一方、何をやってもしようがないという虚無感につながらないか? 
 A.  私(著書・神の亡霊の著者・小坂井敏晶氏?)の考えは、あらかじめすべて決まっているという「決定論」とは違う。 一方で、「親ガチャ」の議論もある。 遺伝と環境。それにどの親の元にうまれるかは偶然だが、この偶然の積極的意義に注目しよう。
 誰と巡り合うのか、どんな人と恋をするのか、どんな言葉を交わすのか。 偶然がもたらす勘違いや思い込みによっても、いい変化が起こり得る。(中略
 未来は誰にも予測できないし、決まっていない。 こう理解するから私自身絶望しない。
 Q. 能力が外因によるのなら、どんな入試制度がよいのか? 
 A. くじ引きで入学させればよいだろう。 そうすれば、学校の格差再生産機能が無くなる。 良い学校ならばどんな学生が入っても、学力を底上げできるはずだ。
 Q. 格差は無くならないのか?
 A. 人間は他社との比較を通してアイデンティティを育む。 だから、格差が無い社会には生きられない。 格差は社会の機能不全がおこすのではなく、逆に社会が正常に機能するゆえの結果だ。  さらに言えば、悪い現象は悪い原因で起こるという常識が勘違いのもとだ。 ただ、こうした社会の不条理を見抜いているが故に、釈迦やキリストは我が子を亡くして苦しむ母親に「どうしようもない」と諭すのだ。 「変われば変わるほど元のまま」というフランスのことわざがある。 出口を探してもがきながら、我々は堂々巡りしているだけなのだ。

 (以上、古くなるが2023.06.29付朝日新聞記事より引用したもの。)




 ずっと以前になるが。
 私が某ブロガー氏(A氏とさせていただこう)宛に書かせていただいたコメントに対して、「親ガチャ」に関するコメント返答を頂戴したことがある。

 少しそれを探させて頂いたのだが、残念ながら見つからなかったため、我が記憶のみに依存して以下に少しだけ反復させていただこう。

 A氏がおっしゃるには、この原左都子も「親ガチャ」の当たりくじを引いているのではないか、とのご意見だったが。
 これに関する私の回答は、「それは絶対に違う!!」と申し上げたいものだった。 (おっと、“容姿”面では確かに若い頃は親に似ずいいところまでいってたかな??? 不謹慎をお詫びします…)😖 
 私本人としてみれば「親ガチャ当たり」どころか、とんでもない「外れくじ」を引かされたにもかかわらず。 自らの努力と頑張りのみでこの世を食いっぱぐれることも無く、比較的順調に歩んでこれていると自己評価している。

 それが証拠に私は20代前半期に郷里の医学部卒業後、郷里を捨て親を捨てて単身上京後は。 親元からなど一銭の支援も無く独り身で大都会東京を有意義に楽しく愉快に渡り歩き、医学業務その他の仕事に専念しつつ自己資産を増強させてきている。
 自らの希望で晩婚の道程を歩むこととなったが、これに関してもまさにすべてが自らの思考とポリシーを最優先しつつ選択した結果である。

 郷里の父親は60代後半期に早死にしたが。
 実母(定年まで地方公務員を貫いた)は90歳を超えた今尚長生きしていて、つい先だっても腰椎骨折にて3か月足らず入院した後退院したばかりだ。
 そんな時に精神的に依存するのは、下の娘の私と相場が決まっている。(米国在住の姉が何らの役にも立たない故だが)😫  それでも入院中は大事にしてあげたら、喜んでその後幾度となく私の元へ電話を寄越してくる始末だ。

 まあそれでも、現在は社会構造がめざましく進化していることに助けられる。
 郷里の病院とて完全看護体制を貫いているし、実母も比較的頭がしっかりしている事実に助けられて、今後も郷里の高齢者自立支援施設にて長生きしてくれることだろう。


 話題がズレたようだが。

 人間の脳力が「くじ引き」の結果である訳が無い!!
 
 個人個人が日々選択し、それを実行に移して生き抜いているその努力過程の結果に決まっているじゃないか!
 
 そんな勢いで、この私は今後もこの世を精力的に生き抜くぞ!!


再掲載 「その発言、当該生徒を受け持った教員として失礼過ぎやしないか??」

2023年07月12日 | 教育・学校
 本日のエッセイは 本エッセイ集“2022.07.11付バックナンバー”の再掲載もの であることを、最初からお断りしておきます。



  冒頭から、(2022年当時の)朝方見たネット情報の一部を以下に要約引用しよう。


 安倍晋三元首相を銃撃したとして、殺人未遂の容疑で逮捕された元海上自衛隊員の無職・山上徹也容疑者(41)。奈良で育ち、中学や高校の同級生からは「優等生」「努力家」とも評されていた山上容疑者だが、高校時代の恩師の感想は毛色の異なるものだった。

 山上容疑者は県内有数の進学校である県立高校に進学した。高校では応援団に所属し、野球部の応援で活躍していたという。同級生の一人が言う。
「卒業アルバムでは自分の将来について『わからん。』と素っ気なく書いていたことから冷淡な性格のように思うかもしれませんが、話し方は穏やかで暴力をふるったこともない。私たちの世代の野球部は春の甲子園に2回出場していて、応援団も忙しかったはずだが、成績も平均をキープしていて努力を重ねていたんだと思う。政治的思想を語ったこともなく、銃や軍事関係の話をしていたこともなかったはず。彼女がいたという記憶はないが、同級生からの人気はあった。いまでも事件が現実と思えない」
 同級生にとっては卒業から四半世紀近く経っても山上容疑者は記憶に残る存在だったが、教師からの見え方は違ったようだ。山上容疑者の恩師の一人である教諭は、こう話した。
「ニュースで名前を見ても、(山上容疑者が)自分が指導した生徒だと気付かなかったんです。20年以上前の話ということもあるのかもしれませんが……正直な話、マスコミからの電話で教え子だと知ったんです。報道では(山上容疑者のことを)『団長』と親しみを込めて呼んでいた教師がいたと言われていますが、何も思い出せないですし、分からないんです」
 思い出せないほど記憶に残らない生徒が、全国民に負の記憶を残す事件を起こしてしまった。

 (以上、ネット情報の一部を引用したもの。)

 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 この私も高校教諭経験がある。
 公立底辺高校(失礼な表現をお詫びします。)及び私立女子高校にて教鞭をとったことがあるのだが。

 公立高校の方は生徒数が少なかったこともあり、私が授業を受け持ったクラスの生徒のほぼ全員を記憶している。
 今となっては忘却している生徒も、当時の写真を見れば顔と名前とどのような生徒だったかを思い出せる。
 
 片や、私立女子高校の方は非常勤講師の立場だったし、とにかくマンモス高校で一クラスの生徒数が50名と多く、残念ながら忘却している生徒の方が多いかもしれない。
 それでも今尚保管している当時の「教務手帳」を見れば、生徒の氏名をほとんど記憶していて、(この子美人だったなあ。 にぎやかな子だった。)等々と過去の記憶が蘇る。

 そんな私にして、退職後間もない頃に私立女子高生から受け取った1通の手紙に関して。
 その氏名は記憶にあるのだが、その子のお顔も人物像も思い出せない生徒から手紙を頂いた。    
          
 手紙の内容を紹介しよう。

 Dear 〇ちゃん(私の事)
 お元気ですか?! 忘れちゃったかなー 3B(クラス名)のvery pretty な○○ちゃん(自身の名)だよ。 真面目に授業聞いてたじゃん。(その割にはTESTは悪かった 涙涙)
 今は卒業して一人暮らししてます。
 もう1か月もたっちゃったんだよネ。 新学期になっても〇ちゃんの顔みれないなんて… 寂しい 涙
 But、絶対▲高まであいに行くから!! 忘れないでちょーだいよ。
 今後も学生なんだ。 3年間の夢の第一歩です。 (中略)

 〇ちゃん、応援してネ。 励みになるから。
 学コつらくなったら〇ちゃんにあいに行く!!
 絶対私の事、忘れないでネッ!!
 1年間だっけ? 商業法規(我が担当授業)楽しかった!!
 ありがとう!!
 いつまでもあの明るい笑顔と優しい〇ちゃんでいてネっ。

           FROM By ○○○○

 この手紙が届いた住所が当時住んでいた神奈川県の住居地となっているため、私は未だ独身だったようだが。

 その手紙の内容が教師冥利に尽きたし、本気で感激させてもらえたものだ。
 それにしても、どうしてもこの生徒が思い出せない。
 文中に「新学期になったら▲高まで会いに来る」との文面があるが。その時には既に私は当該高校の非常勤講師を退職していた。
 もしも本気でこの生徒が会いに来てくれたとしたら、本当にごめんなさい。

 それよりも何よりも、この女生徒のことがどうしても思い出せない事実こそに、実に参った。(教務手帳で氏名は判明したが、写真が手元に1枚も無いせいだが。)
 思い出せないままに手紙の返答を書いたとて、形骸的な手紙となってしまい我が心が届かないと判断した。
 そして、結局は返信をしないままに現在に至っている。
 それだからこそ、今尚この手紙のことが気にかかって仕方がない。
 
 最後に、話題を冒頭の引用文に戻そう。

 安倍氏を襲撃した犯人の高校時代の恩師が、メディアの取材に応えて「何も思い出せないですし、分からないんです」なる発言をしている。
 そう応える前に、少しでも襲撃犯である過去に接した男子生徒のことを思い出す努力を、この教師がしたのかが気がかりだ。
 まさに「教務手帳」を見るなり過去の写真を探すなりすれば、その片鱗に触れられたかもしれない。

 もちろんのこと、取材者側も無差別に過去に襲撃犯に接した人物に取材をするのも慎むべきかもしれないが。

 それでももしも私がその種の取材を受ける身となったならば。
 絶対的に私が指導した生徒たちの弁護に回り切る!!であろう、と想像するのだが…

 それ程までに、私が過去に指導した生徒たちは本気で実にいい子ばかりだった!

 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーを再掲載したもの。)



 
 教職現場を去って既に30年近い年月が経過しているが。

 今現在思い起しても、我が教員時代には“いい子(生徒)達に恵まれていたことを思い浮かべて嬉しくなる。
 実に一人として、私側が嫌いだったり、くにったらしい子など存在しなかった。

 そういえば、“苦手な子”はいたかもしれない。
 例えば、「反応が乏しい子」というのは多少難義したかなあ。 それでも私なりに努力して、出来得る限りのコミュニケーションをとったものだ。
 この私の場合、生徒卒業までにこちらから声を掛けなかった生徒はただの一人もいない。
 必ずや一人一人の生徒と向き合うべく、何らかの用件を見つけては声を掛けたものである。
 (例えば授業中に課題を与えて、それを生徒達が解答している時間帯に全生徒の席を回って一人一人に声掛けしたりした。 それとは別に、特にあちらから教員に声掛けが苦手な生徒に対しては優先的に、合間を縫っては教員の私から声を掛けたものだ。 そうしたら大抵の生徒は喜んでそれに応じてくれ、私の方こそが嬉し楽しかったものだ!)
 
 そんな教員生活を送った身にして。

 上記再掲載内の「(山上容疑者が)自分が指導した生徒だと気付かなかったんです。20年以上前の話ということもあるのかもしれませんが……正直な話、マスコミからの電話で教え子だと知ったんです。何も思い出せないですし、分からない」
 と、ぬけぬけと発言した教員を。
 
 私は、どうしても許せない!!!

 記憶力の悪い人間を、そもそも教員に採用するなよ! とすら言いたくなる!!
 (おっと、言い過ぎました。 後で削除します…)