新年早々、朝日新聞が書いた。「次の資本主義 東芝から考える」。『次の資本主義』? まず何よりも、今のそれが終わったということだろう。この年始年末も含めて、このことをこそここで告発し続けてきた僕には、「とうとう・・」という感慨が深い。こんなことは既にアメリカ自身こそ認めて来たのであって、何を今更なのだ。この何を今更はすぐ後で示すが、だからこそアメリカは、己をここまで落とし込んだ中国を「これでもか・・・」とたたくしか道がないのである。中国に味方するわけではないが、このことを知らずに「ウクライナが負けたら、次は台湾だ。中国の権威主義、専制主義を潰せ!」と躍起になっている人々もおかしい。自由主義経済を捨てて、自らが憎みさえしてきたはずのブロック資本主義経済に日米、G7も堕して来ているのに。
「今の資本主義ではない」「権威主義でもない」、新たな民主主義的資本主義って一体何なのか。「民主主義」と言ってもその元々が「この程度のもの」でしかないとはチャーチルも語ってきたところだが、今はすっかりその欠点、ポピュリズムへと退廃している。それを示しているのが、トランプや安倍の姿だろう。何の政治実績も挙げられないので「相手は嘘まみれだ」とだけ専門の政治家、トランプと、同じく「自らが国会で嘘ばかりついた上で、主権者を『こんな人たち』呼ばわりてきた」安倍と。
さて、ここでも何回か扱ってきたが、2019年12月3日号の米週刊誌「ニューズウイーク」にこんな記事があって驚いた。題名と、書き出し一部を転載してみる。
『経済学 宗旨変えしたノーベル賞学者』
『その(ポール・)クルーグマンが突如、宗旨変えした。今年10月「経済学者(私も含む)はグローバル化の何を見誤ったのか」と題した論説を発表。自分をはじめ主流派の経済学者は「一連の流れの非常に重要な部分を見落としていた」と自己批判したのだ。
クルーグマンによれば、経済学者たちはグローバル化が「超グローバル化」にエスカレートし、アメリカの製造業を支えてきた中間層が経済・社会的な大変動に見舞われることに気付かなかった。中国との競争でアメリカの労働者が被る深刻な痛手を過小評価していた、というのだ。
ラストベルト(さびついた工業地帯)の衰退ぶりを見ると、ようやく認めてくれたか、と言いたくもなる。謙虚になったクルーグマンは、さらに重大な問いに答えねばならない。彼をはじめ主流派の経済学者が歴代の政権に自由貿易をせっせと推奨したために、保護主義のポピュリスト、すなわちドナルド・トランプが大統領になれたのではないか、という問いだ』
彼らのこの「反省」の流れはアメリカの学者だけでなく大経営者たちも少なくとも口だけでは既に認めてきたところであって、2019年8月19日、主要企業の経営者団体『ビジネス・ラウンド・テーブル』がこんな声明を出していた。20日日本のある新聞の見出しである。
『株主最優先を米経済界転換 利害関係者全て尊重』
何が「尊重」か? やってきたことは、自分らは「ブロック経済化」を進め、その罪などは棚に上げて「中国の管理通貨制度が・・・・?」とか、「ウクライナの次は台湾だ!」と叫んできただけではなかったのか? まるで、負け犬の遠吠えである。それも、「江戸の敵を長崎で」というような遠吠え・・・・。
この負け犬の遠吠え関わってこそ、日本ではこのような「中国に労働を取られた、日本労働者の没落」などは世紀の移り目からもう起こっていたのである。それこそが、日本経済失われた25年の姿なのだが、ただただ中間層、正規労働者縮減にしわ寄せしただけで未だに何の反省も起こっていない情けない国である。これこそが、結婚できない50歳以上男子の急増、孫のいない老夫婦、大変な少子化の今の姿なのだ。
「次こそ台湾だ。日本再軍備、反撃力」??
負け犬の遠吠え挙げた「江戸の敵を長崎で」に加勢する、9条の国日本の情けなさすぎる姿である。
ロンドン大学政治経済学院の「金融制度の将来」には4つの目的がこう書かれているとあった。①実体経済を攪乱しないように。②破綻金融の税金救済の問題。③そんな金融機関の報酬が高すぎる問題。④高報酬により人材が集まりすぎる問題。
また、2010年11月のG20ソウル会議でもっと具体的に4つの討論がなされ、抽象的合意だけが成されたと言う。①銀行規制。②金融派生商品契約を市場登録すること。③格付け会社の公共性。④新技術、商品の社会的有用性。
以上から何が問題になってきたかをお分かりいただけたと思うから、G20ソウル会議の4項目の順に討論内容などを観ていきたい。
①の銀行規制に、最も激しい抵抗があったと語られる。また、現に力を持っているこの抵抗者たちは規制提案に対して「否」と言っていれば良いだけだから、楽な立場だとも。国家の「大きすぎて潰せない」とか「外貨を稼いでくれる」、よって「パナマもケイマンも見逃してくれるだろう」とかの態度を見越しているから、その力がまた絶大なのだとも。この期に及んでもなお、「規制のない自由競争こそ合理的である」という理論を、従来同様に根拠を示さずに押し通していると語られてあった。
②の「金融派生商品登録」問題についてもまた、難航している。債権の持ち主以外もその債権に保険を掛けられるようになっている証券化の登録とか、それが特に為替が絡んでくると、世界の大銀行などがこぞって反対すると述べてあった。ここでも英米などの大国国家が金融に関わる国際競争力強化を望むから、規制を拒むのである。つまり、国家が「外国の国家、法人などからどんどん金を奪い取ってきて欲しい」と振る舞っているから換えられないと、酷く暴力的な世界なのである。
③格付け会社の公準化がまた至難だ。その困難の元はこのようなものと語られる。アメリカ1国の格付け3私企業ランクに過ぎないものが、世界諸国家の経済・財政法制などの中に組み込まれているという問題だ。破綻直前までリーマンをAAAに格付けていたなどという言わばインチキの実績が多い私企業に過ぎないのに。ここで作者は「ワイヤード・オン」という英語を使っている。世界諸国家法制にムーディーズとかスタンダードとかの格付けランクがワイアーで縛り付けられているという意味である。この点について、こんな大ニュースが同書中に紹介されてあったが、日本人には大変興味深いものだろう。
『大企業の社債、ギリシャの国債など、格下げされると「崖から落ちる」ほどの効果がありうるのだ。いつかトヨタが、人員整理をせず、利益見込みを下方修正した時、当時の奥田碩会長は、格付けを下げたムーディーズに対してひどく怒ったことは理解できる』(P189)
関連してここで、つい昨日の新聞に載っていたことを僕がご紹介したいのだが、こんな記事があった。先ず見出しは、『国際秩序の多極化強調BRICS首脳「ゴア宣言」』。その「ポイント」解説にこんな文章が紹介されていた。
『独自のBRICS格付け機関を設けることを検討する』
15日からブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ五カ国の会議がインドのゴアで開かれていて、そこでの出来事なのである。ついでに、日本でこういう記事はまず大きくは見えないようになっているということも付け加えておきたい。なお、この会議宣言4つのポイントすべてにおいて「国連」が強調されていたということも何か象徴的なことと僕には思われた。国連を利用はするが無視することも多いアメリカと、国連を強調するBRICSと。
とこのように、国連や、G7などではなくG20やにおいてアメリカ以外の発言力が強くなっていかなければ、金融規制は進まないということなのである。
最後に「④新技術、商品の社会的有用性」について。金融商品、新技術の世界展開を巡る正当性の議論なのである。「イノベーションとして、人類の進歩なのである」と推進派が強調するが、国家の命運を左右する為替(関連金融派生商品)だけでも1日4兆ドル(2010年)などという途方もない取引のほとんどが、世界的(投資)銀行同士のギャンブル場に供されているというような現状が、どうして「進歩」と言えるのか。これが著者の抑えた立場である。逆に、この現状を正当化するこういう論議も紹介されてあった。
『「金作り=悪、物作り=善」というような考え方が、そもそも誤っているのだ』
金融が物作りを「攪乱」したり、現代世界人類に必要な新たな物作りへの長期的大々投資を事実上妨げているとするならば、それは悪だろう。関連して、世界的大銀行は、中小国家の資金まで奪っていくという「罪」を史上数々犯してきたのである。そして、世界の主人公である普通の人人の生活、職業というものは、物(作り)とともにしか存在しない。
この本の紹介はこれで終わります。ただし、この著作中に集められた膨大な数値などは今後の討論で折に触れて適宜ご紹介していくつもりです。「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」という書名をどうかご記憶下さい。
ここまでお読み下さった方、お疲れ様でした、ありがとう。
(終わり)
・「不安の増大」では、こんな例が良かろう。日本の国民年金掛け金未納者が38%にのぼること。日本で新たに導入された確定拠出年金が、10年3月末の110万人調査で63%が元本割れとなっている発表された。これらの人々の老後はどうなるのだろうか?
・人材の金融集中では、2010年8月の日経新聞広告を上げている。
『野村、「外資流」報酬で新卒40人採用へ 競争率16倍 専門職で実績連動 11年春、初任給54万円』
マスメディアのライターからも、大学人やフリーライターとかジャーナリストらがどんどん減って、金融アナリストが急増している。
・人間関係の歪みでは、情報の非対称性(情報量に大差がある2者ということ)を利用して起こる諸結果から、リーマン・トレーダーにだまされた社会において「人をみたら泥棒と思え」というような世界の移り変わりが説かれていく。
②「金融化の普遍性と必然性?」の要は、金融に特化する先進国に不当な世界的優位性を与えているということである。そこから、西欧がアメリカを追いかけ、今日本がつづき始めた、と。ただし、主要国の家計に占める株と証券との割合は05年でこうなっている。アメリカ46・6%の6・7%、ドイツ23・7%の9・7%、フランス28・0%の1・4%に対して日本15・0%の4・0%である。
この程度でもう100年に一度のリーマンが起こって莫大な公金を注ぎ込まざるを得なかったとあっては、これで儲けるしかないアメリカがいくら頑張っていても金融立国はもう駄目だという文脈と言える。上記4国の証券%合計は21・8%となるが、1980年のこれは合計34・9%となっていた。4国で割れば、この25年で8・7%から5・5%へと家計における証券保有率は大幅に低減したという事になる。ただこれは家計に占める率であって、世界から金融業者に掻き集められた金はカジノばかりに膨大に投入されているということである。
③「学者の反省と開き直り」は省略させて頂く。ただし、この点の2022年現在まで、米主流体制の中で「重大反省」がいくつも起こって来た。この重大反省については、この書評とは別にこの連載でも、後で詳しく書こうと思う。
ここで作者は、世界政府、国際制度作りの歴史などの話を起こすことになる。特定分野の国際協力機関は20世紀初めの国際連盟やILO設立よりも前に12もできていたと述べて、「万国郵便連合」などの例を挙げる。
同じ理屈を語って日本人に大変興味深いのは、日本の戦国時代統一の例が語られている下りだろう。
『日本が16世紀の終わりに一つの国になったのは、信長、秀吉、家康の武力による統合と、幕府という統治制度の意識的な創出が決定的だった』(P132)
アジア通貨危機やギリシャ危機は、大国金融が中小国から金を奪い取る金融戦争、通貨戦争の時代を示している。そんな金融力戦争はもう止めるべく、戦国時代の戦争を止めさせた徳川幕府のように、金融戦争に世界的規制を掛けるべきだという理屈を語っているのである。IMF(国際通貨基金)のイニシアティブ強化以外に道はないということである。
金融の国際制度とこれによる執行力ある万国金融規制についてさらに、前大戦中から準備されたケインズの国際通貨、バンコール構想も解説される。が、これはドル中心にしようとのアメリカの終戦直後の実績と強力との前に脆くも崩れ去ったということだ。ドルが基軸通貨になったいきさつ説明なのである。
以降アメリカは自国生産量より4~5%多く消費でき、日本や中国はその分消費できない国になったということである。それぞれ膨らんだドルを米国に投資する事になってしまった。その意味では、中国銀行総裁、周小川が09年に「ケインズ案に帰るべし、新機軸通貨、本物の国際通貨の創設を!」と叫び始めた意味は大きい。中国は今や8000億ドルの米国債を抱え、不安で仕方ないのであろう(この8000億は2015年ころには1兆2500億ほどになっている。文科系)。中国のこの不安は同時に、アメリカにとっても大変な不安になる。「もし中国が米国債をレバレッジ付きで(数%の見せ金で売買ができるという梃子の原理のこと)大量に売り始めたり、中国資金を引き揚げたりしたら。国家、家計とも大赤字の借金大国の『半基軸通貨』ドルは大暴落していくのではないか」と。周小川中国銀行総裁が「本物の国際通貨の創設を!」と叫ぶのは、そんな背景もあるのである。
なお、これは私見の言わば感想だが、アメリカが中東重視から西太平洋重視へと世界戦略を大転換させたのは、以上の背景があると観ている。中国に絶えず圧力を掛けていなければ気が休まらなくもなるのだろう。
ただこの本、非常に難解である。最大の特長が21世紀日本経済(ある過渡期)の最新・最大テーマということなのだが、なんせ、日本語の達人と言っても外国人が書いた日本語。やはりどこか違うと言わざるを得ない。時に省略、時に冗長と、言葉の選択が普通の日本語とは違う。これに研究対象の難しさも加わったこの難物を、順不同、勝手に要約していく。
第一部の目次はこうなっている。①金融化ということ、②資本市場の規模拡大、③実体経済の付加価値の配分、④証券文化の勃興、と。
金融化について、ある人の要約が紹介される。『国際国内経済で、金融業者、企業の役割や、一般人の金融志向が増していく過程』。この「増していく」の中身は、こういうもの。社会の総所得における金融業者の取り分が増えたこと。貯蓄と企業との関係で金融業者の仲介活動が急増したこと。株主資本主義。政府がこの動向を国際競争力強化の観点から促進してきたこと。
米企業利益のうち金融利益の割合が、1950年代までは9・5%であったものが急増して、02年には41%と示される。その後非金融業の巻き返しがあってやや減少期があったものの、2010年度第一四半期はまた36%まで来たとあった。サブプライムバブルの膨張・破裂なんのそのということだろう。
次は、こうなった仕組みとして、金融派生商品の膨張のこと。
著者は先ず、シカゴ豚肉赤味の先物市場投資額を、急増例として示す。初めの投資総額はその豚肉生産総費用にもみたぬものであったが、これが、生産費用とは無関係に爆発的急増を示すことになる。1966年の先物契約数が8000だったものが、2005年に200万を超えるようになったと。そして、これも含んだ金融派生商品全体のその後の急増ぶりがこう説明される。2004年に197兆ドルだった国際決済銀行残高調査による派生商品店頭売り総額が、2007年には516兆ドルになっていると。この期間こそ、08年に弾けることになったサブプライム・バブルの急膨張期なのである。同じ時期の現物経済世界取引総額とのこんな比較もあった。同じ2007年4月の1日平均金融派生商品契約総額が3・2兆ドルだが、これは世界のこの月の1日実体経済貿易総額(320億ドル)の実に100倍であると。
これほど多額の金融派生商品の売買は、証券化という技術が生み出したものだ。
証券化の走りは売買可能な社債だが、『住宅ローンや、消費者金融の証券化、様々な方法で負債を束ね「パッケージ」にして、低リスク・高リスクのトラッシュ(薄片)に多様に切り分けて売る証券や・・』というように進化していった。リスクが大きいほど儲かるときの見返りが大きいという形容が付いた例えばサブプライム債券組込み証券(の暴落)こそ、リーマン破綻の原因になった当の「パッケージ」の一つである。
そんな金融派生商品の典型、別の一つに、これに掛ける保険、クレディット・デフォルト・スワップ(CDS)という代物がある。この性格について、有名な投資家ジョージ・ソロスが「大量破壊兵器」と語っているとして、こう紹介される。
『ゼネラル・モータースなどの倒産を考えよ。その社債の持ち主の多くにとって、GMの再編より、倒産した場合の儲けの方が大きかった。人の生命がかかった保険の持ち主に、同時にその人を打ちのめす免許を持たせるようなものだ』
まさに「(会社再建よりも)打ちのめした方が儲かる」というCDSの実際が、投資銀行リーマン・ブラザースの倒産でも、見事に示された。倒産時のリーマン社債発行残高は1,559億ドルだったにもかかわらず、その社債へのCDS発行銀行の債務総額は4,000億ドルだったのである。社債を実際に持っている者の保険と言うよりも、単なるギャンブルとしての約束事だけの保険のほうが2・5も大きかったということになる。約束事だけへの保険ならば、競輪競馬に賭けるようなもので、無限に広がっていく理屈になる。
こうして、こういうギャンブル市場がどんどん膨張していった。政府も国際競争力強化と銘打って証券文化を大いに奨励した事も預かって。各国年金基金の自由参入、確定拠出年金・・・。これらにともなって、機関投資家の上場企業株式所有シェアがどんどん増えていく。1960年アメリカで12%であったこのシェアが、90年には45%、05年61%と。そして、彼らの発言力、利益こそ企業の全てとなっていった。
「経営者資本主義から投資家資本主義へ」
そういう、大転換英米圏で起こり、日本はこれを後追いしていると語られる。
この大転換の目に見えた中身は語るまでもないだろう。企業から「金融市場への支払い」が、その「利益+減価償却」費用とされたキャッシュ・フロー全体に占める割合の急増。アメリカを例に取ると、1960年代前半がこの平均20%、70年代は30%、1984年以降は特に加速して1990年には75%に至ったとあった。
彼らの忠実な番犬になりえた社長は彼らの「仲間」として莫大なボーナスをもらうが、「企業の社会的責任。特に従業員とその家族、地域への・・」などという考えの持ち主は、遺物になったのである。こうして、米(番犬)経営者の年収は、一般社員の何倍になったか。1980年には20~30倍であったものが、最近では彼の年金掛け金分を含んで475倍平均になっている。その内訳で最も多いのは、年当初の経営者契約の達成に関わるボーナス分である。全米の企業経営者がこうして、番犬ならぬ馬車馬と化したわけだ。
「証券文化」という表現には、以上全てが含意されてあるということだ。企業文化、社長論・労働者論、その「社会的責任」論、「地域貢献」論、「政治家とは」、「政府とは・・?」 「教育、大学とは、学者とは・・?」、そして、マスコミの風潮・・・。
歴史進行には常に、良かれ悪しかれこういう時がある。前へ進もうとする場合と後に戻ろうとする場合と。なお、ここで良かれ悪しかれというのは、前も後ろもさしあたって民主主義的という意味での善悪を超えてということであり、そのどちらをより増やすかは時代の人々が決めることだろうという意味である。
さて、そういう意味で世界史が今前へ進もうとするとき、史上かって無かった難問がある。いわゆる金融グローバル経済を主導する米国の発言権、行動力が強すぎて各国の手には負えないこと、この米を規制するには国連のイニシアティブをかってなく強めるしか道はないことである。
ところが次に、この金融グローバリゼーションの行いが世界の人々にはほとんど見えていないという問題がある。見えていないと言うよりも、隠密裏に行動して、見えないようにしてきたというのが正確な所だろう。それでこうなる。今の各国の諸問題、人間たちの諸不幸の源自身が見えない。見えないけれども何となく、外国関係者がわが国を悪くしているようだとは感じている。
「グローバリゼーションなどご遠慮願って、わが国本来の形に戻れ」
と、こう言うことなのではないだろうか。国際金融で儲けていると思われる国でさえ、その「99%対1%」問題を前にすれば、国粋主義的美化も必要になるというものだ。
さて、そういう金融グローバリゼーションの行き着いた先・アメリカの現状を見詰めたある本を改めて紹介したい。「金融が乗っ取る世界経済 21世紀の憂鬱」(中公新書、ロナルド・ドーア著)である。
なお、著者はこういう方だ。この本を書いた2011年現在で86歳のイギリス人、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院卒、50年に江戸教育の研究のため東京大学に留学。以来ずっと、日本ウォッチャーを続けて来られたと、まるで日本文学者ドナルド・キーン氏のような。なお、この本は題名の通りの内容を3部に別け、それぞれ『「金融化」現象』、『金融化が、社会、政治、教育などをどう変えたか』、『金融改革、弊害是正をめぐる各国、国際機関の動き』を扱っている。今世界史に臨む人にとっては、必読の書だと愚考する。
今日最初に紹介するのは、こういう諸社会現象の結末としての世界「1%」の出来上がり方およびその構造。その後に、前記3部を一つずつ紹介して・・・・・
米企業利益のうち金融利益の割合が、1950年代までは9・5%であったものが急増して、02年には41%と示される。
機関投資家の上場企業株式所有シェアがどんどん増えていく。1960年アメリカで12%であったこのシェアが、90年には45%、05年61%と。そして、彼らの発言力、利益こそ企業の全てとなっていった。
企業から「金融市場への支払い」が、その「利益+減価償却」費用とされたキャッシュ・フロー全体に占める割合の急増。アメリカを例に取ると、1960年代前半がこの平均20%、70年代は30%、1984年以降は特に加速して1990年には75%に至った。
そして、こうなった。
彼らの忠実な番犬になりえた社長は彼らの「仲間」として莫大なボーナスをもらうが、「企業の社会的責任。特に従業員とその家族、地域への・・」などという考えの持ち主は、遺物になったのである。こうして、米(番犬)経営者の年収は、一般社員の何倍になったか。1980年には平均20~30倍であったものが、最近では彼の年金掛け金分を含めば475倍になっている。その内訳の大部分は、年当初の経営者契約の達成に関わるボーナス分である。全米の企業経営者がこうして、番犬ならぬ馬車馬と化したわけだ。
「証券文化」という表現には、以上全てが含意されてあるということだ。企業文化、社長論・労働者論、その「社会的責任」論、「地域貢献」論、「政治家とは」、「政府とは・・?」 「教育、大学とは、学者とは・・?」、そして、マスコミの風潮・・・。
以下のような数字は日本人には到底信じられないもののはずだ。この本の73ページから抜粋した、アメリカ資本主義の象徴数字と言える。
『2006年のように、ゴールドマン・サックスというアメリカの証券会社がトップクラスの従業員50人に、最低2,000万ドル(当時のレートで17億円くらい。〈この記述周辺事情や、最低と書いてあるしなどから、1人当たりのボーナスの最低ということ 文科系〉)のボーナスを払ったというニュースがロンドンに伝われば、それはシティ(ロンドン金融街)のボーナスを押し上げる効果があったのである。
これだけの強食がいれば、無数の弱肉が世界に生まれる理屈である。2006年とは、08年のリーマンショックを当ブログでも予言していた史上最大のバブル、サブプライム住宅証券組込証券が頂点に達していたウォール街絶頂の時だった。この結果は、失った家から借金まみれの上に放り出された無数の人々の群であった。しかもこの動きはアメリカのみに留まらず、イタリア、スペイン、ポルトガル等々にも、そこの失業者の大群発生にも波及していくのである。こんな所業を放置しておいて、どうして世界の景気が良くなるなんぞと言えるのだろうか。
かくして、「ゴールドマン幹部社員50人の最低17億円ボーナス」が生まれ、社長でも金融の馬車馬を努めたお人の給料だけが上がっていく。モトローラ社長の100億円に驚いてはいけない。史上最高給記録はディズニー社社長アイズナーで、6億ドル近い額だ。何と600億円。これ、年俸ですよ。500万円の社員が12,000人雇える金額です。これでは職も増えず、世界中が失業者ばかりになる理屈。人が少ない企業ほど株価が上がり、それへの配当が増える。
(2017年10月31日の当ブログに初出。以下、4~5回は続けます。リマーショックの構造と、世界のあるいはG7の改革議論、その現状まで)
左右の老人政治論がネットなどで盛んだが、僕が今最も気になっていることを書いてみたい。日本人の明日の生活のため、孫子のために「日本の運命を左右する最大問題」としてということだ。表題の問題は、ネットで盛んな右の論者には全く欠落しているものである。
正しい知識は構造を成すといわれるが、これは日本の政経、国民生活を見、考える場合も同じことだ。「社会・世界全体をより根本的・長期的に規定する要因」と、短期規定にすぎぬ要因、その中間などがあるからである。そして人には、目前の「今とここ」はわかりやすいが、時空的に遠いものは学習も必要で知りにくい上に、人々も目前の困難対処に迫られる激動の時代では、なおさらこれは見えにくくなるからだ。こういう時の世界諸国の政治がまたさらに、選挙勝利に繋がる利権政治、ポピュリズム政治になっていくから、世界各国がともに、一種の悪循環に陥っていくものだ。
「現実的」と称される目の前の保守、わが国だけのことに目が行っていれば、いわゆるグローバリゼーション経済の本質、金融利益最大化方針資本主義も、米中争覇も見えてこない。が、このふたつは今や、日本の生活・世界全体の生活を、長く深く規定していく最大の要因になっている。それも大変悪い方向へ。ネットなどで政治を論ずる老人は、時間だけはあるのだからこれを論じないでどうすると、僕はずっと言いたかった。
さて、米中争覇は、日本の政経、国民生活をめぐる最大問題になっていくだろう。同時にこの問題は、現行の新自由主義経済グローバリゼーションの最大原理・株主利益最大化方針を市民生活に即して改善していくのに不可欠な「タックスヘブンを使った脱税を止めさせる」や「金融取引税の世界的設定・拡大」などをめぐっても、これらを死守したい英米日が中国と対立するところだ。なぜなら、中国は自分のモノづくりを英米日金融に支配させないだろうからである。アメリカにこれができなければ、米中争覇は中国の勝ちだ。世界のモノ作りは中国にどんどん集まっていくのだから、その金をGAFAMらが奪えなければ、米世界覇権は敗北する。金融資本それ自身は富を生まず、株や為替で他人が生み出した富を取るだけだから。
こんな中でロシアのウクライナ侵攻がおこった。振り返れば二〇一四年、ウクライナ・マイダン暴力革命に端を発してすでに一万人が亡くなったと言われるウクライナ・ドンパス紛争によって、G8がロシアが追い出して、G7になった。以降のロシアはあからさまに中国よりになっていく。中ロが結びつけば、中国のアメリカに対する最大弱点・エネルギーも、エネルギー資源国ロシアの富も確保されるのである。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。マイダン革命後のウクライナ政権人事がウクライナ駐在米大使らによって決められていたと言うニュースは、ヨーロッパには知れ渡っている。その狙いは、NATOを通じて親中ロシアを滅ぼすこと。ところがウクライナ戦争の後には、ロシア・ルーブルは全然下がっていないどころか上がっている。戦争以前一ドル七五ルーブルだったが、戦後一時一五〇ルーブルに下がって、六月末には五三ルーブルに上がりなおした。中国やインドがロシア原油などを超大幅に買いましたからだ。ロ・ウ戦争はこうして、ロシア制裁をめぐる世界経済のブロック化とともに、軍事ブロック化も進めているのである。日本を規定してきた金融株主グローバリゼーション時代が、世界史上ろくなことがなかった「ブロック経済」、「軍事ブロック」世界時代へと、ロ・ウ戦争によって幕開けたのである。この経済・軍事ブロック化に関わって、ロ・ウ戦争で新たな事態がどんどん顕かになっている。
ウクライナ戦争の対ロ制裁に賛成していない国がアジア、アフリカ、中南米などにも意外に多い。「アジア諸国の中国寄り情報」もどんどん入ってくるようになった。ちなみにここで、中国にインド、そしてG20国の一つインドネシアを加えると、将来世界の一般消費のどれだけ分になるかを考えてみればよい。世界最大のマーケットは中国圏の中と言えるのだ。アメリカは中印関係を裂こうと腐心し続けてきたが、インドはBRICS加盟を止めず、アメリカでなくロシアから大型ミサイル兵器をつい最近輸入した。さらには、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカで形成するこのBRICSに、G20国の一つアルゼンチン、イランなどが加盟を申し出ている。同じくG20国の一つ、トルコも米ロ関係においては微妙な立場を取り、最近ロシアから高価なミサイルセットを買った。
次に、そのインドネシアなども含めた東南アジア諸国はそういう中国に近づき、むしろアメリカには警戒している。そもそも東南アジアでウクライナ戦争に対する対ロ制裁に加わったのはシンガポールだけだったし、その多くが「日米以上に中国がパートナー」とふるまっているという情報も広がっている。むしろ「アセアンが団結して米中圧力を排し、中立の立場で」と繰り返してきたと、最近の新聞に報道されている。
大国争覇の攻防史は常に血みどろだったとは、歴史学史上「トゥキディデスの罠」として知られたものだ。が、民主主義が発展した二〇世紀にはふたつの平和的な大国後退が生まれたと言われている。第二次世界大戦後に当時の大英帝国がその膨大な植民地をほぼ平和裏に手放したこと。次いで、米ソ冷戦時代は、ゴルバチョフが「負けた」と手を挙げたことによって、ソ連邦解体までほぼ平和裏に進んだ。今アメリカが仕掛け始めた「中国相手の経済・軍事ブロック化」というチキンレースは、一体どういう進行、結末をもたらすのか。日本が今のまま金融利益最大化方針資本主義でアメリカについていけば、その対中覇権闘争の前衛手段にされることは必至である。日本には積年の対アメリカ重大弱点もあって、それがいつでも脅迫手段になりうるからだ。傾きかけていく世界通貨ドル体制死守の目的で、日銀が行ってきた禁じ手「財政ファイナンス」や政府が先導してきた官製の「株バブル」がアメリカ金融によって衝かれることである。それは、経済全盛期日本をどん底に突き落とした「一九九〇年代の日本住宅バブルの破裂」や東芝の今などを見てもわかることである。日本はトリプル安という形でいつでも捨て去られる国になっている。
日本でノーベル経済学賞にもっとも近かった人物の一人、森嶋通夫は晩年の二十世紀末から、こう提言してきた。「日本はアジアにこそその将来を求めるべきだ」。日本の政治の貧困から「精神、金融、産業、教育の荒廃」が起こっていると。それを止める唯一つの救済策が東北アジア共同体であると。
こんな機会だから、その空売りの仕組について、今一度説明してみよう。前世紀の末、アジア通貨危機の発端タイ・バーツの空売りはこのように行われた。
『1ドル25バーツから30バーツへの下落というバーツ安のシナリオを予想し、3ヶ月や半年後の決済時点に1ドル25バーツ近傍でバーツを売り、ドルを買う先物予約をする。バーツ売りを開始すると市場は投機家の思惑に左右され、その思惑が新たな市場トレンドを形成していく。決算時点で30バーツに下落したバーツを現物市場で調達し、安いバーツとドルを交換すれば、莫大な為替収益が得られる。96年末から始まったバーツ売りに防戦するため、タイ中央銀行は1997年2月には外貨準備250億ドルしかないのに230億ドルのドル売りバーツ買いの先物為替契約をしていたという。短期資本が流出し、タイ中央銀行は5月14日の1日だけで100億ドルのドル売り介入で防戦したが、外貨準備が払底すると固定相場は維持できなくなり、投機筋が想定したとおりの、自己実現的な為替下落となる。通貨、債券、株式価値の下落にさいして投機で儲けるグループの対極には、損失を被った多数の投資家や通貨当局が存在する。』(毛利良一著「グローバリゼーションとIMF・世界銀行」、大月書店2002年刊)
①「1ドル25バーツ近傍でバーツを売り、ドルを買う先物予約」を例えば100億ドル分やっておく。
②他人のバーツまでを借り尽くしてバーツ空売りを重ねた末に、「決算時点で30バーツに下落したバーツを現物市場で調達」を84億ドル分やれば、2500億バーツが手に入る。
③この2500億バーツで①の先物予約を実行すれば、100億ドルが手に入り、このうち16億ドルが丸々儲けになる。
債券などというものはこうして、高値になったから売って利を出すというだけでなく、「暴落させて儲ける」という道もあるわけだ。そのかわり、「売られた方」の関係者にとってはまさに「生き馬の目を抜かれる」ごとしで、命にも関わるような一大事なのである。こういうことが一国の通貨に対しても常に行われてきた「通貨危機」というのが、まさに株主利益最大化方針資本主義の所業として世界中で無数に繰り返されてきたのである。
昨日のエントリーと同じ標記の内容を、英首相ジョンソンが辞任に至った今、改めて論じ直してみたい。両者は政権党党首、首相としての政治手法、罪状が瓜二つなのである。という以上に、罪状に関しては安倍晋三の方がはるかに重いと言える。以下のように。
ジョンソンの罪状をめぐって論じられたマスコミ論調には、こんな言葉が必ず入っていた。一つは、「首相の最も重い罪は国会を欺くことだ」というもの。これが大罪というのは、日英いずれも国会が国権・国政の最高機関だからこそなのであるが、二人ともこの意味が分かっていなかったかして、これをやり続けてきたのであった。今一つは、数々の失言や嘘、不誠実な応対があっても許されてきたのは、「選挙に勝てる党首として党内支持が堅かったからである」という、「選挙だけ政治に励むかのごとき党首」という顔である。ついては、安倍晋三ご自身の国会ヤジにこんなものがあったのを思い出す。「(野党諸君がこんな風に私を批判しても)この私は選挙に5回も勝ったぞ!」。
この二つの点に関して、ジョンソン・安倍両氏の罪状比較をやってみよう。
まず、国会への嘘だが、モリカケサクラを合わせれば数百回になることがはっきりしていて、安倍晋三が断然多いことになる。
また「選挙のために政治をやっている」については、なによりもサクラを振り返ってみるがよいのである。毎年春の桜の下に国政功労者に集まっていただいてこれを讃えるという国家行事が、いつの間にか個人選挙功労者・後援会幹部などの場所にすり替わってしまい、「山口県人がばかに多い会」にどんどんなって来たということ。さすがにジョンソンでも、国家行事のこんな私物化は「コロナ下数回の私的パーティー」であって、安倍よりもずっと規模が小さかった?