10年生存率で2005~2008年の診断例生存率というものが、日本癌治療学会の膀胱癌についてもありました。この中の最新診断例は、2008+10=2018年までのものとなりますね。第二期患者が68・9%で、第三期患者が51・9%です。
なお、再発する場合は手術後2~3年が多く、再発率も思っていたよりはかなり少ない数値になっているとあって、ちょっと安心したところです。
山上徹也の安倍晋三射殺事件は、非常によく計画されていたという意味で犯意も十分すぎるほどの確信犯殺人事件である。他方、どんな残酷な殺人事件の判決にも、背景などを考察した情状酌量というものが考慮される。安倍晋三の国葬賛否論議が続く間はずっと、この重大事件の背景をわかっている限りにおいて描き出していきたい。
この殺人事件が起こって、山上徹也の「統一教会への恨み」が報道されたとき、ほとんどのマスコミが「某宗教団体」という書き方をした。それも、「無関係なことで逆恨みして」という描き方がほとんどだったと記憶する。この報道姿勢はいまから思えば、「事実上、政権党に洗脳されてきたに等しく、政権、安倍を忖度、擁護するに等しいマスコミ論調」だったと言えるほどだ。山上徹也の生い立ちをば統一教会が残酷すぎるほどに破壊したのだし、その統一教会の改名や、安倍を中心として保守党選挙への大々的活用などは、「無関係な逆恨み」という当初のマスコミ報道をば唾棄しつつ笑い飛ばすものにしてしまった。
たとえば、デイリー新潮8月3日は、こんなことを伝えている。
『 安倍元総理と統一教会の“ズブズブ癒着”に新証言 「誰が統一教会の支援を受けるかは安倍さんの一存」2022/08/03 05:57
(前略)
安倍氏が選挙応援を教団に依頼
そうした安倍氏肝いりの候補の一人だったのが、元産経新聞記者で、2013年の参院選全国比例で初当選した安倍派の北村経夫参院議員だ。カルト宗教に詳しいジャーナリストの鈴木エイト氏によれば、「初当選時、当時首相だった安倍氏が北村氏の選挙応援を教団に依頼しているのです」
教団の内部文書にはこう書かれていた。「〈首相からじきじきこの方(北村氏)を後援してほしいとの依頼〉〈まだCランクで当選には遠い状況です〉〈今選挙で北村候補を当選させることができるかどうか、組織の『死活問題』です〉と。19年の参院選でも統一教会内部で北村氏を応援するビラが出回っていました。当時、大宮で行われた演説会では国際勝共連合の関係者が仕切っており、300人以上が入れる会場に半分から3分の2くらいは信者が動員されていました」
自民党山口県連の関係者が後を受ける。「北村さんはいずれの選挙も盤石な地盤を築いていたとは言い難く、安倍さんが選挙直前になって慌てて、統一教会に支援を依頼したといわれています。“統一教会のおかげで当選できた”と地元ではまことしやかにささやかれているのです」
北村事務所は、「旧統一教会から支援を受けたことも、見返りを求められたこともありません」と回答するも実際、統一教会の推薦が決まると手厚い支援が受けられるようで、
「一般的に統一教会サイドから20〜30人程度のボランティアが連日手伝いに来てくれます。電話作戦やチラシ配り、ポスター張りなどの機動部隊となってくれるので、貴重な戦力です。15〜20人くらいの人員で選対事務所を切り盛りしているところもありますから、本当に助かります」(県連関係者) (後略)
(デイリー新潮8月3日) 』
さて、2015年に、今の安倍派会長代理で、当時の下村博文文科相が統一教会の改名を認めて以来、安倍派を中心にこのカルト信者を自分らの選挙にフルに活用してきたと、次々と明らかになっている。洗脳カルトの世界基準に当てはまる被害者を無数に生み出してきた団体を改名再出発させた見返りに、「税金で雇われて国民のために働け」とされた公僕たちが狂信者らを選挙に活用、動員してきたのである。そんな議員が特に安倍派に集中しているのである。
山上徹也の安倍晋三に対する犯意の背景には、十分すぎるほどの情状酌量要件が存在していた。ちなみに、政府主催の桜を見る会には、山口県人(安倍会員)がやたらに多く、統一教会関連の参加者らもいたのだ。安倍時代になってから、佐川や黒川ら官僚たちを(保守党選挙)忖度行政に走らせた罪もこの上なく大きい。選挙に強い安倍晋三とは、「こういうことであった?!」という思いになるのである。選挙のためにこんなことを重ね広めて来た安倍晋三を国葬にする? 「自民党葬」ならば分かりすぎるほどに分かるのだが、国民の苦労に思いをはせることができぬこういう「公僕」を国葬なんかには出来ない。
体力が落ちないようにという階段往復やスクワットは普通にやってきたから、2回目の薬はきついものではないそうだし、退院したらちょっと走ってみようかなどと、目論んでいる。
ところで、イギリスの首相が閣僚の信頼を失う不祥事をしでかして、辞職になる雲行きらしい。コロナ下で何回かパーティーを開いたり、一閣僚不祥事を不問に付したりして、それらの告発に対して首相が嘘の応対を連発してきたことも分かってしまい、「首相不信任・閣僚辞任」が相次ぐことになった。
これで思い出すのが日本の安倍晋三元首相。モリ・カケ・サクラと重なった国政私物化とそれを誤魔化した何百という国会嘘答弁の決着はいまだについていないはずだ。イギリスと違って、この日本では、これを告発する閣僚など一人も出ていない。それどころか、過ぎた選挙を前にしてこの国会質疑応答を逃れるために国会を開かず、延ばし延ばしにしたうえに、開いたと思ったら即座に解散という、前首相不祥事隠しのための暴挙に政権党がこぞって邁進していったのであった。それで現在のこの安倍晋三氏は、相変わらず与党最大派閥の長に収まっていて「軍事費をGDP2%に」などと豪語しているのである。日本とイギリスの行政権・内閣の民主主義度のなんと大きな違いであることか! このことが、この度の選挙の争点になっていないというのは、日本の政権党、政治はちょっと狂っているということだろう。国権の最高機関・国会で嘘八百答弁がわかっても、何のお咎めもない日本なのである。
皆さんありがとう。
強い抗がん剤を体に回すために運動してるようなもんかな。そして、ここにも書いた抗がん効果絶大の「最強の野菜スープ」(前田浩という抗癌剤権威の本です)も連れ合いに作ってきてもらって、飲んでいる。
24日から金曜日ごとにこの投薬を3回もやって、これに合格なら投薬通院になります。この強い抗癌剤効果で小さくなるのはもちろん、人によって消えることもある分、副作用も強い。前日木曜日にはいつも血液検査をやるのですが、これは肝機能(へのダメージ)を調べるのでしょうね。確かに、胃の調子は悪くなるし、鼻やのどの皮粘膜に異常が出ています。
が、まー頑張りますよ。今日の階段往復は700段ほどやりました。
のぶりんさん、絶対ギター旅行行きます。教室の先生にもよろしく。
前々回に分かっていて知らされた限りの病状、程度を書いた上で今後の方向についてこう記したが、今回はそのことについて。
『 今後方針の方は、膀胱全摘手術、化学療法、放射線療法ということで、これらは、今回の病院の親病院である名古屋市立大学病院で行われ、13日月曜日がその第1回診断日となった』
昨日13日、名市大病院へ通院。第一回目の診察と検査があった。そこで下された今後の方向は、こういうもの。
「20日2度目の診察、22日から入院2~3週間を予定して、第1回目の抗がん剤治療を行う。以降2回の同治療は、1回目の様子を見て外来になることもあり得るが、その後、膀胱全摘出手術を予定する。癌や転移の現時点の程度は、入院後にお伝えできるはずだ」
さて、こうなると6月下旬の同人誌活動、月例冊子作りとか、ギター教室通いもできなくなる。前者は他の同人に委託しなければならないなど、なかなか後始末が大変だ。
なお、膀胱癌手術に関わる名古屋市立大学の水準は10年ほど前のことだが全国4指に入っていたと、医者である兄から知らされた。扱ってきた手術症例なども多くて、全国的なこれの研修機関にもなってきたようだ。膀胱癌のダヴィンチ手術もそういう水準なのだろうから、僕もおそらくダヴィンチなのだろう。それもこれも知らされるのは20日のことになる。
ところで、5月25日のエントリー『「永遠の無」をめぐって』にも書いたことだが、死が怖いってどういうことだろうと考えている。
・「信仰」ではなく、自然科学的に、死後の魂やあの世などはないとしか考えられない人ならば、夢も見ない永遠の眠りしかないわけであって、それが怖い? つまり、それに入ってしまえば怖いも何もないのであって、それまでが怖いということなのだろう。
・これについて周囲を見渡すと、「とても怖がっている人」「さほどでもない人」の他、「自分から死んでいく人」さえ存在すると分かる。自殺は、言われて来たように「肉体を離れた心の自由」などではなく、その原因として、何か生きていることそのものがとても苦しい状況に決着を付けるもの。破産、後追い自殺、大失恋、心中・・・。
・ところで、「とても怖がっている人」と、「さほどでもない人」との違いは何なのだろうかと、いろいろ周囲を思い巡らしてみる。過去にずっと人一倍わくわくするような喜びが感じられてきたけれど老後やるべきものを持っていない人などに前者が多く、淡々と生きてきた女性などには後者が多いのを観てきた気がする。そして、前者は、後の「さほどでもない人」を同じ人間として「なぜなんだろう?」と考えてみたこともないというのが一般的なその姿のようだ。つまり、後者を無視して「とても怖がるのが必然、本質的なこと」とただ力説して来たような。あるいは「そんな人は、死について考えたことがないのだ」と切り捨てているような。
・それで思うのだが、死への恐怖って、案外心理的なものなのではないか。自分の過去と現在との対比ではいろんな不自由を抱えていく老年期は誰でも大なり小なり不幸なのだろうが、昔が良かった人の老年期はとくにそうなりやすい、と。一例、よくある老人性の鬱病って、そんな人が抱える「死の恐怖」と親類、同類のように思うのである。「いつもワクワク生きてきた昔を前提に、今の自分を寂しく思い、このまま死ぬのかと気づく、その時」、これが死への恐怖の正体なのではないか。と考えればこれは、彼らが考えたこともない自殺願望者と同類の対照的人物ということにならないだろうか。
・とすれば、死への恐怖といっても何か本質的なものではなくって、ちょっとした生き方変更や心の持ちようによっても案外加減できるものではないか。今自分をずっと昔から振り返って観て、そんな気がしている。こう語っている僕は、小学生高学年以降ずっと死を怖がってきた人間である。以降ずっと寝床で「永遠の無」を思うたびに、ガバッと跳ね起きて冷や汗という体験は数え知れぬほどだった。退職後10年ほど経ったころには凄く変わってきたとは、ここに何度か随筆なども含めて書いてきたとおりである。