九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

続き、和人より

2005年11月22日 21時13分02秒 | Weblog
まだ明治は始ったばかりです。でも国家としては、国民と国境を定めないといけません。1875年に、ロシアと千島と樺太を交換して北の国境を確定します。続いて台湾も清との交渉(かってに侵略したのではありません)をして、また琉球もと、これで南の国境が確定します。さて問題は、朝鮮半島の李氏朝鮮でした。ロシアはひたひたと満州方面への侵略が始り出します。そこから朝鮮半島への野心が見えてきます。それが征韓論の始まりですね。
アメリカも19世紀終末の頃、ハワイも併合し、フィリピンをメキシコから取ります。
そして1899年シナへの門戸開放を宣言します。とうとうこの極東に新興の帝国主義者であるアメリカと旧の帝国主義国が揃い踏みしたわけです。それが日清戦争(ただし三国干渉あり)を終えた日本の近隣というか状況だったのです。シナ・満州を何処が、朝鮮を何処が、ついでに日本もどうかと・・。そして20世紀、イギリスは、ボーア戦争に追われています。ロシアの満州・朝鮮への侵略の意図はありありとしてきました。英国もご存知のように、ロシアの南下防止政策は、地中海、インド洋などは抑えてきましたが、この朝鮮・満州・シナへのロシアへの進出を抑えないといけません。それが、日清戦争で勝った日本を同盟国に選んだ理由でしょう。二つの国の国益が合致したのです。所で満州は漢族の国ではなく台湾同様に化外の地であり、満州族である清の故郷でしたし、清は満州へ漢人を入れないようにしてきました。満州は、当時、がら空きで誰が収奪しても良い地と言って良いでしょう。
いよいよ李氏朝鮮も国内が混乱し始めます。日本へついたりロシアへついたりと、民衆は貧困の極みにあり、統治力は、もう限界にきていました。ただ、ただ初めて日本の後押しで1897年大韓帝国として、シナ帝国の長い長い服属国の位置から独立します。
そして、いよいよ日露戦争へと。今年は、日露戦争戦勝100年でした。
やっとこれで日本は、欧米に、やっと国家(近代)として認められるのです。これまでの道には明治維新での内戦による犠牲者、日清戦争・日露戦争による犠牲者によって達成されるのです。当時、戦争は嫌いですなんて言っていましたら、この国は、列強の植民地というか、悪くとも列強に分割統治されていたでしょう。
日露戦争勝利の結果、日韓併合は、必然として生まれたものです。これは当時、国際的に十分認められたものです。非難した国はありません。そして起きてきたのがアメリカ各地でのシナ人移民の禁止とか日本人移民への排斥運動の激化です。これは、洲でやっている間はまだ良かったのですが、連邦として制限と排斥をし始める、何故、東洋人(有色人)は駄目なのかという人種差別の様相になってくるのです。確かに、日本人とし考えるなら、アフリカ・アジア・南米などの殆どが植民地になって収奪されているということに、同じ有色人としての憤りを持ったことは、極めて、倫理性の高いものでした。なお欧米はの植民地と日本の朝鮮・台湾統治とを同じものと、見ない方がいいです。これは是非、当時の統治状態を書いた本が、幾らでもありますから読んで見て下さい。ではここまでで。



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和人・・の続き

2005年11月22日 14時14分58秒 | Weblog
ご存知のように、ペーリーが来るのは、幕府はオランダを通じて事前に知っていました。
でも国論は割れます。朝鮮のように、攘夷思想も幕府にも、またとりわけ朝廷に根強くありましたから・・。いろいろありましたが、幕府は遣欧使節団を出すど、欧州の実情調査やパリ万博にみ出典します。昔から、日本はかたくなではないのです。
当時のアジアはご存知ですね、イギリス・フランス・オランダ食い散らされていました。
ロシアも南下政策の一貫として。満州へ。もうこんなのは、教科書ですから辞めますが、この東アジアが西欧・ロシア・アメリカの最後の植民地獲得の地域だったのです。
そのことに一番敏感に反応したのが日本だったわけです。
戊辰戦争という政権交代による内戦がありましたが、その犠牲者は他国の革命などと異なって、大した死者ではありません。しかも官軍などが徹底的に幕府側を殺戮もせず、明治新政府でも幕府側の人材を当用していきます。明治天皇の発布した「五箇条のご誓文」は海外からも高く評価されたものです。はっきりいって江戸時代に、すでに日本は近代化というか資本主義の精神や制度をもっていましたから、かつ資本を各地で蓄積していましたし、各藩は経済的な自立の為に、それぞれが工業・陶業・栽培など、産業革命の下地さえ出来ていまし。将軍は、象徴であって話し合いで統治と行なっていましたから、議会制度にもそう抵抗がなかったのでしょう。ただ軍事力については、さすが欧米にはかないませんから、富国強兵は当然の国家政策です。かつ国境を定めないといけないし、米収入から税金収入へなど、いわば中央集権体制が急がれました。廃藩置県・排刀令・身分差の廃止など矢継ぎ早です。凄いのは、明治4年11月12日には、国内情勢が落ち着いていたわけではないのですが、例の岩倉欧米への全権団を出します。107人です。その中には津田梅子8歳も入っています。要は、近代化を急ぐという認識というか危機感が、この日本に充満してたのでしょう。廃藩置県を行なったのが、その年7月です。しかも政府の首脳の殆どが出払ってしまうのです。この時の派遣メンバにも前幕府の役人・あるいは商人も参加しています。実力主義です。こいうことが出来る国がアジアの何処にあったでしょうか。
これが李氏朝鮮も清もできない、しない、それどころか内紛・陰謀・敵国への内通などと、とんでもない状態なんです。その隣国の状態を憂え、国家存亡の危機感を持ったのが明治日本なんです。また。
コメント (3)
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