今、新聞がとても面白い。記事の切り抜きが多いこと。スクラップブックがすぐにいっぱいになってしまう。
表題の「道路、防衛、薬」など諸問題がかってなく大噴出していることが分かる。これら全てを巡ってまた、「官僚の天下り・人材バンク問題」を絡めた激動が続いているということでもある。全て「ねじれ国会の威力」なのだけれど。
まず「道路」。冬柴国交相が官僚・族議員の資料通りに答弁して、しばしば立ち往生。その度に「わるいところはなおします」の低姿勢に終始しているが、議論が止まってしまったかの感が生まれてきた。道路建設計画が「疑惑のデパート」になってきたようなのだ。
これで「ガソリン暫定税、4月は現状維持」で押し通す積もりなのだろうか。
民主党が対案要綱を出したが、立派に原則を貫いている。「暫定税率撤廃」、「一般財源化」、「地方財源確保」の3本柱が健在である。
次いで、防衛。横須賀海上保安部への通報遅れ問題で、族議員というよりも防衛マニアと聞いている防衛相が、引責辞任に追い込まれそうだ。防衛官僚の悪知恵で、「自省『防衛』第一」、「我が身大切」に走ったらしい。イラク給油疑惑問題を、「航海日誌誤破棄?」と「疑惑ニュースの課長止まり」で逃れた手法が、今度は通用しなかった。当たり前のことだ。
さてさて大問題の薬・製薬会社問題。これは別原稿を既に送信し終わった。
そうして、「官僚の天下り・人材バンク問題」。これは現政府の焦点的最大問題ではないか。ここを触らなくては、上に書いた問題は今後も何一つなくなりはしないと思う。しかし、族議員がいる自民党では、この問題はアキレス腱だろう。何も出来はしないと思う。官僚にすねの傷をほのめかされ、恫喝されて、すごすごとしっぽを巻いて逃げんとし、「肩を抱きなおされて一蓮托生」。それが落ちだ。そして、官僚は自分らを守るために、どうしても脛に傷持つ自民党に生き延びてもらわねばならないのである。だから、民主党には情報を出さない。民主党も、今一歩官僚には及び腰である。そりゃ怖いだろう。
最後に一言。政官財の「抽象的な害悪構図」のようなものと、何かその「具体的噴出」とは全く違うものだということを力説したい。前者はいわば仮説であって、それ以上には一歩も進まないものだから、万人に対する説得力に欠ける。後者はいわば、仮説の段階から証拠付きの科学の段階に入ってきたものである。
前者になれきった人々が、後者を、どういうか「そんなこといっぱいあるよ。知らんかったの」と処理するのを僕も多く見てきたが、「悪への抽象的悪慣れ」のような気がしたものだ。
「構図」に対して戦っているのか、具体的事件に対して戦っているのか。後者でなければ説得力はないと思うのである。これは自戒も込めて今、考えていることである。
表題の「道路、防衛、薬」など諸問題がかってなく大噴出していることが分かる。これら全てを巡ってまた、「官僚の天下り・人材バンク問題」を絡めた激動が続いているということでもある。全て「ねじれ国会の威力」なのだけれど。
まず「道路」。冬柴国交相が官僚・族議員の資料通りに答弁して、しばしば立ち往生。その度に「わるいところはなおします」の低姿勢に終始しているが、議論が止まってしまったかの感が生まれてきた。道路建設計画が「疑惑のデパート」になってきたようなのだ。
これで「ガソリン暫定税、4月は現状維持」で押し通す積もりなのだろうか。
民主党が対案要綱を出したが、立派に原則を貫いている。「暫定税率撤廃」、「一般財源化」、「地方財源確保」の3本柱が健在である。
次いで、防衛。横須賀海上保安部への通報遅れ問題で、族議員というよりも防衛マニアと聞いている防衛相が、引責辞任に追い込まれそうだ。防衛官僚の悪知恵で、「自省『防衛』第一」、「我が身大切」に走ったらしい。イラク給油疑惑問題を、「航海日誌誤破棄?」と「疑惑ニュースの課長止まり」で逃れた手法が、今度は通用しなかった。当たり前のことだ。
さてさて大問題の薬・製薬会社問題。これは別原稿を既に送信し終わった。
そうして、「官僚の天下り・人材バンク問題」。これは現政府の焦点的最大問題ではないか。ここを触らなくては、上に書いた問題は今後も何一つなくなりはしないと思う。しかし、族議員がいる自民党では、この問題はアキレス腱だろう。何も出来はしないと思う。官僚にすねの傷をほのめかされ、恫喝されて、すごすごとしっぽを巻いて逃げんとし、「肩を抱きなおされて一蓮托生」。それが落ちだ。そして、官僚は自分らを守るために、どうしても脛に傷持つ自民党に生き延びてもらわねばならないのである。だから、民主党には情報を出さない。民主党も、今一歩官僚には及び腰である。そりゃ怖いだろう。
最後に一言。政官財の「抽象的な害悪構図」のようなものと、何かその「具体的噴出」とは全く違うものだということを力説したい。前者はいわば仮説であって、それ以上には一歩も進まないものだから、万人に対する説得力に欠ける。後者はいわば、仮説の段階から証拠付きの科学の段階に入ってきたものである。
前者になれきった人々が、後者を、どういうか「そんなこといっぱいあるよ。知らんかったの」と処理するのを僕も多く見てきたが、「悪への抽象的悪慣れ」のような気がしたものだ。
「構図」に対して戦っているのか、具体的事件に対して戦っているのか。後者でなければ説得力はないと思うのである。これは自戒も込めて今、考えていることである。