すでにテストが終わって答案が返された子たちは全員がそれらを持って通塾します。
当会はそうして示された答案で判明した各科目の点数を貼り出したりしてみんなの目に触れるような事はせず、あくまで個人情報としてこれを活用します。
ここでいう活用とは、返却答案を見て、この子が何を苦手とし、何を得意としているか、テスト前に行った対策授業の何が功を奏したか、反対に何が足りなかったかなどの最新の情報をここから読み取り、そうした情報を今日以降の授業と、少しあとにまた始まる次回テスト対策授業に活かすこと、です。
ところで、先日この欄で暗記することの大切さを強調しました。全ての科目の応用問題は、その基礎の部分に多かれ少なかれ暗記しておかなければならない、それ抜きでは解くに解けない問題のベースを成すものが存在しています。英単語や漢字、歴史年表における出来事の順番など、時には暗記したものそれ自体が問題に出されることも少なくありません。
そういう目で今回の返却答案を見ると、あれだけ事前に強調しておいたのに、それでもやっぱりこの暗記の部分で十分な努力をしてこなかった、ひどくなると全くやっていなかったとも思える答案が何枚かありました。塾では基本的に問題の解き方(解法)を中心においた授業が行われていて、この暗記作業は限られた授業内で十分なボリュームを確保するのが難しいため、居残りや自宅で行う宿題の中でやらせることが一般的です。中でも自宅で行う宿題が最も多くの要素を占めますが、それが十分にされていないということが、この返却答案の中から浮かび上がってきます。
端的なのが漢字です。個人的には、漢字などは定期テストというよりも、別途適宜行う小テストのようなものでこれを行えば良いと思うのですが、いまも定期テストで15点か20点ほどの配点で出題されていて、私はこれは単に練習(暗記)するだけのものですので、満点を取って当たり前なのに、どうして多くの子が半分とか3分の2しか出来ないのかがわからないというのが正直な気持ちです。
そういう「満点を取れない子」のほぼ全員が「覚える時間がなかった」などとしょうもない言い訳をしますが、それ自体が嘘であることは、そう言っている子たち自身が知っている筈です。私がなにかの折に急に「昨日何時間ゲームした?」と聞くと、まず全員が「昨日?昨日はやらなかったよ」とは言わないのですから。
今回のテストに限れば、それでもこの部分で満点の子がいましたし、もう少しで満点と言う子もいました。その子達は習慣として毎回の授業の前に早く来たり、終わってもすぐには帰ろうとせず少しの時間でも机に向かって復習したり暗記に努めたりしていますし、宿題の多くは毎回ちゃんとやってきます。
こうしたことを受けて、次回はもっと口やかましく言い続けて、勿論漢字だけにとどまらず、全ての暗記項目の完全習得に向けた勉強をしていきたいと、早速今もそのための準備を日々しているところです。本音でいえば、これなど本来塾でやることではないと思いますが、本人たちが自身嘘と知りながら「時間がない」などというのなら、だったらここで強制的にこちら主導で時間を作ってやるぜ、という、こうなったらこっちも意地になっているという側面もなきにしもあらずですが。
小中学生がなにかの科目を勉強するとき、初めにやらなければならないことは、大抵の場合暗記です。暗記する作業、暗記の努力と言っても良い。応用問題に進むのは、この暗記作業を終えてからです。なにがしかの理由があったり時間が切迫しているときは、暗記すべき項目を見ながら応用問題に取り組むということもありますが、それにしてもその暗記作業は事後にちゃんとやっておかないと後悔します。ここでいう後悔とは、類似の問題が出てきたときに、暗記項目がすっと出てこないためにいともたやすくそこで躓いたり足踏みしてしまうということです。
暗記するものはたくさんあります。国語なら漢字、言葉の意味、文章を作るときや読むときの約束事(これを文法といいます)など、数学なら公式、社会と理科は教科書に出てくるほぼ全ての言葉、数字、その関係など、英語は単語(書くときに必要なスペル、アクセントを含む読み方、それに勿論訳)。
昨日書きましたが、今どき安直にスマホなどを教室に持ち込んで、これを見ながら設問の答えの欄を埋めていき、それで何かが出来た気になる子がいますが、彼らの殆どはこれがただのカンニングであって、そこで必要な暗記作業を置き去りにしたままでは何の意味もないことになかなか気づきません。気づいてもこれ(暗記作業)に手をつけようとしません。
この作業を何の苦もなくやってのけられる子もいます。昔の私がそうでした。講師たちのほぼ全員がそうであったか、あるいはもしそうでなかったとしても、彼らはこの一見面倒で苦痛な作業から逃げ出すことはせず、すべきときにはすべきことをやって、そして今に至っていますから、各自各様のやり方や工夫が身についています。彼らは教室で、これをおしみなく開陳します。
20年ほど前になりますが、天王町の教室で、あるお母さんが毎日のように「(子供が)家で勉強しないんです」といって電話してきたことがります。私が「何をしているんですか」と聞き返すと「ゲームばかり」。このおかあさんが言うところの「ちっともやらない勉強」とは、即ち暗記作業です。極めて単純な作業です。ゲームは出来て、単純な作業はできないといって、親はゲームを買い与えられても子供の顔色をみて言うべきことも言えないなら、ここで決めるべきはもう諦めて子供のオレ様世界を許してしまうか、一念発起して子供との対決の修羅の道に踏み込むかのどちらかです。
定期テスト(前期末テストが)概ね終わりました(公私立を含め、中学校によってはこれからというところがあります。高校も同じ)。
今回書くのは、すでにこれが終わったところを視野に入れておいますが、まだ終わっていない学校につきましては、終わったあとを視野にお読み下さい。
恒例の(定期テスト後の大反省会)を今週いっぱい行います。場所は教室、時間帯は16時半〜21時mまでの間、一人(組)あたりの時間は30分〜60分です。
内容は、今回のテスト結果全般に関する反省〜良かったことそうでなかったこと〜の反省を行った上で、これを機に次回、二ヶ月後に行われる後期中間テストでこの反省を活かして全科目に付き獲得点数を上げること、そのための具体的対策を明らかにすることです。
この反省会は前回、中間テスト直後にも行いました。その時は、どなたでも期間中ならいつでも起こしいただく方式でしたが、確実に席を設けるために事前予約制にしておりましたところ、当日なって、ひどくなるとなんの連絡も頂くことなく欠席された例が何組かありましたので、今回はこうしたことを避けるために、前回は無料でしたが、今回は有料制、といっても1000円(税込)とさせて頂きます。事前予約は不要です。時間のあるときに、直接教室にお越しください。その際、返却された答案用紙があればそれをお持ち下さい。可能な限り、テストを受けた本人(お子さん)もお連れ下さい(ご一緒できなければ結構です)。
英語の勉強の時にスマホを使う子が増えています。
授業の組み立てが済む前の段階では、子供たちが勉強の仕方で何をどのように使うかは、特に意見をさしはさまずこれを眺めています。
以前もスマホを使って英文を和訳する子がいましたが、その子(現在は大学生)は、そうして調べた和訳の中から新出単語を一つずつ拾い上げてノートに転記して、後でこれを暗記すべく、ちゃんとそのための時間を取って努力もしていました。ですから、これなら、と思い、私は注意することもなく、そのやり方を許していました(ただ、この反動で、彼はなかなか紙の辞書を使いこなすことが出来ず、そのため、ある単語が持つ複数の意味や用法を覚えることがとても苦手ではありました)。
また別のある子がいて、この子もスマホで英文和訳をする癖が抜けません。この子の場合には、私はこれまで何度このやり方(の改善)を注意したかしれません。というのも、この子はそうしてスマホで調べた和訳に満足して、そこで話が終わってしまうので、上に書いた子のような、新出単語を練習して覚えようとする努力がなく、このため、同じ単語が出てきても「この前も出てきたな」という記憶に結び付かないので、何度も同じスマホの作業を繰り返すのです。可哀そうですが、これでは全く勉強にならず、していることは何のことはない、その場しのぎのただのカンニングもどき行為でしかありません。
こうした無駄な時間の積み重ねループは、早い段階でこれを修正しておかないと、後々必ず後悔することになります。そして、ありがちなことですが、こういう安直なやり方に気付かず、或いは気づいても危機意識を持たない保護者の方がいて、この時の子の場合も、私が「自宅で勉強する時用に辞書を一冊買ってもらいなさい」と言って、彼がそれを保護者の方に伝えたときの返答が「辞書?なんでそんなのが要るんだ?スマホ使えよ、スマホ」だったそうです。
岸田さんの支持率がいよいよジリ貧の様相を呈してきましたね。来る日も来る日もしっかりしっかりとか丁寧な説明とか、何とかの一つ覚えのようなゴタクを並べて、それで何か仕事をした気になっているような、そんな雰囲気満載であればこれも致し方ないですね。
教室でも、こういうタイプ、いわばミニ岸田がかつていました(今はほぼいなくなりました、めでたしめでたし)。
口を開けばちゃんとやります嘘つきませんと繰り返しながら、その実ちっとも努力しようとしないタイプ。こちらも仕事ですから、ありとあらゆる策を講じ、押したり引いたり、脅したりすかしたり、叱ったり励ましたりを繰り出しますが、肝心の本人が動こうとしなければ効果は挙げられません。
勉強するというのは、技術的なものを指していうことも勿論ありますが、それより重要なことは、この「本人をいかにして動かすか」の環境整備に多くの労力が必要です。
何度も書きますが、これは一人学習塾の側だけがどうこうできるものではありません。なんといっても、塾で過ごす時間よりも家庭で過ごす時間の方が圧倒的に長いのだし、その長い時間の中、保護者がどう子供に対して指導力を発揮できるか(或いは出来ないか)が、大きく影響してきます。極端な話、家庭では子供に勉強それ自体を教える必要はなく、それは塾と学校に任せてくれればよいのです。
以前、保護者自身がそういう意味で指導力を発揮できず、であるならばということで、週に4回、4時から10時まで子供が教室で過ごすことを三か月間続けたことがありましたが、確かに教室にいる間は厳しい監視下にあったことで、どちらかと言えば怠け癖の抜けないその子も、それ以前よりは机に向き合うことができ、科目の理解度もそれに応じて上がりました。しかし、こんなのは付け焼刃です。その場しのぎです。現に、この子の場合も、この期間が終わるや、あっという間に元の自堕落な時間に埋没していまうことになって、結局は積み上げた効果も半減どころか、ほぼゼロになってしまった観があります。
勿論子供自身、その保護者自身に最大の責任があるのですが、プロの学習塾として、もっと違う何かが出来たのではないかと、こちらも今も反省の日々です。
昨日、国語の勉強に触れることを書きました。その趣旨は、小学生に英語を教え込むより先に文科省はやるべきことがあるでしょうよ、という観点からの国語充実論です。
実際、教室に来る子どもたちの実に多くが自分の見方や意見を文章でまとめることができず、そういう課題を前にすると決まって固まってしまいます。彼らに起承転結なんていう、文章を作るときの基本を言っても「なにそれ?」という顔ですし、主語述語や修飾語の正しい使い方をしらないのですから、教える方は本当に大変です。
中にはサクサクこれをやってのける子もいまうが、そういう子は稀です。そういう子はおしなべて家でちゃんと本を読んでいますし、それも漫画の類ではなく、色々なジャンルのものを読んでいますので、きっと自然な形で文章のあり方が身についているという面があるのではないでしょうか。
こういう下地があると、国語の知識を構築していくのはとても楽です。故事成語、慣用表現、比喩などのテクニックもスポンジが水を吸うように吸収します。
保護者の中に、「国語なんて日本人なら誰だって勉強なんかしなくても自然にできるようになるでしょ」などと言う人がいますが、きっとそういう人はこうした文法などのアカデミックなものを考えに入れず、ただモノを言うという行為で意思の疎通を図れるでしょ、といっているに(本人が意識していないにせよ)違いありません。
塾人として残念なことに、そういう方の間違った認識を改めてもらう機会がなかなかないことと、そういう間違いや思い込みは結構凝り固まったものがありますので、その子供の国語力を向上させることは容易ではありません。
先日esportsと小学生から英語授業をカリキュラムに加えることについて、特に後者については藤原正彦さんの本にも書いてある氏の考えを勝手に引用して自分がかねてから思っていることを書きました。
あれらのどちらに対しても、個人の意見としては否定的ではありますが、しかし好きで、あのあるいは信念を持ってこれに取り組む人のことはどうとも思わないですし、そういう人はこれからも好きにし続ければ良いと思います。
小学校で、子どもたちがまだ日本語の正しい読み書きや話の仕方や聞き方ができていない段階で(←一部の保護者の方が勘違いしていますが、これらは自然に、あるいは勝手に身につくものでは絶対にうありません)英語の、それも従来からの「やってもやってもんかなか話すことすらできるようにならない日本式英語授業」を仕込むよりも、先に日本語の勉強の深度を深めて、そこで正しい漢字の読み書きと実生活での使い方を学ばせたり、小説や評論、俳句や短歌や古典に至るまで、その学齢にあったレベルのものに触れさせる、死んだ私の母が生前よく言っていた情操教育にもっと時間と労力とを注ぐことのほうが、ずっと意味も価値もあるのではないかと、これは毎年教室で顔をあわせる「日本語の活用や知識・感性が不自由な」子たちを見ている者として強く思うところです。