高校1年生と二年生の英語の授業をしました。中学生のテスト対策と並行しての授業でしたが(数学と国語と技術家庭は凛先生の担当)、どの子も一生懸命でしたので、予期した以上の濃さで授業をできました。
高1英語はesportsについての英文解釈で、「ふうん、いまどきのesportsっていうのはこうなんだ」という感心やら驚きが気持ちの中で様々湧き上がりました。
中国から日本に来て、今一生懸命に県立高校で学んでいる子の授業の相手の子が、中国ではesportsの専門学校があって、そこでは子供たちは朝早くから連日とにかくパソコンに向かっていかに素早く対戦相手の打つ手に反応するか、いかにしてゲームに勝つかの練習に明け暮れているのだそうで、それにも驚き、そして空恐ろしささえ感じました。
昼間、藤原正彦さんの本を読んでいました。
氏曰く、小学生のうちから英語を学校の正規授業に組み込むことは愚策でしかなく、しかもこれが文部科学官僚が仕事の一環として決めたことではなく、企業の集まり(業界)のイニシアチブで行われていることに大いに問題があるということで、私もこれまで実のところ「英語?小学生で?ふん」と漠然と思っていたのですが、この文章を読んだことで、その「ふん」がまるでお門違いなものではないことに少し意を強くしました。
小学生英語もesportsも、私にはほとんど理解の範疇を超えたものでしかないのが単なる時代遅れなのか、はたまた立派な見識の一つであるのか、よく分かりません。
以前、9月中旬にふと思い立って南アルプスの仙丈岳に登りに行きました。
前夜神奈川を車で出発して、途中西湖の近辺で車中泊。翌朝、当時はまだ自分の車で到達することが出来た広河原まで行って、そこからバスで登山口まで行って、大平山荘脇を通って馬の背ヒュッテまで進み、そこで宿泊。山の定番ともいえる大して美味しくもない(失礼!)カレーライスを食べ、まだ九月なのにすっかり冷え込んだ外気を感じながら畳一枚に二名の混雑の中で眠り、翌朝早く、ヒュッテで作ってもらった弁当をザックに入れて、約1時間、頂上を目指して登りました。頂上は早くも小雪が降っていて寒く、しかし爽快でした。
頂上には何名かの先行がいて、互いのここまでの山行を称えました。
テスト対策の繁忙が一息ついたら、久しぶりにまた南アルプスに行こうかなと思います。
テストの前ですので、どうしても普段以上に授業には力が入ります(いつだって力は入っていますが)。
力を入れるというのは、決して子どもたちに無理強いをさせ続けることではありません。合理的な範囲で、親の責任で子供に勉強することを要求するのは、親の立派な仕事の一つです。それは無理強いする、というのとは全く意味が違います。
ちなみに先日この欄で「保護者の強制」について思うところを書きましたが、あれは私を含む先日のセミナーの参加者全員の善意から出た意見・見解であって、親がその責任において、合理的な範囲で子供に勉強させることは、これを強制とは言いません。
何年か前、白百合女学院にお嬢さんをかよわせている或るお母さんが、熱心さの向け方を大間違いして、そのお嬢さんには毎日(週に6日!)午前零時まで教室に留めて勉強をさせてほしいと、これはもう塾に対する相談やお願いのレベルではなく、実に高圧的な要求をしてきたことがありました。そんなこと、今子供が通っている学校では当たり前です!と言って。(注:全然当たり前などではありません、念の為。)
午前零時まで子供を置いておくということは、即ち講師の帰宅の足など全く考慮もしないということでもあって、仮にその時刻まで子供(この場合は少女)を見ていて、零時になったから「はい、さよなら」というわけにも行きませんから、家まで送って行くことになります。講師にそこまでさせるわけには行きませんから、23時以降の授業は私が行い、その後送っていくことも私がしていました。悲しかったのは、その子を玄関口まで送り届けても、そのお母さんが「おかえり。頑張ったね」といって迎えてくれるのではなく、その子が自分でドアの鍵を開けて、すでに家中真っ暗になった中に入って行く姿をみること。聞けば、親はその時刻にはとっくに寝ているとのことで、親はその子のための食事を用意しているでもなく、子供は玄関脇に山と積まれたインスタントラーメンを一袋取り出し、深夜自分で具なしのラーメンを食べるのでした。
この子の勉強時間はしかしこれで終わるのではなく、このあと更に深夜まで机に向かって学校や塾の宿題をし、予習もしますので、睡眠時間は平均して2.5時間。
親はこれを寝過ぎといって、「眠るから忘れちゃんです。朝まで寝なければ忘れないんです」といっていました。子供はいつも青い顔をしていました。
もう時効だと思うので書いていますが、これが「合理的な範囲を踏み外した」強制です。当時は、こんなにしてまで子供に勉強を強いることに疑問を懐きながら、それに加担している自分自身にも自己嫌悪を感じていました。あの親が、そして自分がしていることは、勉強の指導の範囲を大きく逸脱した児童虐待ではないかと。
今でしたら、こんなやり方は決して受け入れないでしょう。あのときは、こういう指導、こういう家庭の方針もあるんだと、驚きながら、疑問を懐きながら毎日深夜までこれと向き合っていました。
今日、急な保護者面談がありました。テスト対策に臨んでいる子の、ここ一週間の取り組み方に垣間見えた問題点の指摘とその認識の共有を図りたかったこと、そしてここで気を引き締めて明後日からのテストに臨むためのいくつかの細かな修正点を明らかにするために。
子供さんはとても良い子ですし、お母さんも一所懸命なところがとても好感が持てますし、ここで色々と悩んだり迷ったりすることは、それ自体極めてあたりまえですし、健康的です。
重ねて言います。今やっていることは極めて健康的な指導であって、決して無理強いではありません。ここはもう一つ、強い自信を持って前に向かって進んで行ってほしいと思いました。勿論、教室(のスタッフ)は常に一緒です。
昨日、連れ合いが録画していた「72時間「を興味深く観ました。川崎市にある市の施設で泥だらけになって雨なんかなんのその、ずぶぬれになって遊ぶ元気な子どもたちを映したNHKの番組です。
観ていて奇妙な既視感がありました。以前の子供時代の自分のようです。
育った地域(横浜市中区)にも今はもうなくなってしまいましたが、昔は泥んこになって遊び回れる通称坊主山という小山があって、私は日がくれるまでそこで遊び呆けていました。勉強なんてあまり、というか、殆どしませんでした。学校の同じクラスに、そういう遊びの輪には加わらなかったY君という優等生がいて、彼だけはその時間もしっかり学習塾に通って勉強に勤しみ(といって決して人付き合いが嫌いというわけでもない、いわば小学生にして人格者でした)、その後聖光学院から東工大に進んで大手銀行の役員にまでなったことは、生真面目に毎日を過ごした者と自堕落な日々を送って来た者との人生のその後の違いを象徴するものとして、私の心のなかにいつも沈殿しています(同じように勉強したとしても、成績はきっと負けっぱなしでったでしょうが)。
それはともかく、あの泥だらけになって遊ぶ子どもたちの溌剌とした顔、顔、顔。これが子供たちの本来あるべき顔なのではないだろうか。学習塾で子どもたちの尻を叩いて勉強勉強と追い立てている今の自分のことを棚に上げて。
前回、先日のセミナーで話題にあがったうちのひとつである「親の問題」について書きました。
誤解のないよう書き足しますが、書いたのはあくまで「比較的勉強の苦手な子の学習塾における指導面で問題となることが見受けられた事例」としてであって、そこで書いた過干渉というのも、それがその家庭教育方針であるのなら、それはそれでこちらが何かを言う話ではないということです。
学習塾はあくまで学習塾であって、子供の人格面の教育を担うものではないというのが、少なくとも私個人の考え方です。
中には「いやいやそうではないでしょう。塾もそこのところはになってもらわないと」という方がいるかもしれません。それであったら、そこで初めて「でしたらその一環として塾で行っている学習指導に沿うよう親御さんの方でも少し妥協してください。」と言えます。
実際、セミナーの中でも、そうした時にいかに穏やかに、且つ友好的効率的に塾の願いと助言とを親御さんに伝達するかについて、そもそもそういうことは全くもって遠慮することではなく、堂々と、しかし粛々と実行(伝えること)するべきだという意見が大勢でした。
セミナーでは、子供の勉強の進行を妨げ、ひいては伸びそのものを阻害するもののひつととして、何を隠そう子供の保護者の問題も話題の一つにあがりました。
子供の勉強の効果が伸び悩むのには様々な要因があって、例えば子供自身の吸収力や暗記力の違いなど、専ら本人に起因するものがありますが、学習塾から見れば、これはまさに私たちがやりがいを発揮する場面で、そういう子にいかに効果的な勉強の仕方を教えられるかは、塾の生命線の一つでもあります。
問題はここにはなく、この場合、あくまで子供の親にあるケースを参加者たちは話題にしました。
親が子供の勉強を阻害する。そんなことがあるのでしょうか?
それが、あるんです。
例えば、親の無関心、或いは過干渉。子供は、親がこのどちらであっても、そうでなかった場合に比べて、勉強面での問題は起こり得ます。無関心は、あまりにわかりやすいのでこの際置いておき、ここでは過干渉について書きます。
自分の経験から得た知識や物事の進め方にばかり囚われて子供に接する親の多くが、ああしろこうしろと何事につけても命令しがちです。本人は「命令なんてとんでもない。私はただ『こうやったらどう?』と言っているだけです」と言いますが、言われた側が言われた通りにしないとすぐさま上から激しい叱責が飛んでくるのであれば、それはもう命令以外の何ものでもありません。
こういうことが続くと、子供の中に、自分の頭で考えよう、工夫してみようといったものがなくなって行き、ひたすら言われたことだけやっておこうという受け身の姿勢が強くなります。
実際には、受け身どころか、文句を言われないように、とにかくその場だけどうにか出来ればいいと、嘘さえつき始めるようになる、そんな子を私もこれまで随分見てきました。
乱暴な言い方であると承知で書きますが、こういう命令~服従という親子関係の下では、塾がいくら細かな工夫をし、熱意を込めて教えても、その効果は限定的にならざるを得ません。
経験では、こういうタイプの親御さんは、どこまでも自分の考えの狭い範囲から外に出ることが出来ず、問題を含んだまま子供には歪んだ命令を押し付け続けるので、そのうちある時点から(中学1~2年生の頃が多い)方向転換や少しの後戻りももはや出来ない奥深い迷路にはまりこんでしまいます。