たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

春の嵐の日に思う

2015年03月22日 17時17分10秒 | 祈り
昨日はお彼岸でしたが、私実感ないまま過ごしてしまいました。
私の部屋の窓からはお墓と小高い山の木々の緑が芽吹いてきている風景を眺めることができます。家族がお墓のまわりに集まって、掃除をし、水をかけて、花を供え、手を合わせる-その様子がうかがえる声もまた日本の家族の風景のひとつですね。
どのお墓にも新しい花が供えられています。
「大草原の小さな家」への旅で訪れたアメリカでは、お墓に供えられている色鮮やかなお花は造花でした。死生観の違いでしょうか。
私の家族のお墓は、実家の方で弟が花を供えてくれているはずです。

昨日は、世界乳幼児精神保健学会の日本支部の公開セミナーがあり、混乱の中ですが出かけてきました。何度もうかがっているW先生のお話ですが、学び直しの貴重な機会になりました。いつうかがってもパワフルであったかい先生のお話は考えさせられることがたくさんあります。柳田先生がいらっしゃっており、懇親会の時に「自死遺族です」と声をかけさせていただきました。
妹とのお別れから21年が経ち、先日当事者として初めて話をさせてもらったことで、個人的な歴史を客観視できるようになり、ようやく本当に自分を肯定できるようになったこと、なぜ妹は亡くなってしまったのか、その答えをずっと探し求め続けてきたけれど、どこにもなかった、どこにもないまま背負っていかなければならない、そのことに気がつくまでに20年近くかかったことをお話しました。
先生が仰られました。
「人は文脈の中で生きている、因果関係ではない、科学や法律で人の気持ちは救えない」と。
心に沁み入りました。

今目の前に出された一つの結果を、自分自身の中で納得するための言葉を、人に言われなくても自分でたくさん用意することはできる。だが、しかし、人の気持ちはそんなにかんたんではない。理屈だけではない。あまりにも、あまりにもだ。一定の決着にいたったという実感からは遠い、やり切れなさ、悲しさ、いろんな思いが去来していてどうにもならない。
気持ちを整理したり、現実的な手立てに当たるには時間が必要だが、待ったなしで結論を出さなければならない。それは私の責任に帰するところではないが、そうしなければならない。
納得できないといえば、さらにきつい場面に進まなければならない。
何のためにそうするのか、意味がわからないが、そういう仕組みになっている。
今までみえていなかっただけで、社会の中には理不尽なことが満ちあふれている。
ずっとずっとがんばってきたことが、これでよかったんだと本当に思えるのは、何カ月か先、何年か先のことになるだろう。
あらたな役割がすこーし見えはじめてきてはいるが、それで自分にごはんを食べさせていくことはできないので苦しいところ。

カウンセリングスクールの前期と後期のレポートを書いた時に、”楽になる”という言葉が、私の中で大切なキーワードでした。言葉の使い方一つ一つが本当に大切。
その頃書いた日記を振り返ってみようと思います。

「2005年1月23日(日)

 基礎科のレポート後期分をようやく書きあげることができた。私にとっての“楽になる”ということの意味。それは、自分に取り込まないこと、引き寄せすぎない、ということであった。事実を事実として受けとめたくない自分がずっといた、ということの気づき。
理屈では説明のつかない、人にはそれぞれ与えられた運命があるということ。
魂のところで人に寄り添えるような人になりたい。
理屈なんてあとからくっついてくるものだ。
こんな所に落ち着くまでに、長く苦しい道のりだった。
私の中で何か新しい道が開けてきただろうか。

金曜日の夜は、疲れ果てて本当にいつもつらい。
今日はお昼寝をしたので、ちょっと元気だ。
よく眠ると考え方もポジティヴになる。
明日からはまた、とりあえずの場所にいかなければならない。
社会勉強、フィールドワークだと思って、負けるな、わたし」

プリンス・エドワード島へ行ける日が遠くなっていく。
大丈夫、きっとまた行ける・・・。