昨夜は『アンの青春』のDVD後半を駆け足で再生。今日は洗濯したり、水回りの汚れが気になって掃除をし始めるとあっという間に時間が過ぎてしまったり、すごく疲れているのを感じます。雨が上がるとものすごく暑いし、蒸します。昨日もお昼に入ったお店で、きんきんに冷えた水ではなく常温の水を出してもらうとまずは小さいグラスに一杯、一気に飲み干しました。結局お水を三杯、プラス紅茶を一時間足らずの間に飲んだことになります。それぐらい午前中だけで喉が渇いています。それだけ飲むと一時間もたたないうちにおトイレに行きたくなりますが、タイミングによっては行くのが難しかっり行けるにしても気をつかってしまったり、ほんとに体も心も休むことができない環境です。これで明日から五日間連続勤務、ってぞっとします。毎日毎日ものすごく疲れるので、一日一日でしかシフト表みません。こんな状況で酷暑になりそうなこの夏を乗り切ることができるように思えません。かといってほかに自分にごはんを食べさせながら安心して働ける場所があるでなし、家賃を払っていかなければならないというプレッシャーも半端ではないし、家には帰れそうにないし、結局わたしは背負っているものと仕事につぶされていくばかりなのでしょうか。日本株式会社に希望が見いだせないまま、これからどこでどうやって生きていけばいいのかわからないまま、毎日が過ぎていきます。赤ちゃんをみるたびに、日本株式会社はこの子達、さらにはこの子達の子供にすごい負の遺産を背負わせていくことになるんだと思うと涙が出そうになります。日本の立法に全く希望をもてないし、今の職務で垣間見えてくる日本の現実を考えるとこんなことをしていてはさらに大変になっていくだろうなという心配ばかりです。連休でもう少しゆっくりしたいと思いながら大切な日曜は終わっていきます。辛い一週間の始まり。明日も蒸し暑くなりそうです。おやすみなさい。
第一章のパートタイムジョブで詳しく見たように、「専業主婦」をパート労働に縛りつけているのが、日本独特の世帯中心の賃金体系と、これに基づいた社会制度である。日本の諸制度は「働き手は男一人でその男性の所得が上がる」という前提の上にできあがっている。その顕著なのが、「103万円の壁」である。女性が「専業主婦」でいると家族や自分が得とするという考え方に基づいてつくられているのが現在の日本の税体系である。同時にこの税体系は結婚しても働き続ける女性に対して制裁的な税体系だといえる。女性が雇用労働者の4割を占めるという現実とこの税体系は合わなくなってきている。こうした制度と現実とのギャップ・歪みが今一気に噴き出しているのである。
現在の日本の税体系の基礎にあるのは、家族単位発想である。男性の賃金の右上がりの年功カーブの背景には、社会保障や教育制度や住宅制度が社会的に保障されていないからこそ、企業が支払う賃金によってその分を個人的にまかなうという「社会全体の家族単位的調整」がある。企業は、家族扶養分を含めた労働力価値を規定してきた。家族を単位とした生活給の発想で、企業は男性個人ではなく、家族ぐるみで雇っているのであり、男性には家事・育児・介護の全般を無料で引き受けてくれる妻がいるから先に見たような会社人間になることができる。逆に言うと、男性は家族を経済的に養うという責任を持つので、首を切られないように24時間フルに会社人間にならざるを得ないのである。
企業は、「家族賃金」「扶養手当」として妻子を養う家族文まで払っているので、男性正社員には心おきなく会社に忠誠を尽くし残業をしてもらわなければならない。日本では、労働者を二人確保するより、一人の労働者に残業してもらった方が安上がりなので、男性には長時間労働をさせる。企業は、男性が長時間働けるような、「妻を含む家族」を抱えた“夫=世帯主”を雇うがゆえに、家族賃金を支払っているのである。逆に言えば、男性には「妻という召使を必ずもて」という強制がかかっているのであり、1) 専業主婦の妻には配偶者手当のような「内助の功」の評価がある。男女共に、「個」としての主体性を認めてはいないのである。
育児・介護休業法が、女性だけでなく男性にも適用される法律として、1991年に制定された。その後3度の改正を経て、2002年4月1日から、改正育児・介護休業法が施行されている。しかし、現実には育児休業だけみても、男性の取得者は0.6%であり、女性の約60%と比べたら微々たるものである。「男性が育児に参加することがそれほど具体的なイメージをもって語られてはいない」というのが、筆者の知人で育児休業を取得した男性の実感として語ったところである。
家族単位発想に基づく「日本型福祉社会」の構想をここで紹介したい。1979年、自民党政府は、「家庭基盤充実政策」と「保育基本法」の二つを相次いで発表した。ふたつに共通しているのは、家庭役割の強化と家族の自助努力の強調であった。低経済成長期の当時、これらの政策はしのび寄る高齢化社会の到来に備えて、社会福祉費の削減と国民の自助努力を求めたのであった。「家庭基盤充実政策」では、3世代同居により老人の介護と子供の教育を家庭の主婦役割として期待し、「保育基本法」では「経済的に困らないのに、幼児をおいて働くのは甘えである」として母親の労働権は否定されている。藤枝治枝が自由民主党広報委員出版局編『日本型福祉社会』から紹介しているところによれば、これらの構想の基底にある「日本型福祉社会」とは、個人主義を基盤とした「西欧型福祉」への追従を断ち切った新たな福祉コースとして、できるだけ多くを政府よりは民間(個人・家庭・企業)の手に委ねることを目指している。
ここで期待される企業の役割は、定年を大幅に延長し、終身雇用を維持していくことで、高齢化社会問題の70%は解決すると主張している。ここにいう高度福祉社会では、先ず安定した家庭と企業を前提とし、これを補充するシルバー産業があり、最後に国家が提供する社会保障が登場することになる。「日本型福祉社会」の目指すところは、どこまでも、日本型企業社会の枠組みのなかで、企業の利潤追求を支援し、シルバー産業の繁栄に支えられた社会であり、国民は自立した個人としてではなく、それぞれの家庭や企業に依存して、生活保障せざるを得ない構想になっている。特に家庭においては、専業主婦の無償労働を期待している。 2)
男性が、妻子を養うために会社に帰属し「会社人間」となって働き続けることを期待されていたのに対し、女性は、一生男性に養われることを前提に「自立」を求められてはいなかった。戦後、民主国家のあらゆる制度が世帯主を核とした家族単位で組み立てられたので、女性が個人の労働者として労働市場に登場することを日本型企業社会は当初から期待していなかったのである。労働市場における賃金格差は第一章においてみたとおりであり、結婚して専業主婦となった後は、家庭において管理社会の中で疲れ果てて帰ってくる男性に憩いをサービスし、その労働力を再生産する。しかも、本来なら政府が負担しなければならない老人介護も引き受けなければならない。女性は持てる能力を社会ではなく、家庭のなかで発揮するよう期待されて3) きたのである。女性の労働権を全く無視したこのような役割期待は、すでに国際的な男女共同社会の進行に逆行するものであった。
ここで、間違ってならないのは、「女性は男性より体力や能力がないから、就職が少なかったり総合職として男性並みに働けない」ということではないということだ。事実は、結婚制度が性別役割分業を前提に夫婦を単位視しており、それを基礎に年功制があるため、女性が差別されるということである。繰り返しになるが、男性が「男性並みに働ける」のは、妻に家事育児をまかせっきりにしているからである。男性の「体力・能力とは、生物学的なものではなく、社会構造物なのである。女性を男性とセットで考えてきたので、企業にとって女性の賃金が低いことは問題ではなかった。自分の企業の男性社員が妻に何もかもしてもらうという捉え方の裏側として、女性は家族の世話をするので働けない、女性を差別してもいいと企業はみてきたのである。4) 「生活態度としての能力」を発揮できない女性が、それなりに企業に許容され、日本的経営にも不可欠の構成要素として位置付けられてきたのは、具体的には縁辺労働者としてのパート労働者と、家庭において無償労働を担う存在としてである。次に、家族単位発想の基本となる近代家族と男女の経済関係で成り立つ結婚制度について概観してみたい。
引用文献
1) 伊田広行『21世紀労働論』54-55頁、青木書店、1998年。
2) 藤井治枝『日本型企業社会と女性労働』190-192頁、ミネルヴァ書房、1995年。
3) 松永真理『なぜ仕事するの?』87頁、角川文庫、2001年。
4) 伊田、前掲書、58-59頁。
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この卒論を書いたのは10年余り前。労働紛争を経験することとなった現在(いま)、参考文献を読み返していると違う発見があります。かつては目に留まらなかったところが目に留まります。熊沢誠著『女性労働と企業社会』に紹介されている五つのライフヒストリーを読み返すと、「あるOLの退職」だけが目に留まり共感していましたが、「性差別の大企業に抗して」も内容を理解することができ、また共感しました。そこに紹介されている住友化学の性差別を告発する裁判の原告となった女性の物語は、別途書けるといいなと思います。
住友化学裁判陳述書2000、というキーワードで検索をかけるとこんなサイトに出会いました。
http://wwn-net.org/wp-content/themes/WWN/pdf/kagaku.pdf#search=%27%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%A3%81%E5%88%A4%27
http://blog.livedoor.jp/letchma11/archives/52049592.html
『1789バスティーユの恋人たち』。ソニンさん演じるソレーヌが女性アンサンブルを率いてパン屋を襲撃する前に歌う場面。権力に目がくらむ愚かな男たちに対して女たちは社会を変えることができる力をもつ、といった内容でした。リアルに共感しました。
現在の日本の税体系の基礎にあるのは、家族単位発想である。男性の賃金の右上がりの年功カーブの背景には、社会保障や教育制度や住宅制度が社会的に保障されていないからこそ、企業が支払う賃金によってその分を個人的にまかなうという「社会全体の家族単位的調整」がある。企業は、家族扶養分を含めた労働力価値を規定してきた。家族を単位とした生活給の発想で、企業は男性個人ではなく、家族ぐるみで雇っているのであり、男性には家事・育児・介護の全般を無料で引き受けてくれる妻がいるから先に見たような会社人間になることができる。逆に言うと、男性は家族を経済的に養うという責任を持つので、首を切られないように24時間フルに会社人間にならざるを得ないのである。
企業は、「家族賃金」「扶養手当」として妻子を養う家族文まで払っているので、男性正社員には心おきなく会社に忠誠を尽くし残業をしてもらわなければならない。日本では、労働者を二人確保するより、一人の労働者に残業してもらった方が安上がりなので、男性には長時間労働をさせる。企業は、男性が長時間働けるような、「妻を含む家族」を抱えた“夫=世帯主”を雇うがゆえに、家族賃金を支払っているのである。逆に言えば、男性には「妻という召使を必ずもて」という強制がかかっているのであり、1) 専業主婦の妻には配偶者手当のような「内助の功」の評価がある。男女共に、「個」としての主体性を認めてはいないのである。
育児・介護休業法が、女性だけでなく男性にも適用される法律として、1991年に制定された。その後3度の改正を経て、2002年4月1日から、改正育児・介護休業法が施行されている。しかし、現実には育児休業だけみても、男性の取得者は0.6%であり、女性の約60%と比べたら微々たるものである。「男性が育児に参加することがそれほど具体的なイメージをもって語られてはいない」というのが、筆者の知人で育児休業を取得した男性の実感として語ったところである。
家族単位発想に基づく「日本型福祉社会」の構想をここで紹介したい。1979年、自民党政府は、「家庭基盤充実政策」と「保育基本法」の二つを相次いで発表した。ふたつに共通しているのは、家庭役割の強化と家族の自助努力の強調であった。低経済成長期の当時、これらの政策はしのび寄る高齢化社会の到来に備えて、社会福祉費の削減と国民の自助努力を求めたのであった。「家庭基盤充実政策」では、3世代同居により老人の介護と子供の教育を家庭の主婦役割として期待し、「保育基本法」では「経済的に困らないのに、幼児をおいて働くのは甘えである」として母親の労働権は否定されている。藤枝治枝が自由民主党広報委員出版局編『日本型福祉社会』から紹介しているところによれば、これらの構想の基底にある「日本型福祉社会」とは、個人主義を基盤とした「西欧型福祉」への追従を断ち切った新たな福祉コースとして、できるだけ多くを政府よりは民間(個人・家庭・企業)の手に委ねることを目指している。
ここで期待される企業の役割は、定年を大幅に延長し、終身雇用を維持していくことで、高齢化社会問題の70%は解決すると主張している。ここにいう高度福祉社会では、先ず安定した家庭と企業を前提とし、これを補充するシルバー産業があり、最後に国家が提供する社会保障が登場することになる。「日本型福祉社会」の目指すところは、どこまでも、日本型企業社会の枠組みのなかで、企業の利潤追求を支援し、シルバー産業の繁栄に支えられた社会であり、国民は自立した個人としてではなく、それぞれの家庭や企業に依存して、生活保障せざるを得ない構想になっている。特に家庭においては、専業主婦の無償労働を期待している。 2)
男性が、妻子を養うために会社に帰属し「会社人間」となって働き続けることを期待されていたのに対し、女性は、一生男性に養われることを前提に「自立」を求められてはいなかった。戦後、民主国家のあらゆる制度が世帯主を核とした家族単位で組み立てられたので、女性が個人の労働者として労働市場に登場することを日本型企業社会は当初から期待していなかったのである。労働市場における賃金格差は第一章においてみたとおりであり、結婚して専業主婦となった後は、家庭において管理社会の中で疲れ果てて帰ってくる男性に憩いをサービスし、その労働力を再生産する。しかも、本来なら政府が負担しなければならない老人介護も引き受けなければならない。女性は持てる能力を社会ではなく、家庭のなかで発揮するよう期待されて3) きたのである。女性の労働権を全く無視したこのような役割期待は、すでに国際的な男女共同社会の進行に逆行するものであった。
ここで、間違ってならないのは、「女性は男性より体力や能力がないから、就職が少なかったり総合職として男性並みに働けない」ということではないということだ。事実は、結婚制度が性別役割分業を前提に夫婦を単位視しており、それを基礎に年功制があるため、女性が差別されるということである。繰り返しになるが、男性が「男性並みに働ける」のは、妻に家事育児をまかせっきりにしているからである。男性の「体力・能力とは、生物学的なものではなく、社会構造物なのである。女性を男性とセットで考えてきたので、企業にとって女性の賃金が低いことは問題ではなかった。自分の企業の男性社員が妻に何もかもしてもらうという捉え方の裏側として、女性は家族の世話をするので働けない、女性を差別してもいいと企業はみてきたのである。4) 「生活態度としての能力」を発揮できない女性が、それなりに企業に許容され、日本的経営にも不可欠の構成要素として位置付けられてきたのは、具体的には縁辺労働者としてのパート労働者と、家庭において無償労働を担う存在としてである。次に、家族単位発想の基本となる近代家族と男女の経済関係で成り立つ結婚制度について概観してみたい。
引用文献
1) 伊田広行『21世紀労働論』54-55頁、青木書店、1998年。
2) 藤井治枝『日本型企業社会と女性労働』190-192頁、ミネルヴァ書房、1995年。
3) 松永真理『なぜ仕事するの?』87頁、角川文庫、2001年。
4) 伊田、前掲書、58-59頁。
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この卒論を書いたのは10年余り前。労働紛争を経験することとなった現在(いま)、参考文献を読み返していると違う発見があります。かつては目に留まらなかったところが目に留まります。熊沢誠著『女性労働と企業社会』に紹介されている五つのライフヒストリーを読み返すと、「あるOLの退職」だけが目に留まり共感していましたが、「性差別の大企業に抗して」も内容を理解することができ、また共感しました。そこに紹介されている住友化学の性差別を告発する裁判の原告となった女性の物語は、別途書けるといいなと思います。
住友化学裁判陳述書2000、というキーワードで検索をかけるとこんなサイトに出会いました。
http://wwn-net.org/wp-content/themes/WWN/pdf/kagaku.pdf#search=%27%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%A3%81%E5%88%A4%27
http://blog.livedoor.jp/letchma11/archives/52049592.html
『1789バスティーユの恋人たち』。ソニンさん演じるソレーヌが女性アンサンブルを率いてパン屋を襲撃する前に歌う場面。権力に目がくらむ愚かな男たちに対して女たちは社会を変えることができる力をもつ、といった内容でした。リアルに共感しました。