たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出写真_ルーヴル美術館_「モナ・リザ」

2019年04月12日 20時03分19秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 これまた古い携帯で撮ったこんな解像度の低い写真でなくとも、いくらでも写真があふれかえっているルーヴル美術館、「モナ・リザの部屋」。2007年に続いて訪れたルーヴルで再び『モナ・リザ』と対話するという体験をしたことがわたしにとっては心の宝物。色々な意味で無理しましたがやはり行ってよかった、この時しかなかった旅だと思います。

『モナ・リザ』

レオナルド・ダ・ヴィンチ
1503‐06年頃、板得 油彩 77×53㎝
ルーヴル美術館ドノン翼2階


「「絵画」は一瞬のうちに視力をとおしてものの本質を君に示す、と言ったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452‐1519)である。絵画の賛歌というべき言葉だと思う。明らかに絵画は、見ることと視力のドラマである。それは深まりゆく空間と時間であり、光と色と形の浮上である。絵画は人間のゆるぎない個性であり、アイデンティティ(存在証明)なのである。

 絵を描くこと、絵を見ること、こうしたことは、光と影/陰、色と形、コンポジションにおいて、そうしたものをとおして、人間と世界が、さまざまな現実が、姿を現わすこと、いろいろなものが見えてくることなのである。

 レオナルドは絵画を「もの言わぬ詩」と呼んでいる。彼が見るところでは、絵画は美しく空想に富み、内容豊富であり、無限の思案で飾られているのである。(レオナルド・ダ・ヴィンチの手記)上、杉浦明平訳、岩波文庫、196頁、201頁、209頁「絵の本」から、参照)。レオナルドは、壁の染みや汚れなどにさまざまなものの姿や形、人物や風景や出来事などを見ることができる、と言う。創造力をはたらかせることによって、いろいろな形態が浮かび上がってくるのである。

 レオナルドの「モナ・リザ」を思い浮かべてほしい。絵画史を飾る作品である。モナ・リザは、いったい何を、誰を、どのような方向を眺めているのだろう。モナ・リザの表情についてはさまざまに語られてきたが、これまでこれほどみごとな視線が描かれたことがあったのだろうか。驚くべきことは、彼女の視線ばかりではない。この絵のポイントは、モナ・リザの手にも、背景に描かれた山岳風景にもある。モナ・リザの手も、着衣も、まことに魅力的だ。

 レオナルドの光と影がたっぷりと体験される絵であり、立体感と距離感の表現にもレオナルドの視力と技法がうかがわれる。モナ・リザの視線はレオナルドの方に向けられているが、モナ・リザの視線とレオナルドの視線が一点においてぴったりと結ばれていたならば、レオナルドはこの絵を描くことが困難だっただろう。「モナ・リザ」を見るとき、私たちはモナ・リザの視線とレオナルドの目と手と身体を体験するのである。」

(山岸健著『絵画を見るということ』、NHKブックスより)

絵画を見るということ―私の美術手帖から (NHKブックス)
山岸 健
日本放送出版協会


苦悩していた日々を思い返す_実習記録ノートより(1)

2019年04月12日 19時47分22秒 | 祈り
 午前中のうちにカフェでモーニングをいただきながら昨日目にはいった求人情報の応募書類を最終化。コンビニでプリントアウトし、写真を貼付、さらにコピーをとって郵便局から速達で発送しました。昨日提出した先の業務内容はそれほど心が動いていません。朝家からでもなんとか間に合いそうなのと前職の経験も生きなくはないといったところでしょうか。一次試験が作文とのこと。どんなお題が出るのでしょうか。今日提出した先の業務内容は心が動きました。篤い想いのままに書類を書いてしまいました。篤い思いがあり過ぎると想いばかりが空回りして現実に心が追かなかったり巻き込まれたりしてつらいですが、かといって全くなく事務的なだけでやれる仕事でもありません。おそらくかなりきついです。さらに篤い思いを求められているのか、それともそれほど篤い想いなど求められていないのか、事業体によっても、そこにいる人たちによっても違ってくるのでわかりません。お金と時間をかけましたがどちらもむなしい結果になるかもしれないし、なにかのご縁につながるかもしれないし、全ては運と出会い。郷里近郊のように車の運転を求められない分、どこに転んでも朝の通勤不安を免れることはできません。今日提出した、心が動いた方は朝早い時間からで遠方となれば、朝自転車に乗れないほど天候が悪い時間に合わないことは必須。家が駅から遠くて不便なので通勤不安があることも書類に書きました。そもそも受け付けられない可能性もあるし、受け付けられとしてもやはり先ずは作文。どちらもわかりません。提出しないことにはなにも始まらないのでやるだけのことはやりました。これでいいと思います。

 まだ確信はもてませんが、今回の帰郷のどん底は抜けられた感です。前職を経験したあとのタイミングで、遺品整理によって必要ないモノたちを捨てたことと、同級生と話したことでようやく妹と母のことに本当に区切りがついてきました。午後訪れた総合病院の相談室で臨床心理士さんが遺品整理業者のパンフレットをみせてくれました。「天国への引っ越しのお手伝い」というキャッチコピー。なかなか美しいですね。天国へと旅立った人たちのモノはわたしのこれからの人生には必要ないので天国へ送り届けていく。もう少しだけがんばって、ある程度気がすんだら天国へいった人たちの荷物整理はもういいかな。いい加減なところで区切りをつけないと果てしなく終わっていかないのでね。


 母よ、母が北海道旅行に行ったのは発症するほんの少し前だったと思う。アイヌの置物のデカいの一対、来週燃えるゴミに出すつもりなのでそちらで再会してな・・・。



 通信教育の精神保健福祉士養成講座にも実習のカリキュラムがありました。大会社で二人分労働しながら有給休暇と出勤と国家試験対策講座の受講を繰り返し、休日のサイクルが違うことにより、気がついたら二週間ぐらい自分の体にはお休みがなかったりしました。今は遠ざかりつつある、母の病気を受け入れることができない自分と葛藤していた日々。やっと抜けることができます。


「実習を行うにあたっての課題・目標
(実習を通して、自分は何を学習したいか)

 私は今回の実習を、自分自身を見つめ直し、自己覚知を促す大切な機会としたいと思う。自己覚知は容易なことではないが、クライアントに自分の心が巻き込まれないでいることができるようになるために、先ずは自分の感情を抑圧せず、素直に受け入れることを心がけたい。そして自分の言動がクライアントにどのように受けとめられているかを感じ取ることを大切にしたいと思う。第三者として精神障害者に接した経験をもたないのでどんな出会いが待っているのか不安ではあるが、一般企業で働く中では得られないであろう体験への期待感もある。その時のあるがままの私でぶつかっていきたいと思う。」

「オリエンテーションの記録

平成18年10月20日(金)13時から14時

自分がPSWになろうとするきっかけは、家族にあることをY所長に話す。
実習内容はフリースペースにいることだけ。
人との関わりを大切にしてほしい。
PSWにできるのは、人が自立していく、そのプロセスに寄り添っていくことだけであり、何かをしてあげるなどということはできない。来所する人達は、精神障害者である前に、それぞれ個性をもった人である。
あいさつだけはしっかりして、常識の範囲内で過ごしてほしい。
いろんな人を受け入れる柔軟さを身につけてほしい。
たくさんの宿題をもって帰ってほしい。
なにもしなければなにもないまま終わってしまう実習である。楽しかったで終わることができれば十分である。最初の緊張感と不安感を忘れないでほしい等、Y所長より話があった。」


 昨日と今日、カフェ、コンビニ、郵便局、病院とかなり自転車で走りました。

 お疲れ様でしたね、自分。

 いつまでも冷たい風ばかりじゃない、きっとやさしい風も吹いてくるよ、