「ピュアなパッション か、現実的な着地か。このバランスは難しいところです。モンゴメリーは、シェークスピアのような文豪と自分は違う、ということを言っています。彼女は『 赤毛のアン』の中でアンの「純金」のような青春時代を描きました。美しく純真で、眩いばかりの少女時代、一瞬で過ぎ去ってしまう子ども時代を。
しかしシェークスピアは、その先を描きます。モンゴメリーが描いた青春時代、その後のことを彼は描いている。いわゆる「大人」の世界です。だから彼の「舞台」には、いろいろな人物が行きかい、さまざまなことが起こる。彼は社会を描き、世界を描く。それがいわゆる文豪が描く「大人の文学」なのです。
モンゴ メリー とシェークスピアの違いはそこにあります。彼女が描くのはそれ以前の世界-大人の世界に着地する前の-青春時代を描いた。だからこそ、彼女はその後の文学的展開に苦しんだのです。
自伝を読んでいても、彼女の作家として登りつめたいという気持ちは、非常にピュアで強いものです。でもその上昇志向だけでは、やはり傑作は生まれない。モンゴメリーが描いた青春時代にプラスして、デカダンスを書かなくてはならないからです。人生における美しい側面も、あるいは目を向けたくなるような醜い側面も、全てを含めたこの世界というものを描ききらないと、やはり「大人の文学」にはならないのです。
そのため、モンゴメリーがそういう本格的な文学を書かなかった、あるいは書けなかった理由と、『赤毛のアン』が魅力的な小説として存在している理由というのは、おそらく同じものです。ある人はこの小説をいとおしいと思い、ある人は一種の恥ずかしさを感じてしまう。その源はたぶん一緒で、アンが持つまっすぐさやひたむきさが、あまりにも純真でまぶしすぎることが原因だと思います。それがあまりにも美しく輝いているものだから、いろいろ汚れてしまったこの世の中にあっては、『赤毛のアン』のような小説を好きだと正面きって断言するのは、どこか恥ずかしいことのように感じてしまう。誰でも、高校時代などの青春期には、『赤毛のアン』のようなまぶしい小説を読んでいるより、太宰治の『人間失格』や『斜陽』などを読んでいるのが格好いいと思うものです。だけど、太宰治は決して幸福になる方法を書いているわけではなくて、むしろ不幸になる方法を書いている。もちろん、その不幸を不幸として味わうという、文学の伝統もあるわけだから、一概に良い悪いと論じられる問題ではありません。ただ、太宰では幸せにはなれない 。彼の文学は、極論すれば不幸になる方法だからです。しかし太宰に限らず、大抵の 立派な「大人」の文学とは、そのような不幸の方法論であることが多い。それこそ、トルストイの言葉、「幸せの形は皆似ているが、不幸の形は人それぞれ」ではありませんが、えてして文学とは、さまざまな不幸の形を、微に入り細を穿(うが)ち描くものなのです。
『赤毛のアン』はその点が根本的に違うのです。仮にモンゴメリーがアンの純真さを失わせる。アンに、青春後に訪れるかもしれない人生の苦労を味わわせる。そういうときがもし仮に来たとしたら、そのときは、この小説がいわゆる「大人」の文学になるのかもしれません。しかしモンゴメリーはそうしなかっ た。アンはあくまで純粋で、ひたむきであらねばならなかった。永遠の青春時代というものに、留まり続ける必然的な理由があったのです。なぜならモンゴメリーは、この小説の中で幸福の形を描きたかったからです。幸福論。幸福であり続けるための方法。たしかに大人になるということは大変です。さまざまな苦難が待ち受けている。また、そのような苦楽ない混ぜになった生活の中でこそ味わえる、「底光りするような日常」というものもあり、それをしっかりと描いた文学もあるでしょう。けれども、アンの世界では、そこは描かないことになっている。幸福というのは、最後にそこに至るまでの道筋がとても大切なのであって、そこだけをモンゴメリーは抽出して描いたのです。
そしてまた、このようなことは結局は人間の分水嶺だと思います。人として 、あるいは生き方の方向性としての分水嶺。人生のどういう側面をより意識して生きていくかという、その選択の分かれ道。
普通は子ども時代を過ぎて世の中に出ると、やさぐれていきます。ところが、アンは決してやさぐれません。ではモンゴメリーはどうだったかというと、たぶん彼女はやさぐれるときもあったでしょう。そもそも当時のカナダのプリンス・エドワード島という田舎で、しかも女性が作家を目指す。その選択をしただけで充分彼女にとっては「険しい道」だったわけだし、成功した後は、それはそれで沢山の苦労をしています。家族問題もあったし、また作家として、自分の作品の扱いについての訴訟問題も起こしています。一人の人間として、女性として、そして作家として、さまざまな葛藤が渦巻いていたはずです。
だから、彼女が「大人」の社会の醜い面を一切見ないで、人生を通過できたかというと、決してそんなことはない。けれどもそれを『赤毛のアン』には描かなかった。
彼女の中にある、真に澄んだ真水の部分。そこを描いた。そこにモンゴメリーの非凡さがあるのです。」
(茂木健一郎著『赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法』講談社文庫、182-186頁より)
しかしシェークスピアは、その先を描きます。モンゴメリーが描いた青春時代、その後のことを彼は描いている。いわゆる「大人」の世界です。だから彼の「舞台」には、いろいろな人物が行きかい、さまざまなことが起こる。彼は社会を描き、世界を描く。それがいわゆる文豪が描く「大人の文学」なのです。
モンゴ メリー とシェークスピアの違いはそこにあります。彼女が描くのはそれ以前の世界-大人の世界に着地する前の-青春時代を描いた。だからこそ、彼女はその後の文学的展開に苦しんだのです。
自伝を読んでいても、彼女の作家として登りつめたいという気持ちは、非常にピュアで強いものです。でもその上昇志向だけでは、やはり傑作は生まれない。モンゴメリーが描いた青春時代にプラスして、デカダンスを書かなくてはならないからです。人生における美しい側面も、あるいは目を向けたくなるような醜い側面も、全てを含めたこの世界というものを描ききらないと、やはり「大人の文学」にはならないのです。
そのため、モンゴメリーがそういう本格的な文学を書かなかった、あるいは書けなかった理由と、『赤毛のアン』が魅力的な小説として存在している理由というのは、おそらく同じものです。ある人はこの小説をいとおしいと思い、ある人は一種の恥ずかしさを感じてしまう。その源はたぶん一緒で、アンが持つまっすぐさやひたむきさが、あまりにも純真でまぶしすぎることが原因だと思います。それがあまりにも美しく輝いているものだから、いろいろ汚れてしまったこの世の中にあっては、『赤毛のアン』のような小説を好きだと正面きって断言するのは、どこか恥ずかしいことのように感じてしまう。誰でも、高校時代などの青春期には、『赤毛のアン』のようなまぶしい小説を読んでいるより、太宰治の『人間失格』や『斜陽』などを読んでいるのが格好いいと思うものです。だけど、太宰治は決して幸福になる方法を書いているわけではなくて、むしろ不幸になる方法を書いている。もちろん、その不幸を不幸として味わうという、文学の伝統もあるわけだから、一概に良い悪いと論じられる問題ではありません。ただ、太宰では幸せにはなれない 。彼の文学は、極論すれば不幸になる方法だからです。しかし太宰に限らず、大抵の 立派な「大人」の文学とは、そのような不幸の方法論であることが多い。それこそ、トルストイの言葉、「幸せの形は皆似ているが、不幸の形は人それぞれ」ではありませんが、えてして文学とは、さまざまな不幸の形を、微に入り細を穿(うが)ち描くものなのです。
『赤毛のアン』はその点が根本的に違うのです。仮にモンゴメリーがアンの純真さを失わせる。アンに、青春後に訪れるかもしれない人生の苦労を味わわせる。そういうときがもし仮に来たとしたら、そのときは、この小説がいわゆる「大人」の文学になるのかもしれません。しかしモンゴメリーはそうしなかっ た。アンはあくまで純粋で、ひたむきであらねばならなかった。永遠の青春時代というものに、留まり続ける必然的な理由があったのです。なぜならモンゴメリーは、この小説の中で幸福の形を描きたかったからです。幸福論。幸福であり続けるための方法。たしかに大人になるということは大変です。さまざまな苦難が待ち受けている。また、そのような苦楽ない混ぜになった生活の中でこそ味わえる、「底光りするような日常」というものもあり、それをしっかりと描いた文学もあるでしょう。けれども、アンの世界では、そこは描かないことになっている。幸福というのは、最後にそこに至るまでの道筋がとても大切なのであって、そこだけをモンゴメリーは抽出して描いたのです。
そしてまた、このようなことは結局は人間の分水嶺だと思います。人として 、あるいは生き方の方向性としての分水嶺。人生のどういう側面をより意識して生きていくかという、その選択の分かれ道。
普通は子ども時代を過ぎて世の中に出ると、やさぐれていきます。ところが、アンは決してやさぐれません。ではモンゴメリーはどうだったかというと、たぶん彼女はやさぐれるときもあったでしょう。そもそも当時のカナダのプリンス・エドワード島という田舎で、しかも女性が作家を目指す。その選択をしただけで充分彼女にとっては「険しい道」だったわけだし、成功した後は、それはそれで沢山の苦労をしています。家族問題もあったし、また作家として、自分の作品の扱いについての訴訟問題も起こしています。一人の人間として、女性として、そして作家として、さまざまな葛藤が渦巻いていたはずです。
だから、彼女が「大人」の社会の醜い面を一切見ないで、人生を通過できたかというと、決してそんなことはない。けれどもそれを『赤毛のアン』には描かなかった。
彼女の中にある、真に澄んだ真水の部分。そこを描いた。そこにモンゴメリーの非凡さがあるのです。」
(茂木健一郎著『赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法』講談社文庫、182-186頁より)
「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫) | |
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