「この劇の登場人物が、主人公二人の他、ロミオの友人二人、ティボルト、それにパリス伯を除けば、皆老人であることにも注目してよいだろう。若者だけが死んでいくのである。」
「若い二人は孤立無援の運命にさらされるが、二人は互いに敢然として運命に挑戦し、毅然とした態度で死を受け入れることにより、一体のものになろうとする。」
「特集ロミオとジュリエット-人間の永遠の夢- 黒川高志
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は1594年か1595年、作者30歳頃の作品である。この劇の筋書は、シェイクスピアの他の作品同様、彼の独創ではない。その背後には長い歴史がある。この劇に直接結びつく最初の物語は、1530年ヴェニスで印刷されたイタリヤ人ルイジ・ダ・ポルタの作であり、場所もヴェローナ、二人の恋人の名もロメオとジュリエッタである。しかしシェイクスピアの劇の直接の典拠は、ダ・ポルタの仏訳に依拠して書かれたアーサー・ブルックの四千行を超える長編物語詩『ロメウスとジュリエットの悲話』(1562年)である。シェイクスピアはこの既存の素材に変更を加えることにより、それを彼自身の芝居に作りかえたのである。即ち、彼は一瞬のうつに恋を燃焼し尽くして最期をとげる若い二人の一途な恋を際立たせるために、様々な修正を施して全く新しい彼自身のドラマを作りあげたのである。
第一に注目すべきことは、シェイクスピアが当初主人公のロミオを報われる恋に悩む幻想的青年として舞台に登場させていることである。ジュリエットに出会う前に、ロミオはロザラインという初恋の女性がいたのだが、彼の恋は相手に届かず、彼はかなわぬ恋の重荷にひしがれて、眠れぬ夜を切ない恋を空に描いて過ごしているのである。その姿はまさしく、ロマンスでは常套的な恋に悩む男、「恋に恋する」ペトラルカ風の恋人の姿である。しかもシェイクスピアはそのようなロミオの描写に、一幕のかなりの部分を当てているのである。冒頭でのそうした描写には、その後に展開されるロミオとジュリエットの真実の恋を対照的に際立たせんとした作者の意図が伺えるのである。またそこにはペトラルカ風の恋人に対する作者の揶揄も垣間見えている。度々指摘されることだが、ロミオがキャピュレット家の舞踏会で、初めてジュリエットに話しかけて口づけを交わす場面での二人の対話が、韻を踏んだ十四行詩ソネット形式になっている点にも、シェイクスピアのペトラルカ風十四行詩(男が女を讃美する恋愛詩)への挑戦的、あるいは批判的姿勢が伺えるのではなかろうか。何故なら、二人は恋におちた瞬間、ロミオは果敢な男性に、ジュリエットは成熟した女性にと一挙に変貌するからである。
第二に注目すべきことは、開幕冒頭の序詞役コーラスがが端的に述べているように、外部の運命的力、即ち人間の力を越えた偶然の出来事の連続が、この悲劇を動かし、若い二人を死へ追いやるということである。もしロミオが仲間の喧嘩に巻き込まれて、やむなくティボルトを刺殺することがなかったら、彼は追放されることもなかったであろう。もし修道士ロレンスの手紙がロミオの手に無事届いていたら、或いはもしジュリエットが仮死状態から目覚める時間がもう少し早かったら、或いはまたロミオが納骨堂に到着する時間がもう少し遅かったら、この悲劇は起こらなかったであろう。この悲劇を惹き起した要因は外部の運命的な力である。若い二人は運命的力に支配されながら、自分たちの責任でもない偶然の突発的事件にさいなまれつつ、悲劇的結末へと、凄まじい勢いで突き進んでいくのである。
第三に注目すべきは、この劇全体を通して見られるテンポの速さである。ブルックの物語詩では九カ月間の出来事を、シェイクスピアはわずか五日間の出来事に圧縮している。ロミオとジュリエットはそれぞれ、宿怨の間柄にあるヴェローナの二つの名家、モンタギューとキャピュレット家の息子と娘である。劇は両家の召使いたちの喧嘩で始まるが、それは七月中旬の或る日曜日の朝の出来事である。その夜にロミオとジュリエットは舞踏会で初めて出会い、その深夜に例のバルコニー場面がある。翌月曜日の午後、修道士の計らいで、二人は密かに結婚、一夜限りの逢瀬を楽しむ。翌火曜日の夜、伯爵との結婚を迫られたジュリエットが秘薬を飲み、翌朝、乳母が仮死状態の彼女を発見。そして木曜日の夜には二人は死んでいるのである。結末では二人は言葉を交わすことなく、ロミオが到着した時にはジュリエットは仮死状態にあり、彼女が目覚めた時には、すでにロミオは死んでいるのである。わずか五日間の出来事である。劇はまさに稲妻の如く迅速に、暗澹たる結末に向けて進行していくのである。こうした極端な事件の短縮も恋人たちの一途な恋の激しさを際立たせるための作者の巧みな技法なのである。
「火薬」とか「稲妻」についての言及が再三反復されていることにも注目してみよう。「あまりにも向こう見ずで、軽率で・・・稲妻のように、あっ光ったという間もなく消えてしまうよう」(二幕二場)とバルコニー場面でジュリエットは言う。また修道士はロミオに性急になり過ぎぬよう忠告して、「このような激しい喜びは、とかく激しい終りをとげるもの・・・丁度火と火薬のように、触れ合えば瞬時に吹き飛ぶ」(二幕六場)と言う。筋の急速な展開、そして若さゆえの情熱の恋、それがこの劇の顕著な特色である。シェイクスピアは、若い恋人同士の無鉄砲だが純粋で、愛の駆け引きも知らぬ、ひたむきな「真実の恋」を強調するために、原話では16歳であるジュリエットの年齢を13歳にまで引き下げるような工夫も施している。
第四に注目すべきことは、二人の恋を特徴づけるイメージとして、暗闇に瞬時に閃く光のイメージが用いられていることである。二人は互いに相手を暗闇の中の光になぞらえている。ロミオは初めてジュリエットを見た印象を「あの人はまるで松明に美しく輝く術すべを教えているよう」(一幕五場)と言う。また彼はジュリエットが横たわる納骨堂を「明り」と呼ぶ。何故なら「その美しさがこの納骨堂を光に満ちた宴の広間にしている」(五幕三場)からである。さらにジュリエットを描写したロミオの言葉「夜の頬に燦然と輝くあの人の姿は、まるで黒人娘の耳に垂れ下がる鮮やかな宝石」(一幕五場)も、同様の効果をもつイメージである。一方ジュリエットもロミオを「夜の太陽」と呼び、彼の死を想像して、もしそうなったら「連れていって細かく刻み、夜空にきらめく星にして」(三幕二場)と考えるのである。この場合、稲妻や、暗闇に閃く光が象徴するものは、一瞬にして燃焼し尽くした若い二人の激しい恋であり、人生における輝かしい青春であり、また儚いわれわれの人生そのものである。(略)他方、暗闇が象徴するものは、生あるものすべてに宿命づけられた「死」であり、また拮抗する両家の宿怨であり、さらには恋人たちを取り巻く人物たちの無知と偏見である。
最後に注目すべき点は、シェイクスピアが、若い二人の脇にマーキューシオや乳母のような粗野で世俗的な人物を配置したことである。それは純真と世俗の対置である。世俗が二人の純真を引き立て、彼らの超絶的な愛に現実感を与えているのである。ロミオの友人マーキューシオは徹底的な現実主義者であり、彼はロミオのロマンティックな恋を嘲笑し、恋や恋人たちにつてい卑猥な冗談を言う。乳母もまた現実主義者であり、彼女は常識を重んじ、常識で物事を判断する。ジュリエットに対しては同情的だが、丁度マーキューシオが、ロミオの愛、即ち彼のロザラインへの愛とジュリエットへの愛の相違を理解できなかったと同様に、彼女もまたジュリエットの愛を理解できないのである。彼女はロミオが追放の身となると、にわかに彼を見捨てて、パリス伯をジュリエットに推賞し始める。「パリス様は立派な殿方です。・・・前の旦那様は亡くなったも同じ、生きておられても、御用に立たねば、これはもう死人も同然」と乳母は言う。その言葉には彼女の日和見的、俗物的根性が露呈している。結局マーキューシオも乳母も、共に恋人たちの純粋な愛の領域に入る資格を欠いているのである。
世間体を重んじる両親たちについても同じことが言える。とりわけ父親は、善良だが、旧式の父親であり、専制的で片意地な老人である。彼はジュリエットの純真な恋心を理解できず、ひたすらパリス伯との結婚を娘に強要する。しかも彼は単なる気紛れから、結婚式の日取りを木曜日から水曜日に繰り上げたのである。窮地に立たされたジュリエットは、母に助けを求めるが拒絶され、頼りにしていた乳母にも裏切れたのである。一人取り残されたジュリエットにできることと言えば、修道士の助言に従うことだけである。彼女は42時間効能があるとの修道士の言葉を信じて秘薬を飲み、仮死状態となるのである。ロレンスは両家和解のきっかけになることを期待して、二人のために尽力したのだが、彼もまた老人であり、若者の恋については無知なのである。最後の段階で彼が納骨堂という死の領域から逃げ出すことによって、若い二人を見捨てていることは重要な意味を持っている。この劇の登場人物が、主人公二人の他、ロミオの友人二人、ティボルト、それにパリス伯を除けば、皆老人であることにも注目してよいだろう。若者だけが死んでいくのである。
若い二人は孤立無援の運命にさらされるが、二人は互いに敢然として運命に挑戦し、毅然とした態度で死を受け入れることにより、一体のものになろうとする。彼らが唇を重ねて死んでいく場面は、二人の愛が死において完全に結合をとげたことを示唆している。彼らの死によって両家の宿怨はとけ、ようやくヴェローナに平和がもたらされるのである。劇は悲劇的余韻を漂わせつつ幕を閉じるが、それは決して悲痛な結末ではない。死を克服することによって成就された若い二人の真実の愛は、青春の讃歌として、また人間の永遠の夢として、いつまでも語りつがれ、読みつがれ、演じ続けられることだろう。」
(慶応義塾大学通信教育教材『三色期』1995年3月号より)
「若い二人は孤立無援の運命にさらされるが、二人は互いに敢然として運命に挑戦し、毅然とした態度で死を受け入れることにより、一体のものになろうとする。」
「特集ロミオとジュリエット-人間の永遠の夢- 黒川高志
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は1594年か1595年、作者30歳頃の作品である。この劇の筋書は、シェイクスピアの他の作品同様、彼の独創ではない。その背後には長い歴史がある。この劇に直接結びつく最初の物語は、1530年ヴェニスで印刷されたイタリヤ人ルイジ・ダ・ポルタの作であり、場所もヴェローナ、二人の恋人の名もロメオとジュリエッタである。しかしシェイクスピアの劇の直接の典拠は、ダ・ポルタの仏訳に依拠して書かれたアーサー・ブルックの四千行を超える長編物語詩『ロメウスとジュリエットの悲話』(1562年)である。シェイクスピアはこの既存の素材に変更を加えることにより、それを彼自身の芝居に作りかえたのである。即ち、彼は一瞬のうつに恋を燃焼し尽くして最期をとげる若い二人の一途な恋を際立たせるために、様々な修正を施して全く新しい彼自身のドラマを作りあげたのである。
第一に注目すべきことは、シェイクスピアが当初主人公のロミオを報われる恋に悩む幻想的青年として舞台に登場させていることである。ジュリエットに出会う前に、ロミオはロザラインという初恋の女性がいたのだが、彼の恋は相手に届かず、彼はかなわぬ恋の重荷にひしがれて、眠れぬ夜を切ない恋を空に描いて過ごしているのである。その姿はまさしく、ロマンスでは常套的な恋に悩む男、「恋に恋する」ペトラルカ風の恋人の姿である。しかもシェイクスピアはそのようなロミオの描写に、一幕のかなりの部分を当てているのである。冒頭でのそうした描写には、その後に展開されるロミオとジュリエットの真実の恋を対照的に際立たせんとした作者の意図が伺えるのである。またそこにはペトラルカ風の恋人に対する作者の揶揄も垣間見えている。度々指摘されることだが、ロミオがキャピュレット家の舞踏会で、初めてジュリエットに話しかけて口づけを交わす場面での二人の対話が、韻を踏んだ十四行詩ソネット形式になっている点にも、シェイクスピアのペトラルカ風十四行詩(男が女を讃美する恋愛詩)への挑戦的、あるいは批判的姿勢が伺えるのではなかろうか。何故なら、二人は恋におちた瞬間、ロミオは果敢な男性に、ジュリエットは成熟した女性にと一挙に変貌するからである。
第二に注目すべきことは、開幕冒頭の序詞役コーラスがが端的に述べているように、外部の運命的力、即ち人間の力を越えた偶然の出来事の連続が、この悲劇を動かし、若い二人を死へ追いやるということである。もしロミオが仲間の喧嘩に巻き込まれて、やむなくティボルトを刺殺することがなかったら、彼は追放されることもなかったであろう。もし修道士ロレンスの手紙がロミオの手に無事届いていたら、或いはもしジュリエットが仮死状態から目覚める時間がもう少し早かったら、或いはまたロミオが納骨堂に到着する時間がもう少し遅かったら、この悲劇は起こらなかったであろう。この悲劇を惹き起した要因は外部の運命的な力である。若い二人は運命的力に支配されながら、自分たちの責任でもない偶然の突発的事件にさいなまれつつ、悲劇的結末へと、凄まじい勢いで突き進んでいくのである。
第三に注目すべきは、この劇全体を通して見られるテンポの速さである。ブルックの物語詩では九カ月間の出来事を、シェイクスピアはわずか五日間の出来事に圧縮している。ロミオとジュリエットはそれぞれ、宿怨の間柄にあるヴェローナの二つの名家、モンタギューとキャピュレット家の息子と娘である。劇は両家の召使いたちの喧嘩で始まるが、それは七月中旬の或る日曜日の朝の出来事である。その夜にロミオとジュリエットは舞踏会で初めて出会い、その深夜に例のバルコニー場面がある。翌月曜日の午後、修道士の計らいで、二人は密かに結婚、一夜限りの逢瀬を楽しむ。翌火曜日の夜、伯爵との結婚を迫られたジュリエットが秘薬を飲み、翌朝、乳母が仮死状態の彼女を発見。そして木曜日の夜には二人は死んでいるのである。結末では二人は言葉を交わすことなく、ロミオが到着した時にはジュリエットは仮死状態にあり、彼女が目覚めた時には、すでにロミオは死んでいるのである。わずか五日間の出来事である。劇はまさに稲妻の如く迅速に、暗澹たる結末に向けて進行していくのである。こうした極端な事件の短縮も恋人たちの一途な恋の激しさを際立たせるための作者の巧みな技法なのである。
「火薬」とか「稲妻」についての言及が再三反復されていることにも注目してみよう。「あまりにも向こう見ずで、軽率で・・・稲妻のように、あっ光ったという間もなく消えてしまうよう」(二幕二場)とバルコニー場面でジュリエットは言う。また修道士はロミオに性急になり過ぎぬよう忠告して、「このような激しい喜びは、とかく激しい終りをとげるもの・・・丁度火と火薬のように、触れ合えば瞬時に吹き飛ぶ」(二幕六場)と言う。筋の急速な展開、そして若さゆえの情熱の恋、それがこの劇の顕著な特色である。シェイクスピアは、若い恋人同士の無鉄砲だが純粋で、愛の駆け引きも知らぬ、ひたむきな「真実の恋」を強調するために、原話では16歳であるジュリエットの年齢を13歳にまで引き下げるような工夫も施している。
第四に注目すべきことは、二人の恋を特徴づけるイメージとして、暗闇に瞬時に閃く光のイメージが用いられていることである。二人は互いに相手を暗闇の中の光になぞらえている。ロミオは初めてジュリエットを見た印象を「あの人はまるで松明に美しく輝く術すべを教えているよう」(一幕五場)と言う。また彼はジュリエットが横たわる納骨堂を「明り」と呼ぶ。何故なら「その美しさがこの納骨堂を光に満ちた宴の広間にしている」(五幕三場)からである。さらにジュリエットを描写したロミオの言葉「夜の頬に燦然と輝くあの人の姿は、まるで黒人娘の耳に垂れ下がる鮮やかな宝石」(一幕五場)も、同様の効果をもつイメージである。一方ジュリエットもロミオを「夜の太陽」と呼び、彼の死を想像して、もしそうなったら「連れていって細かく刻み、夜空にきらめく星にして」(三幕二場)と考えるのである。この場合、稲妻や、暗闇に閃く光が象徴するものは、一瞬にして燃焼し尽くした若い二人の激しい恋であり、人生における輝かしい青春であり、また儚いわれわれの人生そのものである。(略)他方、暗闇が象徴するものは、生あるものすべてに宿命づけられた「死」であり、また拮抗する両家の宿怨であり、さらには恋人たちを取り巻く人物たちの無知と偏見である。
最後に注目すべき点は、シェイクスピアが、若い二人の脇にマーキューシオや乳母のような粗野で世俗的な人物を配置したことである。それは純真と世俗の対置である。世俗が二人の純真を引き立て、彼らの超絶的な愛に現実感を与えているのである。ロミオの友人マーキューシオは徹底的な現実主義者であり、彼はロミオのロマンティックな恋を嘲笑し、恋や恋人たちにつてい卑猥な冗談を言う。乳母もまた現実主義者であり、彼女は常識を重んじ、常識で物事を判断する。ジュリエットに対しては同情的だが、丁度マーキューシオが、ロミオの愛、即ち彼のロザラインへの愛とジュリエットへの愛の相違を理解できなかったと同様に、彼女もまたジュリエットの愛を理解できないのである。彼女はロミオが追放の身となると、にわかに彼を見捨てて、パリス伯をジュリエットに推賞し始める。「パリス様は立派な殿方です。・・・前の旦那様は亡くなったも同じ、生きておられても、御用に立たねば、これはもう死人も同然」と乳母は言う。その言葉には彼女の日和見的、俗物的根性が露呈している。結局マーキューシオも乳母も、共に恋人たちの純粋な愛の領域に入る資格を欠いているのである。
世間体を重んじる両親たちについても同じことが言える。とりわけ父親は、善良だが、旧式の父親であり、専制的で片意地な老人である。彼はジュリエットの純真な恋心を理解できず、ひたすらパリス伯との結婚を娘に強要する。しかも彼は単なる気紛れから、結婚式の日取りを木曜日から水曜日に繰り上げたのである。窮地に立たされたジュリエットは、母に助けを求めるが拒絶され、頼りにしていた乳母にも裏切れたのである。一人取り残されたジュリエットにできることと言えば、修道士の助言に従うことだけである。彼女は42時間効能があるとの修道士の言葉を信じて秘薬を飲み、仮死状態となるのである。ロレンスは両家和解のきっかけになることを期待して、二人のために尽力したのだが、彼もまた老人であり、若者の恋については無知なのである。最後の段階で彼が納骨堂という死の領域から逃げ出すことによって、若い二人を見捨てていることは重要な意味を持っている。この劇の登場人物が、主人公二人の他、ロミオの友人二人、ティボルト、それにパリス伯を除けば、皆老人であることにも注目してよいだろう。若者だけが死んでいくのである。
若い二人は孤立無援の運命にさらされるが、二人は互いに敢然として運命に挑戦し、毅然とした態度で死を受け入れることにより、一体のものになろうとする。彼らが唇を重ねて死んでいく場面は、二人の愛が死において完全に結合をとげたことを示唆している。彼らの死によって両家の宿怨はとけ、ようやくヴェローナに平和がもたらされるのである。劇は悲劇的余韻を漂わせつつ幕を閉じるが、それは決して悲痛な結末ではない。死を克服することによって成就された若い二人の真実の愛は、青春の讃歌として、また人間の永遠の夢として、いつまでも語りつがれ、読みつがれ、演じ続けられることだろう。」
(慶応義塾大学通信教育教材『三色期』1995年3月号より)