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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(1)

2021年11月10日 12時32分25秒 | 本あれこれ
小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-姉は国と夫に詫びて死んだ(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/81f543d30a1d7356d4f785e2daf286e3



「「大型の機械時計の発達は、市民を支配する領主側にとって好都合なものである。広場に建てられた巨大な時計のしめす時刻は、全市民に共通の時間となった。市民たちは同時性を確保する手段を与えられたのである。この同時性の贈物によって、ひとつの都市は共通の時間の流れによって管理されるものとなる。」(吉田光邦『時から時計へ』平凡社カラー新書、1975年」

 つまり、「かつてはせいぜい今の二時間ぐらいの単位時間を指示し所有することが、領主たちの権力のシンボルであった。」という。だから、初期の時計には分針はなく、一本の時針のみであったともいう。だが、いまや秒単位なのである。

「人間がこのようにこまかに分割された時間のなかで生きようとするのは、実は人間のすべての行動が秒単位で管理されつつることの証明でもある。」(前同)

「時は金なり」という諺がある。「時」をムダにしてはならない。なぜならわたしたちは限りある人生をいきているのだから、という意味でもあろう。すべて、金に換算されるこの世では、金がなくては生きられない。金を得るために、人は昨日もきょうも働いているように、その金銭に値するほどにも「時間」は貴重なのだという意味も含まれていよう。金銭に値するほどにも「時」は大切なのだという場合の「時」は大切なのだという場合の「時」は「金かね」に従属するものとして、例えられる。

 それは現代の労働なり仕事なりが、金銭を得るために働いているのだと、つい口にしたくなるほど、人の気持ちにそぐわないところで成り立っているのと同じである。金銭を得るためにではなく、人は手足を動かし、なにかを作り出していなければ、この世ではとうてい間が持たないのではあった。それが、いまは逆である。

「金さえあれば、こったに朝暗いうちから夜おそくまで働いて苦労すねェ」とは、貧乏をなめつくした、父からも母からも聞いた言葉である。

「時は金なり」と「時」を「金」に従属させる例えが示すように「時」を「金」に比較させることが、そもそも第一の轍を踏んだことの結果ではなかったかという気がする。

「地獄の沙汰も金しだい」というほどに「金」に力を持たせたがゆえに「地獄」を見るのだということは、予期せぬことであった。

「金」の虜になった人々のエピソードは絶えない。人はそれを口の上であやつり、ほんろうし、次の者に耳打ちする。

 上のT老人は、物を売ると紙幣ではなく、必ず硬貨に換えてもらった。硬貨がたまると夫婦で目方を計るのである。紙幣を数えるのではなく、夜半、夫婦で金の重さを計っているのである。その目はつりあがっているか、しだいに光をおびていったか、どちらかであろう。

 ある日、T老人は袋につめた硬貨を農業用一輪車に乗せてどこかへ持って行った。農業用一輪車に肥料その他ならいざしらず、硬貨の袋が積まれたということ自体、好奇心をそそるものであった。持って出かけた二日後にT老人は死んだのである。あの金の袋はどこへ・・・。これは上の人々にとって、いまだに謎である。

 春右ェ門さんは、地元の農協支所には貯金をしない。町なかの本所までわざわざやってくる。その貯金額とは逆に、身なりの貧しさは人一倍である。シャツの袖口もすり切れたままである。その袖口が出したお茶に入るのではないかと思う手つきで、ずるずるとお茶をすする。書き替えるたびにその定期の貯金額は多くなる。その証書(たかが一枚の紙片というなかれ)を古新聞に包む。息子のために蓄積された額かと思っていた長男は、30代の半ばで事故死した。だが、この20年近く春右ェ門さんの動作はつづいている。

 この頃は、大分からだもよかったのか、血圧が高いのだといい、花巻方面に行く者があったら、車に乗せてくれというのである。雪も降ってきたし、歩くのが大儀だという。ハイヤーを呼びますかと係の者が言う前に、乗せてくれなければ、わざわざここまで来て、貯金する気はないのだと、鼻水をすすりあげた。

 「金」の虜にならずとも、「金銭」が介在すると、視えなくなる関係というものがある。」

        (2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、118-120頁より) 

『ちひろのアンデルセン』より-「アンデルセンいろいろ」

2021年11月10日 00時35分49秒 | いわさきちひろさん


「わたしは、仕事の性質上、たくさんの童話を読むけれど、わたしの好きな童話というのは、あくまでも自分の絵に都合よくできているものばかりである。詩のようにことばの短く、うつくしく、いろいろなことを思いうかべることのできる、そんなものが好きである。

 たとえ(文章で)克明に書いてあってもなお、わたしが描きよいものに、アンデルセンの童話のいくつかがある。「マッチ売りの少女」とか、いろいろなおひめさま、魔女たちに、わたしは、それぞれのイメージをつくり、それをすこしずつ発展させながら、なんかいかいたことだろう。なんかいかいても、なお工夫するたのしさを、わたしはいまだに失わないでいる。

                                      ちひろ・1964年」