小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/200cdef5a8381cf4e9b429b893ad11c1
「千葉青年(25歳)は次男である。しばらく前までは家の百姓仕事をやっていた。老いた両親と三人で農作業に精を出す。兄は教師である。兄嫁も教師である.千葉青年は京都の大学で学び帰ってきた。農作業をやることに苦痛はない。だが次男であるから「家」を継ぎ農業をするということにはならない。両親は長兄が帰ってくることを信じている。長兄に老後を見てもらうことは、あたりまえのことであった。弟に家業を継がせることで揉め事は起こしたくない。家の中の揉め事を外に晒すことは出来ない。
千葉青年は家の内にかもされるそうした空気のなかで、いつまでも家にはいられないなと思う。それで外に出て働くことにした。県庁の臨時職員で古墳発掘作業の助手の仕事である。発掘作業の根拠地は、この町の菊池屋旅館であるから、ときどきしか家に帰らない。千葉青年の手伝いは少なくなった。
老いた両親を見かねて、今年の四月から兄が家から通勤すると言いだした。兄の子どもは来たが兄嫁は来ない。兄嫁は一度も百姓仕事に手を染めたことがない。兄は学校に行く朝めし前と、学校から帰っての夕方、農作業をやる。朝、兄の出かける時間に合わせて、父も母も動き出す.子どもが来たので子どもの動きも目に入る。子どもは夕方になると腹がすく。すると老母は孫が気になりだす。兄もそろそろ帰ってくるだろう。農作業のみに精を出してはいられない。いままで老父母が自分たちの身体に合わせた時間で、朝から夕方まであまり急ぐこともなくやっていた農作業のリズムが壊れてゆく。勤めの兄の時間に合わせて、家々のリズムがまわり、みなどこか落着かない。いらだたしい気持を抑えている。
身体に密着していた時間が剥ぎとられてゆく。
(『くらし』第28号、1975年3月)
いままで老父母が自分たちの身体に合わせた時間で、あまり急ぐこともなくやっていた、農作業のリズムう場合の、この身体に合わせた時間とは、管理されていない時間である。「農村婦人の過重労働」といみきらった肉体の酷使にさえ、自分の身体に合わせたリズムというものがあったのではないかと思えてくる。
(略)
勤めの兄の時間に合わせることによって、農業を営む家のリズムが壊れて行く。「勤めのリズム」とは、管理されたリズムである。タイムカードのリズムであり、思考の小間切れとわたしが嘆くリズムである。レイレに立つ時間も何円の損失となりかねないリズムであり、生身のからだから「時間」を剝ぎ取って売る時間である。
農業の破壊とは、この時間リズムの破壊ではなかったろうか。つまり、農業の持つ自然のリズムは一時間何円と換算出来るものであったろうか。
自ら酪農経営をやってみて、岡田米雄氏は「農作物を商品にするな」と唱えている。
もちろん、岡田氏とて、いまの世の中で、「化学肥料や農薬を使えば人手が省けるし、生産量も急増する」。農民が農業で生きてゆくためには、そうしなければならないことを承知でいうのである。承知のうえで、化学肥料や農薬を使ってまで農産物を増産し、生産過剰でいじめぬかれる愚行は自給自足経営ならおこりようもなかったと前置きし、それが、資本主義体制にまきこまれて、農産物を商品として売買するようになってから、農民は、ニセモノをつくり出し、農業を否定する結果になったと私は思う。
農産物は、他の工業製品とちがって、これは、人間のいのちそのものだ。従って、人間が他の何よりもされるなら食べ物も人間同僚、他の何よりも尊重されるべきだ。ということは、コスト高だから化学肥料や農薬を使おうということは許されず、本質的には、本物の農産物を人間に供給するためには、コストのいかんにかかわらず、本物農産物を生産し人間に供給しなければならないはずだ。人間の命を救うのに、金がないから救えないことが罪悪であると同じに、こすと如何によって農産物を生産するのも罪悪であろう。つまりは、人間が非合理的なものであるように、農産物も非合理的なものであり、合理化されえず、商品化されないものである。農業経営は、企業として成立たせてはいけないのだ。そして、農産物は、商品として売買されてはいけないのである。
(『思想の科学』1970年4月号より)
「村」のうちに流れていたリズムの破壊とは、農業(自然)のリズムの破壊でもある。それは、とりもなおさず女の持つ体内(自然)のリズムの破壊でもあった¨。いや、そうではなく、女の持つ体内(自
然)のリズムの破壊こそが、農業(自然)のリズムの破壊と、イコールをなしていたのである。
この世は男の論理によって統轄されているという。その論理が、「経営の規模拡大」であり、効率万能であり、利益の追求であるなら、女の体内(自然)のリズムは、その論理の装甲によって、引き裂かれ潰されていったイメージである。
「子どもを生む生まぬは私的なことで、生まぬと自ら決めてかかる女ゴたちが現われるに至っても、生めよふやせよと号令をかける訳にはいかぬだろう。ただ子供を生む女子を生む女子(人間)などは、どんどん切り捨てて、企業をどんどん優先させてまで、人類はどこに行くつもりなのかと思えてくるのである。きょうは、豊八どのの嫁ゴが子供を生む日だからといって、企業が、人類が総出で日なたぼっこをしていたら、宇宙征服の秒読みにおくれるというのだろうか。核実験の競争におくれるというのだろうか。」(「現代の青田売りについて」1970年)と、かつてわたしはこう書き止めて、この世の論理(男の論理というべきか)に疑義を申し立てた。」
(2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、125-128頁より)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/200cdef5a8381cf4e9b429b893ad11c1
「千葉青年(25歳)は次男である。しばらく前までは家の百姓仕事をやっていた。老いた両親と三人で農作業に精を出す。兄は教師である。兄嫁も教師である.千葉青年は京都の大学で学び帰ってきた。農作業をやることに苦痛はない。だが次男であるから「家」を継ぎ農業をするということにはならない。両親は長兄が帰ってくることを信じている。長兄に老後を見てもらうことは、あたりまえのことであった。弟に家業を継がせることで揉め事は起こしたくない。家の中の揉め事を外に晒すことは出来ない。
千葉青年は家の内にかもされるそうした空気のなかで、いつまでも家にはいられないなと思う。それで外に出て働くことにした。県庁の臨時職員で古墳発掘作業の助手の仕事である。発掘作業の根拠地は、この町の菊池屋旅館であるから、ときどきしか家に帰らない。千葉青年の手伝いは少なくなった。
老いた両親を見かねて、今年の四月から兄が家から通勤すると言いだした。兄の子どもは来たが兄嫁は来ない。兄嫁は一度も百姓仕事に手を染めたことがない。兄は学校に行く朝めし前と、学校から帰っての夕方、農作業をやる。朝、兄の出かける時間に合わせて、父も母も動き出す.子どもが来たので子どもの動きも目に入る。子どもは夕方になると腹がすく。すると老母は孫が気になりだす。兄もそろそろ帰ってくるだろう。農作業のみに精を出してはいられない。いままで老父母が自分たちの身体に合わせた時間で、朝から夕方まであまり急ぐこともなくやっていた農作業のリズムが壊れてゆく。勤めの兄の時間に合わせて、家々のリズムがまわり、みなどこか落着かない。いらだたしい気持を抑えている。
身体に密着していた時間が剥ぎとられてゆく。
(『くらし』第28号、1975年3月)
いままで老父母が自分たちの身体に合わせた時間で、あまり急ぐこともなくやっていた、農作業のリズムう場合の、この身体に合わせた時間とは、管理されていない時間である。「農村婦人の過重労働」といみきらった肉体の酷使にさえ、自分の身体に合わせたリズムというものがあったのではないかと思えてくる。
(略)
勤めの兄の時間に合わせることによって、農業を営む家のリズムが壊れて行く。「勤めのリズム」とは、管理されたリズムである。タイムカードのリズムであり、思考の小間切れとわたしが嘆くリズムである。レイレに立つ時間も何円の損失となりかねないリズムであり、生身のからだから「時間」を剝ぎ取って売る時間である。
農業の破壊とは、この時間リズムの破壊ではなかったろうか。つまり、農業の持つ自然のリズムは一時間何円と換算出来るものであったろうか。
自ら酪農経営をやってみて、岡田米雄氏は「農作物を商品にするな」と唱えている。
もちろん、岡田氏とて、いまの世の中で、「化学肥料や農薬を使えば人手が省けるし、生産量も急増する」。農民が農業で生きてゆくためには、そうしなければならないことを承知でいうのである。承知のうえで、化学肥料や農薬を使ってまで農産物を増産し、生産過剰でいじめぬかれる愚行は自給自足経営ならおこりようもなかったと前置きし、それが、資本主義体制にまきこまれて、農産物を商品として売買するようになってから、農民は、ニセモノをつくり出し、農業を否定する結果になったと私は思う。
農産物は、他の工業製品とちがって、これは、人間のいのちそのものだ。従って、人間が他の何よりもされるなら食べ物も人間同僚、他の何よりも尊重されるべきだ。ということは、コスト高だから化学肥料や農薬を使おうということは許されず、本質的には、本物の農産物を人間に供給するためには、コストのいかんにかかわらず、本物農産物を生産し人間に供給しなければならないはずだ。人間の命を救うのに、金がないから救えないことが罪悪であると同じに、こすと如何によって農産物を生産するのも罪悪であろう。つまりは、人間が非合理的なものであるように、農産物も非合理的なものであり、合理化されえず、商品化されないものである。農業経営は、企業として成立たせてはいけないのだ。そして、農産物は、商品として売買されてはいけないのである。
(『思想の科学』1970年4月号より)
「村」のうちに流れていたリズムの破壊とは、農業(自然)のリズムの破壊でもある。それは、とりもなおさず女の持つ体内(自然)のリズムの破壊でもあった¨。いや、そうではなく、女の持つ体内(自
然)のリズムの破壊こそが、農業(自然)のリズムの破壊と、イコールをなしていたのである。
この世は男の論理によって統轄されているという。その論理が、「経営の規模拡大」であり、効率万能であり、利益の追求であるなら、女の体内(自然)のリズムは、その論理の装甲によって、引き裂かれ潰されていったイメージである。
「子どもを生む生まぬは私的なことで、生まぬと自ら決めてかかる女ゴたちが現われるに至っても、生めよふやせよと号令をかける訳にはいかぬだろう。ただ子供を生む女子を生む女子(人間)などは、どんどん切り捨てて、企業をどんどん優先させてまで、人類はどこに行くつもりなのかと思えてくるのである。きょうは、豊八どのの嫁ゴが子供を生む日だからといって、企業が、人類が総出で日なたぼっこをしていたら、宇宙征服の秒読みにおくれるというのだろうか。核実験の競争におくれるというのだろうか。」(「現代の青田売りについて」1970年)と、かつてわたしはこう書き止めて、この世の論理(男の論理というべきか)に疑義を申し立てた。」
(2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、125-128頁より)