『東北歴史紀行』より-「萩盛り<津軽の野辺>」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7d37df113c175dda0d5b4e4abc123bab
「古くて新しいもの。東北ではこの歴史の格言を、いたましく、生々しい体験としておもいおこさざるをえない現実があります。それは津波です。津波は最近にもあって、記憶に新たなところです。太平洋側には、チリ地震津波がありました。日本海側には、中部日本海地震による津波がありました。しかし、三陸海岸を、明治29年・昭和8年の二回にわたっておそった大津波は、空前のものでした。世界的な大津波として、歴史を震撼させたのです。今日では、三陸海岸といえば、リアス式海岸として、ただその美しさだけをながめ楽しむ観光地と考えられています。しかし、ここには、その美しさを、一瞬にして地獄の様相に変じてしまう。魔性のような歴史的自然があったのです。われわれは、リアス式海岸の美しさのかげに、そういう冷厳な三陸海岸を凝視する目を失ってはならないのです。
実際、そのようにして、三陸の海の美しさを愛するがゆえに、その美しさの裏としての悲劇の深刻さからも目をそむけることができなくなって、その津波の実態の探求に入った人がいるのです。作家の吉村昭氏です。『三陸海岸大津波』はその調査報告にあたるものです。どのような目で、この美しい景色の裏の業(ごう)のような歴史を見つめるべきであるかを知っていただくために、この本の短いまえがきを紹介します。
「私は何度か三陸海岸を旅している。海岸線をたどったり、海上に舟を出して断崖の凄絶な美しさを見上げたこともある。小説の舞台に三陸海岸を使ったことがあるが、いつの頃からか津波のことが妙に気にかかりだした」
吉村氏はそう書き出されて、身の毛もよだつような生々しい体験談の紹介に入ります。
「ある婦人の体験談に、津波に追われながらふりむいた時、二階家の屋根の畝にそそり立った波が、のっと突き出ていた。深夜のことなので、波は黒々としていたが、その頂は、歯列をむき出したように、水しぶきで白くみえたという」
吉村氏は、この話に触発されて、津波のことを調べはじめたのです。そして「津波の資料を集め、体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残しておきたい気持ちにもなった」。この本はそのようにして、旅行が歴史になった本です。氏がことわっておられるように、これは専門の研究ではありません。しかし津波のすさまじさを丹念に堀りおこされている点においては、りっぱに歴史の真実に届いている書です。
明治29年6月15日午後8時。世界史上第二位、日本最大という津波が、旧暦5月5日の節句を祝っている三陸沿岸の人々の家と命とを、あっという間にのみこんでしまったのです。宮城県の被害は死者3452名・流失家屋3121戸、青森県は死者343名でした。最も深刻だった岩手県では、死者実に2万2565名・負傷者6779名・流失家屋6156戸に達したというのです。波の高さは10~15メートルと推定されていますけれども、いや、そんなことではない、という有力な証言を、吉村氏は岩手県下閉伊郡田野畑村(宮古市の北)の一老人の体験談から聞き出しています。「40メートル、いや50メートルもあるかな。」小高い丘の上にある家の庭先までおしよせた津波到達の地点をさし、はるか下にひろがる海面とみくらべながら、その老人は少年時の体験を回想しながら、立ち合いの村長と、こもごもそんなふうに体験を語ったというのです。まことに想像を絶する歴史です。
この大津波の教訓は十分に生かされませんでした。それから37年して、まったく同じ地点の、同規模の地震によって、昭和8年3月3日午前3時、三陸海岸は同じ悲劇をくりかえすことになったのです。被害は、死者が三陸三県(青森・岩手・宮城)剛健2995名・負傷者1096名。家屋流失4885戸・倒壊2256戸・浸水4147戸。明治29年ほどではありませんでした。それにしても、あれだけの大惨事があってのちの被害であるだけに、これはいたましすぎる犠牲といわなくてはなりません。
明治29年の津波は、旧暦5月5日の節句の夜でした。昭和8年は新暦3月3日。各戸ではひな人形を飾り、今日は晴れてのひな祭りという日の未明でした。一番たのしい日が、一番不幸な日になってしまったのです。しかも二度までそうだったのです。三陸の歴史、東北の歴史の奥深い悲劇性が、そこに象徴されているように思えてなりません。
東北歴史紀行は、こういう苦難にたえてきた人たちの歴史をほりおこして、新しい日本史の展望を開く未知の奥探訪の旅でした。」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7d37df113c175dda0d5b4e4abc123bab
「古くて新しいもの。東北ではこの歴史の格言を、いたましく、生々しい体験としておもいおこさざるをえない現実があります。それは津波です。津波は最近にもあって、記憶に新たなところです。太平洋側には、チリ地震津波がありました。日本海側には、中部日本海地震による津波がありました。しかし、三陸海岸を、明治29年・昭和8年の二回にわたっておそった大津波は、空前のものでした。世界的な大津波として、歴史を震撼させたのです。今日では、三陸海岸といえば、リアス式海岸として、ただその美しさだけをながめ楽しむ観光地と考えられています。しかし、ここには、その美しさを、一瞬にして地獄の様相に変じてしまう。魔性のような歴史的自然があったのです。われわれは、リアス式海岸の美しさのかげに、そういう冷厳な三陸海岸を凝視する目を失ってはならないのです。
実際、そのようにして、三陸の海の美しさを愛するがゆえに、その美しさの裏としての悲劇の深刻さからも目をそむけることができなくなって、その津波の実態の探求に入った人がいるのです。作家の吉村昭氏です。『三陸海岸大津波』はその調査報告にあたるものです。どのような目で、この美しい景色の裏の業(ごう)のような歴史を見つめるべきであるかを知っていただくために、この本の短いまえがきを紹介します。
「私は何度か三陸海岸を旅している。海岸線をたどったり、海上に舟を出して断崖の凄絶な美しさを見上げたこともある。小説の舞台に三陸海岸を使ったことがあるが、いつの頃からか津波のことが妙に気にかかりだした」
吉村氏はそう書き出されて、身の毛もよだつような生々しい体験談の紹介に入ります。
「ある婦人の体験談に、津波に追われながらふりむいた時、二階家の屋根の畝にそそり立った波が、のっと突き出ていた。深夜のことなので、波は黒々としていたが、その頂は、歯列をむき出したように、水しぶきで白くみえたという」
吉村氏は、この話に触発されて、津波のことを調べはじめたのです。そして「津波の資料を集め、体験談をきいてまわるうちに、一つの地方史として残しておきたい気持ちにもなった」。この本はそのようにして、旅行が歴史になった本です。氏がことわっておられるように、これは専門の研究ではありません。しかし津波のすさまじさを丹念に堀りおこされている点においては、りっぱに歴史の真実に届いている書です。
明治29年6月15日午後8時。世界史上第二位、日本最大という津波が、旧暦5月5日の節句を祝っている三陸沿岸の人々の家と命とを、あっという間にのみこんでしまったのです。宮城県の被害は死者3452名・流失家屋3121戸、青森県は死者343名でした。最も深刻だった岩手県では、死者実に2万2565名・負傷者6779名・流失家屋6156戸に達したというのです。波の高さは10~15メートルと推定されていますけれども、いや、そんなことではない、という有力な証言を、吉村氏は岩手県下閉伊郡田野畑村(宮古市の北)の一老人の体験談から聞き出しています。「40メートル、いや50メートルもあるかな。」小高い丘の上にある家の庭先までおしよせた津波到達の地点をさし、はるか下にひろがる海面とみくらべながら、その老人は少年時の体験を回想しながら、立ち合いの村長と、こもごもそんなふうに体験を語ったというのです。まことに想像を絶する歴史です。
この大津波の教訓は十分に生かされませんでした。それから37年して、まったく同じ地点の、同規模の地震によって、昭和8年3月3日午前3時、三陸海岸は同じ悲劇をくりかえすことになったのです。被害は、死者が三陸三県(青森・岩手・宮城)剛健2995名・負傷者1096名。家屋流失4885戸・倒壊2256戸・浸水4147戸。明治29年ほどではありませんでした。それにしても、あれだけの大惨事があってのちの被害であるだけに、これはいたましすぎる犠牲といわなくてはなりません。
明治29年の津波は、旧暦5月5日の節句の夜でした。昭和8年は新暦3月3日。各戸ではひな人形を飾り、今日は晴れてのひな祭りという日の未明でした。一番たのしい日が、一番不幸な日になってしまったのです。しかも二度までそうだったのです。三陸の歴史、東北の歴史の奥深い悲劇性が、そこに象徴されているように思えてなりません。
東北歴史紀行は、こういう苦難にたえてきた人たちの歴史をほりおこして、新しい日本史の展望を開く未知の奥探訪の旅でした。」