2014年『キトラ古墳壁画展』-その3
会場におかれていた朝日新聞の別刷りより。
「謎の赤い棒執念の追跡-「曲がり方、弓とは反対」
2001年12月、奈良県明日香村の特別史跡、キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め)の石室に入ったデジタルカメラが、「怪人」の像を映し出した。顔がトラ、体が人間。「高松塚古墳のような男女の群像が描かれているのでは」。そんな予想を裏切られた関係者らは騒然となった。
北から時計回りに、各壁3体ずつ描かれた獣頭人身の十二支像。北壁のネズミ(子ね)とウシ(丑)は石室に流入した水に洗われて不鮮明だったが、着物の襟と、手に持った棒状の器物は赤い線として鮮やかに残っていた。
この器物を「古代中国の武器、『鉤鑲(こうじょう)』では」と指摘したのが、関西大名誉教授だった故・網干善教(あぼしよしのり)だ。
1972年に高松塚古墳の発掘を指揮して「飛鳥美人」などの極彩色壁画を発見し、キトラでも四神(ししん)すべての発見に立ち会った網干にとって、飛鳥の古墳壁画研究はライフワーク。最晩年に取り組んだのが十二支像だった。
「国内外のあらゆる類例に関する文献を集め、比較研究するのが先生のスタイルだった」。網干の教え子、来村(きたむら)多加史・阪南大教授(日中考古学)は振り返る。器物を多くの研究者が「弓では」とみる中、網干は「上下の先端が外向きに曲っているのは弓とは反対だ」とこだわり、来村の協力を得て集めた膨大な中国の資料から類例を探した。
その結果、漢時代の石に刻まれた絵から、上下が外向きに湾曲 した鉄棒で敵の刀や矛を受け止める防御用武器・鉤鑲(こうじょう)を見つけだし、04年に北京で開かれた学会で発表した。
網干は十二支像の論文などを集め、著作集「壁画古墳の研究」として刊行しようとしたが、06年1月、突然の体調不良に襲われた。診断結果は末期の胆管がん。病床で執筆や校正を続けた。
やはり網干の教え子で、出版社とのやりとりを仲介した宮内庁陵墓課の徳田誠志(まさし)・首席研究官は「亡くなる1か月ほど前、『あとがきを書いたから出版社に届けてくれ』と電話があった。それが最後の指示でした」。送られてきた原稿には、来村と徳田への感謝の言葉があった。網干は7月、78歳で死去。著作集は2か月半後に刊行された。
自らもキトラの壁画を研究する来村は「子や丑の鉤(かぎ)は実用品にしては大きすぎる。寅(とら)や午(うま)が持つ矛とともに、『武者の舞』のための小道具では」と推測する。」