たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

最終章自分自身であること-③シングル単位論

2024年11月28日 08時18分52秒 | 気になるニュースあれこれ

 企業は日本的経営システムから脱皮する必要があるが、そのためには、女性労働者自身が補助的労働から基幹労働者へと意識変革することが避けられない。同様に行政の側も女性労働者を基幹労働者として位置づけるといった姿勢を示してくれなければならない。例えば、雇用保険、年金、介護保険、生活保護に及ぶ社会保障と租税のシステムを「シングル単位」原則に基づいて組替えること。家事・育児労働の平等な責任分担やそれらの社会化・市場化を具体的に構想すること。執拗な性差別への「抜け穴」を完全に絶つような労働諸法の改正・制定を条文も含めて提起すること。これらについては、ジャンダーに敏感な感性をもつ多くの女性労働、社会政策、労働法の研究者たちによってくりかえし提起されてきた。ここで、伊田広行の提唱する「シングル単位論」について概観したいと思う。伊田によれば、女性自身がM字型を描くような働き方を望むこと自体が、家族単位の罠である。法的には違法とされながらも、70年頃までは退職慣行は公然とまかりとおっていたし、その後も数は減ったとはいえ、明文化されていないながらも、「結婚・出産後も働き続けている先輩女性がおらず、やめて当然の雰囲気がある」という暗黙の了解として根強く存在し続けている。企業は表向きには女性にも継続勤務を望むが、本音は「結婚・出産後は家庭責任が重くなり、しかも30歳以上だと賃金もあがるので辞めてもらいたい」と思っている。そして、会社人間男性の世話をさせると同時に、再び労働市場に出るときには家事労働役割と両立するパート等で安く使うのである。性差別を含む年功賃金制には、職種・職務と賃金を結びつける視点がなく、男性世帯主の生活給という非合理かつ差別的な賃金体系性質をもっていた。つまり、仕事内容と関係なく、男性世帯主を優遇し、それ以外を差別するというものであり、同一価値同一賃金の原則は最初から入っていない。生活給という発想によって、名目は何であれ賃金総額が上がればいいということで各種手当をつけることが正当化されてきたが、家族手当や住宅手当などの各種手当は実質上第二基本給に他ならず、戦後の貧窮時代の名残でしかなかった。だが戦後労働運動は、家族単位・男性中心の発想から脱却できてこなかったため、この点についても根本的に反省できずに今日まできてしまったのである。「103万円の壁」制度もこうした生活給発想の産物であった。[1]「103万円」の壁の根拠となっているのが、妻による夫の所得稼動への貢献(内助の功)の評価があると主張されるが、家事労働を行っているのは単身の労働者や共働きの主婦も同じであり、専業主婦だけではないので、論理的には結局片働きだけを優遇し、性別役割分業を補強する家族政策だと考えられる。[2] 日本は個人の利益を守るためには集団を大切にすることが重要になってくる。個人は集団に依存する。「103万円」の壁は、男女共に個人である前に、家庭という場に依存して生活していることを象徴的に表わしている。

 日本女性の年齢別労働力率がM字型を描くことは、女性本人の経済合理性からみれば、きわめて危険かつ損な選択である。つまり現代社会労働において要求される知識・技能はすぐに古臭くなり、人間関係などによる仕事も中断すると不利になるので、子育てで労働市場から何年も離れることは危険であるし、いい条件の再就職先は少ないからである。再就職ルートは生涯賃金が極端に不利になる。97年度『国民生活白書』が計算したところによると、短大卒の女性が中断せずに就業を継続すると、退職金を含めて約2億3,600万円の生涯賃金となるのに対し、出産・育児で退職しその後フルタイム再就職した場合は約1億7,300万円(継続型の73%)、再就職がパートの場合は約5,000万円(継続型の21%)となってしまう。非正社員化が進む今日的状況の中では、この選択の危険性はいっそう増す。女性が仕事を辞めることは、女性の将来設計や生活保障、自由を危険にさらすもの以外のなにものでもない。このような危険な道を女性の半数以上が望んでいること自体が家族単位の罠なのである。すなわち女性自身が将来の見通しを十分もたないまま女性役割に埋没するという家族単位の罠(夫ぐるみの思考)、また雇用制度・税制度などによって女性の退職やパート化を誘導し、それを利用して企業や政府が安上がりでその目的を達することができるという罠である。[3] 97年の均等法改正についても、伊田は家族単位発想を指摘する。伊田は旧均等法にあった女性についてのみ「職業生活と家庭生活との調和」を図る文言が削除されたが、このことは深夜業免除の請求権に大きな欠陥があることの象徴である、と述べている。つまり、育児や介護を担う者でも、子供が小学校に入学すると深夜業免除が請求できない点、世話をする16歳以上の家族がいるとやはり深夜業免除が請求できない点、就職して1年以内の労働者にも請求権がない点というように、実質上、深夜業免除はかなり限定されてしまうのである。特に自分の他に子供を見る家族がいると請求できないという規定は、全くの家族単位発想であり、日本が批准したILO156号「家族的責任を有する男女労働者の機会均等及び同等待遇に関する条約」に違反する。これでは男性はほぼ全員が、女性でも夫などが夜に家にいる多くの者が、この深夜業免除を請求できない。完全に差別規定である。そもそも家族的責任条約は、広く一般に育児や介護の権威を定めたものであり、深夜だけでなく、時間外労働でさえ拒否できるとするものである。日本政府や官僚・政治家は全く同条約を理解していない。いや、「義務教育の子供や介護が必要な人を抱える場合、男女のどちらかは、時間外や休日、深夜の労働を原則として免除する制度を整えるべきだ」というマスコミ人さえ家族単位発想の虜である。また、女子保護規定の撤廃についても、家族単位の能力主義への批判視点がないことを伊田は指摘する。一部エリート女性が今まで差別されてきたのは、女性に深夜業ができなかったからでなく、男性が妻任せで深夜まで働く状況、そういう男性を基準とする家族単位状況があったからである。したがってここを変えないかぎり、改正均等法の元でも女性は差別され続ける。今後、女性は深夜を含め男性以上に無理をしてでも働かざるを得なくなる。そしてそれができる女性はほんの一部なので、他の大多数の女性への差別が正当化される。深夜まで働かないのは甘えだ、残業をしないのは甘えだ、だからあなたは低賃金でもいいのだと。つまり家族単位を温存したままの規制緩和なのでいっそう女性を苦しめる。男女共通の人間らしい労働基準の確立のためには、「規制緩和」ではなく、日本的経営の能力主義の徹底に根本的にメスをいれなくてはならない。正社員男性が「個人単位の基準」を持って個人単位の発想でゆとりをもって働くことで、女性やパートの権利も守れる、つまり同一価値同一賃金原則が貫徹する。[4] 家事労働をめぐる問題についても、社会全体をシングル単位化するなかでしか解決することはできない、と伊田は述べている。家事労働の無償性の仕組みは「家族単位であること」に原因がある、と考えているのである。「家族単位」発想によって、女性労働が家庭内外で安く使われ、会社人間の男性は再生産労働から疎外されている。今の社会は、家事労働という女性の労働を「無償で、あるいは安く」利用している、ということを非難するのは「家族単位」という視点から離脱し、「シングル単位」観点にたってのみ可能である。「家事が無償」ということから、ただちに単純に「男性が女性を搾取している」と理解することは誤りである。なぜなら家事労働における「搾取」は、より一般的には、家族単位システムによる、「無償で家事労働を強制されている者」に対する「搾取」であるためである。「無償」が問題なのではなく、家族単位にもとづく性別秩序の強制、その結果としての家族賃金システムの補完物としての家事労働という概念自体が問題なのだ。家族単位システム、その中核的象徴である「結婚制度・愛の物語」という性別秩序は、シングル単位観点に立つと永久的・普遍的なものではないという意味で、非合理で、反人権的で、反動的な共同幻想でしかなく、それを解体することが必要であるし、また可能であるということができる。[5]

 上述してきたように、伊田はパート問題、女性差別問題、働きすぎ問題などに対して、家族単位発想を解体して、個人(シングル)単位発想で労働領域でも労働システムを作り直すことを提起している。シングル単位社会とは、政治、法、行政、意識、家庭、企業、労働組合など全社会において、家族があるのは当たり前とする家族(世帯)モデルから、個人モデルに替えた社会のことである。いつも家族や配偶者がいることを前提に考えるのでなく、まず自分だけで考える発想である。人間が生きていくうえで、仕事やお金も必要だし、買い物や料理などの家事労働も必要なので、それを自分ですると考えるもので、妻に家事を任せたり、夫に稼ぎを任せたりしないことが出発点となる。先に記したように、現行の「世帯主」である男性を中心とした経済制度や社会保障制度では、近年の多様化する労働者の権利を守ることはできない。近年の非正社員の増加の流れの中で、個人単位の発想で女性の権利やパート労働者の権利を守る運動は、従来の能力主義型年功システムそのものを問い直す射程をもっているので、日本型雇用慣行を根本的に改善する象徴の意味を持っている。その典型が同じ仕事についての同一労働同一賃金だけでなく、仕事が違ってもその価値が同じなら、女性と男性に同一賃金を支払わなければならないという「同一価値労働同一賃金の原則」の考え方であり、ILO156号家族的責任条約に見られる「仕事と家庭を両立できる働き方の保障」、「女性の労働権の保障」という考え方である。「同一価値労働同一賃金の原則」は、賃金を家族賃金から実際の仕事自体に見合った男女平等賃金に変えるので、女性賃金差別やパート差別を解消する。ILO156 号条約は、男性が妻に家事を任せて仕事だけを行うことも許さないし、男性が家族責任を担ったからといって不利益を被らないような職場にする。男性の働き方が家事も担うような人間的なものになることによって、女性も職場で差別されなくなる。雇用の分野でも性別役割を組み込んだ家族を前提とする考え方から男女にかかわりなく労働者を「個人」としてみる考え方に変更することが求められている。[6] 日本型能力主義に対して女性の権利を守るには、シングル単位の視点しか解決策はない、と伊田は述べているのである。

 シングル単位の発想は、一人一人の生き方を問うものである。シングルという概念には、単なる個人というだけでなく、システムとの関係を意識化することをも含めたい。自分を、既成秩序に位置づける安定から引き離すプロセスが、とりあえずのシングルであり、家族やカップルの部分として自己を捉えるのではなく、つまりカップルの部分としての男や女という性別として自己を捉えるのでなく、それから意識的に距離をとるような存在になることがシングルと言えよう。秩序の強制力は強力なので、既成秩序との闘いがシングルには必要となる。一人一人が闘うしかないこと、「制度」の外が大切であるということを「シングル」概念は含む。「過労死まで働かざるを得ない状況」を変えるには、もう一度労働者一人一人、男と女一人一人が、原点に立ち返って、自分がどのように何をして生きたいのかを明らかにする必要があると思う。カントは、「虫けらになることを受け入れた者は、踏みつけられても文句は言えない」と言った。自己主張をする個人が増えないと、会社や組合や行政などの社会構造は変わらない。この「主張する個人」を伊田は「シングル」と呼ぶ。「主張」は、現在の家族優遇・男女二分法肯定の<性別秩序>に意識的に距離感を持つこと、対抗すること、その意味で「個人単位にするという主張」であるので、そうした性別秩序への抵抗を志向する主体は、家族・結婚・夫婦との対比でシングルと呼ぶにふさわしい。従来の性別役割分業の社会秩序を変えていくには、性役割にとらわれず、自分のしたいことを自覚し、それに向かって挑戦・努力する「シングル人間」が増えていくしかない。

 この「シングル人間」でいることは決して容易なことではない。シングル単位社会では、性役割を担った「女」でもなく「男」でもない自分として、「家族内の他者」にかかわることが求められる。従来の秩序から離れることは、自分の秩序依存アイデンティティの崩壊がもたらす不安定を受け入れなければならないし、自分で方向性を決め創造力を培っていかなければならないことを意味する。近代秩序が与えてくれた役割ではなく、個人を生きなければならない。女でも男でもなく、親でも子でもなく、妻でも夫でもなく、先ず自分を持たなくてはならないとはどういうことか、のマニュアルはないのだ。だが、シングル単位発想は、各人が自由を手に入れる希望であると伊田は考えている。「シングルになる」とはそうした「近代の枠組みを超える創造的な営み」のことでもある。そうした試みや努力と結びつくことなしには、近代家族という抑圧から自由になることはできないし、真に男女がゆとりを持って、楽しく働き生活していく民主主義社会を作ることはできない。「カップル単位からシングル単位へ」の変革は、近代の枠組み自体を問い直す視点なのである。[7] 男女差の生まれつきの生物学的要因は、個人の持つ潜在的な能力や知能を決める種々の要素の一つに過ぎない。自分の能力を生かせるかどうかは、その人の経験の範囲の豊かさに左右される。「個人」がどんな経験によって自分の能力を高めていくか、ということが重要なのである。一人一人の生き方を問うものであるから、女性が男性の働き方についてどのように考えるかということも重要である。したがって、「私は男のような非人間的な長時間過密金儲け労働をするのはイヤ。だから、私は女性の役割として主婦なりパートなりボランティアするから、あなたは家族を養う分働いて欲しい」という新専業主婦志向の発想は、家族単位だといえる。シングル単位的には、「非人間的な労働はおかしいと思うから私は働かない、のではなく、やはり何とか働きながらできるだけそこの労働職場も居心地よくし、同時に仕事以外の生活も大事にしたい。それと同じように考えてあなたにも長時間労働をやめてほしい。私も働くから、あなたは家族を養う分まで働かなくてもいい」と女性は考える、考え方の発想を根本的に転換するのである。また、シングル単位発想をもてば、規制緩和発想による女性保護撤廃は誤りだが、だからといって、「母性保護・女性保護」にこだわることが正しいわけでもないことが明確になる。「家庭責任を担っている女性には、母性保護は絶対に必要だ。女性は母性を尊重し一定内の枠で働けばよい」というような、「女性には家庭責任という特別な性役割がある」ということを前提にした保護論は、家族単位発想と闘うどころか親和的なので、女性差別を必ずもたらすためである。男女両方を個人で考える、という発想の転換が女性自身に求められる。[8] シングル単位論に基づけば、形式的にも実質的にも夫と妻が互いに同等の権限と権利を認め合い、社会的にもまた認知されるということが結婚の基本になる。こうした結婚においては、夫の仕事に負担が大きく加重であるとすれば、男性が職業を離れ女性の職業を優先させる。夫が主夫を務め、家事育児を担う、伝統的な性役割とは逆の男女の関係を自由に選択できることが珍しくなくなるとき、お互いにもっと生き生きとし、魅力を発揮できるようになるのではないだろうか。

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引用文献

[1] 伊田広行『21世紀労働論』69-70頁、青木書店、1998年。

[2] 藤井治枝『日本型企業社会と女性労働』373-373頁、ミネルヴァ書房、1995年。

[3] 伊田、前掲書、71-72頁。

[4] 伊田、前掲書、88-89頁。

[5] 伊田、前掲書、117、135-136頁。

[6] 伊田、前掲書、148-149頁。

[7] 伊田、『シングル単位の社会論-ジェンダー・フリーな社会へ』111-114頁、世界思想社、1998年。

[8] 伊田、『21世紀労働論』、149-150頁。

 

 

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