巻末の畑村洋太郎さんの解説より引用します。
「今回の東日本大震災でも、日本の社会が内部基準を持っていないことの弱さがあちこちで露呈しているように見える。風評に踊らされて必要のないものを買いだめしてみたり、その反対に放射能汚染を恐れてさほど危険性のない農産物や海産物まで敬遠している人々の姿はその典型である。また深刻な状態がいまなお続いている「福島第一原発」のケースにしてもそうである。この事故は、東京電力という会社が内部基準を持っていなかったことに起因しているように見える。
寺田は「『地震の現象』と『地震による災害』とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても『災害』のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性がある」と書いているが(「災難雑考」)、福島第一原発の事故は、これとは反対に人間の力で被害を大きくしているケースであるといえる。事故のきっかけになった津波は、確かに避けることができない自然現象である。しかしながら、東京電力が事前の措置とその後の対処を誤らなければ、これほどまでに問題が大きくなることはなかったと思えるからである。
私はここで東京電力のことをことさら責める気はない。ただし、そこから多くの人が学ぶことができるように、失敗の中身はきちんと明らかにしておきたいと考えている。東京電力のそもそもの過ちは、外部基準のみに極端に頼ってきた姿勢にあるのだ。それは簡単にいうと、
「国が示している基準にだけ従っていればいい」という態度で原発を運営していたから、ここまで問題が大きくなってしまったということである。
外部基準への極端な依存は、じつは福島第一原発だけの問題ではない。これは日本の原発すべてが抱えている共通の問題として見なければならない。背景には、日本全国で行われている原発反対運動という大きな縛りがある。どこもそうだが原発を運営する電力会社は反対派に対抗するために「原発は絶対に安全」という建前を貫き、その根拠を国の基準に求めて、これを盾にするようなことをしてきた。外部基準に極端に依存する電力会社の姿勢は、このようないびつな運営を強いられてきたことにそもそもの原因があるのかもしれないが、だからといって
電力会社の過ちが許されるということではない。
技術論でいうと、原子力はかなり安全なものになってはいるが、基本的な視点が欠けているように見える。それは安全の実現手段は、基本的に「制御安全」に依存し、「本質安全」の考えを取り入れられていない点である。失敗やトラブルが起こったとき、自動的に安全の側に働くような仕組みをつくらず、制御技術によってコントロールしようとしていたのである。制御安全のみに頼る方法は、想定外の問題が起こったときには非常にもろいが、このような基本的な問題があるのに、建前としての安全を真実安全だとして議論をしていたことが問題なのである。
私は「原発は絶対に安全」というのは、単なる建前だと思っていた。しかし原子力を運用する組織が本気でこれを前提に動いていたら、これほど危険なことはない。実際、東京電力の場合はそのような姿勢で動いていたように見えるが、それが福島第一原発の深刻な事故に結びついたとすると当然の成り行きとしかいいようがない。
安全対策というのは、危ないことを前提に動いているから効果のあるものになる。安全であることが前提になると、管理が形式的なものになって意味をなさなくなってしまうのだ。それでも国から与えられた外部基準、すなわちマニュアルがあればなんとかなると思うかもしれないが、マニュアルは想定している条件の中でのみ力を発揮する。今回のような想定外の問題が生じたときには非常に無力なのである。
想定外の問題が起こったときに正しく対処を行うには、進むべき道を自分で考えるための内部基準が必要になる。ところが、東京電力の場合は、この内部基準つくりをまったく行っていなかったように私には見えてならない。福島第一原発では、すべての電源が喪失するという想定外の問題が生じたとき、だれもなにも手を打たず、専門知識のある者なら当然予想できたはずの水素爆発が起こるのを許してしまった。そう考えると、この事故は想定外の問題に対処できるための内部基準を備えることを怠った「組織不良」によるものであるのはまちがいないのである。
内部基準を備えることは、安全対策の強化にそのままつながる。これを使って仮想演習や逆演算などの見方で起こりうることのシュミレーションを行えば、じつは起こさせたくない最悪の出来事を回避するのはそれほど難しくない。東京電力が日頃からやらなければならなかったのは、「悪意の鬼」になったつもりで原発に深刻な被害を与えるシュミレーションを行うことだったのである。
かつて十万人以上の死者を出した1945年3月10日の東京大空襲は、米軍が江戸時代の大火や関東大震災による大火で学んで風の強い日を選んで空襲を行った結果とされているが、原発をあらゆることから守るにはこのような発想でシュミレーションを行うことも必要だったのである。そして考えられる最悪の事態を想定し尽くし、同時にそれを回避するための方法を検討していれば、深刻な事態になる前に様々な手を打てるし、組織としてあれほどまでの大きなダメージを受けることも防げただろう。」
(『天災と国防』講談社、2011年6月9日発行、197-198頁より引用しています。)
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重大事故の主要な共通要因として以下のような点が挙げられる。
・スケジユール(工種)優先
・会社に損害を与えたくないという使命感
・疑目を感じつつも(楽観し)、確認・再考しない
・手順・標準通りしないことが日常的になっている
・最大の滞在リスクに対するな意識低下
・個人・階層間・組織間のコミュニケーションが疎
・チェックする立場の管理者の独断・多忙
・安全バリアの経慢な後退・無力化
・通常とは違う状況(切迫感を与える状況)
・過去のニアミスの教訓を学んでいない
技術的な問題は起こっておらず、全て人の問題、組織の問題である。
この話は、2011年秋慶応義塾大学公開講座で「組織事故防止に向けた安全文化醸成に向けた戦略的取り組み」として聴いた内容です。
組織が過ちに蓋をしようとする時、個々人とは関係なく組織というものに働く得体の知れない力ってなんでしょう。(蓋をしようとすればするほど傷口は深くなっていくのにそれに気づかない・・・?!)
今それを的確に表現する私自身のことばも引用も見当たりませんが、本質はどの場合も
同じなのかもしれません。
私なりに考えて行きたいと思います。
「今回の東日本大震災でも、日本の社会が内部基準を持っていないことの弱さがあちこちで露呈しているように見える。風評に踊らされて必要のないものを買いだめしてみたり、その反対に放射能汚染を恐れてさほど危険性のない農産物や海産物まで敬遠している人々の姿はその典型である。また深刻な状態がいまなお続いている「福島第一原発」のケースにしてもそうである。この事故は、東京電力という会社が内部基準を持っていなかったことに起因しているように見える。
寺田は「『地震の現象』と『地震による災害』とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても『災害』のほうは注意次第でどんなにでも軽減されうる可能性がある」と書いているが(「災難雑考」)、福島第一原発の事故は、これとは反対に人間の力で被害を大きくしているケースであるといえる。事故のきっかけになった津波は、確かに避けることができない自然現象である。しかしながら、東京電力が事前の措置とその後の対処を誤らなければ、これほどまでに問題が大きくなることはなかったと思えるからである。
私はここで東京電力のことをことさら責める気はない。ただし、そこから多くの人が学ぶことができるように、失敗の中身はきちんと明らかにしておきたいと考えている。東京電力のそもそもの過ちは、外部基準のみに極端に頼ってきた姿勢にあるのだ。それは簡単にいうと、
「国が示している基準にだけ従っていればいい」という態度で原発を運営していたから、ここまで問題が大きくなってしまったということである。
外部基準への極端な依存は、じつは福島第一原発だけの問題ではない。これは日本の原発すべてが抱えている共通の問題として見なければならない。背景には、日本全国で行われている原発反対運動という大きな縛りがある。どこもそうだが原発を運営する電力会社は反対派に対抗するために「原発は絶対に安全」という建前を貫き、その根拠を国の基準に求めて、これを盾にするようなことをしてきた。外部基準に極端に依存する電力会社の姿勢は、このようないびつな運営を強いられてきたことにそもそもの原因があるのかもしれないが、だからといって
電力会社の過ちが許されるということではない。
技術論でいうと、原子力はかなり安全なものになってはいるが、基本的な視点が欠けているように見える。それは安全の実現手段は、基本的に「制御安全」に依存し、「本質安全」の考えを取り入れられていない点である。失敗やトラブルが起こったとき、自動的に安全の側に働くような仕組みをつくらず、制御技術によってコントロールしようとしていたのである。制御安全のみに頼る方法は、想定外の問題が起こったときには非常にもろいが、このような基本的な問題があるのに、建前としての安全を真実安全だとして議論をしていたことが問題なのである。
私は「原発は絶対に安全」というのは、単なる建前だと思っていた。しかし原子力を運用する組織が本気でこれを前提に動いていたら、これほど危険なことはない。実際、東京電力の場合はそのような姿勢で動いていたように見えるが、それが福島第一原発の深刻な事故に結びついたとすると当然の成り行きとしかいいようがない。
安全対策というのは、危ないことを前提に動いているから効果のあるものになる。安全であることが前提になると、管理が形式的なものになって意味をなさなくなってしまうのだ。それでも国から与えられた外部基準、すなわちマニュアルがあればなんとかなると思うかもしれないが、マニュアルは想定している条件の中でのみ力を発揮する。今回のような想定外の問題が生じたときには非常に無力なのである。
想定外の問題が起こったときに正しく対処を行うには、進むべき道を自分で考えるための内部基準が必要になる。ところが、東京電力の場合は、この内部基準つくりをまったく行っていなかったように私には見えてならない。福島第一原発では、すべての電源が喪失するという想定外の問題が生じたとき、だれもなにも手を打たず、専門知識のある者なら当然予想できたはずの水素爆発が起こるのを許してしまった。そう考えると、この事故は想定外の問題に対処できるための内部基準を備えることを怠った「組織不良」によるものであるのはまちがいないのである。
内部基準を備えることは、安全対策の強化にそのままつながる。これを使って仮想演習や逆演算などの見方で起こりうることのシュミレーションを行えば、じつは起こさせたくない最悪の出来事を回避するのはそれほど難しくない。東京電力が日頃からやらなければならなかったのは、「悪意の鬼」になったつもりで原発に深刻な被害を与えるシュミレーションを行うことだったのである。
かつて十万人以上の死者を出した1945年3月10日の東京大空襲は、米軍が江戸時代の大火や関東大震災による大火で学んで風の強い日を選んで空襲を行った結果とされているが、原発をあらゆることから守るにはこのような発想でシュミレーションを行うことも必要だったのである。そして考えられる最悪の事態を想定し尽くし、同時にそれを回避するための方法を検討していれば、深刻な事態になる前に様々な手を打てるし、組織としてあれほどまでの大きなダメージを受けることも防げただろう。」
(『天災と国防』講談社、2011年6月9日発行、197-198頁より引用しています。)
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重大事故の主要な共通要因として以下のような点が挙げられる。
・スケジユール(工種)優先
・会社に損害を与えたくないという使命感
・疑目を感じつつも(楽観し)、確認・再考しない
・手順・標準通りしないことが日常的になっている
・最大の滞在リスクに対するな意識低下
・個人・階層間・組織間のコミュニケーションが疎
・チェックする立場の管理者の独断・多忙
・安全バリアの経慢な後退・無力化
・通常とは違う状況(切迫感を与える状況)
・過去のニアミスの教訓を学んでいない
技術的な問題は起こっておらず、全て人の問題、組織の問題である。
この話は、2011年秋慶応義塾大学公開講座で「組織事故防止に向けた安全文化醸成に向けた戦略的取り組み」として聴いた内容です。
組織が過ちに蓋をしようとする時、個々人とは関係なく組織というものに働く得体の知れない力ってなんでしょう。(蓋をしようとすればするほど傷口は深くなっていくのにそれに気づかない・・・?!)
今それを的確に表現する私自身のことばも引用も見当たりませんが、本質はどの場合も
同じなのかもしれません。
私なりに考えて行きたいと思います。