たんぽぽの心の旅のアルバム

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第六章OLを取り巻く現代社会-③人間存在の「意味喪失」

2024年09月01日 00時39分44秒 | 卒業論文

 次に、現代社会においては固有な性格が見失われやすいという点について考察していきたい。とりわけ、都市という社会的世界においては、人々の固有な性格が見失われやすい。群衆に紛れ込んでいるほど、隠れやすいことはないのである。集団の規模と密度が大であれば、それだけ集合的な注意は広大な地平に分散してしまい、各個人のいろいろな動きを追うことはますます難しくなる。個人は次第に社会に包み込まれなくなってしまうのだ。[1] 

 とりわけ先進諸国においては科学技術の発展による高度な生産力に支えられて飛躍的な「産業化」が成し遂げられ、またマスメディアも急激に発展し、「情報化」が一層促進されている。このような現代社会においては、巨大かつ複雑な組織が発達していく。個々の組織は、合理的に、すなわちその目的を「効率」よく遂行するために、組織メンバーの主観的感情や欲望などによる恣意性を排除し、組織それ自体の論理に従って管理・運営される必要がある。このため、あたかも「精密機械」のように職務を遂行する「官僚制」が組織原則として採用され、国家諸機関や民間企業をはじめとして、学校や病院、軍隊や教会、政党や労働組合に至るまで、官僚制的に組織されている。国家が積極的に経済に介入し、国家の活動が市民の公的及び私的生活の細部にまで及ぶに至った今日、管理・統制のための官僚制機構が社会全体に網の目のように張り巡らされている。また専門分化した機能を果たす様々な組織が複雑に相互に連関している高度な社会にあっては、官僚制は個々の組織にとどまらず、社会全体の趨勢を決定している。官僚制化の具体的な事例として、私たち現代人は日常生活を送る上で夥しい数の「番号」をもちそれによって処理されていることが挙げられる。保険証、運転免許証、年金手帳、各種サービスの会員証、銀行口座、クレジットカード、などなどである。官僚制化により、現代社会は大量かつ迅速な処理を可能とする科学技術の発達と相俟って様々な組織が高度に相互連関しているシステムをなしている。[2] 「産業化」によって、人類は自然を能動的に支配し始めた。動物と人間のエネルギーの代わりに、機械エネルギーが、次いで核エネルギーが、さらに人間の頭脳の代わりにコンピュータが用いられるに及んで、技術が私たちを全能にした、科学が私たちを全知にした。そして、誰もが富と安楽とを達成すれば、その結果としてだれもが無制限に幸福になると考えられた。だが、限りない技術の進歩は幸福への道ではなかったのである。自分の生活の孤立した主人になるという夢は、私たちみんなが官僚制の機械の歯車となり、思考も、感情も、好みも、政治と産業、及びそれらが支配するマスコミによって操作されているという事実に私たちが目ざめた時に終わった。[3]

 高度な社会のシステム化の一方で、現代人はますます個別化されていく傾向にある。農村社会では土地に縛られて血縁や地縁に縛られた人間関係を結ばなければならなし。そこで生まれ育ってそこに住む、ということは生まれる前から用意されていた人間関係に自動的に組み込まれるということだ。だが、都市の人間は土地に縛られることがない。どこに住むかは必然ではなく偶然だ。都市では職業に就くのも偶然の産物である。会社に入ってからも偶然の連続で転属を繰り返していく。偶然による人間同士のぶつかり合いによって生まれた人間関係は「社縁」と呼ぶことができる。[4] 社縁を前面に押し出した社会で、血縁や地縁による共同体から解き放たれた諸個人は、お互いに関連性のない「孤独な群集」(リースマン)であり、サラサラとした砂粒にたとえられるような存在である。社会のシステム化にとって、人間的なしがらみから自由で情緒や感情とは無関係な没主観的な存在こそがその担い手として適合的である。先ず生産の担い手として、次に消費の担い手として、そしてさらに生活の担い手として現代人はシステムに適合することにより個別化の度を深めていくことになる。そして、それがまた社会のシステム化の進展を促すという相互連関を形づくっている。官僚制機構は、組織の論理に即してみれば、たしかに「効率」という点で形式的に合理的である。しかし、その機構に一個の歯車として組み込まれた人間にとってそれは実質的に非合理的であるといわざるを得ない。なぜならば、形式合理性が追求されればされるほど、人間存在にとって不可欠な実質的な意味や価値が剥奪されていくからである。こうした事態を「意味喪失」と呼ぶ。[5] 人間関係に基づく社会機構も著しく機械化され、人間は機械化された社会機構の中の一つの歯車に過ぎなくなってしまった。

 巨大な官僚制機構に一個の歯車として組み込まれた人間は、あらゆる点において抽象的で記号的な存在となってしまったのだろうか。個別化の度を深めた現代人をフロムは、「自ら意志する個人であるという幻のもとに生きる自動人形」であると述べた。次に、フロムの文脈に沿って、現代人が位置喪失という状況に置かれていることをさらに概観したい。

 

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引用文献、

[1] 山岸健『日常生活の社会学』28-30頁、日本放送出版協会、1978年。

[2] 船津衛編著『現代社会論の展開』210頁、北樹出版、1992年。

[3] E・フロム著、佐野哲郎訳『生きるということ』15-17頁、紀伊国屋書店、1977年。

[4] 加藤秀俊『人間関係』21-25頁、中公新書、1966年。

[5] 船津衛、前掲書、211頁。

 

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