たんぽぽの心の旅のアルバム

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第六章OLを取り巻く現代社会-⑧現代社会における働きがいの喪失-労働からの疎外

2024年09月14日 12時26分27秒 | 卒業論文

 資本主義経済の成立と定着における労働者の立場を大雑把ではあるが概観した。それは、前述したように、きわめて純粋な一般的な経済構造を対象として考えたものである。場面を現代社会に移せば、国家が大きく経済に介入せざるを得なくなった先進的な資本主義諸国において、資本主義の構造、とくにその階級構成がすこぶる見分けにくいものになった。例えば国家が大きく経済に介入してくる時、国家が自主的な政策をとるように見えたり、中立的な、国民全体のための政策をとるように見えたり、中立的な、国民全体のための政策をとるように見えたりする。自由競争の時代のような好況・恐慌・不況という景気循環に対して、今度は管理通貨制のもと、インフレ政策、デフレ政策をはじめ、巨視的・微視的な操作を加え、政府や中央銀行が大きな役割を果たすことになる。資本家と労働者という二つの経済的階級が社会生活そのものの中で否応なくはっきり判別できた時代に対して経営形態が複雑化し、職務分担が拡散化していくと、経済構造の基本性格、資本主義経済の階級性は一見したところ明確でないものになってくる。こうした中で、働く人間の対象との関係はますます従属的なものとなり、人間的関係も企業の中枢からのリモート・コントロール操作によって、都合のいいように動かされる傾向が強くなる。

組織人の項で記したように、会社という組織の中では、労働者はどうにでもさしかえのきく部品として扱われやすいのである。労働者においては、自分たちはこの世の中で積極的に意味のあることを、自分たちのため世の中のためにやっているのだという働く人間としての実感と納得が極小にまで追い込まれていく。とりわけ、機械技術が発達して生産労働が細かに分化せざるを得ない工業部門では形あるものを造る喜びを、各自があるいは幾人かの仲間が味わうということは事実上困難になってくる。生産物と労働者との間の乖離は、局部的・抽象的な仕事には、自分たちの創意工夫の入れられる余地が全くないというばかりでなく、労働者の働きがいのなさに結びつく。労働者は、何もしていないような実感に捉えられて、この働きがいのなさが繰り返し執拗に自分を悩ますということになる。[1] 社会的不安は工場労働者によって初めて世に現われたのだ。工場労働者は、自分の労働の成果を見ることがあまりに少ない。仕事をするのは機械であって彼はただこれに従属する道具に過ぎない。あるいはいつもただ小さな歯車か何かを作る手伝いをするだけで決して時計全体を作ることはない。しかも時計は楽しい芸術品で人間らしい真実の仕事の成果なのに。このような機械的労働は、どんなつまらぬ者もみな持っている「人間の尊厳」の観念に反し、決して人を満足させるものではない。[2] 

工場労働者の働きがいのなさを、ブラウナーはやはり疎外を鍵として、説明している。先にマルクスの自己疎外を記述したが、疎外は多く中心的な説明理念として伝統的に用いられてきた。ブラウナーは、社会学的ないし社会心理学的な観点から疎外を捉えている。彼の場合、疎外は特定の社会的状態から生ずる個人的経験の質とみなされるという。また、単一的ではなく多次元的に疎外概念を用いている。疎外とは労働者と職業の社会術的状況との間の一定の関係から生ずる様々な客観的条件と主観的な感性状態とからなる総合的な特徴群である。疎外が生まれるのは、労働者が自分たちの直接的な作業工程を統御したり、自分たちの仕事と全体の生産組織とを関連づける目標感や職務遂行感を身につけたり、個々の統合された産業共同体に帰属したりすることができない時であり、また自己表出の一様式である労働活動に熱中できない時である。ブラウナーは高度産業社会がもっている四つの疎外の類型を示している。人間は機械化された社会機構の中の一つの歯車に過ぎなくなってしまったことを説明するために、ブラウナーの疎外についての記述を紹介したい。

一つ目が無力性。人間が無力感を抱くのは、彼が他者あるいは没人格的な制度によって統御され操縦される客体と化している時であり、またかかる支配状態を変えたり修正したりする主体として自己を主張できない時である。無力な人間は客体として、働きかけるのではなくただ反応するだけである。彼は管理するのではなくて、管理されるかあるいは支配される。大規模な組織に雇用されている労働者は完成された製品に対する自分たちの権利を喪失してしまっており、工場や機械、またしばしば自分たちが使用している道具さえもが、自分のものではなくなっている。こうした大規模組織における「所有における無力性」は近代産業にあっては常識であり、被雇用者は通常、この領域において影響力を行使しようとしない。無力性のもう一つの側面は、意思決定に対する統制力の欠如である。これもまた近代的な雇用関係に共通してみられる現象である。大規模組織は頂点に権力が集中しているヒエラルキーな権威構造であり、そこでは手作業労働者は企業の重大な決定を統御する機会をほとんど与えられていない。またほとんどの雇用者がこの側面を産業における「所与」として受け入れる傾向がある。平均的な労働者は、何を、誰のために、どれだけ生産するか、製品をいかに設計するか、どんな機械を購入するか、仕事の配分をいかにするか、さらにまた仕事の流れをいかに組織するか、といった決定に対する責任をもちたいと思ったりはしない。疎外の第二の次元は、労働者が労働に意味を見出すことができない、無意味性である。とりわけ官僚制的な構造が無意味性を助長しているように思われる。大規模組織において分業がますます複雑になるにつれて、個人の役割は役割構造全体との有機的な連関を欠くようになり、その結果として、労働者は協同的な仕事を理解し、自分の仕事に目標感を持つことができなくなるのである。ブラウナーが述べているところによれば、カール・マンハイムは、「機能的合理化」と「実質的合理性」との間の緊張の結果として、官僚制組織のうちに無意味性が生ずると考えた。機能的合理化という概念は、近代的な組織では全てのものが最高度の能率を上げる方向に向けられているという観念に関連をもっている。先ず、製品ないしはサービスに必要な多数の作業内容と手続きが分析され、それから仕事の流れがスムーズに行くように、またコストも最小限に留まるように作業が組織される。技術的組織及び社会的組織の原理を十分に理解している者がいるとすれば、それは少数のトップの経営者だけである。全体の能率と合理性が増大するのに伴って、システムを構成している個人の実質的合理性は低下する。複雑な組織を持つ工場で、高度に細分化された職務を分担している労働者や、巨大な政府の部局で働いている事務員はきわめて限られた仕事しか知る必要がない。彼らは他人がどんな仕事をしているかを知る必要がないし、自分たちの隣の部局で何が起こっているかさえも知らないかもしれない。彼らは自分自身の仕事が全体の作業工程に、どのように組み込まれているかを知らなくてもすむ。その結果生ずるのが、「所与の状況において、諸現象の相互関連を自分自身で洞察し、それに基づいて知的に行動する能力」の低下である。近代産業社会の中では個々の労働者が完成品に対してなす貢献度はきわめて低い。規格化された生産と分業が基礎にあるため、個々の労働者が分担する責任と作業の範囲が狭いからである。大規模工場であればあるほど、労働者は自分の仕事から意味を引き出すことが困難になる。三つ目の、産業共同体への所属感をもたないという意味での社会的疎外(孤立)については、産業社会の初期の頃には特徴的であったが、今日では減少していると、ブラウナーは述べる。ある一つの産業共同体に労働者が所属しているということの中には、仕事の上での役割の一体化と職場共同体の一つないしそれ以上の中枢に対する忠誠心とが含まれている。他方、孤立とは、労働者が労働環境への帰属感を抱いていないために、組織とその目標に同一化できないか、あるいは同一化することに関心がない、ということを意味している。[3]

ブラウナーの記述に沿って、工場労働者に見られる働きがいのなさについて見てきているが、それは、ブラウナーの疎外の類型に、「被差別者の自由」を主体的に選択するOLの姿を見出すことができると筆者は考えるからである。

四つ目の自己疎隔という概念は、労働者が労働活動において、彼の内なる自己から疎外されることがある、という事実を指している。ことに労働者が作業工程に対する統制力を欠き、企業目標に自分がかかわりを持っているという意識を欠くとき、彼は仕事への直接の専心ないし没入を経験することができず、その結果、自我意識を喪失したある種の離脱状態を経験するかもしれない。このように、現時点で仕事に没入することができないということは、仕事が本来的に手段となってしまっているということ、すなわち仕事それ自体が目的であるよりは将来の報酬を得るための手段となってしまっているということを意味する。労働が自己疎隔を促進強化する場合には、労働者の独自な能力、潜在的能力ないしパーソナリティは、労働の中に表出されることがない。さらには、倦怠感と単調感、人間的成長の欠如、職業を通しての自己確認への脅威などが挙げられる。

近代社会になって労働は直接に、かつ直に満足を与えてくれるものでなければならず、しかも個人の独自な潜在的能力を表出するものでなければならないという見解を我々が抱くようになったのは、産業社会において労働が細分化されたことによると思われる。多くの決定的な社会変動によって、労働の細分化は進められてきた。もっとも基本的な変動は市場経済の登場である。それは生産と消費、努力と欲求充足との間の有機的な連関を切り離すことによって、労働に対する手段的な態度が出現するための契機を与えたのである。第二に、家庭と職場との物理的分離によって、労働生活と家庭生活との間に亀裂が生じたこと、第三に労働の動機付けであった宗教的制裁の重要性の減少、第四に、産業組織によってもたらされた専門化と、都市化によって助長された匿名性とによって、普通の人々の職業上の役割がなんであるかがわからなくなったこと、そして、最後に、労働時間の短縮と生活水準の向上とによって、単なる肉体的な生存のためだけに生活時間をさくことがますます少なくなってきたことが挙げられる。時間、エネルギー及び資源は労働以外の生活領域に利用することが可能となったのである。労働は満足を与えてくれるものではない、労働の場は自己表出の場ではない、自己疎隔の状態にあっては、労働の報酬は主として活動そのもの以外のところにある。労働は手段であってそれ自体が目的ではない。このように手段であり自己疎隔的な仕事になっても安定した仕事であれば、現代産業社会の典型的な労働者はそれに満足するかもしれない、とブラウナーは述べる。彼らにとって仕事とはレジャー、家族、消費などを中心として組織されている生活に必要な給料を稼ぐという、より大きな目的のための手段に過ぎないのである。最後に、労働が自己疎隔的である時、職業は個人の自己確認と自我意識とに肯定的には作用せず、むしろ自尊心を傷つける方向に作用する。現代の産業社会における自己確認の発達は創造的プロセスの発展であると考えられる。生きがいは働きがいと読み換えられることを先に記したが、血縁や地縁と遠くなった現代人にとっては職業が全般的な社会的地位を現す、より重要な要因となる。現代社会においては、全体的な自己確認を構成している諸要素の中で、職業における自己確認がより重要なものとなっているのである。労働が自己実現を促し、個人の独自の潜在的能力を引き出すようなものである時、労働することは労働者の自尊心を形成することに寄与するが、疎外された労働においては、労働者階級を社会的に低い地位に位置づけ、取るに足らないとする社会的評価を正しいものとして受けとめる人々の気持ちをますます強くしてしまう。

これら四つの次元には、それぞれの基礎に人間の存在と意識における断片化という観念が横たわっている。その断片化が経験と活動の全体性を阻害する。そして、それぞれの疎外的状態は、人間が「物として使用される」可能性をますます高める、とブラウナーは述べている。[4]

疎外という概念にもう少しこだわってみたい。現代社会において人間は機械化された社会機構の中の歯車の一つに過ぎなくなってしまったことを繰り返し記しているが、この「機械化」というのは、作業の機械化そのものばかりをいうのではない。これに必要な、あるいはこれから結果される作業の細分化、単純化、画一化、自動化などを含む概念である。機械化の進行に伴って、組織体の働く人々の作業は、ますます切れ切れの断片的作業となり、芸術家的な完成仕事ではありえなくなり、ルネサンス的な労働概念からは遠ざかることになる。大規模組織における「所有における無力性」がブラウナーによって述べられたが、労働者がこうした生産手段を持たないという基本的な特質の故に疎外状態に陥ることしばしば説明される。

尾高邦雄は、「疎外」について次のように述べている。疎外とは、ある人が事実上疎外されている客観的な境遇のことをいうのか、それとも、本人自身が疎外されていると感じている主観的な心の状態、したがって「疎外意識」のことをいうのか。人々が疎外意識をもつのは、彼らが客観的に疎外された境遇に置かれているからか、それとも客観的には少しも疎外されていないのに、本人は疎外されていると感じる場合もありうるのか。逆にまた、客観的には明らかに疎外されているのに、日本は少しも疎外感を持たず、楽しく働き、職場で生きがいを感じていることもありうるのか。そして最後に、疎外された客観的な境遇とは、何を意味し、どこからそれは結果されるのか。これらの問いのうち最後の問い以外は比較的簡単に答えるが出る。疎外とは、客観的な境遇であり、また主観的な意識でもある。では、客観的な事実としての疎外は何ゆえに発生するのか。マルクスの生産手段の非所有から導き出される疎外について、尾高は、ある人々の権力が相対的に小さく、被支配的立場にあること、それ自体が疎外をもたらしているのはなく、そのために生じた組織体内部の一定の状況、特に作業方法や管理機構の上での一定の状況が、人々の疎外状態をもたらす直接の原因になっていると述べる。さらに、今日組織体の中で働く人々の労働が、作業の機械化ゆえに芸術的な完成仕事ではありえないという論点が示される。尾高によれば、疎外とは、マルクスの言ったように、人間が自分の仕事からのけものにされていること、したがって自分の仕事の主人たることができず、また職場の自治的なメンバーであることをこまばれている状態を意味する。疎外意識または疎外感とは、このことを結果としての、のけ者にされているという意識、無力感、自己喪失感、もしくは生きがいの喪失のことであって、それはしばしば誤解されているように、単なる不満や失意の状態や挫折感のことではない。また、このような疎外の客観的状態と主観的意識とを作り出す要因は、組織の巨大化と官僚主義化にある。巨大な組織体が、従業員個々人に対して、彼らの職場の、また組織全体の、活動目標や活動方針に関する意思決定への参画を拒否している中央集権的な組織構造が、人々の疎外の根源である。上からの委任の行動が開始されなかったならば、組織体の末端で働く人々は職場の自治的なメンバーであることも、そこでの仕事の主人であることもできない。もし人々に、意思決定への参画の機会が与えられており、その結果人々が職場の活動目標や活動方針の設定や変更について十分に知らされており、それについて自由に希望や意見や批判を述べることができ、また自らがそれについての意思決定を行う権限の全部もしくは一部を上層部から委任されていたならば、人々が疎外状態に陥ることは極めて少なかったに違いない。[5] 

黒井千次は、労働における全体像の喪失は、労働者に「部分意識」をもたらすことを述べている。黒井が引用しているところによれば、中岡哲郎氏は、エッセイ「生産点の思想」(『展望』1970年2月号)の中で、労働の抽象化に伴う自分と全体との関係の希薄化に触れ、「つまり自分と全体との通路、かかわり方の具体的なイメージを失ってしまった分だけ、人々はとにかく自分はどこかで全体をささえているのだろうという意識で置き換えてゆくのである。我々の社会に本質的な『部分の意識』はここからスタートしている」と述べている。この「部分の意識」は追い詰められたものの悲鳴に似た叫びであり、自己正当化であり、居直りである。さらに部分意識は、部分意識としていかに定着させるかという緊張感と危機意識をはらんでいる。部分意識は、部分と全体の関係をどこかで快復しようと努めているように見えながら、しかし結局は部分を部分の中に押し込めることによって全体の幻影をつかませることにしか役立たないであろう。部分意識の確認は、それの市民権を認めるために必要なのではなく、遥かなる全体像との断絶を明らかにするために不可欠のものであるように思われる。黒井が述べる労働の喪失の二点目は、労働における自主性の喪失である。現代の雇用労働者は、「人に使われる」のではない「自分自身のために働ける」労働を体験することがない故に、働きがいを見失いやすい。誰に命ぜられるのでもなく、自分の身体が進んで労働のほうに立ち向かっていくという自主性と自発性を抜きにして、そこに労働の充実を実感することは困難だろう。今日の管理される労働の中では、どんな自主性をもってそれに参加し始めたとしても、たちまちのうちに彼の労働は命ぜられた労働に転落してしまうことは間違いない。三点目は、創造性の喪失である。創造という言葉の中には「新しく」という要素と「造る」という要素の二つが含まれている。今日、労働に従事するものは「造る」ことはできても「繰り返し」しか造ることは許されない。そういう事態を前提として成立している労働の中で、創造性を見出していくことは絶望的であるように思われる。

さらに、生産物との断絶である。自己の労働が自分に意義あるものとして納得させるためには、労働の生産物が他人によって受容されることを見届ける必要がある。労働の結果の客観的評価が、労働するものの主観的な労働へのかかわり方を保障する。自己の労働の結果に対する使用価値視点からの反応がこだまのように響いて始めて彼は彼の労働の意義を確認することができる。そのためには、労働するものは、自己の労働生産物と対等に全的に結び合っていなければならない。しかし分断された肯定の一部にしか参加できず、労働の全体像を拒まれている労働者にとっては、自己の労働と生産物とが切り離されているのは明らかである。彼には参加した労働の結果の全体について他人に対して責任さえとることができない。労働における生産物との断絶は、労働者にとって労働に内在する社会的広がりを断ち切られることに他ならない。五つ目に連帯感の喪失である。今日の一連の労働過程において、共同作業のイメージは著しく失われているように思われる。むしろ、今日労働に従事するものが具体的に連帯を感じることができるのは、一つのものに向かって積み上げられていく共同作業のなかでよりは、むしろ労働の過程外で、上司の悪口を言ったり、作業の愚痴をこぼしたりしあう中でのほうがはるかに強いに違いない。これは労働における連帯感の結果生じる、一つの防衛的な連帯感でしかないだろう。最後に労働における熱中の喪失である。黒井は、「遊びの喜び」と見間違うような、「純粋な活動そのもの」の喜びを労働の中に見出すことが、労働の全体像を模索する重要な手がかりになると述べている。労働の一瞬の熱中を手がかりにし、その瞬間をストロボ撮影のように連続して意識内で再生させ続け、そこに生じる残像と残像を結び合わせることによって一つの積極的な労働イメージを作り上げようと試みるのである。黒井は統括してこう述べる。「働きがい」の有無や程度に関係なく、人間は労働し続ける存在だという認識の地平に僕らは改めて立ってみることが必要なのではなかろうか。その労働は、単なる需要に応じて生産する労働でもなく、人間を人間たらしめる基本的要因としての労働であることは言うまでもない。人間存在の根底に根ざした労働の本質像、それをどこから汲み上げてくることができるかを考える時、現代の労働そのものの中に立ち戻る以外に道はないのではないか。なぜなら、人間が人間であることを確証する基本的な営みである労働というものは、それ自身の中に内部的な生命とでも呼ばれるような存在論的な継続性を秘めているに違いないと思われるからである。日常の中ではその光をみることはできないが、光を奪われた闇のなかにうがたれた穴を、闇を背景にしてすかしみるようにして労働の実像を探ることは不可能だろうか。今日の労働が様々な意味において苦痛である限り、職場の労働を拒否しようとする意識は、自然発生的に生じてくる。そこが「疎外の出発点」なのだ。これに対して「職場の労働に結びつこうとする意志」の確認は、労働する者にとってより困難な作業だろう。苦痛の泉とも言うべき職場の労働に結びつこうとする意志をもつことは、労働者にとって自己矛盾以外の何ものでもないからである。にもかかわらず、労働者は自分の労働の結果の中に自己自身の投影を見ざるを得ない。この過程は労働を拒否しようとする過程とは逆に、きわめて意識化されにくいものであるように思われる。それだからこそ、むしろ自己の労働に向けて結びついていこうとする傾向の意識化がきわめて重要な課題となるのではなかろうか、と黒井は述べる。さらにそのような意識化のうちに、失われた労働の影を探るという主体的な営みが含まれる可能性があると考えられる。労働の実像への肉迫は労働の苦痛を前提としつつ、なおも労働と結びついていかざるを得ないこの全過程を明確に意識化し続けることによってだけ可能なのではなかろうか。[6]

労働への肉迫には、失われた労働の影を探るという主体的な営みが含まれる可能性があると黒井は述べているが、私たちはなぜ労働の意味を探ろうと苦悩するのか。労働の中に働きがい、つまり生きがいを見出そうとするのか。ここで、人間の主体性、能動性との関連で、フロムの「あること」に触れておきたい。

 私たち人間には、ありたいという生来の深く根ざした欲求がある。それは自分の能力を表現し、能動性を持ち、他人と結びつき、利己心の独房から逃れでたいという欲求である。[7] フロムは、「持つこと」と「あること」という人が生きていくうえでの二つの基本的な存在様式を示し、この二つの生き方の違いから現代社会の様相を探った。フロムによれば、現代産業社会は持つ様式に支配されている。持つ様式においては、私の財産と私自身とは同一である。私は安心感と同一性を見出すために、持っている物にしがみつく。私と客体である持つものとの関係は死んだ関係である。これに対して、ある様式においては、私は何ものにも執着せず、何ものにも束縛されず、変化を恐れず、絶えず成長する。それは一つの固定した型や態度ではなく、流動する過程なのであって、他者との関係においては、与え、分かち合い、関心を共にする生きた関係となる。それは生きることの肯定である。持つ様式においては時に支配されるのに対して、ある様式は今ここにのみ存在する。ある様式における人間の内面は能動的であり、自分の能力や才能を、そして全ての人間に与えられている豊富な人間的天賦を表現する。これは忙しいという外面的能動性の意味ではなく、自分の人間的な力を生産的に使用するという内面的能動性の意味である。[8]

フロムの言う「あること」には、能動的であるという意味が含まれる。普通、能動性は、エネルギーの費消によって目に見える結果を生じる行動の特質と定義される。しかし、フロムの言う能動性には、自分のしていることに内的関係や満足を持つことをも含まれる。フロムは能動性と単なる忙しさとに対応した「疎外された能動性」と「疎外されない能動性」について述べている。「疎外された能動性」においては、能動性の行動主体としての自分を経験しない。また、ほんとうに働きかけはしない。私は外的あるいは内的な力によって働きかけられるのである。これに対して、「疎外されない能動性」においては、私は能動性の主体としての私自身を経験する。それは、何かを生み出す過程であり、何かを生産してその生産物との結びつきを保つ過程である。このことには、私と能動性と能動性の結果とは一体であるという意味も含んでいる。フロムはこうした「疎外されない能動性」を生産的能動性と呼ぶ。この場合の生産的とは、画家や科学者が創造的である場合のように、何か新しいもの、あるいは独創的な門を創造する能力を指すのではなく、能動性の産物を指すのでもない。能動性のもつ特質を指すのである。生産的能動性とは、内的能動性の状態を表す。それは、自分自身を深く意識している人物、あるいは一本の木をただ見るだけでなく、本当に「観る」人物、あるいは詩を読んで詩人が言葉に表現した感情の動きを自己の内部に経験する人物の中で進行している過程を言う。必ずしも芸術作品の創造や科学的創造や何か「有用な」ものの創造と結びつくものではなく、全ての人間に可能な性格的方向付けを指す。生産的能動性に対して、単なる忙しさの意味での「疎外された能動性」は実は生産性の意味においては、「受動性」である。一方、忙しくはないという意味での受動性は、疎外されない能動性であるかもしれない。[9] 尾高は、「職場における生きがい」に限定して、「生きがい」とは、自分でなければできない何かのために、自分の個性能力を十分に発揮し得ているという静かな確信、あるいは自分の仕事の主人であり、自治的な職場グループの尊敬されたメンバーであるという自覚である。このような自覚や確信を持っている場合、人間は必ず幸福である、[10]と述べているが、これこそ、フロムのいう、生産的能動性の状態であろう。

 

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引用文献

[1] 清水正徳『働くことの意味』158-161頁、岩波新書、1982年。

[2] ヒルティ著、草間平作訳『幸福論』(第一部)19頁、岩波文庫、1935年。

[3] R・ブラウナー著、佐藤慶幸監訳『労働における疎外と自由』39-53頁、新泉社、1971年。

[4] R・ブラウナー、前掲書、55-65頁。

[5] 尾高邦雄『職業の倫理』53-62頁、中央公論社、1970年。

[6] 黒井千次『仮構と日常』148-158頁、河出書房新社、1971年。

[7] E・フロム著、佐野哲郎訳『生きるということ』142頁、紀伊国屋書店、1977年。

[8] E・フロム、前掲書、126-128頁。

[9] E・フロム、前掲書、128-130頁。

[10] 尾高、前掲書、69頁。

 

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