たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

通信教育レポート-都市構造論

2022年07月03日 00時20分00秒 | 日記
課題:都市の生活情景

「駆け込み乗車はおやめください」-都市の駅で、毎朝繰り返される光景である。同じことが繰り返される毎日-”平凡な日常生活”。これこそが社会学の出発点である。

 社会学における人間は、小は家族から大は国家まで何らかの集団に属し、その集団の中でいろいろな役割を果たしながら生きている-共同生活を営んでいる個別的社会的存在である。私たちは、一人でこの世に生まれ、一人で死んでいく。明らかに孤立した状態で生きているのである。と同時に、常に他者と共に在り、他者に強く引きつけられて生活している。私たちは、他者との関わりの中で自己確認を行おうとする。都市は、そうした人間が日常生活を営む舞台である。社会機構の科学としての社会学において都市を探求することは、個別的社会的存在である人間の日常的な共同生活の多様な姿と場面を研究することである。

 都市研究こそ社会学の主題だと考えるマッキーヴァーは、「われわれの実験室は、必然的に、日常生活の世界である」と言っている。彼は「コミュニティ」と「アソシエーション」という二つの集団類型の概念で都市をコミュニティと捉えた。コミュニティは村または町、あるいは、地区ないしは地方、あるいは、なおいっそう広い範囲といった、共同生活の何らかの範囲を意味し、その範囲はほかの範囲と区別されなければならず、自ずとそれ自体何らかの特徴を持つ。コミュニティのメンバーたちは、様々な集団に同時に所属しつつ、日々の活動を営む。コミュニティの内には、各種のアソシエーションが存在する。私たちは、都市において様々な集団のメンバーとして生活するのである。都市には様々な社会関係の網目がはり巡らされている。共同生活を営む人々は、多かれ少なかれ、そうした社会関係の網目の中に位置づけられている、と同時に行動の自由を持つ。都市こそ、人々の行動の自由が最大限に発揮される舞台である。そうした都市に生きる人々の日常生活を探求することで、現代の人々の社会的行動が自ずと見えてくるだろう。

 では、日常生活とは何だろうか?習慣づけられた手順、慣例、行動のパターン化、あるいは時間及び空間の秩序づけられた対応に日常性を見ることができる。しかし、私たちは毎日を同じように生きるわけではなく、一日一日を新たに生きるのである。この私によって生きられた時間・空間は、私の社会的経験として累積され、私自身の生活史に組み込まれてゆく。私たちは、時間と空間から逃れることはできない。私たちの生活の舞台である日常的世界は、私たちに共有に与えられた時間的空間的世界である。私たちは、己を中心として、私たちの回りにある様々なものを私との位置関係において捉えることができる。それぞれ異なる地点に位置づけられている他者との対応を通じて、私たちは社会を意識したり、経験したりする。やがて共通に与えられた時間的空間的世界を独自の社会として捉える。社会はそれぞれの人々の意識の世界に位置づけられた主観的リアリティとしても存在するようになるのである。

 他者とのコミュニケーションを通じて私たちのselfは形づくられる。selfを形づくるためには他者の存在が必要なのである。私たちは、他者が存在する日常的世界に身を乗り出しながら生きている。日常生活は、私たちが他者と協力しながら、人間の世界を構築し、さらに私たち自身の自己実現をはかるためのフィールドに他ならない。日常生活の中で私たちはかけがえのない一人の人間として生きる。日常生活は、共同生活の中での位置関係の活動だといえる。

 現実には、集団人として生活する私たちは意識するしないにかかわらず、誰もが様々な出来事やトラブルや事件に巻き込まれながら生きている。私たちは、集団の中で何らかの役割行動を期待され、期待された一定の行動パターンをとる。他者との関わりの中で社会的経験を身につけ、役割演技者である社会的人間=personとなる。が、私たちは断片的な役割演技者であるだけでなく、現実には固有の人格、全体的人間として存在している。

 多様な社会関係のネットワークが集中し、組織集団および未組織集団が多く存在する都市に生活する人々は、時にはpersonとして、時には個人として、またある場合には、匿名ないしは無名の一人として行動する。複数の集団のメンバーとして行動する場合もあれば、路上の人、道行く人、電車の中の人となる場合もあるのである。また、都市生活者は単に多くの集団のメンバーとしてのみ行動しているわけではなく、職業を初め多くの基準に従って、何らかの階層に位置づけられている。都市という社会的世界では、人々の接触、人間関係、集団への所属、当事者についての情報などの点で独自の特徴が見られる。社会的人間の行為と行動は、都市においては、独自のパターンをとるものと考えられる。「現代の社会では、その人の日常生活をまるで知っていない大勢の人の集まりに出席する機会もずっと多い」と言ったのは、ヴェブレンである。

 互いの日常生活を知らない人々が集まる機会は都市において多くみられる。例えば群集という未組織集団である。群集とは、ある出来事が生じた時、その回りに集まった人々であり、その人々は互いに何の関係もない群集の一人となった時、ハイデッガーのいう日常性の主体であるdasman(ひと)は、誰ででもあると共に誰ででもない、抽象的・非存在的である。例えば電車の乗客だ。彼らは、単に同じ時間と空間を共有しているに過ぎない。「通勤の満員電車の中では、皆一様に無表情となり、互いに視線を交差させない位置に顔をむけて黙りこくっている。視線の交差は相互行為の始まりを意味するし、表情は何らかの意思表示のサインだからである。他人同士がたまたま乗り合わせた通勤電車の群集にとっては、相互行為は不要である。(略)パーソナル・スペースを犯しあった状態で身体を接するようにしている人々は、すでにかなりの緊張と不安の中にいると考えねばならない。表情を消し、”物化”し、ただ視線を外すことによって、パーソナル・スペースの代理行為としているのである。こうした中での個人は、自分自身であり続けるために無表情な“物”と化している。彼らは互いの日常生活を知らない。デュルケムによれば、大都市では、すべての人が、いわば未知の人であることが原則になっている。現代の特徴として、大衆社会ということがあげられる。これは都市社会、産業社会と相互に密接な関係を持つ名称であり、産業革命、発明発見、科学技術の発達、交通網の整備、マス・メディアの発達、都市への人口集中などを背景とする。人々がそこに統合されていた身近な人々からなる集団の解体、小区画の削減、そして大規模な組織の形成なども現代には見られる。とりわけ、人口が集中する大都市では、多種多様の集団の洪水がみられ、己自身の拠り所とする特定の人々や集団を見失いやすい。個人の存在軸・記号化の傾向が見られる。人間存在の危機が叫ばれている。が、私たちは、かけがえのない私自身として生きなければならない。

 現代の人間は機械化された社会機構の中の歯車の一つにすぎず、「我々は自ら意志する個人であるという幻のもとに生きる自動人形となっている」と言ったのはフロムである。彼によれば、現代産業社会は持つ様式に支配されている。持つ様式においては、私の財産と私自身とは同一である。私は安心感と同一性を見出すために、持っている物にしがみつく。私と客体である持つものとの関係は死んだ関係である。これに対して、ある様式においては、私は何ものにも執着せず、絶えず成長する。それは一つの固定した型や態度ではなく、流動する過程なのであって、他者との関係においては、与え、分かち合い、関心を共にする生きた関係となる。それは生きることの肯定である。持つ様式においては時に支配されるのに対して、ある様式は今ここにのみ存在する。ある様式における人間の内面は能動的であり、「自分の能力や才能を、そしてすべての人間に与えられている豊富な人間的天賦を、表現する。」

 昨年のNHKの報道によれば、現在雇用情勢が厳しいにもかかわらず、大学を卒業してやっと入った会社を三年以内に辞めていく若者が多いという。番組では、旅をしたり、専門学校に通ったりしながら、自分は本当に何をしたいのかを手探りする若者の様子が紹介されていた。彼ら(彼女たち)は、フロムの言う「あえてあろうとしているのであって」「まだ自分をも、また実際生活の指標を与える目的を見出してはいないかもしれないが、持つためや消費するためでなく、自分自身であるために模索している」若者といえるのではないだろうか。

 私たちは持つ方向づけを捨てた時に自分自身であることができる。私たちは日常生活というフィールドで、他者と触れ合いながら、絶え間なしにアイデンティティを作り上げていかなければならない。記号化された人間ではなく、流動的に変化し、成長する過程でなければならない。自分にとって妥当な意味をもつものを見つけて行くのが人間なのである。日常生活は、本来共同生活を営む中での自己確認の活動であった筈だ。私たちは自己実現のためには、様々な役割を調整しながら、己自身を他者に関わらせてゆく。集団のメンバーとして主体性を維持しながら他者とどのように関わってゆくのか、どのように公的と私的とのバランスをとりながら、自分自身であり続けていくのか、現代の都市に生きる私たちの生活の基本課題である。」

参考文献

・山岸健『社会的世界の探求-社会学の視野』(慶應通信出版会)

・山岸健『日常生活の社会学』(NHKブックス)

・山岸健『人間的世界と空間の諸様相』(文教書院)

・エーリッヒ・フロム、佐野哲郎訳『生きるということ』(紀伊国屋書店)

・横山寧夫『社会学』(慶應通信株式会社)

・西村皓『教育思想史』(慶應通信株式会社)

・近藤卓『生活カウンセリング入門-愛といやしのコミュニケーション』(大修館書店)

評価はA、山岸健さんの講師評は「なかなか充実した内容ゆたかな力作である。努力を高く評価した。」でした。山岸健さんは昨年亡くなられました。
 





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