課題;エジプトの第18王朝時代の考古遺跡についてまとめよ。
第18王朝をもって、古代エジプト史上第3の、最後の繁栄期である新王国時代が始まる。第18王朝は王朝の出身地テーベを首都とし、異民族の支配者ヒクソスを追放してエジプト統一を回復した。最初の3代のうちに、南はヌビア、北は遠くユーフラテス河畔まで支配を広げた。シリア・パレスティナでは主要な都市に守備隊を駐屯させ、現地人の王たちに朝貢させた。
第4代トゥトモシス2世が死んだ時は、王位継承者のトゥトモシス3世は幼少であったので、継母でおばのハトシェプストが摂政となった。そして、次第に権力を増し、自らエジプト女王の地位についた。ディル・エル・バハリの葬祭殿は、彼女の治世をよく物語っている。前任者の征服事業のおかげで、北方については、彼女の治世は平和であった。その代りに紅海沿岸の経営に乗り出して、アフリカ東岸のプント地方に船団を派遣し、香料や金、珍獣を手に入れた。その様子が葬祭殿の装飾浮き彫りに描かれている。この葬祭殿は中央国の王メントゥホテップ2世のそれの北側に、同じ様式でさらに大きな規模で造営された。両者の間にあるトゥトモシス3世の葬祭殿と比較すれば、ハトシェプストのものは同時代の王たちのものの中で特に抜きん出た大きさと外観を持っていたことが分る。それは東から順に3段の岩盤上のテラスから成り、1-2段目の後方中央に斜道を持つ。この2つの斜道の両脇には列柱廊があり、下段列柱廊の背面の壁には女王の治世を示す歴史画の浮き彫りがみられる。
そこには、先述のプント遠征の他、2つのオベリスクのアスワンからカルナックへの移動、女王誕生物語が描かれている。女王誕生物語は、父王トゥトモシス1世の姿をとったアメン神が母后アアフメスと交わってハトシェプストが誕生した浮き彫りを刻ませたもので、自らの即位の正当性を主張している。背景には、王の姿を借りた国家神アメンが、正妃と交わることによって、アメンの聖なる血を受け継いだ次王が生まれるとする第18王朝の王位継承の原理がある。中断斜道の両脇の列柱廊内には小礼拝堂がある。上段にも列柱廊があり、ハトシェプストの彫像が安置されていた。この彫像は流れるような柔らかさをもつ体型表現をもち、第18王朝の典雅な王像彫刻の原型となっていた。
次のトゥトモシス3世の治世になると、彼は母の政策を改めて、再び北方進出を心がけ、合計17回もの遠征を行なった。国内でも、中央集権の確立に向かう努力がなされていたが、その一大障害は国家の神となったアメン神官団であった。
第18王朝王家は、アメン神官団と密接な関係にあった。テーベの地方神であったアメンは、テーベを本拠地とする王朝の成立、さらには国土統一によって王朝の守護神から国家神に昇っていた。アメン神の加護は、遠征の勝利と史上空前の大帝国の建設をもたらした。アメン神は勝利を約束し、神旗として軍隊に同行し、勝利へと導いた。王たちは、この神の恩恵に対する感謝のしるしを、はっきりと目にみえる形で、それも恩恵と感謝の大きさにふさわしく表明する必要を感じた。その最良の手段として、中王国時代に起源をもつテーベのアメン神の総本山カルナックのアメンラー神殿の拡張工事が行われたのは第3代トゥトモシス1世以降である。トゥトモシス1世は本殿の前に、ほこら、広間、囲壁をつくり、さらにその前に2つの大山門、一組のオベリスクを建てた。以後カルナック神殿の増改築は慣例となる。ハトシェプストは二組のオベリスクを建てた。トゥトモシス3世は、聖なる池、プタ神殿、広門、山門、オベリスクをつけ加えた。さらにアメノフィス3世はモントゥ神殿、ムト神殿、山門を寄進した。アメノフィス3世は、ルクソールのアムン・ムト・コンス神殿も寄進している。アムンの船を納めたほこらやアムン像のほこらの前に一連の列柱付きのホールや前庭がある。さらにその前に一辺50メートルの中庭があり、その三つの辺に沿ってパピルスの束をかたどった高さ16メートルの巨大な二列の列柱が置かれている。この二つの大神殿の他に、テーベ西岸に造営される王の葬祭殿もアメン神殿として建立されたため、王の供養のために寄進された土地も、結局はアメン神殿領とみなされた。こうしてアメン神官団は、経済的に富裕化していった。
アメン神官団の勢力増大は、それに対する批判的傾向を王家の中に生み出した。それが頂点に達したのは、第9代のアメノフィス4世アクナトンの治世である。彼は閉鎖的なエジプトを代表してきたアメン神官たちの行き過ぎた権力を打破しようと、太陽神アテンの信仰を育成した。そして、アメンの崇拝を弾圧する一方で、対外政策と行政を180度転換しようとし、遷都を断行した。彼はテーベを去り、「日輪の住み家」(アケタテン)という新しい首都(現在のエル・アマルナ)をつくった。彼が自分の神を表すのに使った、日輪から発する光線状の腕とその先端の生命力のシンボル「アンク」を握る手のモチーフは、それ以前のエジプトの図像学と全く絶縁した、独特のものである。このような断絶は「アマルナ美術」の独特の表現様式にも見られる。「アマルナ美術」の最大の特徴は、アクナトンの醜悪な肉体的特徴の写実主義風な人体表現が、美の規範とされていることである。カルナックのアメン神殿の東側に建立されたアテン神殿の王の巨像は、異常に長い後頭部、吊り上がった眼、分厚い唇、そげた頬、長い顎、細い首、くびれた腰、大きくふくらんだ腹、太い大腿部、細長い手足など、特徴的な容貌と女性的ともいえる体型が表現されている。アクナトンの改革は、アテン讃歌に見られる王の宗教的、芸術的才能ばかりでなく、こうした像に見られるホルモン系難病とも関係があった。この改革は短命に終わり、王の死後再び遷都が行なわれ、アメン崇拝も復興した。
アクナトン一家の墳墓は、エル・アマルナから62キロメートルの一涸河内に位置している。そこには、妃ネフェルティと二人の娘メリタテンとメケタテンと共に王自身も葬られた。岩窟墓の入口から墓室までまっすぐな通路がのびているが、これは第18王朝の他の王たちの墳墓の伝統からはずれている。
アクナトンの子ツタンカメンは父の死後すぐに、諸神殿を復興し、神像を再奉納した。また、ルクソールのアメン神殿の建築活動も再開した。しかし、彼は若死したため、これらの復興事業を見届けることはできなかった。1922年に発見されたツタンカメンの岩窟墓は、王墓としては異例の小規模であったことが幸いして、墓泥棒の被害を免れた「王家の谷」唯一の墓として、王のミイラと豪奢な副葬品をほぼ完全にとどめていた。
新王国時代の王墓建築は、古王国以来の王墓の伝統であった「ピラミッド複合体」の形はとらず、上エジプトの伝統的な岩窟墓形式が採用された。供養施設のうち墓に接する葬祭殿と参道は廃止し、流域神殿のみ残して、これを葬祭殿として用いた。第3代のトトモシス1世の治世には、新王国時代における王墓とその供養の基本的な姿が完成した。王墓の場所として、テーベ西岸砂漠丘陵の北端近くに開くワディ(涸れ谷)の行き止まりで、ディル・エル・バハリの断崖を越えた背後にある「王家の谷」が選ばれた。
岩窟墓の基本的な構造は次の通りである。方向はまちまちであるが、まずは切り石で囲んだ入り口があり、次に下方へゆっくり下る長い通路がつけられるが、それは一回または二回直角に曲る。通路は短い階段のついた扉に行き当る。その両側には、番人の像をおさめるための壁龕(がん)が並ぶ。奥へ進むと、前室や側室を伴った墓室に至る。その壁面は文字や絵画で飾られ、石棺は床に設けられた浅い穴に置かれている。その代表的なものはトトモシス3世や後のセティ1世の岩窟墓である。
異例の小規模なツタンカメンの岩窟墓は、まず東側から階段をおりて行くと、約8メートルの通路(廊下)があり、すぐに前室に至る。この部屋は一部が墓荒しによって手をつけられていたが、そこには王の日常生活に使われた備品の他、三つの儀式用長椅子と一組のライフ・サイズの番人像が見出された。この部屋の左手奥には、やはり墓荒しが一部手をつけた小部屋があり、そこには日常生活用品、ブドウ酒やオリーヴ油、食料などが収納されていた。前室の右手には手つかずの墓室に通じる漆喰塗りの戸口があった。墓室内は金覆いをされた四重の厨子によって占められ、その下から珪(けい)岩製の棺が現われた。その中には三重の黄金の棺があり、最後に王のミイラが収められていた。この墓室の右奥には小室があり、そこには王の内臓を納めるためのアラバスター製カノポス壺と王や神々の小像を納めた小箱があった。
ツタンカメンの後に相次いで王位を継いだアイとホレンヘブの葬祭殿はメディネットハブのラムセス3世の神殿の北西偶にあったが、破壊が著しい。アイは最初、エル・アマルナにアテン讃歌が記されたアマルナ的な墳墓をつくりつつあったが、王位についた後には、王家の谷の伝統的スタイルの墳墓を造営した。ホレンヘブも同じように、一将軍であった当時にはサッカラにアマルナ的スタイルの浮き彫り付きの墳墓をつくりつつあったが、自ら王となってからは、王家の谷に別の墳墓を造営した。ホレンヘブを以て第18王朝は終り、彼が後継者に指名したラムセス1世を始祖とする第19王朝が始まる。
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参考文献
『世界の歴史Ⅰ-人類の起源と古代オリエント』
大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮
(中央公論社 1998年)
平成14年に書いたレポート、評価はA
講師評は「レポートとして内容、形式共によく整っている」でした。