行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

日中友好ムード歓迎だが、唯一の棘

2018-10-27 23:10:16 | 海外
私が電機産業労使訪中団で初めて中国を訪れたのが1989年4月29日、中華全国総工会の招きであった。今では考えられない北京空港からパトカー先導付き、通る信号はいつも青といった歓迎ぶりであった。その日は中南海の首相官邸で羅漢秘書長(日本だと官房長官)と周恩来の部屋で会談した。日中国交回復で電機産業を先導に工場を建設し、北京ではナショナル(今のパナソニック)がブラウン管工場を、三洋が深センにテレビ工場、三菱電機が上海にエレベーター工場を中国の要請で既に操業していた。労使訪問団は各工場で現地の中国側経営者と友好を深め、手土産にVTRを20台ぐらい持って行ったのを記憶している。
 
その後、政治的には困難になりながら、私は国際労働財団時代に安全教育コーディネータ養成プログラムを労働科学研究所の専門家と中国の工場で取り組んだ。中国側の熱意は大変もので数万の単位でコーディネータを養成したいとの要望だった。ところがそのプログラムは中国側の責任者がいなくなり、とん挫してしまった。いくら問い合わせてもなしのつぶて、推測するに職場から先ず不安全箇所を探させるボトムアップの安全教育は共産党の意向に沿わなかったようだ。
 
中近東で民主改革運動ジャスミン革命が起きたとき、中国はインターネットでの言論締め付けを一段と強化した。ネット利用者が当時すでに6億人を超え、24時間ネットを監視していないと共産党支配が危ないという危機感は想像を絶する。自分たちの都合の悪い書き込みは瞬時に拡がる。先ずユーチューブ、ツイッターなど海外からの接続を遮断、そしてネット運営会社への監督を強め、ネットへの書き込みを理由に人権派弁護士を起訴するなど壮大なモグラたたきを実行している。最近でもNHK海外テレビ放送など、都合の悪いことは瞬時に画面が真っ黒になる。
 
中国との民間交流は、近時の訪日観光客の膨大な人数で加速され、反日教育での日本のイメージは変わってきたので中国でのビジネスはやりやすくなった。これは誠に喜ばしいことだが、唯一の棘は共産党が依然支配していると言う現実で、何事もこれを織り込むことが必要だ。

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