TVドラマ「津田梅子、お札になった留学生」では先年の渋沢栄一ドラマ「晴天に突け」に引き続き、明治維新期の先人達の勇気あふれる人生に触れ感動した。
先ず驚いたのは6歳の梅子を留学させるという父親仙の決意だ。母親はもちろん反対したが、仙は自ら幕臣時代に米国に渡り、通訳をしていたことから「日本の教育には女性参加が必要だと」信念を持っていたようだ。帰国後、「女性の地位向上」へ梅子と共闘する山川捨松は留学生の中で最年長11歳、咲という名前だったが母親は「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待って(松)いる」と述べ「捨松」と変えたほどの覚悟だった。
梅子が幸いだったのは11年間世話になったホームステイ先の米国人夫妻が素晴らしい教育者だったことだ。詳しいことはドラマでは描かれてないが子供がいない夫妻にとっては我が子のようだったのだろう。また、当時在米国大使館にいた後の文部大臣森有礼が全面的に支援カバーしたことも幸いだった。11年間留学しても帰国してから当時の日本の壁「男なら仕事はある、女は結婚して良妻賢母に」を何とか打破しようと留学生3人は仕事が欲しくてもがく、捨松の音頭で日本最初のバザーでファンドを集め、看護婦養成に一役買った。やがて留学時代支援してくれた伊藤博文に梅子は女子教育専門学校を提言する。実現したのは華族女子教育の学校で、教育方針も良妻賢母から抜け出せず、2度目の留学から帰国した梅子は捨松の協力を得て、1909年「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開校し、華族平民の別のない女子教育を始める。梅子が強調していたのは「自分の意見を自由に言える女性」で、「女性が男性と対等で自由に活躍できる」日本に変えて行くことだった。
さて翻って、現代を見ると、依然としてジェンダーギャップ指数、世界156カ国中120位、主要7カ国(G7)では引き続き最下位だ。特に衆院議員の女性割合が低いことなど、政治参画における男女差(147位)がひどい。梅子、捨松の努力は100年経っても報われたとは言いがたい。今日は国際女性デーで報道されてるが日本女性の正規社員賃金は男性の74%、つい最近まで、医学部への入学などで差別され、医師の割合が低いとか管理職登用が低いなど、変わらない日本の典型だ。
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