あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

茨城紀行 北茨城市2 野口雨情生家

2018-12-10 | 国内・茨城



  

  こちらは 野口雨情の生家

  記念館から200m 磯原駅から北に1kmのほどのところにある。

  明治10年頃に 雨情の父野口量平によって建てられ

  その後一部改築された。

              玄関口

 

 

 

  野口家は 楠木氏の流れをくむと伝えられる名家で
  水戸藩の藩士であった。


  徳川光圀からその家を「観海亭」と
  呼び名の通り磯原の海を望むように建つ。


  地元民は「磯原御殿」と呼んだ。

 

 

 

  こちらは JR常磐線・磯原駅東口前にある「からくり時計」

   雨情が作詞した  
  「シャボン玉」「七つの子」「青い目の人形」  
  の3曲を1日7回演奏している。

  時計塔は、岡倉天心が思索にふけった庵
  五浦海岸に建つ六角堂を模って。
  1992(平成4)年に建てられた。

   演奏は、9・12・14・16・17・18・19時に
  3分間演奏される。

 

 

 

 


茨城紀行 北茨城市2 野口雨情記念館2

2018-12-09 | 国内・茨城

 

 

  当ブログで 以前「赤い靴」

(1992・大正11年 雨情作詞・本居長世作曲)の話題
 2011年7月4・5日 静岡紀行(21・22)

 
 「赤い靴」は 大正11(1922)年 
   野口雨情 作詩 
本居長世 作曲で発表された。
 きみちゃんと 母・かよの 母子を 81年ぶりに 故郷の清水へ
 里帰り再会させ 母子の永遠のやすらぎを 母子像にたくした
 とのことだそうだ。
 この地に 童謡「赤い靴」が 関係していることを 初めて知った。
 定説では この地出身の未婚の母・かよ は その娘・きみ を
  育てていたが 後に北海道に渡り結婚し 平民農場に入植する。

   しかし生活苦から 娘・きみを アメリカ宣教師に養育をたくした。

   その後 宣教師が帰国することになるが 娘・きみは結核に
  冒されていて 米国に連れて行くことができず  東京の孤児院
 に預けられ 9歳で亡くなった。

  母・かよは 米国に行ったものと思い 娘・きみ が東京で
 亡くなったことは知らないまま 一生を過ごした。
 この話から 「赤い靴」が作詩されたという。

 

 と取り上げたが 
 ここ記念館にその写真像の大集成があった。

 

 
    (
BSテレ東:#238「武田鉄矢の昭和は輝いていた・童謡100年」から)
 

   更に この12月7日BS放送
 「武田鉄矢の昭和は輝いていた・童謡100年」
 が放映されていた。


 その中で 先に話題にした内容のほか 
 実の妹が 昭和48年新聞に

 後日談として投稿されていたことも明かされていた。 

 

 


茨城紀行 北茨城市1 野口雨情記念館

2018-12-08 | 国内・茨城

                        
       「野口雨情記念館」前  シャボン玉の少女と野口雨情の像

 

    中山晋平とのかかわりで 野口雨情が揚げられる。

 その 野口雨情の故郷 茨城県北茨城市を訪ねる。

 

 野口雨情(1882-1945)は
 北茨城・磯原の廻船問屋の家に生まれる。本名英吉。

 中学~東京専門学校(中退)時代を
 伯父野口勝一(代議士・東京 在住)のもとで
 過ごしながら詩作・句作に励み
 鈴木善太郎・小川未明・三木露風ら知り合う。


  1907(明治40)年~1909年まで
 北海道の新聞社勤務を転々とする間
 石川啄木 とも知る。


 一時 詩壇から離れ 生まれ故郷で
 山林管理・農業に従事したが。

 1920(大正9)
 年 再び上京
 以後、童謡・民謡の創作に活躍した。

 北原白秋、西条八十と並ぶ
 ”三大童謡詩人” といわれた。


 野口雨情と中山晋平とのコンビで生み出された代表曲には

 童謡:
鼬の嫁入り 黄金虫 シャボン玉 あの町この町
    兎のダンス 木の葉のお船
    雨ふりお月さん 雲の蔭 南京言葉
    証城寺の狸囃子 蛙の夜回り キューピーピーちゃん

 新民謡:
須坂小唄 中野小唄 三朝小唄 甲州音頭
    鎮西小唄 望月小唄 上州小唄 松本民謡

 流行歌:船頭小唄 旅人の唄 波浮の港 紅屋の娘

 

 

   *「野口雨情記念館」は 現在大規模改修中で
   2019年4月リニューアルオープンの予定になっている。

   追: 2019年4月 予定通りリニューアルオープンした。