あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

実業家 小倉昌男

2021-06-30 | 人物忌


 (BS朝日 昭和偉人伝から)

 

6月30日は 
実業家 小倉昌男が亡くなった日

小倉昌男は  ヤマト運輸の
「クロネコヤマトの宅急便」
の生みの親
ヤマト福祉財団理事長

小倉は
1924(T13)年 
 大和運輸(T8年創業)の
   社長小倉康臣の次男として
   東京・代々木に生まれる。

1942(S17)年 
 東京高等学校高等科卒業
1947(S22)年
 東京大学経済学部(旧制)卒業
1948(S23)年
 大和運輸に入社
1971(S46)年
 康臣の後を継いで
   代表取締役社長
1975(S50)年
「宅急便開発要項」を社内発表する。
  基本的な考え方として
  ①需要者の立場になってものを考える
  ②永続的・発展的システムとして捉える
  ③他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ
  ④不特定多数の荷主または貨物を対象とする
  ⑤徹底した合理化を図る

  この宅急便の原点「5箇条」を
  もとに新商品開発を進めた。
1976(S51)年
 オイルショック後に低迷していた
    大和運輸の業績回復のため


    ・電話1本で集荷
    ・1個でも  家庭へ集荷
 ・翌日配達
   ・運賃は安くて明瞭
 ・荷造りが簡単   

 の
コンセプトの“宅急便”の名称で
   民間初の個人向け
  小口貨物配送サービスを始める。


  (BS朝日 昭和偉人伝から)


  サービス開始当時は
  関東地方のみだったが

  その後 配送網を全国に拡大し
  ヤマト運輸(1982年に商号変更)が
  中小の会社から
売上高一兆円の
  大手運輸会社に発展する基礎を築く。

1987(S62)年
 代表取締役会長
1991(H3)年
 代表取締役相談役
1993(H5)年
 名誉会長
1995(H7)年
 退任後
  ヤマト福祉財団理事長として

 障害者が自立して
  働く場所作りに取り組んだ。

2005(H17)年
 アメリカ・ロサンゼルスの
長女宅で死去 
 享年80

 

ちなみに 現在 
創業・小倉家は
現・ヤマト運輸とは
無関係になっている。

 


 当方コレクション

 

 


佃天台地蔵尊

2021-06-26 | 出来事・行事



先日 NHKの「ドキュメント72時間
~大都会 お地蔵さまの前で~」
が放映された

舞台は東京中央区佃島にある「佃天台地蔵」
路地裏にあって人目もつかない地蔵尊
こんな場所が舞台になる。

「厳しさを増す現実社会 
誰もが息つく場所をもとめている」
とコメントがあり

参拝者は
「元気で健康でいられて
参拝できることが幸せです」

また「生きていることに感謝!」とも


所在地 中央区佃1-9-6


狭い境内に天井を突き抜ける
大銀杏が鎮座している。

この大銀杏を文化財として
指定する話もあったが
町の人たちの手で
守ることを選んだそうだ。

佃天台子育地蔵尊縁起の
配布資料によれば

 
「 江戸時代の中期、
正徳5年(1715年)
~元文3年(1738年)に
在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が
地蔵菩薩と厚く信仰され、
自ら地蔵尊像を描き江戸府内の
寺院にたまわり、
地蔵尊造立と促されたと
伝えられています。

 享保8年(1723年)寛永寺の宮様、
大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の
三代にわたり、律院建立と
熱願されたことから、
寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、
比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、
上野東叡山に浄名律院が建立され、
その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、
山内に地蔵尊像と描かれた
崇徳院宮法親王が、
松をお手植えされたので、
地蔵寺といわれるやにも
伝えられていますが、
浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)と
いわれた妙運大和尚が、
八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、
崇徳院宮の描かれた地蔵尊を
拝写され全国の信者に
賜わったことからとも伝えられています。
(八萬四千体とは、仏典に
『無量壽仏 有八萬四千相十一相客
 有八萬四千随形好・・・』に拠る。)

妙運大和尚が地蔵比丘と
いわれる所以は、
嘉永3年(1850年)
日光山星宮の常観寺に寓した際、
地蔵尊信仰の縁ににふれられ
一千体の石地蔵建立を発願され爾後、
浄名院住職になられ、
本格的に八萬四千体建立の大発願を
なされたからといわれています。

 佃天台子育地蔵尊には、
天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、
まさしく拝写されたお姿と
同じく左手には如意宝珠、
右手には錫杖(しゃくじょう)を
持たれております。
またこの像を平らな自然石に
刻まれていることも
大変珍しいといわれています。

この地蔵尊に天台の二文字が
あることは妙運比丘が
天台宗の僧であったから、
いや天台宗の教義の一つに
『一切衆生悉有仏性=人は
本来的に仏である』とあることから、
いつの頃かは定かではないですが、
こう呼ばれ親しまれてきたのでは
なかろうかと考えられます。

この佃天台子育地蔵尊は、
頑是ない子供衆の様々なことを、
御守護下さる本願がおありに
なりますと同時に長壽延命
・家内安全・諸願成就の地蔵尊と
いわれていることから
古くから佃島の人々はもちろんのこと
多くの人々に信仰され
今日に至っております。」

とある。

 

 


博物学者 田中芳男

2021-06-22 | 人物忌


 谷中霊園の田中芳男の墓

 


 6月22日は 幕末-明治時代の博物学者
 田中芳男が亡くなった日

「日本の博物館の父」とも呼ばれる。

その田中芳男の墓が谷中霊園にある。

説明文には

「幕末から明治期の
博物・物産学舎、農務官僚。

天保九年(1838)、
信濃国飯田(現、長野県飯田市)に
医師田中隆三(如水)の
三男として生まれる。

安政四年(1857)、
伊藤圭介(1803-1901)に入門、
ここで医学・蘭学・本草学を学ぶ。

文久元年(1861)
芳男は圭介に従い、
幕府の洋学研究機関「番所調所」の
一施設「物産所」勤務のため江戸に出る。

慶応三年(1867)、
パリ万国博覧会に赴き、
ジャルダン・デ・プラント
(フランス国立自然博物)を
日本の自然史博物館の理想とした。

明治三年、芳男は、
町田久成とともに大学南校に
開局した物産局
(文部省博物局の前身)で働く。

ここで我が国の博物館創設のために尽力し、
後の東京国立博物館、国立科学博物館、
東京都恩賜上野動物園の基盤を築いた。

明治4年、芳男の主唱により
招魂社(靖国神社)で
開かれた「大学南校物産会」は、
近代博覧会の嚆矢として画期的な事業である。

また芳男は、明治六年と九年には、
明治政府からウィーンと
フィラデルフアの万国博覧会に派遣され、
日本と西洋との文化交流にも
大きな役割を果たした。

明治十五年の上野博物館開館の後、
芳男は博覧会事業の重きを置き、
日本初の産業博物館、神宮農業館の創設、
また農会・水産会・山林会の会頭を
務めるなど農林水産業の振興に貢献した。

大正四年、男爵を授けられ、
翌五年六月二十二日、本郷の自宅で没する。

享年七十七歳。

墓石の正面に
「従二位勲一等男爵田中芳男墓」とあり、
裏面に略歴が刻まれる。

田中芳男墓は、平成9年台東区史跡として
台東区民文化財台帳に登録された。

 平成12年3月 台東区教育委員会  」

とある。

 

*伊藤圭介(1803-1901)
  尾張国名古屋出身 日本初の理学博士
*町田久成(1838-1897)
  薩摩藩士

1867(慶應3)年 パリ万博に赴き
出品用の昆虫採集から現地での
展示業務までを幕府の命により遂行した。

この経験が総合研究施設としての
博物館を理想とするようになる。


またこの時収集した様々な印刷物を
貼り込んで作成した
「外国捃拾帖(くんしゅうじょう)」も

他に類を見ない貴重な資料になっている。




小説 「津軽」

2021-06-17 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/08/16)


 小説「津軽」の像(北津軽郡中泊町小泊砂山)


前回 太宰治の津軽時代の20年に触れたが

太宰は 戦時下の
1944(S19)年5月12日から6月5日まで
故郷津軽を旅し
38年の生涯で唯一となった
その足跡とともに

自分自身を見つめ直した
小説「津軽」を発表している。


この自伝的小説「津軽」には 
太宰の人間性等が垣間見られ

特に 越野たけ(1898-1983)と
30年ぶりに会う小泊の場面だ

 

以下 小説「津軽」 から引用

 

「ここには、私の叔母がゐる。
幼少の頃、私は生みの母よりも、
この叔母を慕つてゐたので、
実にしばしばこの五所川原の
叔母の家へ遊びに来た。

私は、中学校にはひるまでは、
この五所川原と金木と、二つの町の他は、
津軽の町に就いて、
ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。」


「私はこの時、生れてはじめて
心の平和を体験したと言つてもよい。
先年なくなつた私の生みの母は、
気品高くおだやかな立派な母であつたが、
このやうな不思議な安堵感を
私に与へてはくれなかつた。
世の中の母といふものは、皆、
その子にこのやうな甘い放心の憩ひを
与へてやつてゐるものなのだらうか。
さうだつたら、これは、何を置いても
親孝行をしたくなるにきまつてゐる。
そんな有難い母といふものがありながら、
病気になつたり、なまけたりして
ゐるやつの気が知れない。
親孝行は自然の情だ。
倫理ではなかつた。」

また

「私はたけの、そのやうに強くて
不遠慮な愛情のあらはし方に接して、
ああ、私は、
たけに似てゐるのだと思つた。

きやうだい中で、私ひとり、粗野で、
がらつぱちのところがあるのは、
この悲しい育ての親の影響
だつたといふ事に気附いた。

私は、この時はじめて、
私の育ちの本質をはつきり知らされた。

私は断じて、上品な育ちの男ではない。

だうりで、金持ちの
子供らしくないところがあつた。

見よ、私の忘れ得ぬ人は、
青森に於けるT君であり、

五所川原に於ける中畑さんであり、
金木に於けるアヤであり、
さうして小泊に於けるたけである。」

 

*生母・太宰夕子(たね・1973-1942)

 

 


小説家 太宰治 桜桃忌

2021-06-13 | 人物忌




 (金木町太宰治記念館)

 

 6月13日は 
 小説家 太宰治が亡くなった桜桃忌

1948(S23)年6月13日
 玉川上水で愛人の山崎富栄と入水心中
  満38歳であった。


 太宰治の育った 20年間
 津軽時代にスポットを当ててみる。

1909(M42)年6月19日
   青森県北津軽郡金木村
(後の金五所川原市五所川原市)に
 父津島源右衛門と母たね(夕子)の
 六男として生まれる。
 
   父・源右衛門は県会議員、衆議院議員、

 多額納税による貴族院議員などを務めた
 地元の名士で、津島家は
 「金木の殿様」とも呼ばれた。
 母は病弱だったため、
 生まれてすぐ乳母に育てられた。 
 3歳から小学校入学までは
 14歳の女中・ 近村たけ
 が子守りを務めた。
1916(T5)年
 金木第一尋常小学校に入学
 成績も良く、開校以来の
 秀才と言われていたという。
 小学校卒業後、1年間 明治高等小学校に通学
1923(T12)年3月4日
 父が肺がんで死去

 4月 青森県立青森中学校に入学
 実家を離れて下宿生活を送る。
 成績優秀で1年の2学期から
 卒業まで級長を務めた。
 このころ小説家を志望するようになる。

1927(S2)年
 旧制弘前高等学校文科甲類に入学
 全寮制であったが、母の考えもあって、
 病弱と偽り下宿生活をしていた。
7月24日
 芥川竜之介の自殺を知り衝撃を受ける。

1928(S3)年 
 同人誌「細胞文芸」を発行すると
 辻島衆名義で当時流行の
 プロレタリア文学の
 影響を受けた「無限奈落」を
 発表するが、連載は1回で終了
 この頃、芸者の小山初代
 (1912-1944)と知り合う。
1929(S4)年
 弘高で起きた同盟休校事件を
 モデルに「学生群」を執筆、
 改造社の懸賞小説に応募するが落選
12月10日 カルモチン自殺を図り、
 母たねの付き添いで
 大鰐温泉で1月7日まで静養
1930(S5)年 
 弘前高等学校文科甲類を
 76名中46番の成績で卒業
 東京帝国大学文学部仏文学科に
 入学のため上京する。

 


中村不折と正岡子規

2021-06-10 | 人物忌


「子規庵」(台東区根岸2-5-11)

 

前回 中村不折と正岡子規との
出会について触れた。

その関係は物理的にも近く
書道博物館前には
子規の私宅「子規庵」がある。

不折は、酒も飲まず煙草も吸わず
粗衣粗食に耐え 
質素を旨として金を貯めて

子規宅の近くにアトリエ兼住居を構えた。

*子規庵については
当ブログで取り上げた→(2016/9/19)

 

子規との出会いは

1894(M27)年
「小日本」の編集責任者であった子規は

同紙に描いてくれる
挿絵画家を探していたが

美術教授 浅井忠から
洋画家 中村不折を紹介され 

不折と面談し採用を決定した。

その後 両者は親しくなり
芸術論を戦わせるため

互いの家を通い合う間柄になる。

子規は「写生」によって
俳句短歌の革新を成し遂げるが

不折の存在は大きく関わりをもった。

「写生は画家の語を借りたるなり」

(明治32年「叙事文」)と述べ、
不折の西洋画論からヒントを得て
写生(写実)の用語を得ている。

 

 

 「吾輩ハ猫デアル」挿絵

 

不折は「日本」新聞の挿画を
きっかけとして大きく羽ばたく。

明治の文豪たちとの親交も深く
装幀・挿絵も手がけている。


夏目漱石「吾輩ハ猫デアル」

島崎藤村「若菜集」
伊藤左千夫「野菊の墓」

森鷗外が逝去したときは
墓碑銘を揮毫している。

 

 

  


また 印象的で
一風変わった不折の書は

そのデザイン性の高さと
親しみやすさから

店名や商品名のロゴに
用いられることが多くある。


1901年創業の
「新宿中村屋」の看板文字

 清酒「真澄」や「日本盛」のラベル
「信州一味噌」「筆匠平安堂」などがある。

 

 (作品写真は ウェブサイトから)

 

 

 


洋画家・書道家 中村不折

2021-06-06 | 人物忌


中村不折旧宅(書道博物館・台東区根岸2-10)

6月6日は 洋画家 書道家
 中村不折が亡くなった日


中村の旧宅跡が現在
台東区根岸に

「台東区立書道博物館
 ・中村不折記念館」としてある。

説明文には

「 中村不折は、明治・大正
・昭和初期の洋画家で書家であり、

慶應2年(1866)7月10日
江戸八丁堀に生まれた。

幼名を鈼太郎という。
少年年時代を長野で過し
明治20年(1887)上京し、浅井忠や
小山正太郎鈼に師事し、
明治美術会に出品するほか、
「小日本」新聞の挿絵なども担当していた。

明治34年(1901)から4年間
フランスに留学し、
ラファエル・コランやジャン
=ポール・ローランスの教えを受けた。

帰国後は、
太平洋画会や帝国美術院の
会員として展覧会活動を行う一方、

太平洋美術学校校長として
後進の育成にも力を入れ、

多くの逸材を育て
美術教育にも貢献した。


書道界では、書家としての活動の他に
書道博物館の創設者としても知られている。

昭和11年(1936)11月3日に
開館した書道博物館は、
中国と日本の書道史研究上重要な
コレクションを有する専門博物館で、
重要文化財12点、重要美術品5点を含む
1万6千点が収蔵されている。

昭和20年(1945)4月の空襲で
中村邸の居宅と蔵は焼失してしまったが、
博物館とその収蔵資料および
不折の胸像や石燈籠などは焼失を免れた。

不折は大正2年(1913)から
亡くなるまえまでの30年間、
この根岸の地に住んだ。

昭和18年(1943)6月6日 
78歳で死去、多磨霊園に葬られた。

 平成13年3月31日設置 
  東京都教育委員会 」

 

 

中村不折は

1866(慶応2)年
 江戸・京橋八丁堀
(現:中央区湊)に生まれる。

1870 (M3) 年
 明治維新の混乱を避け
 父の郷里の長野県高遠(現・伊那市)へ
 幼少より絵を好む。
1885(M17)年
 北原安定に漢籍、
 真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学ぶ。

 西高遠学校授業生(代用教員)となる。
1887 (M20) 年 
 教師時代3年間の貯蓄を持って上京
 高橋是清の館に住み込みながら
 画塾「不同舎」に入門。

 小山正太郞に師事し絵を学んだ。
1890 (M23) 年
 第2回明治美術会展覧会に
 水彩画3点を出品

1891 (M24) 年
 油彩画を始め、現存する最初の
 作例「自画像」を制作
1893(M26)年
 第5回明治美術会展覧会に
「憐れむべし自宅の写生」ほか出品
1894 (M27) 年 
 正岡子規に出会う
 日本新聞社の新聞「日本」の記者となり
 新聞「小日本」の挿絵を担当
 「小日本」126号に俳句が掲載され
 初めて「不折」の名を使用
1895(M28)年
 正岡子規とともに日清戦争に従軍し
 中国に渡り 書に興味を持つ。
1896(M29)年
 堀場いとと結婚
 日本新聞社に入社し挿絵を担当
1899(M32)年 
 第10回明治美術展覧会に
「淡煙」「紅葉村」を出品
1900 (M33) 年
「紅葉村」が
 パリ万国博覧会で褒賞を受賞

1901(M34)年
 4年間フランス留学
1908(M41)年 
 “不折流”のデビュー作「龍眠帖」は
 書道界に一大センセーションを巻き起す。
1913 (T2) 年 
 下谷区中根岸31番地に画室を新築
1936(S11)年 
 書道博物館開館
1943 (S18) 年 
 6月6日 死去 享年78

 


 「龍眠帖」(ウェブサイトから)

 

*「龍眠帖」は 
療養中リハビリの
一環として書かれたもの。

その詩は 蘇轍が龍眠山の二十の場景を
それぞれ五言絶句で詠み
計二十首からなる。

河東碧梧桐に勧められ
出版し売れきれとなるなど

当時の書道界の大きな話題となった。

 

 

 


小栗坂と甲賀坂

2021-06-02 | 散策


   小栗坂(おぐりざか)

 

前回 小栗上野介邸跡に触れたが

千代田区内に「小栗坂」がある。
三崎町1丁目と猿楽町2丁目の間を
神田川に向かって上る坂

 

区の説明では

「 この坂を小栗坂といいます。
「江戸惣鹿子名所大全」には
「小栗坂、鷹匠町にあり、
 水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、

「新撰東京名所図会」には
「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より
水道橋の方へ出づる小坂を称す。

もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」
とかかれています。
明暦3年(1657)頃のものと
いわれる江戸大絵図には、

坂下から路地を入ったところに
小栗又兵衛という武家屋敷があります。

この小栗家は「寛政重修諸家譜」から、
七百三十石取りの知行取りの旗本で、
小栗信友という人物から
始まる家と考えられます。」

とあり

幕末に活躍した小栗上野介の
屋敷とは関係がなかった。

 


  甲賀坂(こうがざか)

なお 小栗邸跡の前の坂は

「お茶の水仲通り」にある
NTT駿河台の前から
「明大通り」の
明大前交差点を通って
山の上ホテル前にいたる坂。


区の説明では

「この坂を甲賀坂といいます。
「東京名所図会」には
「南北甲賀町の間に坂あり、
甲賀坂という。

甲賀の名称の起源とするところは往昔、
甲賀組の者多く居住せし故とも、
又光感寺の旧地をも
記されるが云々」と
かかれています。

どちらにしても
このあたり甲賀町と
呼ばれていたことから
名がつけられました。

甲賀町の名は、
昭和8年(1933)から
駿河台1,3丁目となりました。」


とある。


 またこの坂道は
「甲賀通り」と呼ぶ。