あかない日記

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有吉佐和子

2020-08-30 | 人物忌

 日本経済新聞 (2004/1/24)

 

8月30日は 
小説家 有吉佐和子が
亡くなった日。

1931(昭和6)年1月
 和歌山市で生まれる。

銀行勤務の父とともに
幼時から外国で暮らし

国内でも転校を繰り返した。

東京女子大学短期大学部
在学中から創作活動を始め
1956(昭和31)年
伝統芸術の世界を描いた

「地唄」が芥川賞候補と
なって文壇にデビュー。

その後 紀州を舞台にした年代記
「紀ノ川」「有田川」
「日高川」の三部作

一外科医のために献身する
嫁姑の葛藤を描く「華岡青洲の妻」

「出雲の阿国」「和宮様御留」と
数々のヒット作をだした。

そして社会問題に鋭い目を向け
認知症老人を扱った
 「恍惚の人」 (1972年)

環境汚染問題に迫った
 「複合汚染」(1977年)は

ともに大ベストセラーとなり

“恍惚の人” “複合汚染” は
その年の流行語になった。

また 演劇にも造詣が深く
いくつかの戯曲作品があり

自作小説を中心に脚本化や舞
台演出も数多く手がけた。

1984(昭和59)年8月30日
 急性心不全にて死去。 享年53

 

「恍惚の人」は 
認知症をいち早く扱った作品だが
当時まだ介護保険制度がなく
これがきっかけで 
痴ほう・介護問題が
クローズアップされ
2004(平成12)年4月
介護保険制度ができた。

痴呆症は
脳や身体疾患を原因として
慢性的に低下を
きたした状態で、
社会生活、家庭生活に
影響を及ぼす状態に

75歳以上は 10%
85歳以上は 20%~25%
発症しているそうだ。

当方も
その発症の域に入っている。

人のお世話にならぬよう
 お世話ができるよう・・・・

 

 


原 敬

2020-08-28 | 出来事・行事

 

 

前回 浜口雄幸の
暗殺現場について触れたが

これに似た事件が その9年前の
1921(大正10)年11月4日に
同じ東京駅構内で起こっている。

 

丸の内南口の北東面左端付近の
遭難現場には 壁にプレート
床面には円内に6角形の
マークが埋め込まれている。


壁の説明文には

「原首相遭難現場

大正10年11月4日 午後7時20分、
内閣総理大臣原敬は、
京都で開かれる
政友会京都支部大会に
おもむくため、丸の内南口の
改札口に向かっていた。

そのとき、一人の青年が
飛び出してきて案内に
あたっていた高橋善一駅長
(初代)の肩をかすめ、
いきなり刃わたり5寸の
短刀で原首相の右胸部を刺した。
原首相は その場に倒れ、
駅長室で手当てを受けたが、
すでに絶命していた。

犯人は 原首相の率いる
政友会内閣の強引な施策に
不満を抱いて凶行に
およんだと供述し、
背後関係は不明であった。」

 

原 敬 は 
1856(安政3)年 岩手県に生まれる。

司法省法学校中退。
改進党系の記者を経て
官僚派の大東日報の主筆となる。

井上馨 陸奥宗光の知遇を得て
外務省の次官まで進んだ。

退官後 大阪毎日新聞社社長。
1900(明治33)年
 立憲政友会創立に参画し
 逓相・内相を歴任後  総裁に就任。

1918(大正7)年
 米騒動で倒れた寺内内閣の
 あとを受けて 平民宰相として
 初の政党内閣を組織し
 交通の整備   教育の拡張など
 積極政策を行った。

 しかし 政友会の絶対多数を
 背景に強硬施策を行い
 世論の非難をあびた。

1921(大正10)年
  東京駅頭で大塚駅員により
    暗殺される。

 

 


浜口雄幸

2020-08-26 | 人物忌

 床のひし形印が遭難の現場(東京駅構内)

 

8月26日は
大正・昭和期の官僚政治家
浜口雄幸(おさち)
亡くなった日。

 

死去に至った
直接の経緯は 東京駅構内
中央通路案内所近く
8番乗り場の手前にあった。


柱の説明文には

「浜口首相遭難現場
昭和5年11月14日 午前8時58分、
内閣総理大臣浜口雄幸は、
岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、
午前9時発の特急「つばめ」号の
1等車に向かって
プラットホームを歩いていた。
このとき、一発の銃声がおこり
浜口首相は腹部を
おさえてうずくまった。
かけつけた医師の手によって
応急手当が加えられ、
東京帝国大学医学部付属病院で
手術を受け、一時は快方に
向かったが
翌昭和6年8月26日死去した。
犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、
ロンドン条約批准問題などで
軍部の圧力に抵抗したことに
不満を抱き、凶行に
およんだものといわれている。」

 

浜口雄幸は 
1870(明治3)年
 高知県・土佐に生まれ
 浜口家の養子なる。
 
第三高等学校をへて
1895(明治28)年
 東京帝国大学政治学科卒業後

 大蔵省に入り 山形県収税長
 松山 熊本の各税務管理局長
 
東京税務監督局長などを歴任。
1904(明治37)年 
 以降は 煙草専売局に勤務

1907(明治40)年 
 専売局長官になった。
 この間 後藤新平の知遇を得る。

1912(大正1)年 
 第3次桂太郎内閣の
 後藤逓相のもとで
 逓信次官に就任。

1914(大正3)年 
 第2次大隈重信内閣の
 大蔵次官となり
 立憲同志会に参加。

1915(大正4)年 
 第12回総選挙に
 高知市から立候補して当選。

 以来 6回連続当選した。

1927(昭和2)年 
 内閣総辞職で辞職。
 6月憲政会と政友本党との
 合同で成立した
 立憲民政党の初代総裁。

1929(昭和4)年7月
 大命により内閣総理大臣

1930(昭和5)年 
 金解禁を中心に産業の構造改善

 ロンドン海軍軍縮会議の成功に
 よる対英米親善外交に努めたが

 軍縮や政党の腐敗などを
 非難する勢力の攻撃を受ける。

同年11月 
 右翼の青年にピストルで狙撃され

 臨時首相代理をたて治療に専念
1931(昭和6)年
 やや回復して職務に復帰したが

 4月 後事を若槻に託し辞職。
 8月26日 死去。

謹厳実直 頑固一徹な性格と
眼光鋭いその風貌から庶民からの
人気はとても高く
「ライオン宰相」と
親しみを込めて呼ばれた。

 

城山三郎著「男子の本懐」は
浜口雄幸が 
第一次世界大戦後の慢性的不況を
脱するために 多くの困難を
克服して 昭和5年に断行した
金解禁政策に生命を賭けた
長編経済小説。

 


伊藤左千夫と蓼科山 2

2020-08-13 | 人物忌

 

前回の伊藤左千夫と蓼科山で

左千夫の「蓼科山歌」10首
について触れたので
挙げてみた。

 

〇思ひこひ生の緒かけし蓼科に
 上野老いのこもりを許せ山衹
          (やまつみ)

〇朝露のわがこひ来れば
 山祇のお花畑は雲垣もなく

〇久方の天の遥けく朗かに
 山晴れたり花原の上に

〇秋草は千草が原と咲き盛り
 山猶蒼し八重しばの山

〇信濃には八十の高山ありといへど
 女の神山の蓼科われは

〇吾が庵をいづくにせんと
 思いつつ見つつもとほる天の花原

〇空近く独りいほりにて秋の夜の
 澄み極まれる虫の音に泣く

〇山深み世に遠けれや虫の音も
 数多は鳴かず月はさせども

〇淋しさの極みに堪て天地に
 寄する命をつくづくと思う

〇草の葉の露なるわれや群山を
 我が見る山といほり居るかも

1909(己酉・明治42)年8月26日


伊藤左千夫と蓼科とのかかわりは

弟子の篠原志都児が
この地の出身で
伊藤左千夫や
平福百穂を蓼科親湯温泉へ
誘ったことが機となった。

左千夫はここ蓼科が気に入り
「蓼科山歌」10首を詠み
弟子の篠原志都児に与えた。

左千夫が亡くなる
4年前のことであった。

その後、左千夫を中心に
この地で歌会が
開催されるようになり

左千夫を通じて 
島木赤彦 斎藤茂吉
土屋文明 高浜虚子
柳原白蓮 をはじめとした
多くの文人歌人達が
蓼科親湯温泉の歌や俳句を
詠んでいる。

1939(昭和14)年1月
太宰治は 井伏鱒二の紹介により
山梨で女学校の教師をしていた
石原美知子と見合いをし
結婚した。 


その新婚旅行先が
ここ蓼科の温泉であった。


左千夫は 新婚旅行先まで
面戸を見ていたとは・・・
  (参考:蓼科親湯温泉HP)


 蓼科の白樺林

 

 

 


花は夜開く!

2020-08-11 | 出来事・行事


この花の名 御存じでしょうか?

月下美人と同じように

一夜だけ咲く花です。

花びらから
レースのカーテンのようなものが
一面に付いていて
1時間ほどかけてすべて開いた。

こんなに見事な花 “花は夜開く“


そうです「カラスウリ」の花です。


 

秋になると このような実をつけます。

花言葉は「よき便り」
実のなかの黒褐色のタネの形状が
結び文に似ていること

また 特異なタネの形状は
カマキリの頭部や
打ち出の小槌に
たとえられることもある。

 


こちらも "
夜咲く花   月下美人”

先月 咲いたと話題(7/12)にしましたが 

昨夜 再び咲きました。


今度は 二鉢三輪です。

これは 根分けしたので

体内時計?が 一緒のためか

同時に再びです。

でも 先月よりは

勢いが 少々足りませんでした。

 


伊藤左千夫と蓼科山

2020-08-09 | 人物忌

 

先日 伊藤左千夫に触れたが

当ブログ 
信州紀行 蓼科高原・女神湖
(2014/04/26)

伊藤左千夫の山唄

「信濃には八十(やそ)の
 高山ありといへど
 女(め)の神山(かみやま)の
 蓼科われは」

と讃えている歌碑を話題にしていた。


(写真:日本百名山「蓼科山」2530m)


また 深田久弥著
「日本百名山・63蓼科山」でも

伊藤左千夫に触れている。

「中でも左千夫の
絶唱であるところの
”さびしさの極みに堪へて
 天地に寄する命を
  つくづくと思う”
は、やはりこの高原に
あっての感動であった。

それから四年経て、
左千夫は東京の
陋巷(ろうこう)で死んだ。
彼の眼底には時折蓼科の
「天の花原」が
去来したことであろう。」

と記している。

蓼科山は 北八ヶ岳の連なりの北端に
孤高を誇るかのように聳えている。

その姿は 別名「諏訪富士」とも
よばれ 美しい円錐形で

北へ 約30km余にわたり
広大な裾野を伸ばして
優美な姿をさらけ出している。

 
この姿が
深田久弥に日本百名山の
一つに選ばせている。


また かつてのアララギ派の歌人
島木赤彦  伊藤左千夫  斉藤茂吉 らが
この山について 詠んだことも
選定理由のひとつに
なっていると思われる。


伊藤左千夫は
冒頭にある句を詠み讃えている。

古来その山容から
神としてまつられ
山頂にある蓼科神社の奥社は
9世紀ごろのものでは
と伝えられてもいる。


北アルプスの
槍ヶ岳や穂高連峰のような山容とは
対極の山容をもつ蓼科山は
その姿だけでも
名山の風格を備えているという。

 


小説家 松本清張

2020-08-04 | 人物忌

 

8月4日は 
小説家 松本清張が
亡くなった日。

松本清張は
1909(明治42)年
  現・北九州市小倉北区で生まれる。

給仕  印刷工など種々の職を
経て 朝日新聞西部本社に入社

1951(昭和26)年 
 41歳で懸賞小説に応募
 入選した「西郷札」が
 直木賞候補となる。

1953(昭和28)年
 「或る小倉日記伝」で芥川賞受賞。

1958年 (昭和33)年
「点と線」は推理小説界に
 “社会派”の新風を生む。

以後「ゼロの焦点」「砂の器」
などの代表作を執筆。

また 日本古代史をはじめ
近代・現代史に取り組み諸作品を生み

生涯を通じて旺盛な創作活動を展開した。

1992(平成4)年 
 肝臓がんにて死亡。享年82


「ゼロの焦点」のあらすじは

板根禎子は 広告代理店に勤める
鵜原憲一と見合い結婚した。

信州巡る新婚旅行を終えた
10日後 憲一は
仕事の引継ぎをしてくると言って
金沢へ旅立つ。

しかし 予定を過ぎても
帰京しない憲一が
北陸で行方不明になった旨
勤務先から知らせがあった。

急遽金沢へ向かう禎子。
憲一の後任である
本多の協力を得て
憲一の行方を追うが
その過程で彼女は
夫の隠された
過去を知ることになる。

  憲一が自殺?した ”ヤセの断崖”