あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

ポルトガル紀行93 コインブラ23 コニンブリガ遺跡

2019-06-30 | ポルトガル紀行

 

 

 下から2番目の標識に「コニンブリガ遺跡」の案内

      

コニンブリカ陶器に触れたので この街の見どころ
「コニンブリガ遺跡」を調べてみた。

 

                      

  赤い屋根(右上)が「噴水の館」

 


ポサーダ・コンデイシャ・ア・ノヴァから
南へ約2kmほどのところに
「コニンブリガ遺跡」がある。

 

イベリア半島最大級の古代ローマ遺跡で

ポンペイの遺跡ほど大規模で
完全ではないけれど 保存状態は良い。

 

1世紀頃、古代ローマ帝国が
ケルト民族の集落跡に町を築いたという。


リスボンとプラガを結ぶ
交通の要衝として栄えるが

465〜468年に西ゴート族の
侵攻によりに陥落してしまった。

追われた人々は現在のコインブラに
移り住んだという。

 

遺跡内は 色のついた細かい石を並べて
描かれたモザイクの床が並ぶ。

これは 以前当方がモロッコで見た
モロッコ紀行69 モザイク(17/2/6)と同じかな?


特に 噴水の館(Casa dos Repuxos)の
ものは保存状態が良く

またカンタベルの館(Casa de Cantaber)の
壁や門 柱などが 
残っており
浴槽の跡もみられるという。

まだ発掘中で多くの部分が未整備になっている。

 

 


ポルトガル紀行92 コインブラ22 コニンブリガ焼

2019-06-29 | ポルトガル紀行

 

 

 

      


 

 

ポサーダの一角で 
この街で作られている「コニンブリガ焼」

陶器の絵付けとその作品が並べていた。

 

主に美術館等で所蔵されている
15世紀〜18世紀の絵皿や
水差しを復刻したもので

ルーツはローマ時代のモザイク画で
草花や鳥 鹿 ウサギ 魚などが
一つ一つ手書きで絵付けされ、

一つとして同じものは無いという。

 

絵のタッチや色調は モデルとなる焼き物が
作られた時代によって異なる。

15世紀のものはイスラム教徒支配下の
スペインの影響を受けており
オレンジや緑色 美しい細やかな
点描を用いたアラブ風。

17世紀になると東洋趣味が加わり
青一色のものが多くなる。

18世紀にはフランスの影響を
受けた可憐なロココ調が登場する。

 

コニンブラ陶器は 全て熟練の職人の手書きで
一つ一つ絵付けされているハンドメイド。


作品の裏には 
絵付け職人のサインが入っている。

 

 

 


ポルトガル紀行91 コインブラ21 ポルトガルビール

2019-06-28 | ポルトガル紀行

   落ち着いたポサーダでの黒ビールが旨い!

 

    「SUPER BOCK 」スーパーでも廉価で売られている

 

 

国内シェアは 40%以上と人気があり 
スーパーでも廉価で売られている。

世界50カ国以上にも輸出されている。

      

ポルトガルのビールは
国内シェアの約40%を占める
ブランドが2つあり、人気も二分している。


モンドコレクションで31年連続金賞を受賞している

「SUPER BOCK」(スーパーボック)と

黒ビールが旨いという「SAGRES」(サグレス)

ポルトガルでは、ワインの消費量が大きいが、
ビールの消費量もまた多い。

2012年のデータでは、
ポルトガル国民1人あたりの
年間ワイン消費量が42.4リットルであるのに対し、

1人あたりの年間ビール消費量は49リットルである。

日本との比較では
ワインは10倍多く、ビールは同等だという。

ポルトガルではマクドナルドでも
ビールを提供している由。

 

 

 


ポルトガル紀行90 コインブラ20 ポサーダ

2019-06-27 | ポルトガル紀行

 

 

コインブラでの昼食は 

コインブラから西南 約17km

コンデイシャ・ア・ノーヴァにある

「ポサーダ デ コンデイシャ コインブラ」へ

この 4つ星 ポサーダは 


ファミリー向けの 43室の部屋を備えている。

 

                       

   屋外スイミングプールと庭園

 

   フロントの下にあるロビーラウンジ

  


ポサーダの併設レストランでの昼食は

アサリと豚肉の料理 
「カルネ・デ・ボルコ・ア・アレンテジャーナ」。

 

 ポルトガルの「ポサーダ」は
国の重要なものだった古城や王宮
修道院などの歴史的建造物を
改修し利用した施設をいうが
スペインでは「パラドール」と呼んでいる。 

 1942年国の援助により
最初のポサーダが設立されて
現在はポルトガル全土に
30以上の施設がある。

なお ポサーダは 当初 国営だったが 
現在はペスタナ・グループにより運営されている。

 


ポルトガル紀行89 コインブラ19 涙の館

2019-06-26 | ポルトガル紀行

  

 

サンタ・クララ橋を渡って 西岸側

訪れることは できなかったが

「涙の館」「恋人ちの泉」「涙の泉」がある。

 

ここには 14世紀のポルトガル
王子ペドロと王妃の侍女
イネス・デ・カストロの
不倫の恋の伝説がある。

 

ペドロ王子は 
父アフォンソ5世の命により
カスティーリャ王国の

コンスタンサ姫と結婚するが
その侍女のイネス・デ・カストロと
恋に落ちてしまった。


父王の怒りを買った二人は引き離されるが

コンスタンサが産褥により亡くなると
ペドロはイネスとの関係を公然にし
3人の子どもできた。


しかし カスティーリャ王国の圧力を
恐れた王と家臣によって

1355年 イネスは殺されてしまう。

その後 1357年 王位についたペドロは
最愛のイネスの殺害に加わった者を
すべて処刑にし

イネスの遺骸を掘り起こして、
正式な妻として教会に認めさせました。


イネスの遺体に化粧を施し
絹の衣装を着せ 王妃の椅子に座らせ

その手にキスすることで
重臣達にも王妃として認めさせた。

そのイネスが ペドロ王子と愛を
語らったところが「恋人たちの泉」であり
流した涙でできた泉が「涙の泉」。

泉の底は 
イネスがのどを切られたときの血で
赤く染まっているという。 

 

 

 


ポルトガル紀行88 コインブラ18 新サンタ・クララ修道院とミニポルトガル

2019-06-25 | ポルトガル紀行

 

 

サンタ・クララ橋を渡ると 
コインブラ大学からも見えた修道院が間地かに迫る。

丘の右上に 新サンタ・クララ修道院
左下の平地に旧修道院が見える。

修道院は17~18世紀にかけて
度重なるモンデゴ川の洪水を避けるために、

川沿いの修道院の代わりに
新しく丘の上に建てられた。


修道院内 祭壇には
ポルトガル王ディニス1世の妃で

コインブラの守護聖人でもある
イザベル王妃の棺が安置されている。


イザベル王妃は
幼い頃から敬虔なカトリック教徒で

少女時代から貧者や病人への
奉仕を日常的に行っており

その慈悲深さはディニス王との
結婚後も変わることなく

王の死後は修道院で
余生を過ごしたという。

1336年に亡くなった後
300年近くを経てから

ローマ教皇によって
カトリック教会の聖人の地位にあげられた。

 

  

                       


修道院の丘へ上がるロータリーで

バスから撮った構築物が分からなかったので

Googleで確認したところ

テーマパーク「ミニポルトガル」だった。 

園内は 子供たちが楽しむための

ポルトガルの有名な建造物や

各地の伝統的な建物のミニチュアを展示し

歴史などの知識が得られるそうだ。

日本では さしずめ

「東武ワールドスクエア」になるのかな?

 

 

 


ポルトガル紀行87 コインブラ17 マント

2019-06-24 | ポルトガル紀行

     サッカー選手”ラモス 瑠偉”に似た?学生さん 

 

黒いマントを着たコインブラ大学の学生が

フェレイラ・ホルゲス通りを闊歩していたので

お小声架けして一緒に写真を撮らしてもらった。


この黒マントは2年生以上が着用できるそうだが

冬はいいとしても 夏のイベントなどにも羽織るという。


ウール製でかなり厚手であるので これは大変だ。


またマントの裾が

縦に切り裂かれているのは

進学や卒業 特別なことあったとき

右裾は家族、左裾は親友、背中は恋人によって

手か歯で切り裂くそうだ。

 

こうして切り裂かれたマントは

その学生の人生の有様を

表すものとなっていくという。

 


その切れ端が 大学の鉄の門の欄間に結ばれていた。 

                   

  「鉄の門」の欄間

 

 

 

 

 


ポルトガル紀行86 コインブラ16 金平糖とコルク

2019-06-23 | ポルトガル紀行

 

 

 フェレイラ・ホルゲス通りにある 有名店

パステラリア・ブリオサ(Pastelaria Briosa)  

 

   

 

コインブラの銘菓として有名な
「パステイシュ・デ・サンタ・クララ」と
「パステイシュ・デ・テントゥガル」をはじめ

金平糖の元祖だった「コン フェイト」も

勿論 ポルトガルの菓子が並ぶ。

またこれらは 店内でも食べられる。

 

 

 

 こちらは コルク品の店

コルクといえばポルトガル

 

そのポルトガルはコルクの生産が世界一。

 


ワインの栓や鍋敷き、
バドミントンのシャトルに
よく使われているのは
承知しているが。


店を覗くと
靴,サンダル、帽子や手袋、カバン
腰ベルトなど革製品と見違う

コルクでできているとは思われないような
お洒落な商品が並んでいる。


コルクの特性である防水性や弾力性、耐熱性を
活かして様々な製品が作られている。


「安物はやはり耐久性がないので 
高級なものを選んだほうが良い・・・」と
ガイドが言っていた。




ポルトガル紀行85 コインブラ15 フェレイラ・ホルゲス通り

2019-06-22 | ポルトガル紀行

    

  潜った後の「アルメディーナの塔」

坂のケープラ・コスタス通りを下ると
城門であった「アルメディーナの塔」
(porta Torre de Almedina)にでる。


我々は下ってきたが
 逆にここが町への入り口であった。

  

   
  フェレイラ・ホルゲス通りから見た「バルバカ門」

 

潜って左に曲がると新旧市街地の堺
「バルバカ門」(Barbican Gate)を

さらに 潜るとコインブラのメインストリート
「フェレイラ・ホルゲス通り」に出る。

 

  

 

   モザイクの石畳(カルサーダ・ポルトゲーザ)

 

メインストリートだけに 

土産物 コルク店 お菓子など

観光客向けの店が軒を並べているが

住宅を兼ねているので

ほとんどが4階建になっている。

 

 

フェレイラ・ホルゲス通りの南端
モンデゴ川に架かるサンタ・クララ橋の手前

「ポルタジェン広場」がある。

 中央には 元首相の
ジョアキン・アントニオ・アギアル像が建つ。

 



 
 広場北側に ホテル アストリア(左手) ポルトガル銀行(右手) 

 

  


ポルトガル紀行84 コインブラ14 洗濯女と

2019-06-21 | ポルトガル紀行

 

 

こちらも 坂の途中
「ポルトガルの洗濯女」の像が置かれている。


かつては モンデゴ川で 洗濯棒をたたいて
洗濯をする女性たちの姿が 見られたという。


また シャンソン「ポルトガルの洗濯女」は
ジャクリーヌ・フランソワや
イヴェット・ジローが歌っている。

この曲は 独特なリズムで 
シャンソンらしさがない
シャンソンといわれている。

 

一度は耳にしていると思うが

こちらで→「ポルトガルの洗濯女」
(唄:ジャクリーヌ・フランソワ)

 

   

     

アルメディーナの塔門を潜った先に 

"コインブラ・ファド" を象徴するかのような
ポルトガルギターをかたどった女性像が置かれている。

ポルトガルギターは ポルトガルの民族楽器で
ファドの演奏などに 使用されていることは

先のファドの会場で触れている。

    

 
像の後ろに回ると 背はこのようでした!

 


ポルトガル紀行83 コインブラ13 コインブラファド

2019-06-20 | ポルトガル紀行

 

 

 

坂の途中 ファドの会場があった。

ポルトガルの国民的音楽「ファド」は
リスボンの下町で生まれ 人生の歓びや悲しみ 
哀愁など主に女性の心情を歌い上げる民俗歌謡。

ラテン語のFatum(運命・宿命)を語源としている。


一方 学都コインブラでは男子学生が
愛する女性に捧げるセレナーデとして歌う
 "コインブラ・ファド" 。


その歌い手は男性のみで演奏者も含め
ほとんどはコインブラ大学の出身者という。

ここがそのコインブラ・ファドの会場になっている。


なお 舞台 左にあるギターは
“ポルトガルギター“で

通常のギターは全6弦だが 
12弦(同一に調律された6組の複弦)を
持つ 複弦楽器になっている。


スチール弦を使用し 
丸型のボディとネジ式の糸巻きに特徴がある。

金属弦が奏でる独特なもの悲しい音色から 
クラッシクギターと協奏で
ファドの伴奏に用いられる。

 

                       

  歴代の歌手と奏者のポートレートが飾られている。

 

 

 


ポルトガル紀行82 コインブラ12 ジョゼ・アフォンソとカーネーション革命

2019-06-19 | ポルトガル紀行

 

 

    

 

 

路地を行く途中 
建物の壁に 人顔のタイル絵があった。

気になって 調べたら

ポルトガルの 反体制派歌手
ジョゼ・アフォンソ(1929-1987)であった。

壁にある説明には ジョゼ・アフォンソ(=ZECA)

大学時代にここに下宿した旨書かれている。 

彼は「カーネーション革命」にあっては
欠かせない人物であった。

「カーネーション革命」につては 

当ブログ2019-04-06でも触れている。

学生時代にコインブラ・ファドを歌っていた。
その後 社会問題を取り上げた作品を
多く自作して歌うことから
サラザール独裁政権に対する
反ファシスト地下運動のシンボルとなり
彼の歌は放送禁止となり 
投獄されてしまった。

1974年4月24日午後10時55分
革命開始の合図として
リスボンのラジオ局から
ユーロフェスティバルに向けた
ポルトガル代表曲「さようならの後に」
(エ・デポイス・ド・アデウス)を流した。

引き続き 25日午前0時25分には

反体制派歌手ジョゼ・アフォンソによる革命に
向けた歌「グランドラ・ビラ・モレナ」が流され
「全て順調 行動に移れ」の二度目の合図に
若手将校たちが出撃し
ほぼ無血のうちに革命がなされた。

 

25日朝 クーデターを知った民衆は
続々と町へ繰り出し
民衆が投げた
カーネーションを
兵士らが銃口に刺したことから

カーネーションが 革命のシンボルとして
「カーネーション革命」ともいわれるようになった。

その後のジョゼ・アフォンソは
1983年 教師の職を再認定され復帰する。

この年には その功労をねぎらう行賞が

与えられたが 辞退し 1987年2月病没した。

葬儀には 3万人が参列し 棺は遺言とおり

何のシンボルも持たない真っ赤な旗で
覆われたという。

 


ポルトガル紀行81 コインブラ11 旧カテドラル

2019-06-18 | ポルトガル紀行

    

        東側     

      北側

      正面(西)

 

坂の途中 旧カテドラルがある。

先の新カテドラルとは違い
聖堂であるが要塞のように見える。

そのはずで1139年のオーリッケの戦い後
アフォンソ・エンリケスが
初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、
首都と定めたコインブラに
1162年に建設された大聖堂で、

ムーア人の侵略を恐れ要塞としても
使われたロマネスク様式の聖堂であった。

ポルトガルで最も重要な
ロマネスク様式の建築物の一つという。

 

現在 大聖堂との役割は
1772年に新カテドラルに移されている。

内部は ゴシック様式の側廊を持ち
交差部の上部は細部に
バロック要素を持つロマネスク様式の

ドームが存在感を示す。

主祭壇には 
15世紀に作られた聖母マリアの昇天像

右隣には 16世紀のキリスト像と
福音書を書いた4人の像
また10人の使徒
の像があるという。


ポルトガル紀行80 コインブラ10 新カテドラルとベルナルド

2019-06-17 | ポルトガル紀行

 

 

コインブラ大学から街方面へ向かう
大学の北 バロック様式のファザードが輝く
イエズス教会の「新カテドラル」が建つ。

コインブラには
新旧2つのカテドラルが存在する。

こちらは新とはいっても16世紀末の建物である。

イエズス会のコレジオ附属教会として
1598年に建設を開始し 
完成には1世紀余りを要している。

 

内陣は ターリア・ドゥラーダ(金泥細工)が
施された祭壇の飾り壁や

天使を飾ったパイプオルガンが美しいという。

 

この教会に なんと日本人のお墓があるという。

 1585年「天正少年使節団」が
コインブラを訪れる前の1550年代に

フランシスコ・ザビエル(1506-1552)から
鹿児島で最初に洗礼を受けた日本人
(日本名は不明・洗礼名:ベルナルド)だという。

 

彼は 1551年 ザビエル離日の際に
一緒に出発し
ローマ法王庁を訪れ教皇に拝謁た後

コインブラ大学に学んでいたが 
1557年 黄疸を発症し
惜しくもこの地で病死したという。


お墓は 旧カテドラルにあったが
1772年 新カテドラルに移されている。


なお 天正少年使節団が
コインブラを訪れているのは
ベルナルドの墓参ためであった。

 

 

 

 


ポルトガル紀行79 コインブラ9 ジョアン図書館

2019-06-16 | ポルトガル紀行

 

 

 コインブラ大学の見どころの一つ 大学図書館

 ジョアン5世(在位 1706-1750)が
 
 1724年に建てたので


 「ジョアン5世の図書館」と呼ばれている。


  バロック調の外観は聖堂のようだが
 図書館としての重厚がうかがえる。

 我々は外観のみの見学でした。

 資料によれば
 内部も床から天井まで
 びっしりと並べられた書棚には

 金泥で装飾が施された中世から
 近世にかけての皮装の蔵書類

 開架3万冊、トータル20万冊の
 蔵書を有しているという。


 この図書館は1910年まで
 使われていたが、自然光だけの

 明かりであったので閲覧時間は
 10時から15時までだったという。

 

 現在は 教授のみが
 研究目的で閲覧できるそうだ。

 なお 木下杢太郎(1885-1945)が 
 キリシタン文献の探索で
 1924(大13)年に 
 この図書館に2日間訪れている。

 

 

      

  図書館に入れなかった人のためか?

 大学の売店の片隅に図書館内部の写真パネルが

 記念撮影用にセットされてあった。