あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

伊藤左千夫(左千夫忌)

2020-07-30 | 人物忌

(日本経済新聞 2003/10/11)

 

7月30日は 歌人・小説家
伊藤左千夫 が亡くなった
「左千夫忌」

 

伊藤左千夫は
1864(元治元)年
千葉県成東町生れ

1881(明治14)年 
政治家を志して上京し

明治法律学校(明大)に
入学するが 眼病のため帰郷

1885(明治18)年
 再び上京して
  牛乳店で働いたのち

1889(明治22)年 
 独立して東京・
本所で
 牛乳搾取業を営む。

1900(明治33)年
 
正岡子規の根岸短歌会に
  加わり 写実的手法を学ぶ

1903(明治36)年
  子規死後 
  根岸短歌会の機関誌
「馬酔木」を源流として
  同年10月創刊の「アララギ」に協力
1909(明治42)年
 編集兼発行者として
「アララギ」の基盤を作り

 後進の育成に当たった

1913(大正2)年 死去  享年49

 

主な作品
「野菊の墓」(1906)
「春の潮」 (1908)

 

特に「野菊の墓」は

いとこ同士で幼なじみの
少年少女の純愛を
描いて代表作になる。


(web資料から)

 

1955(昭和30)年 
木下恵介監督
「野菊の如き君なりき」
として映画化された。

小説では千葉県内の農村が
舞台であるが 
ロケは 北信州で行われて

風光明媚な千曲川周辺の
情景を背景に
清純な少年少女の心情を
描いている。

*2019年 台風19号による
千曲川氾濫で被災した
地域になるのか?

 

この作品は
日本映画ベスト150では
第38位になっている。

特に 回想シーンには
白い楕円形のぼかしの
縁取りを入れ

明治の時代を浮かび上がらせて
話題になった。

 


古傘利用のエコバック

2020-07-27 | 出来事・行事

 

家人が 不要になった

古傘の布を利用して

“エコバック” を手づくりした。

これ 布が撥水 防水という点から

エコバックに最適で

コンパクトに折りたたみ

とも布ケースに入り
便利である。


しかも 軽量でシワにならない!


資源の再利用と 

時流にそったバックになった。

 

 

 

 

 

 


クジャクサボテン

2020-07-23 | 出来事・行事

 

先日の「月下美人」に続き

「クジャクサボテン」が花咲き

また 負けじと

「ハイビスカス」も


連日つぼみを開花させている。


梅雨明けや 

コロナ感染の収束の目途が

つかない毎日

明るさと安らぎを

与えてくれている。


因みに 花言葉は

クジャクサボテン
 
 ”幸せをつかむ”

ハイビスカス(赤)

 ”勇敢” ”常に新しい勇敢”

 

 

 


小説家 子母澤寛

2020-07-19 | 人物忌


(日本経済新聞 2003/8/30)

 

7月19日は 
小説家 子母澤 寛 が
亡くなった日 享年76

子母澤寛は
1892(M25)年2月1日
 北海道石狩郡厚田村
(現石狩市)に生まれる。
 本名梅谷松太郎  祖父母に養育された。
 画家三岸好太郎は 異父弟にあたる。
 
  祖父梅谷十次郎(通称斎藤鉄五郎)は
  彰義隊生き残りで五稜郭にこもり
  後に漁師の網元になる。

  この祖父の育てられたことが
  後の文学にも影響している。

1914(T3)年 明治大学法学部卒業。
   釧路毎日新聞社入社
1918(T7)年 上京し読売新聞社に入社
1926(S1)年 東京日日新聞社に転籍
1928(S3)年「新選組始末記」
1929(S4)年「新選組遺聞」
1932(S7)年「新選組物語」

 新選組三部作は 史実と巷説を
 現地踏査によって再構成し
 新選組の隊士らの実相を描いた。
 また「国定忠治」など
 股旅ものにも新境地を開いた。

1933年(S8)以来 文筆専業となる。
1955~56(S30-31)年
 勝小吉・麟太郎(海舟) 父子を
 描いた「父子鷹」
1959(S34)年 高橋泥舟の生涯を
    綴った「逃げ水」
1960(S35)年「おとこ鷹」
1961(S36)年 随筆集「ふところ手帖」
1962(S37)年 幕末遺臣と江戸への挽歌を
   点綴した一連の作品により
    第10回菊池寛賞を受賞
1968(S43)年7月19日没。





新選組の母体ともなった
近藤勇の道場「試衛館」跡が
東京・新宿区市谷柳町にある。

なお 跡地については諸説あり。
子母澤寛の「新選組始末記」では
小石川になっている。

この道場は 1839(天保10)年
新選組局長の近藤勇
(1834-1869)の
養父である天然理心流3代目
近藤周助が創設し、
1861(文久元)年 近藤勇が
4代目として後を継ぐ。

その後 近藤勇が上洛するが
三代目が亡くなる
1867(慶応3)年まで存続した。

近藤勇が道場主の頃は
新選組の中核をなす門弟の
 土方歳三(副長)
 山南敬助(副長)
 沖田総司(一番隊組長)
 井上源三郎(六番隊組長)
食客の
 永倉新八(二番隊組長)
 原田左之助(十番隊組長)
 藤堂平助(八番隊組長)
らが名を連ねていた。

 


小説家 井伏鱒二3

2020-07-16 | 人物忌

 

井伏鱒二は 
太宰治(1909-1948)とも関係があった。

太宰は 井伏の小説「山椒魚」等から
影響を受け尊敬していた。


上京後すぐ井伏のもとを
訪れ 弟子入りしている。

以後 井伏の指導で文学に精進し
檀一雄や中原中也らと
同人雑誌を創刊

思い出」を始めとして
執筆活動を開始する。

同年秋 太宰の薬物依存が
あまりに深刻な為

心配した井伏らは
太宰を武蔵野病院の
精神病病棟に入院させた。


一カ月後 完治して退院するが
太宰は「自分は人間とは
思われていないのだ、

自分は人間を失格して
しまっているのだ」と

深く傷つくが この体験が
後の「人間失格」となる。

また妻初代から入院中に
不倫の告白を受け

心中未遂事件まで起こしている。

1938(昭和13)年 
井伏は 滞在先の山梨県御坂峠に
太宰を招いた。

この結果 太宰は徐々に
精神は安定していった。

この御坂峠での文学者、
生活者としての再生を
目指した日々が
代表作の一つ
「富嶽百景」(1939年刊)につながる。

井伏が紹介した高校教師・
石原美知子と見合いし婚約


1939(昭和14)年1月
井伏の自宅で結婚式を挙げた。


その後 太宰は
東京・三鷹に転居し 死ぬまで住む。

この時ことを 
井伏は「太宰治」(1989年刊)で

「この前の不手際は、私としても
平気で行ったことでは、ございませぬ。
私は、あのときの苦しみ以来、多少、
人生というものを知りました。
結婚というものの本義を知りました。
結婚は、家庭は、努力であると思います。
厳粛な、努力であると信じます。
ふたたび私が、
破婚を繰りかえしたときには、
私を完全の狂人として、
棄てて下さい。」


と書いている。


この手紙は 太宰の生家にも送られ
結婚がうまくまとまった。

この結婚後も
太宰の女性関係は 絶えなかったが

美知子との結婚生活は
生涯にわたって続き

一男 二女をもうけた。

しかし 1948(昭和23)年6月
愛人と入水自殺してしまった。


「美知様 お前を誰よりも
愛していました。

・・・みんな、いやしい欲張りばかり。
井伏さんは悪人です。」


と遺書を残している。

井伏は 太宰とは
22歳の差があるが
太宰の才能と人柄を見抜き

公私に渡り 時には親として
師匠として 面倒見ていたのに

最後の言葉は 何でしょう!


井伏(左)と太宰 (Web資料)
1940年4月・群馬県四万温泉にて

それこそ裸の付き合い!



 

 

 


小説家 井伏鱒二 2

2020-07-13 | 人物忌




ここで 井伏鱒二は 
以前触れた林芙美子と
関わりがあつた。

1931(昭和6)年4月 
林芙美子の誘いを
受けて尾道で講演会に参加し

その翌日 因島に渡り
土井医院を訪れている。

 (当時 井伏 43歳 林 27歳)

井伏が かつて早稲田大学を
休学して憂悶の日々を送った折に

当地で下宿を提供してくれた
土井医院の長男が
病死したための墓参であった。

また  後に井伏の有名な
唐詩選の于武陵「勧酒」を
和訳する際
「人生足別離」を
「サヨナラダケガ人生ダ」
としたのは 
この時
因島を離れる船上で 

林芙美子が
「人生は左様ならだけね」と
言った言葉にあったという。

しかし 林芙美子が
他人様の墓参に
因島まで行ったのか?


林の年譜1923(大正12)年
20歳の項には

「大学を卒業して郷里の因島に
帰った岡野は
そのまま
日立造船因島工場に就職し、
家族の強い反対を理由に、
芙美子との結婚の約束を
破棄してきた。」

* 岡野とは 芙美子が女学時代に
知った明治大学の学生岡野軍一で

芙美子は女学校を卒業と同時に
岡野を追って上京し
1年ほど岡野と同棲している。

とあるので そのことが
因島行きになっている。

なお「放浪記」には
「私を捨てて去って行った島の男」
としている。

*于武陵(うぶりょう)「勧酒」の訳は
  創作詩と有名漢詩の訳文からなる

 井伏最初の詩集「厄除け詩集」
(1937・昭和12年刊行)の一訳文。

 


小説家 井伏鱒二

2020-07-10 | 人物忌



7月10日は 
小説家 井伏鱒二が亡くなった
「鱒二忌」。

井伏鱒二 の概歴は
1898(明治31)年 広島県福山市生れ
 本名 満寿二

中学時代は 画家を志したが
長兄のすすめで志望を文学に変えた

1917(大正6)年 早稲田大学予科に進む
1929(昭和4)年「山椒魚」等で文壇に登場
1938(昭和13)年「ジョン万次郎漂流記」で直木賞
1950 (昭和25)年「本日休診」他により読売文学賞
1965 (昭和40)年「黒い雨」を雑誌連載
1966(昭和41)年「黒い雨」で野間文芸賞
 同年  文化勲章受賞
1993(平成5)年  肺炎のため逝去 
    享年95


「黒い雨」は 雑誌「新潮」で

1965(昭和40)年1月号より
同年9月号まで連載され
1966年に新潮社から刊行された。


被爆者・重松静馬の「重松日記」と

被爆軍医・岩竹博の「岩竹手記」を
基にした作品であり
主人公の名前も
重松静馬の名を基にしている。


物語は 原爆の恐怖と悲劇を
描いているが
「黒い雨」とは
原子爆弾投下後に降る雨を指している。


また「黒い雨」は
同名で1989(平成5)年に

今村昌平監督により映画化されている。

矢須子に扮した主演の田中好子の
演技は高く評価され

第13回日本アカデミー賞で
最高優秀作品賞を受賞している。


他の小説も
にも映画化されているが 
喜劇でユーモラス的なものが多い。

「本日休診」(52) 渋谷実 柳永二郎
「集金旅行」(57) 中村登 
                      佐田啓二 岡田茉莉子

「駅前旅館」(58) 豊田四郎 森繫久彌
「珍品堂主人」(60) 豊田四郎 森繫久彌

 



 当方が広島を訪れた時は氷雨だった。






ギ術者?

2020-07-07 | ことば

 御前埼灯台 (静岡県御前崎市)

地上高 22m レンガ造り
1874年

    


古い人生訓メモが出てきた。

技術者には “変わり者が多い”
 (失礼!) と言われるが
特に こんな“”術者 はいらない?

 

欺術者

 「やります、できます」
 と口で言うが 
 いつまで経っても目標を
 達成できない詐欺師のような者

偽術者

 「出来ません」と出来ない
 理由を整然と並びたてる、

 そのくせどうすれば出来るかを
 言えないニセ技術者

疑術者

「心を引き締めて頑張ります。」などと
 精神論は立派だが、どうやるかは
 科学的に表現できない者。
 技術者かどうか疑わしい。

擬術者

 専門用語を交えて調子よく話はするが、
 やることが理屈から外れている者
 見かけ倒し。

犠術者

 あちこちに犠牲者を出し、
 その上にアグラをかいている者

妓術者

 会社ではくすんでいるが、
 女の子がいる酒の席にいくと
 生きしている者

議術者

 やたらと会話を聴いたり、
 議論はするが、
 結論・方向性をだせない者

戯術者

 技術と戯れるタイプ。
 戯れるだけ戯れて、
 何のアウトプットもない者

義術者

 正義感ぶり「こうあるべき」と
 建前ばかりに終始する者

蟻術者

 蟻のようにやたらと動き回り、
 動き回ることで「仕事をした」と
 思ってしまう者

 


映画の町 尾道

2020-07-04 | 出来事・行事



前回 林芙美子で 
幼年~青春期を過ごし
放浪記に「尾道」を
“旅の古里”としたことに触れた。

その尾道について
映画作品から見てみたい。

ここ尾道がロケ地として
多くの作品が作られているが

「日本映画を歩く」
(川本三郎・JTB)では
13篇中一番目に
「尾道に残る東京物語」として

また「映画監督50人 自作を歩く」
(東京新聞)でも 
当地出身の大林宜彦監督が
一番手として
尾道を話題にしている。

それほど ここ尾道は
映画のロケ地に
なっている場所としては
上位にランクされるだろう。


(「日本映画ベスト150」から)


その「東京物語」
(1953年小津安二郎)は

日本映ベスト150で
小津監督の代表作として

堂々の 2位に選ばれている。

大林監督は
「尾道の由来は“山の尾の道”
山からすぐに海へと
繋がる細長い尾根、
その斜面の上、
町はすべり落ちそうに
乗っかかっている。
だから町のどこからでも海が見え、
その海は多島海とよばれて、
無数の小さな島が
浮かぶ美しい海だ。」と

また「現在、
映画監督としての
僕に最も必要な「感性は」は
すべてこの風土で育てられた。
だから尾道での映画作りは、
僕にとって「親孝行」に継ぐ
「古里孝行」なのである。」

とも言っている。

山あり 海ありの自然と
坂と寺の町が
戦災にもあっていなく
庶民が生活する舞台として
また 都会と古里との
対比で絵になる?


「東京物語」がその特徴を
最大限に映しだしている。 

「東京物語」というよりも
「尾道物語」ともいうべきか?


なお 大林監督は
今年4月10日に亡くなった。
享年82

当方も 青春時代に 尾道経由で
四国に渡ったことがあるが
その時の記憶よりも
映画での尾道が蘇る。

 

主な作品は

「東京物語」(53小津安二郎)
「素足の娘」(57阿部豊)
「集金旅行」(57中村登)
「暗夜行路」(59豊田四郎)
「放浪記」 (62成瀬巳喜男)
「憎いあンちくしょう」(62蔵原惟繕)
「うず潮」 (64斎藤武市)

大林監督作品
「転校生」(82)
「時をかける少女」(83)
「さびしんぼう」(85)
「ふたり」(91)
「あした」(94)

 


小説家 林芙美子

2020-07-01 | 人物忌

 

6月28日は 林芙美子が
亡くなった日と
前回触れたが

「芙美子忌」として供養されている。

林芙美子は
1903 (明治36) 年 
 現・北九州市門司区に生れ
 
若松・長崎・佐世保・下関
 ・鹿児島・直方などを
 転々とした後

 広島県尾道市に転居し
 第二尾道尋常小学校を卒業する。

1918 (大正7) 年 尾道高女に入学
1922 (大正11) 年
 卒業すると愛人を追って上京

1923 (大正12)年 
 婚約を破棄され
 日記をつけることで
 傷心を慰めたが

 これが「放浪記」の原形となった。
1926 (昭和元) 年 
 画学生・手塚緑敏と
 結ばれてから生活が安定しだす。

1928 (昭和3) 年「女人芸術」に
 「放浪記」の副題を付けた
 「秋が来たんだ」の連載を開始

1930 (昭和5) 年「放浪記」が
 出版されベストセラーとなる。

1931(昭和6) 年11月 渡欧8か月間
1943 年 信州に終戦まで疎開
1951(昭和26) 年 「浮雲」出版
 
同年 6月28日 
  心臓麻痺により急逝 享年47
 
「めし」が絶筆となる。


何と 林芙美子は
先に話題にした壷井栄と
東京・世田谷区太子堂3丁目で
お隣さん同士であった。
(1925/4~26/1)


世田谷区の説明には
「林芙美子旧居 此の路地奥の
 二軒長屋は、林芙美子の不遇な
 時代の寓居です。
その一軒には 壺井繁治、
栄夫婦が住み、
若い頃の平林たい子も
度々訪れました。・・・」とある。


またこの関係は
信州・上林温泉にもあった。

林芙美子の夫・手塚緑敏が
この地の生まれで戦火を
逃れての疎開先にもなり

一方 壷井栄は 
1943(昭和18)年から1
954(昭和29)年に軽井沢に
別荘を構えるまで、

毎年夏にこの地を訪れていた。
林芙美子の薦めあったようだ。


(世田谷区太子堂3丁目付近)

 

なお「放浪記」は
1961(昭和36)年 菊田一夫が
戯曲化し 芸術座において
森光子の主演で 初演されてから
森が死去(2012年)するまで
2017回 公演されている。