先の江の川沿い走り 途中 川本町の「道の駅 かわもと」を見る。
ここ川本町の特産品は「えごま」だそうだ。
えごまの油は “α-リノレン酸”という良質な脂肪酸を多く含んでいて
これは食品から摂取しなければならない必須脂肪酸のひとつで
体内に吸収されると良質な脂肪酸に変わることから注目されているそうだ。
また この道の駅は ”世界遺産石見銀山に一番近い道の駅” を
キャッチフレーズにしている。
先の江の川沿い走り 途中 川本町の「道の駅 かわもと」を見る。
ここ川本町の特産品は「えごま」だそうだ。
えごまの油は “α-リノレン酸”という良質な脂肪酸を多く含んでいて
これは食品から摂取しなければならない必須脂肪酸のひとつで
体内に吸収されると良質な脂肪酸に変わることから注目されているそうだ。
また この道の駅は ”世界遺産石見銀山に一番近い道の駅” を
キャッチフレーズにしている。
川本町とは 埼玉県にも存在するが
ここの川本町は 県内で唯一「まち」と読む。
県中部の山間部に位置し 町域を流れる江の川の水運により
古くから栄えた町でもある。
江戸時代は 石見銀山の影響により 天領となっていた。
明治時代になると 邑智郡役所が設置され
この地域一帯の中心地となった。
1934年に 三江線(さんこうせん)が 町内まで伸びてくる。
三江線は 島根県の江津駅から 広島県の三次駅間 108kmを繋ぐ。
現在の人口は 4000人を割っている。
町内の県立川本高校 (現在の県立島根中央高校)が
全日本吹奏楽コンクールで 優勝金賞を飾ったことから
「音楽の町」を宣言している。
その象徴 橋の欄干にも 楽器と五線のオブジェが飾られていた。
バスは 石見銀山から 一路 国道261号線 を行くが
途中 「江の川」沿いのところがある。
この川名 “ごのかわ” と呼び
広島県から島根県を流れ日本海に注ぐ一級河川で
中国地方最大の川である。
また 広島県では「可愛川」(えのかわ)とも呼ばれ「中国太郎」の異名を持つ。
流域の地形的状況により 河口に大規模な平野部を利用した
農地などを作らなかった事から「無能な川」と呼ばれた。
一方 中国山地を越えて日本海に注ぎ 水量も豊富なため
三江線などの 中国地方を 縦断する交通機関が発達する昭和期まで
「川の道」として 河川交通の要となっていた。
世界遺産・石見銀山の 見学がを一通り終わるが
かなり急ぎ歩き回ったので 汗をかき のども渇き かなり疲れた。
バスのに戻って 配られた昼食の弁当で 空腹と疲れを癒す。
バスは これから次の見学地 広島に向かう。
この大森の街を抜ける間際 「羅漢寺」を見る。
小さな大森の街だが 寺が多くみられる。
前にもふれたが 鉱夫の寿命が短かったこと
また 宗派の界を設けなかったことにようるようだ。
この羅漢寺は堂や階段 橋 羅漢像を含め みな石で造られ
石見銀山の石工技術が活かされて
石造物文化を代表する貴重な信仰遺跡となっている。
1766(明和3)年創立の真言宗の寺で
銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために
25年かかって 代官や代官所役人 領内の人々の援助協力により
石橋などを築き 石窟内に石造の五百羅漢を納めて建立されている。
岩盤斜面に3つの石窟があり 中央窟に石造釈迦三尊仏を
左右両窟には五百羅漢像がそれぞれ250体ずつ
計501体の坐像が 安置されているそうだ。
この建物は 1889(明治22)年に 旧邇摩郡役所として建てられ
現在は「石見銀山資料館」として公開されている。
銀山で使用された鉱山道具 生活用品や県の文化財に
推定されている銀山絵巻などが展示されている。
また この地は 江戸時代に天領となった銀山を治める
幕府の代官所があった大森代官所跡で
1815(文化12)年に建てられた正門と長屋門が
当時の姿をとどめ 庭は枯山水で
四季おりおりの花木の表情が見られる。
玄関前に 映画のロケ舞台になったと 看板が立っている。
この映画「アイ・ラブ・ピース」は 2003年公開されているが
病気や事故で手足や指 乳房等を喪った方たち
また 地雷や戦争で手足を失った人たちに 義手・義足を提供するため
義肢装具士をめざす女性を主役に
戦争で足を喪った アフガニスタンの少女が 日本で義足を作り
アフガンに帰っていく物語だった。
そして その映画のモデルとなり 義肢製作に関して
世界的に活躍している 中村ブレイス社が 銀山街道の入り口にあった。
そんな会社が ここ石見銀山にあることを 今知った。
中村ブレイス社
町並み中にある「熊谷家」は
かつて石見銀山で栄えた古い商家だそうだ。
家業である鉱山業や酒造業のほかに代官所に収める
年貢銀を秤量・検査するなど
石見銀山御料内でもっとも有力な商家の一つで
今は国指定重要文化財に指定されている。
中には入らなかったが 内装はとても趣ある造りになっており
雲立涌文様(黄土地に銀色)を用いた襖・壁紙で
内装を整えられた座敷があり
また 熊谷家が実際に使っていた道具類や衣服をはじめ
くらしを伝える品々を展示しているそうだ。
こちらは床屋さんとは思えない建前だが
アンティークな理容椅子など 大正末期の貴重な理容文化が残る
「理容館アラタ」だそうだ。
2012年には 全国理容連合会「理容遺産認定」の
第一号店として認定され その碑が店前にある。
なお 現在は 和田珍味石見銀山店としてお土産物販売や休憩所として
観光客に利用されている。
和田珍味は 平成20年から 理容館アラタとともに営業を続け
和田珍味銀山店を総称して「銀山ヴィレッジ」と名前をつけて
理容館アラタの保存・維持のため協力をしているのだそうだ。
銀山川を挟んで 立派なお寺がみえるが
「西性寺」 (さいしょうじ)といい
「左官の神様」と尊敬された 松浦栄吉 が
還暦を迎えた 大正時代中頃の鏝絵「鳳凰」が
また 経蔵には ほかの三面の壁にも大輪の牡丹や菊が彫刻されているという。
1465(寛正 6)年 創立と伝えられ もと天台宗龍泉院と称していた。
のちに 白杯村の西善寺と合併して 西善坊と称するようになったが
1524(大永 4 )年 住僧宗徳の代には 浄土真宗に改宗して 西性寺となる。
現本堂は 1739(元文 4 )年に 再建されている。
こちらは擬洋風で当時の姿を残している「旧大森区裁判所」
1890(明治23)年に開所し
地方行政・司法の中心的役割を果たして
昭和20年代まで機能していた。
現在は 銀山や町並みの歴史と暮らしを映像で紹介し
また 町並みの保存修理資料を展示する
『大森町並み交流センター』となっている。
岩盤を刻んだ石段の上に「観世音寺」がある。
この寺には 朱色の門の両側に仁王様が目を見開き
傍らには十六羅漢が立ち並んでいるというが 時間なく登らなかった。
大森代官所が 銀山の隆盛を祈願するための寺で 真言宗の寺院という。
町並みの大半が焼失した1800(寛政12)年の「寛政の大火」により
観世音寺も全ての建物が焼失しまった。
現在の本堂や山門は 1860(万延元)年に再建されて
山門の仁王像は 江戸後期に造られた像が老朽化したため
1980(昭和55)年に再建されたという。
こちらは 代官所地役人の「旧河島家」
1800年代初めに建築された住宅で
平成2年に復元されており
唯一公開されている武家屋敷の遺宅で
上級武家の構えをよく伝えているという。
武家屋敷の多くは 屋敷が門塀で囲まれ
道に面して庭があり その奥に 母屋を配置している。
中には 隠し部屋もあるそうだ。
因みに 大森代官所に務めた役人を地役人といい
代々大森に居住して 銀山の経営や 領内の支配に当っていたいう。
町並みを行く途中に 石見銀山銘菓「げたのは」の看板を掲げた
江戸時代から続く老舗の和菓子屋「有馬光栄堂」があった。
「げたのは」とひらがなで書かれているので
一時 何のことか 分からなかったが
小麦粉と黒糖などを原料に造った
昔なつかしい味のするお菓子で
この菓子2枚をたたき合わせた時の音が
“カランコロン”と下駄で歩くときの音に
似ていることからこの名が付いたそうだ。
小麦粉・黒糖・砂糖・卵で作る製造法は 昔のまま受け継がれて
銀山の人夫たちも食しながら作業していたという
伝統あるお菓子であるという。
これは 土産になると思い買い求め食したが
形はサブレのようであり かりんとう味の板版かな?
普通の家屋? 暖簾が下がっているので商店かなと思ったら
中国電力の「石見あすみ館」と看板にある。
大森の町並みは 代官所 武家屋敷 寺社 郷宿 町家などが
入り混じって独特の景観を残しているが
その保存維持は大変なものがあるようだ。
島根県内に約3万の空き家があり
そのうち年に約200棟も廃棄されている現状にある。
そこで中国電力では 「古民家再生プロジェクト」を立ち上げ
この大森でもその一環として 民家を改修し
電力会社の展示施設として利用している。
中には入らなかったが IH化したキッチン 床暖房など
古民家の雰囲気を守りつつ最新の電化機器を取り入れた
新しい生活を紹介し体験できるという。
また 町並みの電線類を地中に埋め
町から電柱をなくす事業も進めているとか。