あかない日記

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信州紀行 須坂市27 北向観音

2019-11-29 | 国内・長野

 

 

泉寿院の南 穀町北交差点東に 

観音様を祀った「北向観音堂」がある。

 別所温泉にも北向観音があった。
(2018/10/16 別所温泉23

       

 舞台造り 額は「北向山」

  


改修前の堀家の家紋
「亀甲卍」が入った鬼瓦

 

説明文の概略

「初代須坂藩主堀直重が
元和2年(1616)に
観音堂を建立し、
豊太閤護持仏を祀る。

豊太閤護持仏は、
インドで造られた聖観音菩薩像で、

文禄の役(1692年)で
秀吉に献上され、
大阪城内に祀られる。


大阪城落城後、兵火を免れた観音様を、

徳川秀忠の家来で、
同城の監守となった堀直重が深く帰依。

軍功(徳川家の人質)により
須坂藩主となり、

この観音様を御厨子に入れたまま
賜ったと伝えられる。

開運・出世・厄除けの観音様で
一度参拝すれば
四万八千日の功徳があるとされる。

縁日は毎月18日。 
8月10日は
瓜観音で名高い祭礼日。」

とある。


観音堂に祀られている観音様は
像高20.4cm、
台座と合わせた総高が26.5cmで、

柴金で造られた金剛仏。

 


信州紀行 須坂市26 国定忠治

2019-11-28 | 国内・長野

 

 

寿泉院の山門手前右手に 
国定忠治の像といわれる 
木枯し紋次郎風の地蔵がある。

何故 ここ須坂に 忠治なのか?

                         

説明文には

「江戸末期の侠客、
国定忠治にゆかりの地蔵菩薩で、

嘉永3年(1850年)に造られたという。

もとは 野沢温泉にあり、

中風除け忠治地蔵として
信仰を集めていたが、

昭和25年に訳あって
この地に安置された。


この お地蔵様の評判は、
県外の方が高く、

群馬県や新潟県等から
わざわざ訪れる人もいる。


国定忠治は、信州にも来ており、

大笹街道の抜け道を通っている。

なお、当区では、
区長以下が毎年春・秋に参拝し、

区の平穏無事と区民の
健康を祈願している。」

資料では 忠治は 渡世修行として
北信濃に足を運んでいる。

「中風」とは “脳血管障害”で
忠治自身も中風を患っていたいう。

 


信州紀行 須坂市25 福島正則碑

2019-11-27 | 国内・長野

 

 

寿泉院脇に
福島正則公遺蹟碑がある。

 

説明文には

「福島正則は、
武断派の筆頭として
文治派の石田三成と対立。

関ケ原の戦いで東軍につき、
広島49万石の藩主となる。

広島城修築を幕府に譴責され、
川中島4万五千石(高井郡二万石、
越後魚沼郡二万五千石)に改易。

元和五年(1619)須坂に到着。
須坂藩二代藩主直升の配慮で寿泉院に仮寓。

付き従ってきた嫡男忠勝の死去により
高井野の屋敷(高井村)に移る。 

寿泉院にも度々来遊し、
自己の屋敷の正門を寄付する等
寿泉院と縁故深き故、
この石碑を建立。

高さは二間半。
揮毫は豊太閤護持仏碑と同様
当時の長野県知事の大山綱昌氏。」


とある

福島正則は この地にあって
高井地方の土地を検地し、
治水に力を入れ、松川の水害を
減らそうと堤防を築き 
小布施の栗林を拡張するなど
住民のために働いたという。

今回の水害も含め
この当時から この地は水害に
悩まされていたことが分かる。

 

 


信州紀行 須坂市23 泉寿院

2019-11-26 | 国内・長野

 

 

太閤護持碑の脇奥にある「寿泉院」へ

                  

説明・資料によれば

寿泉院は、延暦年間(782-805)に
空海(弘法大師)が遠州で創建し、

その後 当地に移ったと伝えられる。

火災に遭遇する等長い間廃絶していたが、
1646(正保3)年 興国寺9世
桂巖嫩察(けいがんどんさつ)和尚が

正式な1世となり中興した。

当初は真言宗であったが故、
揚柳観音(中国の仏)がおられる。

この観音様は、
手に持っている柳の枝で種々の病を

取り除く霊験がある「病難の消除」の
仏と言われ、参拝する人も多い。

明徳年間(1390-1393)に
現在の曹洞宗となった

 


信州紀行 須坂市23 豊太閤護持仏碑

2019-11-25 | 国内・長野

 

 

上町 旧大笹街道筋に
大きな碑がある。

         

「豊太閤護持仏」が 
この地にある旨の碑であった。

豊太閤護持仏とは
豊臣秀吉が帰依した聖観音をいう。


説明文には

「豊太閤護持仏がこの先にある
北向山寿泉院観音堂に
祀られていることを示す石碑。

棹石だけでも5m70cm、
台石を含めると9mもの高さになる。

明治40年5ヵ月を掛けて建立された。

当時の記録には “空前の壮挙
日本第一の石碑建立” と謳われた。

この事業を行ったのは
葦沢義定住職。(以下略)」とある。

因みに 碑石は 
高さ5.7m、厚さ1.9m、
幅2.7m、重さ約30t

台石は 高さ3.5m、
幅6m、重さ243t。

 


信州紀行 須坂市22 田中本家2

2019-11-22 | 国内・長野

 

  味噌蔵に沿う路地 

 

11の土蔵で囲まれた屋敷 母屋離れ
天明年間(1781-1789)に
築庭の庭園をはじめ3つの庭と

表門(長屋門) 忍び門 撥ね橋門など
3つの門などがある。

 

 

                       

 庭園は

浅間山の大噴火(2百年前)による
天明の大飢饉の時

住民の救済を兼ねて京都より
庭師を招いて造られた庭で
裏山を借景にし
池を巡る池泉回遊式庭園になっている。

また 梅雨時に「夏椿の花」が
咲くところから「夏の庭」とも呼ぶ。

 

 

 


信州紀行 須坂市21 田中本家

2019-11-21 | 国内・長野

 

 

穀町にある田中本家博物館へ

 

説明文には

「田中本家博物館

田中本家は、初代新八氏が
享保十八年(1733)に商人として独立し、
現在まで続いている。

江戸時代は、米、菜種油、煙草等を商い、
須坂藩の御用達商人を務めた。

近年土蔵の調査をしたところ、
江戸時代からの生活に使用された
品々が素晴らしい保存状態で現存。

当時の生活を知る上でも
大変貴重と専門家の薦めもあり、
100m四方を20の土蔵が囲む屋敷を開放し

平成5年4月に
豪商の館・田中本家博物館として開館した。」

 

生活の文化遺産、屋敷構え、
庭園等が公開されている。

 

                       

 豪商の帳場にしては
 小ざっぱりしている。

 

 

 豪華な食膳が並ぶ

 

 

 

各時代に使われた日常生活上の
家族の衣装 調度品 玩具などが
多く展示されて 
家主の家族への思いが伝わる。

 

  

竹久夢二 (1884-1934) 
「少女と動物 双六」(小学少女新年付録)

説明には 「竹久夢二と言えば、
大正ロマンを代表する画家として
美人画のイメージが強いが、
児童文学にも強い関心があり、
子供雑誌の挿絵なども多く手掛けている。」          

*「小学少女」(研究社)は
 1919(大正8)年創刊

 

  

 子供たちへの教育も配慮された文房具類

 

 

 

 


信州紀行 須坂市20 臥竜公園2

2019-11-20 | 国内・長野

 

   園内の須坂市動物園

生憎 休園でした。

かつて 日本一有名な
アカカンガルー「ハッチ」がいたが

2009(平成21)年に 老衰のため亡くなって
「名誉園長」の称号が授与されている。

 現在の人気者は
カピバラやワオキツネ ザル
ベンガルトラ兄妹の
臥桜(がお)と未桜(みお)などで

約50種230点の動物がいるそうだ。

また 以前 経営の危機にあったが
「夜の動物園探検隊」「身近な生き物展」
「ワオキツネザルのなかよしタイム」などと
インターネットで動物の24時間ライブ映像を
配信する「アニマルパーク」も
開園しているそうだ。

 


園内の臥竜山に登るには 
家族向けに3つのコースがある。

  

 

 
園内に臥竜池を見下ろす所に銅像がある。

  
1933(昭和8)年から1946(昭和21)年に
14年間連続で須坂町長を務めた
田中 邦治(1883-1960)であった。

 

戦後も 1958(昭和33)75歳の時
第2代須坂市長となり

現在の須坂市の基礎を築いた、

辞職後は多くの財産を市に寄附し
それにより市の奨学金制度が樹立するなど
須坂市に大きく貢献した人であった。

1960(昭和35)年に 須坂市で
初めて名誉市民の称号が贈られている。

 

 


信州紀行 須坂市19 臥竜公園

2019-11-19 | 国内・長野

 

 

「臥竜公園」の名は 
園内にある「臥竜山」(471.5m)から

また 臥竜山の由来は
「竜が伏せている姿」に似ていることから。

 

「臥竜公園」は 1926(大正15)年に
林学博士・本多静六(1866~1952)
によって設計された
案を元に
1931(昭和6)年に完成した。

ただ当時は 昭和初頭の世界恐慌で
この造園は 皮肉にも製糸の町須坂の
製糸工場で働いていた人々の
失業者対策にもなっていた。

現在は 春の花 夏の風
秋の紅葉 冬の雪景色 と

一年を通じて憩える公園として
多くの市民にも
親しまれている公園になっている。

 

 臥竜公園は 各種の100選に認定されている。

・「日本の名松100選」(231983・昭58年)   
・「長野の自然100選」(1987・昭62年)  
・「さくら名所100選」(1990・平2年・園内に約600本)
・「信州の夕景色100選」(2019・平11年)
                        


園内の「臥竜池」は 人口的に造られた「竜が池」。

架かる橋は「臥竜橋」名の付くものはすべて「竜」

 

 

 


信州紀行 須坂市18 法然堂

2019-11-18 | 国内・長野

 

 

劇場通り・上中町に
上中町公会堂があり 立札がある。

 

その説明文には

「法然堂の開基、創立年等は不詳。

堂内の御厨子の中には浄土宗の
開祖法然上人の像等があります。

堂は、安永年間(1776年頃)には
既に建築してあり、浄念寺の末派でした。

ところが明治6年に無住・無檀で
あることを理由に堂は廃され、

本堂を中町において管理してきました。

明治21年太子町から出火の際、
法然堂の一部も火災にみまわれました。

その後、昭和2年に堂を改築し、
更に御蔵町の整備のとき、

公会堂として建て直しました。

毎年四月下旬に
御忌供養の祭りを行っています。」


生糸全盛の頃は「仲小町通り」と呼ばれ
当時は料理屋が軒を連ねていたという。

 

 *法然(1133-1212)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。

岡山県美作の武士の家に生まれる。
源空ともいい浄土宗を開いた。

はじめ山門で天台宗の教学を学び、
承安5年、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、
死は平等に往生できるという
専修念仏の教えを説き、貴族だけでなく
武士や農民の間にも広まった。

このため古い宗派から圧力がかかり、
四国に流されたが、のちに許されて、
多くの信者を得た。

また多くの弟子も育て、
そのうちの一人が、
浄土真宗を開いた親鸞である。

 


信州紀行 須坂市17 劇場通り

2019-11-15 | 国内・長野

 

 

市内には色々な名前の
付いた「通り」があり

それぞれ通りの名前には
由来があるが

その一つに

本上町から穀町までの通りを
「劇場通り」と呼んでいる。

江戸時代には「道海淵」と呼び
明治に入って「須坂劇場」が
できたことにより「劇場通り」と
呼ぶようになったという。


1914(大正3)年には 
松井須磨子(1886-1919)が
公演で「カチューシャ」を唄い

また 美空ひばり(1937-1989)
などの公演もあった。


今はその劇場もなくなり 
その跡地を探してみたが
わからなかった。

大門小路入口 ゲート柱右には
美空ひばりも食べた
かつ丼の「食堂東京庵」がある。

 

 


信州紀行 須坂市16 荒井家・旧信陽銀行

2019-11-14 | 国内・長野

 

  荒井家・旧信陽銀行(本上町)

  

 寺町通りの北端に
 旧信陽銀行 荒井家がある。

説明文には

「製糸全盛期の「信陽銀行」の跡。
1902(明治35)年創立。

屋根瓦は大きなもので大鬼瓦は
1m余の雲水裏盆の箱棟で
重ね合わせの深い本葺き。

軒裏は3段の
段蛇腹塗りで重量感がある。

2列の風切丸瓦にはその先端の○に
信の文字が入る
信陽銀行の社紋である。

そそり立つ妻壁には
3段の露切があり
四段の乳鍵が美しい。

表玄関は用水路に沿って
丸石積2段3段の土台の上に
精巧な切石積みの根巻き石。

円を描く石橋。
柱や梁扉など
全て欅造りの明治期の
粋を凝らしている。

玄関内は切石が綾に
敷き詰められている。」
とある。

当時 製糸業の発展に伴う
資金需要に対応するため、
須坂では幾つかの金融機関が
設立されている。

この 信陽銀行 はじめ
上高井銀行(1895M28)など。

説明にもあるように

須坂の建物の特徴である 
重厚感ある漆喰の“三段蛇腹” 
“ぼたもち石”の見事な組み合わせ 

壁には 折れ釘も見られる。

 


信州紀行 須坂市15 呑龍さん

2019-11-13 | 国内・長野

 

 

勝善寺の裏手 立町公会堂の敷地内に
「呑龍上人」本像が
町の氏神として安置されている。

 

説明文には

「子育て呑龍さんご本尊は呑龍上人。
江戸初期の浄土宗の高僧。
徳川家康の信仰厚く、幕府の祖、
新田義貞公を祀る大光院
(群馬県太田市)を開基。

上州一帯に大不況が続き、
多くの捨て子を養育したことから、
子育て呑龍様と慕われた。

上人没後、大光院隣に上人を
祀る開山堂が創建された。

現在は本山よりも
「太田の呑龍さん」として
全国からの参拝客で賑わっている。

立町の呑龍社は、
昭和3年上人の徳を慕う発起人により、
本社から御分霊された
由緒あるものである。」

 

氏神とは、本来その土地に
住んでいる一族を守護する神のこと。

上人は 1556(弘治2)年に
武蔵国埼玉郡(埼玉県春日部市)に生まれ

増上寺(東京都港区)で修行した後
大善寺(東京都八王子)の住職を務めている。

増上寺は 1611(慶弔18)年に徳川家康によって
一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために
呑龍上人を迎え「大光院」を開山したという。

 

                         

     新田荘歴史資料館

 


信州紀行 須坂市14 勝善寺 2

2019-11-12 | 国内・長野

 勝善寺本堂の鬼瓦

 

臥竜公園の脇にある
須坂市立博物館に

勝善寺本堂の鬼瓦が
展示されている。

 

現在の勝善寺本堂は 
1866(慶応2)年から16年の
歳月をかけて再建されたもので

瓦は 愛知県の三河から
栄七ら 5人の瓦職人を招き

松代の職人 問御所村
(現長野市鶴賀)の
瓦師 杉浦右京を中心に

境内で 4万枚の瓦を焼き
葺かれたと伝えられている。


1968(昭和43)年 
勝善寺本堂の銅板葺き替えの際

鬼瓦一対の片方が 
展示されているのだ。

その重さ約 3トンで
70余の部材で構成されているという。

 

 


信州紀行 須坂市13 勝善寺

2019-11-11 | 国内・長野

 

 

上本町 通称・寺町
(勝善寺大通り・寺町大通り)に出る。

この通りには 現在 
勝善寺・蓮休寺・宝広寺と寺が並ぶが 

かつては倍の寺があったという。 

その柳島山・勝善寺は 
浄土真宗大谷派の名刹。

1199(正治元)年に
明空により 
現在の
長野市柳原中俣に創建された。

その明空は 
信濃源氏系武士の井上頼重が
比叡山で 出家し

親鸞聖人の直弟子 6人の
高僧の一人でもある。


1735(享保20)年
14代住職海秀の
4女奈与子のもとに
水戸光圀のひ孫 大明院真兼
(俗名小沢左膳)が
16代住職として婿入り
それ以来「水戸葵」を
寺紋として許されている。


17代住職夫人 八千姫の父は
京都今出川冷泉中納言であり

明治維新後に
14代堀直明須坂藩主の娘 徳子が
22代住職 勝秀に嫁いでいる。

このように この寺は
源家、水戸徳川家,冷泉家と
堀家との 血族でもある。