あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

砂防会館

2021-09-30 | 出来事・行事


  千代田区平河町 砂防会館(左)と別館

 

前回 砂防の父 赤木正雄に触れたが

彼によって設立された
全国治水砂防協会の建物が
「砂防会館」である。

砂防会館は
一般社団法人全国治水砂防協会が
本部を置き、管理運営する会館である。

全国治水砂防協会の関連施設の他
テナントビルとしても用いられている。

その沿革は
1935(S10)年
 砂防協会設立 設立者は赤木正雄
1953(S26)年 
 砂防会館建設決議
1955(S30)年12月 起工式
1957(S32)年8月 竣工した。

本館は地上5階 地下2階建て
別館Aは1984(S59)年
 別館Bは1993(H5)年に完成している。


現在の本館は老朽化により改築され
2018(H30)年4月に竣工している。

なお 赤木正雄記念館は 別館 Aにある。

 

 

 

2021年9月29日 
自民党総裁選挙が行われ
岸田総裁が誕生した。
 
しかし 旧砂防会館は 
政治との関わりが深く 
“政治の裏舞台”でもあった。

1966(S41)年 
砂防会館に入居していた自民党本部が

永田町に自由民主会館が完成し移転すると
空いた2階、3階に中曽根康弘と
田中角栄が派閥事務所を構えた。

「砂防会館」「平河町」の名は
当時の田中や彼の派閥の代名詞であった。

なお、米国ロッキード社による
旅客機の受注をめぐって
1976(S51)年にあかるみになった

大規模汚職のロッキード事件では
主な現金授受の場所と認定されている。

 

追 田中角栄 については
 当ブログ 2016/12/17でふれている。

 


砂防の父 赤木正雄

2021-09-24 | 人物忌


 砂防会館前に立つ「赤木正雄像

 

9月24日は 
元参議院議員 赤木 正雄
が亡くなった日

赤木は
土砂災害などを未然に防ぐ
「砂防」という考え方を
提唱した先駆者で
「砂防の神」「砂防の父」とも呼ばれる。

赤木正雄は

1887(M20)年3月24日
 兵庫県豊岡市引野に生まれる。
1908(M41)年 
 第一高等学校の始業式で新渡戸稲造校長の
「治水事業は華々しい仕事ではないが、
 治水に身を捧げて、
 水害をなくすことに志を
 立てる者はいないか」との示唆で
 生涯 治水事業に携わることに決心する。
1914(T3)年 
 東京帝大農科大学林学科卒

 内務省治水局に入省
 土木局技師、同第3技術課長、
 農林省山林局技師を歴任。
1935(S10)年
 全国治水砂防協会(砂防協会)を設立する。
1942(S17)年
 貴院議員
1950(S25)年
 参院議員に当選、2期務める。
1951(S26)年
  ベルギーのブリュッセルで
 開催された国際水文科学学会で
 渓流等の浸食をコントロールすることを
「SABO」とすることが認められた。
1971(S46)年
 文化勲章
1972(S47)年9月24日
 死去 享年85

渓流砂防工事の技術的発展や
治水砂防政策の推進に尽くした
著書に「渓流及砂防工学」などがある。

 

 


彼岸花

2021-09-20 | 出来事・行事

 

コロナ感染は 非常事態宣言で
日ごとに感染者数は減少傾向にあるが

この3連休で各地の人出は増加している
その結果は2・3日後に表われるだろう。

 

9月23日は お彼岸 
季節の花の開花は正確で 
その彼岸に合わせるように
我が家の庭にも「
彼岸花」が咲く。

 白 青 黄色とあるが 
この赤の色がなんともいえぬ
鮮やかさで好きだ。

しかし 別名 曼珠沙華とも 
また この花 死人花 地獄花など
忌み嫌われるような別名が数多くある。

赤い彼岸花の花言葉は
「情熱」「独立」「再会」
「諦め」「悲しい思い出」

コロナ感染の収束は2~3年とも  

当方の年齢にとっても
貴重な時間になるのだが
もう
「諦め」に近い!


クーデンホーフ光子 4

2021-09-13 | 人物忌


   ポペチョヴイツェは 
       ウィーンの北西約400kmにある 

 


クーデンホーフ光子の
欧州における ゆかりの地に触れる。


1896年1月28日 夜汽車で神戸駅へ
 神戸港から客船で
 香港 シンガポール セイロン 
 インド アラビア
 エジプト
 パレスチナ イタリアと
 陸路ウィーンを経由し
 3ヶ月かけてロンスベルクへ

 ボヘミアの領地ロンスペルグ城に住んだ。
 (ドイツ国境に近い
   現チェコのポペチョヴイツェ)

*乳母として日本人2人が同行している。

 

  ポペチョヴイツェの町 中央にロンスペルグ城は建つ


    ロンスペルク城正面 

 

住んだロンスペルク城は
14世紀ごろ建てられ

1864年 城と邸宅は 
クーデンホーフ=カレルギー家
によって購入された。



光子が家族と住んでいた
ロンスペルク城は、
その後兵舎などに使用され荒廃したが

光子の遺品等は 
ロンスペルク 約10km東にある
ホルショフスキー・ティーン町にある

カレル・ヤン・トラウトマンスドルフ侯爵
(1845-1921)の城に保管され展示されている。


光子の着物姿の肖像画や
記名されたゲストブック 
使っていた急須もある。

なお 現在ロンスペルク城
は修復されつつある。

 

 

 
  シェーンブルン宮殿とウィーン市内
       右にシュテファン大聖堂

 

  
    マキシング通り12番地

 

1906年 夫急逝(46歳)
1908年 子供たちの教育のため
 一家はウィーン・シェーンブルン宮殿西側
 のヒーツィング地区・
 マキシング通り12番地に移る。

 光子は「黒い瞳の伯爵夫人」として、
 ウィーンの社交界へ

 

1914(T3)年 第一次世界大戦勃発

 ストッカウへ疎開
(ロンスベルグの隣村,夫が買っていた所)

娘たちと仮設病院で奉仕活動。

 長男、三男は戦場へ 
 二男リヒアルトは
 女優イダ・ローランと結婚

 


    ウィーンの郊外 メードリング

 


   メードリングの家

 

1920(T9)年 
 ウィーンの郊外
 メードリングに屋敷を買い移住。

 
なお 現在メードリングの博物館
Museum Mödling - Thonetschlössl)には

 光子のコーナーが設けられており 
 関係品や写真が展示されている。

  
     カレルギー家の墓


1941(S16)年8月27日
 二度目の脳卒中により
  メードリングの自宅で没 67才


光子は 望んだ夫の墓には入らなかったが 
シェーンブルン宮殿西側のピーツィンガー墓地の
カレルギー家の墓に眠る。

墓石には
「 Mitsu  Aoyama」の名がみえる。

 

参考:
 ・「ウキペディア」

    ・「Google」
 ・「吉田羊、プラハ・ウィーンへ
   ヨーロッパに嫁いだ なでしこ物語」

 ・「NHKザ・プロファラー」

 

 


クーデンホーフ光子 3 

2021-09-08 | 人物忌

 

続きクーデンホーフ光子について触れる。

光子は 日本で長男と次男を産み
総勢 7人の子をもうけるが
夫ハインリヒが亡くなったとき
光子31歳 
子供たちは 
  上が12歳 下が2歳半だった。


その子供たちを取り上げて見る。


○長男:ヨハネス
   (光太郎)  1893-1965 


裕福なハンガリー系ユダヤ人の一族出身で

オーストリア=ハンガリー帝国
最初の女性パイロット

リリー・シュタインシュナイダー
(1891-1975)と最初の結婚する。

のちに
女優ウルスラ・グロースと再婚し

先妻の長女 ピクシーは後に
光子の心の支えになる。



○次男:リヒャルト
(栄次郎) 1894-1972 

戦後の 1918(T7)年 
リヒャルトが有名舞台女優

イダ・ローラント(1881-1951)と
結婚すると言い出すが

イダ・ローラントは
ユダヤ人で離婚歴が2度有り

加えて年齢が34歳で19歳のリヒャルトと
大きく離れていることから光子と対立し
リヒャルトは駆け落ちをしてしまう。
光子は死ぬまでリヒャルトを許さなかった。



1923(T12)年 
 妻のイダの経済的支援で
「汎ヨーロッパ主義」
を出版し
「ヨーロッパの28の民主主義国家が
アメリカのような一つの連邦国家として
まとまるべきだ」
と唱えて 
一躍ヨーロッパ論壇の寵児となる。


リヒャルトの母が東洋人光子光子の子であることがわかり
光子は“欧州連盟案の母”として知られる。

その後 リヒャルトはナチスに追われ
妻のイダ・ローランとアメリカに亡命した。

その逃避行が 
不滅の人気のアカデミー賞映画
「カサブランカ」のモデルになっている。

 *映画「カサブランカ」は
  当ブログ(2011/4/10)で触れている。

*結婚歴は
1918(T')年 イダ・ローラント
(1881-1951)と結婚
1952年 アレクサンドラ・フォン・
 ティーレ=ヴィンクラー伯爵夫人
 (1896-1968)と再婚

1969年 メラニー・ベナツキー=ホフマン
 (1909-1983)と再々婚


○三男:ゲロルフ
   (ゲオルフ)1896-1978

1941年までプラハの日本大使館の
秘書兼報道官であり

プラハのカレル大学で
日本語と歴史の講師を務め

オリエンタルインスティテュートの
副学長を務めた。


なお 長女のバーバラ・クーデンホーフ
 ・カレルギー(1932-)は
 オーストリアのジャーナリスト。


2001年 トマーシュ・ガリーグ・
 マサリク クラスIVを受章している。

また三男のミャエル・クーデンホーフ
=カレルギー(1937-2018)は 画家で

 2002年から日本で暮らしていた。

 




○長女:エリザベート 1898-1936
 
 ウィーン大学で法律と
 経済学の博士号をとり
 最も優秀な頭脳を持っていたとも。

 
 オーストリアの独裁者エンゲルベルト
 ・ドルフース
首相(1892-1934)の
 秘書を務めていたが
 その後
 この首相はナチス党が政権を取った
 ドイツに殺されため 

 パリへ亡命したが病気で若死にしている。


 

 

○次女:オルガ   1900-1976

母光子が脳溢血で半身不随になった時
25才であったが

光子の口述筆記を受け持ち
母の介護のため進学 婚期を逃し
生涯独身であった。


光子の死後 第二次世界大戦が終わると
チェコ兵によって収容所に入れられ

その後難民キャンプで暮らし、
ドイツで生活保護を受けながら、
貧しく孤独な生涯を終えている。




○三女:イダ・フリーデリケ・ゲレス
 1901-1971

 
ウィーン大学卒業後
 20世紀カソリック文学の
  代表的作家になる。




○四男:カール    1903-1987

 ギリシャで大学教授をして
 スイスで文筆業に。


 


光子の晩年

光子死去時(1941)見守ったには
三女・オルガだけ 
葬儀に間に合ったのは 
三男ゲロルフ(44歳)と
三女イダ(40歳)だけであった。

当時 長男ハンス(48歳)は 
妻がユダヤ人のためローマに

  次男 リヒャルト(47歳)はアメリカへ亡命中 
  四男 カール(38歳)はギリシャに 
  長女 エリザベートはすでに亡くなっていた。 
    ( )内は当時の年齢



7人の子供は 
長女を除いて光子より永い生涯を終えている。

・ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー
  1859-1906・46歳
・クーデンホーフ光子
   1874-1941・67歳
・長男 ハンス(光太郎)
    1893-1965・72歳
・次男 リヒャルト(栄次郎)
  1894-1972・77歳
・三男 ゲオルフ(ゲロルフ)
   1896-1978・82歳
・長女 エリザベート
  1898-1936・38歳

・次女 オルガ 
   1900-1976・76歳

・三女 イダ・フリーデリケ・ゲレス
  1901-1971・70歳
・四男 カール
  1903-1987・84歳

 

また 7人の内3人が博士号を取得
 2人が作家になっている。

 

*写真はNHK「ザ・プロファイヤー」から

 

 


クーデンホーフ光子 2

2021-09-01 | 人物忌


  明治時代の納戸町〔赤枠〕 中根坂〔青枠〕

 ・二人の新居
    (納戸町26番地)

 ・オーストリア・ハンガリー公使館
    (納戸町28番地)

  

前回に続き

「クーデンホーフ光子」の
 都内ゆかりの地を巡る。


1892(M25)年2月
 東京に赴任していた
 オーストリア・ハンガリー帝国代理公使の
 ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー
 と知り合う。

その出会いは

着任2週間目のハインリッヒが
凍った中根坂で
人馬ともに転倒し負傷した。

たまたま目撃した光子は
ハインリッヒの救護にあたり
その手厚い看護がきっかけに
ハインリッヒの心を打ち
彼の求めにより

まずは オーストリア公使館に
勤めることになる。

 

当時光子は 19歳であって
このような行動ができには 

小学校を終えた後
行儀見習として 高級社交場・紅葉館に

女中として 勤めたことがあり
外国人との交流に慣れていたともいう。

 


 「納戸町公園」(新宿区納戸町26番地)


1892(M25)年 結婚し新居は、
 薬学者・柴田承桂(1850-1910)邸宅内の
 ドイツ風の洋館を借家にして
 長男と次男を産み 1896(M29)年
 渡欧するまで4年間過ごしている。

その跡地は、現在「納戸町公園」となり 
園内に説明文が置かれている。

「史跡 クーデンホーフ光子 居住の地

この地には、初めて西洋の貴族と
結婚した日本女性である
クーデンホーフ光子
(青山みつ)(1874-1941)が、

明治29年(1896)に
渡欧するまで住んでいた。

 光子は、明治7年(1874)
骨董商と油商を営んでいた

青山喜八と妻つねの三女として生まれた。
東京に赴任していた
オーストリア・ハンガリー帝国代理公使の

ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー
と知り合い、

明治25年(1892)に国際結婚し、
渡欧後は亡くなるまで
オーストリアで過ごした。

渡欧までの間、
光子と共にこの地で暮らした

次男のリヒャルト
〔栄次郎〕(1894―1972)は、

後に作家・政治家となり、
現在のEUの元となる
汎ヨーロッパ主義を

提唱したことから
「EUの父」と呼ばれている。

 平成25年3月 新宿区  」

 

 *納戸町の地名は
納戸役同心の組屋敷があったことによる。
御納戸役とは将軍家の
金銀・衣服・調度の出納、
大名・旗本からの献上品、

諸役人への下賜の金品の管理を司る役職

 


中根坂は 坂の中心部に
向かって下がって行く。

その中心部から先は安藤坂になる。

*中根坂の説明文
 「昔、この坂道の西側に幕府の
 旗本中根家の屋敷があったので

 人びとがいつの間にか
 中根坂と呼ぶようになった。」

 


 紅葉館(芝公園20号地)〔黄枠〕

 

*紅葉館は、1881(M14)年に
芝区芝公園20号地に開業した
会員制の高級料亭。

上流階級の人のみが利用することで
接待をする女中は
相当な美人でなければならない。

結婚の写真を見ても 

光子は当時の日本女性としては
背が高くて八頭身の美女で
あることが
うかがえる。


追:紅葉館は
 1945年3月の東京大空襲で焼失したが
 跡地には東京タワーが建っている。