小栗上野介邸跡(千代田区神田駿河台1)
5月27日は
徳川幕臣 小栗上野介 が亡くなった日
説明文には
「1827(文政10)年
小栗上野介ここに生まれる
この地に生まれ育った
小栗上野介(1827~1868)は、
幕末の外交・財政政策をリードし、
横須賀に大造船所を建設して
わが国の造船業が
近代化する道を開いた。」とある。
小栗忠順(ただまさ・上野介)は
江戸時代末期の幕臣、
勘定奉行、江戸町奉行、
外国奉行を歴任した。
1827(文政10)年
旗本小栗忠高の子として
江戸駿河台に生まれる。
通称 又一
1859(安政6)年
従五位下豊後守に叙任
1863(文久3)年
上野介と改名
1860(安政7)年(33歳)
日米修好通称条約批准のため
米艦ポーハタン号で渡米する。
フィラデルフィアの造幣局では
アメリカに有利だった通貨の
交換比率を改めることを
アメリカ側に訴え
通貨の含有量の全量分析を拒む
アメリカに対し、
小栗は「NO」と主張する。
この時の毅然とした態度が
アメリカ側に評価が一躍高まる。
帰国後は 多くの奉行を務め
江戸幕府の財政再建や
フランス公使
レオン・ロッシュに依頼しての
洋式軍隊の整備
横須賀製鉄所の建設などを行う。
1865(慶応元)年
徳川家茂が造船所の建設を許可
横須賀の地に造船所を完成
マストやロープの工場、さらに
技術を教える学校までも整え
造船所にとどまらない
総合施設を建設した。
また 西洋式の労務管理
マネジメント制を採用し
現代の会社経営の基礎となる
概念を導入する。
1867(慶応3)年
日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立
株式会社の制度を使い水洗トイレを
装備した「築地ホテル」も建設している。
1868(慶応4)年
横須賀製鉄所は 新政府に引き継がれる。
徳川慶喜の恭順に反対し
薩長への主戦論を唱えるも容れられず。
1868(慶応4)年
罷免されて 領地である
上野国群馬郡権田村
(群馬県高崎市倉渕町)に隠遁
同年閏4月
薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ
自身の養子をその証人として
差し出したが 逮捕され
翌日 5月27日 斬首。
逮捕の理由としては
大砲2門 小銃20挺の所持と
農兵の訓練が理由であるとする説や
勘定奉行時代に徳川家の大金を
隠蔽したという説などが挙げられるが
これらの説を裏付ける根拠は
現在まで出てきていない。
その後 小栗は見直され
幕府側から近代化政策を
行った人として評価されている。
・大隈重信は
「小栗は謀殺にされる運命にあった。
なぜなら明治の近代化はほとんど
小栗の構想の模倣にすぎない。」と
・大村益次郎は
「もし 策(新政府への徹底抗戦)が
実行されていれば
我々は全滅していたであろう。」と
・東郷平八郎は
「小栗が横須賀造船所を
建設していなければ
今回の海戦(日露戦争・日本海海戦)で
どれほど役に立ったかしれない。」と
・司馬遼太郎は
「かつてここ(横浜造船所)は
日本の近代工学のいっさいの源流であった。」
また「小栗は明治の父」とも記している。