あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

浮世絵師 小林清親

2020-11-28 | 人物忌


(TOKYOMX アートステージから)

 

先日(11月7日) 当ブログで
版画家 川瀬巴水(1883-1957)
に触れたが

11月28日は 明治時代の浮世絵師
小林清親  が亡くなった日

小林 清親(きよちか)は
江戸の木版技術を継承して

最後の浮世絵師の一人といわれた。

1847(弘化4)年 
 江戸本所 御蔵屋敷頭取の
 子として江戸に生まれる。

1862(文久2 )年 
 父の死により15歳で家督を相続。
 幕臣として維新の動乱期を過ごす。
1874(明治7)年
 画学の道へ。

1876(明治9)年 
 従来の浮世絵に光と陰影を
 取り入れた「光線画」と
称される
 風景版画を発表し人気を博す。

1884(明治14)年
 「清親ポンチ」と呼ばれる
 戯画・風刺画を新聞などに掲載する。

1894(明治27)年
  「清親画塾」を開く(~1896年)
1915(大正4)年
 死去 享年69

 

*光線画とは
浮世絵の一種。
明治時代初期に
小林清親によって
始められた新しい様式の
名所絵や風景画。

同時期の他の浮世絵師たちが、
明治期特有の毒々しい色彩を
使用していたのと対照的に
清親らは文明開化の波に晒された
江戸から東京へ移りゆく
都市景観を、光と影を
効果的に用いて
新しさと郷愁とが同居した
独自の画風で描き人気を博した。



          (Web資料から)

*ポンチ絵
 風刺や寓意を込めた
こっけいな絵や漫画
また 概略図や構想図で製図の
下書きとして作成するものや、
イラストや図を使って
概要をまとめた企画書などのこと。

           (ウキペディア他)


小説家 三島由紀夫

2020-11-25 | 人物忌


(1970/11/25 朝日新聞夕刊)
 写真の注意書きに“二人の首がある“とある。


11月25日は
小説家 三島由紀夫が
亡くなった憂国忌

その死の衝撃は 世間を騒がせた。

独自の組織「楯の会」の
メンバーと共に

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
(現 防衛省)の総監室を占拠
籠城し 
バルコニーでの演説の
後に自決した。

その日が 1970年であるので 
今年で丁度50年 半世紀なる。

三島由紀夫は

本名  平岡 公威(ひらおか きみたけ)
1925(大正14)年1月14日
 現・東京都新宿区
 四谷4丁目に生まれる。

1931(昭和6)年
 学習院初等科に入学 

1941(昭和16)年
 「花ざかりの森」を書き上げる。
1944(昭和19)年
 高等科を卒業
 東京大学法学部に推薦入学

 大学卒業後  大蔵省に
 入省するも 9ヶ月で退職 

1949(昭和24)年
 「仮面の告白」を発表

1958(昭和33)年
 川端康成夫妻の媒酌で
 杉山瑤子(ようこ)と結婚

1970(昭和45)年11月25日
 自決 享年45

 

〇代表作
「仮面の告白」(1949年)
「潮騒」 (1954年)
「金閣寺」(1956年)
「鹿鳴館」(1956年)
「鏡子の家」(1959年)
「憂国」 (1961年)
「サド侯爵夫人」(1965年)
「豊饒の海」(1965年-1971年)

 


刀にまつわる言葉

2020-11-20 | ことば


(NHK・BS「英雄たちの選択」から)

 

今 日本刀が見直されて
“刀剣女子” の言葉も生まれている。

それは 当方のブログ
「刀のできるまで」
(2018/10/28)

アクセス数も高い。

先日は
NHK「英雄たちの選択」でも
刀剣スペシャルで
2時間再放映された。

その中で 刀にまつわる
慣用句が取り上げられて
 

”人間と人間が 競合状態”に

なる言葉が多いという。


さて どんな場面で
使われるのかな?

「あ行」
   相槌を打つ
 雨が降ろうが槍がふろうが
 一本槍
   一刀両断
 おっとり刀
  
折紙つき

「か」
 快刀乱麻
 返す刀
 刀折れ矢尽きる
 刀にかけて
 代わりばんこ
 急場しのぎ
 極め付き
 小手先

「さ」
 鞘当て
 鞘走りより口走り
 地金ができる
 地団駄を踏む
 舌の剣は命を絶つ
 鎬を削る
 自腹を切る
   真剣勝負
 地金が出る
 助太刀
 切羽詰まる
 すっぱ抜く
 
そりが合わない

「た」
 大根を正宗で切る
 大上段に振りかぶる
 太刀打ちできない
 鍛錬
 単刀直入
 付け焼き刃
 鍔際
 鍔競り合い
 剣の刃を渡る
 伝家の宝刀
 道理に向かう刃なし
 土壇場
 
研ぎ澄ます
 とんちんかん

「な」
 なまくらもの
 抜かぬ太刀の高名
 抜き打ち
 抜き差しならぬ
 抜け鞘持たん
 寝刃を合わす

「は」 
 白刃踏むべし
 非細工の小刀減らし
 人の太刀で功名する
 火花を散らす
 懐刀
    弁慶に長刀
 
ペンは剣より強し

「ま」
 丸腰
 身から出た錆
 峰打ち
 昔の長刀、今の菜刀
 目貫き通り
 元の鞘に収まる
 諸刃の剣

「や」
 焼きが回る
 焼きを入れる
 槍玉に挙げる
 横槍を入れる

「ら」
 両刀使い

 

 


スティーブ・ジョブズと版画

2020-11-16 | 出来事・行事

(画像は NHKニュース9から )



11月11日 当ブログで 

川瀬巴水に触れたが

その川瀬巴水の作品は

アメリカアップル社の
共同創業者である
スティーブ・ジョブズ
(1955-2011)
も愛していた。

来日した折々に 
川瀬巴水の作品25点を含む
新版画43点を買い求めていた。

と先日のNHKニュース9で
放映していた。



1984(昭和59)年1月 ジョブズが
マッキントッシュ・コンピューターを
発表したおり
スクリーンに現れたのは
美しい黒髪をくしで梳かす
浴衣姿の女性だった。

その絵は 橋口五葉の「髪梳かす女」で
コンピューターの発表とともに
日本の版画のことも話題になった。

 

 

ジョブスは 発表の前年に日本で

「髪梳ける女」と川瀬巴水の
作品を買い求めていた。
その後もコレクションの数は増し
川瀬巴水の25点とあわせ 
総数43点になった。

新版画への興味については
確かなことはわからないが

番組では ジョブズが10代に
友人宅に飾られていた
川瀬の版画に興味を持ったのでは
ないかとしている。

 

 


興行師 川上音二郎 2

2020-11-13 | 人物忌


千代田区三崎町2

 

前回 川上音二郎 に触れたが


千代田区三崎町に開いた
「川上座」跡がある。

 

説明文には

「 川上座(改良座)跡 

 川上座は 明治29年(1896)6月、
新派劇の祖といわれる
川上音二郎によって建てられ、
開場した劇場である。

建坪は、212坪・桟敷定員150
・土間577、大入場354人で
立見場はなかったと記録されています。

川上音二郎は オッペケ節で
自由民権思想の普及・歌舞伎劇に
対抗して壮士芝居(新派劇)を
興したことで有名です。

また 女優 川上貞奴は
彼の妻であることは 周知のとおりです。

 
同34年1月から改良座と改称しましたが

36年4月6日失火して焼失、
以後 再建されませんでした。


 なお、三崎町一帯は
三崎座(現三崎町2丁目11番)
・東京座(現三崎町3丁目3番)   
などがあって、三崎三座と称され、
東京の演劇界の
一つの中心として賑わいました。

 
  平成2年3月 千代田区教育委員会  」

 

 


興行師 川上音二郎

2020-11-11 | 人物忌


上野谷中霊園にある顕彰碑
(台座上の銅像は戦時中の
 金属拠出により撤去されている)

 

11月11日は 明治時代の
  興行師 芸術家 新派劇の創始者

 川上音二郎 が亡くなった日

川上音二郎は 

1864(文久4)年
 博多の藍問屋に生れる。本名音吉
    維新で家業が没落
    継母とも折り合いが悪く
1878(明治11)年
    博多港から大阪に渡り歩いて
    東京まで行き  給仕や巡査などの
    職を転々としたのち
    郷里で政治運動に投じ
    自由童子と名乗って
    過激な言動により
    検挙投獄数十回にもなった。
    
   やがて  政談演説が禁止されると
    落語家桂文之助に入門
    浮世亭○○の芸名で大阪の寄席で
    時局風刺の漫談を演ずる。

1887(明治20)年
 京都の中村駒之助一座で
    川上音二郎の芸名で俳優となる。

   その後 書生芝居の一座を組んで
    巡業を始め東京の開盛座や
    中村座公演を果たしたのち
    自由民権運動をからませた
    羽織袴に陣羽織姿にハチマキ
   手には日の丸の軍扇という
   出で立ちで唄った
  「オッペケペー節」が一世を風靡した。

 1903(明治36)年
 日本で初めてのセリフ劇
  「オセロ」を日本バージョンで上演する。
    
  以後「ハムレット」「ヴェニスの商人」など
   翻訳劇を公演し演劇界に新しい潮流を作った。
1908(明治41)年
 興行師として成功し
   大阪市北浜に
 洋風の劇場・帝国座を開場する。

   同時に帝国女優養成所も創設。
1910(明治43)年
 福岡博多区に洋風劇場の
 「博多座」(初代)を建設。

1911(明治44)年11月11日
    急性腹膜炎により
    帝国座の舞台上で死去。享年48。



オッペケペー節の第一声

「権利幸福きらいな人に/
自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい/
オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー/
堅い裃角とれて/
マンテルズボンに人力車/
いきな束髪ポンネット/
貴女や紳士のいでたちで/
うわべの飾りは立派だが/
政治の思想が欠乏だ/
天地の真理がわからない/
心に自由の種をまけ/
オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー」

 

 

 

 

 


版画家 川瀬巴水

2020-11-07 | 人物忌


川瀬巴水「増上寺の雪」(Web資料から)

 

11月7日は 
版画家 川瀬巴水が亡くなった日

川瀬巴水は

1883(明治16)年 
 糸組物職人の長男として
 現在の東京都港区で生まれる。

1908(明治41)年 
 父親の家業を継ぐが、
 画家になる夢を諦めきれず、

 日本画家・鏑木清方(1878-1972)の
 門を叩いたが、洋画家の道を
 進められた。

 岡田三郎助(1969-1939)から
 洋画を学ぶが挫折を経験

1910(明治43)年
 清方に再度入門を申し出許され
 「巴水」の画号を与えられる。

1918(大正7)年 
 伊東深水(1898-1972)の版画
 「近江八景」に影響を受けて
 版画家に転向し 
新版画を唱える
 渡辺庄三郎(1885-1962)の下で

 塩原三部作「塩原おかね道」
 「塩原畑下り」「塩原しほがま」
を制作、
 数々の作品を渡辺版画店より発表し始める。
 「旅みやげ第一集」(1920)
 「東京十二題」「旅みやげ第二集」(1921)
1923(大正12)年 
 関東大震災で
写生帖188冊をはじめ、
 自身の画業の成果をすべて失う。
 
渡辺庄三郎の励ましを受けて
 
「日本風景選集」(1926)
 「旅みやげ第三集」(1929)
 「東京二十景」(1930)
 「日本風景集東日本編」(1936)
1952(昭和27)年
 「増上寺の雪」が
 伊東深水「髪」と共に
 無形文化財技術保存記録の
 作品に認定された。

 この二点セットで日本を訪れた
 国賓の方々に日本政府から
 プレゼントされてもいた。
1953(昭和28)年
 文化財保護委員会から
 伝統的木版技術記録の
 保持者に選ばれた。
1957(昭和32)年
 自宅において胃癌のため死去。
  享年74

巴水の独自の叙情性を持つ
風景版画は“昭和の広重”ともいわれ
欧米でも高く評価されて人気があり
北斎・広重と並び称され
頭文字から風景画の
3Hと呼ばれている。


 (テレビ東京「美の巨人たち」から)

 


 (テレビ東京「美の巨人たち」から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

川瀬巴水「東京二十景」(テレビ東京「美の巨人たち」から)

 


幕末志士 橋本左内

2020-11-01 | 人物忌


 荒川区南千住6丁目

 

11月1日は 
幕末志士 橋本左内 が亡くなった日

橋本左内は 幕末の越前福井藩士

1834(天保5)年3月
 福井藩奥外科医の子として生まれる。
1848(嘉永元)年6月
 15歳の時「啓発録」を著す。
1854(安政元)年3月
 江戸に遊学。
 坪井信良、杉田成卿に蘭学を学ぶ。
 緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、
   藤田東湖や西郷隆盛ら他藩士と
  交友を結ぶ。
1857(安政4)年
 藩主松平慶永(春嶽)の側近として
 藩政改革を行う。
 また 松平慶永の意を受け、
 一橋慶喜の将軍擁立のため活動を始め
 他藩士や幕閣の間を奔走する。
1858(安政5)年
 井伊直弼が大老に就任し一橋派を
    弾圧する安政の大獄で。
 慶永は隠居・閉門、左内は謹慎。
 数度の尋問を受ける。
1859(安政6)年
 一藩士が将軍継嗣に
   関わったことが問題とされ、
 小伝馬町の牢屋敷において斬刑となり、
 小塚原回向院へ埋葬される。
  25歳の若さであった。

何故 套堂(さやどう)がここに?

説明文に

「橋本左内の墓旧套堂復元と
   福井県との交流を記念して
 
「橋本左内の墓旧套堂」
(区登録有形文化財〔歴史資料〕)は、
もと回向院(南千住5丁目)の
境内入口にあったものです。
平成18年、同院の境内整備の際、
荒川区に寄贈されることになり、
同21年、ここに復元・保存されました。
 
南千住には、この套堂ばかりではなく、
福井県ゆかりの史跡や
幕末の史跡が多く所在しています。
回向院境内北側に新たに設けられた
史跡エリアには、
福井藩士橋本左内の墓、
小浜藩士梅田雲浜の墓があり、
また、同院内には、
小浜藩医杉田玄白らの
「ターヘルアナトミア」の翻訳と
「解体新書」の刊行を記念して
つくられた観臓記念碑があります。

これらは、地域の人びとにとって
身近なものであり、福井県にとっても
重要な史跡となっています。
多くの方々のご協力を得て、
この地に復元が叶った今、
「橋本左内の墓旧套堂」は
地域の歴史を伝えるモニュメントとして、
また荒川区と福井県との交流の場として、
新たなスタートを切ることになりました。
  
 平成21年3月26日 荒川区  」


 説明文の写真