あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

信州紀行 須坂市46 笠鉾会館

2019-12-27 | 国内・長野

 

 芝宮から 細い参道の先に 「笠鉾会館」がある。

 

こちらは上中町の笠鉾
明治32~33年頃に
松代町より購入されている。

須坂市の有形民俗文化財にも指定され、
全国でも珍しい2段の
笠鉾11基と屋台4台が
保存展示されている。

会館は 入館無料。


 

                   

 京都文化への憧れから
つくられた、笠鉾 山車が

かつての須坂の繁栄や 
当時の町衆の心意気が伺われる。

 

  

  

現在も 毎年7月21日から
25日にかけて 祇園祭が行われる。

21日の「天王おろし(神輿)」と
「笠鉾行列」によって幕が開け

笠鉾が町の中を巡行し
須坂の夏の風物詩になっている。

           

                     *

ここで 須坂の見学を終える。

立ち寄り的な訪れだったので

全部を見ることができなかったが

歴史的な遺産や話題が多いのに驚く。

また あらためて 訪れてみたい

 

 *********

 

今年最後になります。

1年間 ご訪問いただき

ありがとうございました。

 

皆さまには よきお年を

お迎えいただきますよう。

 

 

 


信州紀行 須坂市45 太鼓橋

2019-12-26 | 国内・長野

 

 

    境内側から

 

鳥居をくぐって
本殿へ向かって

ひょうたん池に架かる
石の太鼓橋がある。


どう見ても簡単には
渡れそうにない。

神様がお渡りになる
道としてあるので

人は渡れないように
なっているのだそうだ。

太鼓橋は全国に数多くあるが
ここまで凄い太鼓橋は
全国でも珍しいそうで、

エッセイストの永六輔さんが
「渡れない橋」として
紹介したこともあるそうだ。

太鼓橋の大きさは
高さ幅とも約3m、
長さ4.36m、
半径1.81mあるという。

 

 

 

 

 

 

 


信州紀行 須坂市44 芝宮・墨坂神社

2019-12-25 | 国内・長野

 

 

 説明によると

本殿の主神は
墨坂大神で奈良榛原から
勧請したといわれる。

建御名方命を合祀している。

創立年月は 不明であるが
「延喜式」には
延喜7年(907)の頁に記載あり。

芝宮は、市川が今の
市内の地を乱流していた時、

須田氏が大日方地籍で瀬替えをして、
今のように流れを替え、
荒れていた宮地を
整備したと
いわれる
(「勧進帳」承応元年
(1652)神社神宮 山岸図書太夫)。


代々の藩主に崇敬され
厚く保護され、旧須坂町の中心的神社。


弥栄社のご祭礼は
須坂を代表する夏祭り。


「墨坂」の社名については
社論があるが明治になって

八幡社と共に
両社とも墨坂社・県社となる。


宮前の駅へ通ずる道が
開けたのは大正11年。


その道が更に高橋町に向かって
開かれたのは昭和52年。


このとき、丁字路の
突き当たりにあった

信濃電気(越寿三郎創業・
中部電力の前身)の営業所は
八幡に移転、
跡に記念碑が
建てられている。

 

 


信州紀行 須坂市43 須坂小唄

2019-12-24 | 国内・長野

 

  

「須坂小唄」

1 山の上から チョイと出たお月
 誰を待つのか またれるか
 ヤ カッタカタノタ
     ソリャ カッタカタノタ

2 誰も待たない 待たれもしない
 可愛いお前に 逢いたさに
  ヤ カッタカタノタ
      ソリャ カッタカタノタ

3 可愛い私は 須坂の町に 
 須坂恋しか あのお月
 ヤ カッタカタノタ
     ソリャ カッタカタノタ

4 お月や工場を チョイと来てのぞく
  誰に思いを かけたやら
 ヤ カッタカタノタ
     ソリャ カッタカタノタ

 
 (以下5~9 略) 


説明によれば

「須坂小唄」は、
1923(大正12)年に
市内の製糸会社(山丸組)の工場歌として

作詞:野口雨情 
作曲:中山晋平 によりつくられ 

唄は佐藤千夜子が 
加えて 藤間流の踊りが添えられた。

当時は 製糸業が栄え 
工場から“カッタカッタ”の音が
町内に響き渡り活気に満ちていた。

その後 市民の唄となり 
現在は 盆踊りに唄われている。

なお 囃子の
「カッ タカタノタ  ソリャ 
カッタカタノ タ」は、
糸枠の回る音

須坂の製糸業が
全盛の大正時代には、
工女たちは 須坂全体で
6千人を超えていました。

工女の多くは
寄宿舎生活をしていました。

長い一日の労働が終わると、
上町・仲町などの菓子屋・
小間物屋・下駄屋・呉服店などへ
買い物に出かけ、
工女相手の店として発展しました。

また 東京や横浜から生糸の
買い付け商人が殺到し、
料理屋や芸姑屋が繁盛しました。

 

「須坂小唄」(国会図書館)

  


信州紀行 須坂市42 女工

2019-12-23 | 国内・長野

 

 

写真は 
1911(明治44)年4月24日の
東行社の女工たちの運動会

 

工女たちにとって、
運動会は最大の楽しい行事であった。

運動会といっても遠足にちかいもので
臥竜山を舞台に一日楽しむもであった。

当時の新聞には
「花の下で花の如き、工女の遊山」と
報じている。

こうした女工たちは
県内外から集まっていた。

器械製糸が発展し
製糸工場の規模が大きくなると
それにつれ 職工の数が多く必要になり

各工場主は 地元だけでなく 
募集地域を新潟 
富山 群馬と他県まで広げた。

最盛期には 37の工場に
6,500人を超えるまでになった。

当時の工女の作業時間は 平均13時間
1923(大正12)年の調査で
全国の製糸工場では
最長14時間、平均13時間
最短11時間であった。


また 中には義務教育を
受けてない女子もおり

須坂生糸同業組合では
1919(大正8)年 
義務教育未了者の
教育を行っている。

山丸組では 独自に
「山丸組工女養成所」を設立し
教育と花嫁修業にあたっている。

この当時でも 
“金の卵” 状態での
福利厚生が行われていたようだ。

岡谷地域では
「ああ野麦峠」などの
女工哀史もあったが。

 


信州紀行 須坂市41 旧越家住宅

2019-12-20 | 国内・長野

 

 

春木町にある旧越家住宅へ

 

 

この建物 須坂の近代製糸業の
発展につくし

“製糸王”とも呼ばれた 
越 寿三郎(1864-1932)の本邸。

息子・泰蔵の婚礼に際し、
旧家の建物を購入し
改築したもの。

道路側の大壁造りの
2階屋が旧家部分で、

奥の平屋部分は
1910(明治43)年に増築された。

座敷は 3室続きで、
仕切り障子をはずすと
36畳の広間になる。

冠婚葬祭のほか、
客よびに使われた。


主屋の背後には、
重厚な切妻造りの土蔵が2棟建つ。

須坂でいち早く電話を架設し、
番号が1番であったことから

別名「山丸一番館」とも呼ばれた。

かつて この一帯は、
越寿三郎の創業した山丸組の敷地で、

住宅の南側に 山丸組本店があり、
製糸工場や回遊式の庭園があった。

山丸組は須坂町だけでなく、
現在の さいたま市や
愛知県安城市にも工場を持ち、

最盛期には 8000人の従業員を
擁する国内屈指の製糸企業であった。


1919(大正8)年 
来訪の米国絹業視察団も、
この広間で 歓待されている。

1998(平成10)年 
須坂市が屋敷を譲り受け、

現在 地域のふれあい
学習施設として、
多目的な活用を図っている。


・登録有形文化財(2003H15年)
・経済産業省「近代化産業遺産」
  (2007H19年)」

 


 

 

 

 

 

 


信州紀行 須坂市40 宇治乃園茶店

2019-12-19 | 国内・長野

 

 

春木町の角に
御茶屋の老舗「宇治乃園茶店」がある。

典型的な町屋造りのT字型家屋。

                

説明文には

「天保年間、佐藤本家
第8代長左衛門より分家し、
はじめは農業をしていたが、
2代崇蔵の代に
お茶の商売を始めたようで、
明治15年7月、
崇蔵が戸長役場へ届けた
「茶小売営業」の文書がある。



  

また

「建物の多くも当時からのもので、
しっくい大壁造りの3階には、
火災時の構えであったと
いわれる望楼がある。


その下に掲げられた茶店にふさわしい

緑色文字の「御茶所」の看板は覆いで、
これを開くと浮彫の金色文字の
「御茶所」の本看板が現れる。

以前は、えびす講など
人出の多い時に披露した。」

ともある。

 


信州紀行 須坂市39 三街道

2019-12-18 | 国内・長野

 

 

春木町南の交差点脇に
「三街道の分岐点」の碑がある。

三街道とは 

谷街道(北から西へ・先に触れ話題とした)
大笹街道(南へ・鳥居峠を経由して上州に至る街道)
山田道(東へ・万座峠を経て草津に至る街道)

 を指すが

このように須坂宿は

三街道が交差する交通の要衝として

物資の集積場となり商業的にも栄え

須坂藩の藩庁 御殿が設けられた

須坂陣屋の陣屋町としても発展した。

更に 明治から昭和初期にかけては

製糸業により大きく繁栄した。

 

 

 

 

 

 


信州紀行 須坂市38 小田切家

2019-12-17 | 国内・長野

 

 

春木町にある「旧小田切家住宅」

 

 

説明文には

「旧小田切家住宅

旧小田切家は 
通称「西糀屋」とも呼ばれ、
糀、油、蚕糸、呉服商などを

営む豪商で幕末まで町年寄りや
須坂藩御用達を勤めていました。

江戸期の建物は 
明治3年の須坂騒動により
そのほとんどが打ち壊されたという。

現在の建物の多くは、
日本で最初の製糸結社である
「東行社」の創立、銀行の
設立や水道の敷設に協力するなど、
須坂の発展に大きく貢献した
小田切辰之助(1839-1904)が
明治時代に建たもので、
ぼたもち石の基礎に
白壁の土蔵等が一体として残っており、
明治から昭和初期にかけての
長野県及び須坂の製糸業繁栄の
歴史を今に伝える
重要な遺産として平成三十年
「長野県宝」に指定されています。」

 

 

 

                       

屋敷内には 
裏川用水の段差を利用した
水車跡が残る水車小屋があるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日米首脳会談記念碑

2019-12-16 | 人物忌

 

 

山荘から東 文化の森へ

 入口脇にある文化の森給水所
  特徴的な給水塔

 

 

 丘の上 「日米首脳会談記念碑」
  (2002年建立)が置かれている。

 

1983(昭和58)年11月11日
レーガン大統領が
ヘリで降り立った平井中学校・校庭 

 

 説明文

「平和の碑
親善のロンヤスの碑や秋燃ゆる

平和の碑は、二十世紀最大のイベント、
中曽根康弘内閣総理大臣と
アメリカ合衆国
ロナルド・レーガン大統領による
日米首脳山荘会談の偉業を讃え、
日米親善に貢献した国際的行事の
思い出と歴史的ドラマを後世に伝え、
人類の平和と安定を願い、
多くの方々のご賛同とご協力を基に、
町の芸術家 大塚則子氏が制作し、
第四代 青木国太郎日の出町長を
中心とした日米首脳会談記念碑
建立実行員会により建立された。
2002年11月 」

*大塚則子
(1951- ・日展入選8回入選)

 

 

 

 


日の出山荘 2

2019-12-15 | 人物忌

 

  「書院」

                           書院 玄関

 

説明文には

「平成元年に
建てられた迎賓館です。

首相退任後に政治の舞台で
苦労を共にした友人たちを
招きました。

中曽根氏は
「青雲堂」「天心亭」の
日本家屋で茶をもてなし、

この「書院」の広い
バルコニーで洋食を楽しむという

和と洋合わせた明治期のような
接客を意識していたと
言われています。」

 

 

  応接間 
   直筆の水墨画「富士」

  

     こちらは油絵「富士」

 

  食堂

 

   書斎(2F)

 

 

 

  中曽根氏の年表

 

館内には レーガン大統領をはじめ
総理大臣の各首脳との写真など
約50点 書画約7点
各国首脳から贈られた
贈答品などが展示されている。 

 

全斗換 元韓国大統領から贈られた半鐘

 

     手前はプール(15m)

 

 

 


日の出山荘 1

2019-12-14 | 人物忌

 

   青雲堂 

記帳・献花台が設けられている。  

   (婦人は原ヨネ子管理人さん)

   

                         

 

 

2019年11月29日 
中曽根康弘元首相が亡くなった。
享年101

先日 日の出町大久野にある
日の出山荘を訪れた。

 

 

 

 

 

「青雲堂」は

元は1850(嘉永3)年頃に
建てられたといわれる農家だった。

1962(昭和37)年に屋根の抜け落ちた
この農家を中曽根氏が購入して修繕した。

1983(昭和58)年、総理大臣として、
当時のロナルド・レーガン米国大統領を
ナンシー夫人とともに、

この山荘に招いて
日米首脳会談を行った。

 

  

 

 

  

 

 

説明文には


「日の出山荘
時の総理大臣が
こよなく愛した別荘。

約25,000㎡の敷地に
「青雲堂」「天心亭」「書院」
の三棟の建物と

四季折々の景色を楽しめる
庭園があります。

この人里離れた場所で、
政治家・中曽根康弘は

多忙な日々と喧騒から離れ、
心を癒すために
頻繁に足を運びました。

また、レーガンアメリカ大統領、
ゴルバチョフソビエト連邦元大統領、
全斗換大韓民国元大統領など
海外の要人をはじめ、

多くの著名人の方々を招待しました。

看板の文字は中曽根康弘氏の
直筆によるものです。」

 
 *レーガン(1911-2004)
  ゴルバチョフ(1931-)
  全 斗 換(1931-) 

 2006(平成18)年 
  山荘は中曽根氏から
  日の出町に寄贈される。

 2007(平成19)年 
  記念館として公開


 

   

    「天心亭」

茶室天心亭の囲炉裏を
囲んで行われた「ロン・ヤス会談」


説明文には

「昭和58年11月11碑、
レーガン大統領と日本首脳会談、

いわゆる“ロン・ヤス会談”を
行った場所です。

中曽根氏はここで
俳句、座禅、ラジオといった

趣味を楽しみ、
必ず寝泊まりしていた場所です。

「天心亭」の名は、明治の美術家
“岡倉天心”から由来しています。」

 

 


信州紀行 須坂市37 陣屋稲荷

2019-12-13 | 国内・長野

 

 

常磐町に「陣屋稲荷神社」がある。

 説明文には

「陣屋稲荷
須坂藩の屋敷神として、
藩主 堀公(2代直升、6代直寛、
9代直晧の時の3説あり)が
京都伏見稲荷神社御祭神の
分霊をいただき、
館の戌亥(北西)隅に祀る。

建立時期は、
鳥居前の灯篭に
享和2年(1802年)の記載が
あることから、それ以前と思われる。


今でも社務所の床下には
当時の石垣が残り、
屋根には堀家の家紋である
亀甲卍が入った巴瓦や
鬼面鬼瓦がある。


明治6年常盤町が発足した時、
町の祭神として譲り受けた。」
とある。


この神社の奥は
坂藩主屋敷で足軽屋敷なども
あったことから
「陣屋稲荷」とも
呼ばれているとのこと。

 

 

 


信州紀行 須坂市36 浮世小路

2019-12-12 | 国内・長野

 

 

浮世小路 上中町交差点方面

道幅2m程度の
この小路「浮世小路」という。

生糸の町として栄えた
明治末から大正期にあった花街で

「太鼓橋の向こうは浮世の世界!」
ともいわれ板塀に格子戸のある
料亭、置屋、髪結い、
銭湯があったという。


今は人影も三味線の音色もなく
跡地は駐車場などに代わり
栄えた当時の面影は
全く無くなっている。

 


昭和60年の資料によれば
当時の様子がうかがい知れる。

「“浮世小路”は、中町1丁目、
入口に太光楼があるので、
俗に太光楼小路とも
呼ばれ親しまれてきた。

須坂が生糸の町として
栄華に酔っていた
明治末期から大正期にかけて
形成された花街である。

道幅は車がやっとの2m余り。
夜ごと人々が袖すり交わした。

板塀に格子戸のある料亭や
芸者衆の置屋、髪結い、
銭湯があった。

牧羊、能登源、住吉屋などが
軒を連ねた。
今は料亭「とよ松」だけだが、

見番役の料理組合や稲荷社もあり、
昔日の面影がただよう。
三味線の響く小路である。

生糸に一攫千金を夢みた
生糸の若旦那や番頭衆が、
きれいどころひく
三味線の音に酔いしれ、

端唄に興じたところである。

現在、須坂市の芸者衆は
12~13人だが、
当時は70~80人にのぼったという。


三味線など鳴り物ができる
“お姐さん”は2~3人に減った。・・・」

とある。

 


信州紀行 須坂市35 牛の乳

2019-12-11 | 国内・長野

 

 

館内に「牛の乳」という
鏝絵の看板が展示されている。

市内南原町で酪農を営む
坂本屋(坂田家)の看板として

明治時代後半に南原町の左官職人
関野彦三郎により制作された。

「鏝絵」は 左官が壁を塗る
コテで絵を描いたもので

漆喰装飾の一技法で「左官絵」
「鏝掛け」「蔵飾り」とも言われる。


小さなコテを焼いて
それによって紙または
板を焦がして描く。


焼き絵、鉄筆ともいう。


木で心柱を作り その外側に
荒土や白土にすさ糊を混ぜた

材料で作るのが
こて絵の源流になっている。


漆喰は、貝殻と木炭を
重ねて焼いた灰で作る。 

歴史的には江戸時代以前にも
みられるが 
江戸時代中期から
徐々に盛んになり
伊豆松崎生まれの入江長八
(通称:伊豆の長八1815~1889)が

コテ絵として芸術の域まで昇華させた。

 

以後 この技法が全国の
左官職人の間に広がって

腕のある左官職人たちは
漆喰で家壁に絵や家紋を
描いては技量試しをしたとされる。

 

                       

  こちらは 魚の“鏝絵” 
    「花岡魚店」(劇場通り)