あかない日記

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伊東玄朴と種痘所

2021-02-26 | 人物忌


 (台東区台東1丁目30 伊東玄朴居宅跡・種痘所跡)

現在の日本では 
新型コロナのワクチン接種が
話題になっているが
前回に続き 伊東玄朴と種痘に触れる。

玄朴居宅跡の説明文には  


「 この辺りに、蘭方医 伊東玄朴の
居宅兼家塾「象先堂」があった。
伊東玄朴は、寛政12年(1800)
肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)で
農民の子として生まれた。後佐賀藩医の養子となり、
長崎でドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルトら
に蘭学を学び、その後江戸に出て、
天保4年(1833)当地に居を構えた。
安政5年(1858)には、将軍家定の侍医も務め、
その名声は高まり門人が列をなした。
 玄朴は また、江戸においてはじめて
種痘法を開始した人物である。
種痘とは、1980年に世界保健機関(WHO)より
撲滅浅間された天然痘に対する予防法。
1796年、イギリス人エドワード・ジェンナーが発明し、
天然痘によって多くの人間が命を
落としていたため、種痘法は西洋医学を
わが国で受け入れる決定的な要因になった。
嘉永2年(1849)、長崎でドイツ人の
オランダ商館医オットー・モーニケが、
佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのが
わが国における種痘精巧の最初である。
 江戸では、安政4年(1857)、
神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に
玄朴ら80余名が金銭を供出して
種痘所設立を図り、翌年竣工した。
種痘所は、この翌年火災により
焼失してしまったため、
下谷和泉橋通の仮施設に移り、
翌万延元年(1860)再建された。
同年には幕府直轄の公認機関となり、
この後「西洋医学所」「医学所」
「医学校」「大学東校」という
変遷をたどり、
現在の東京大学医学部の前身となった。
 幕府の機関となった種痘所の位置は、
伊東玄朴宅のすぐ南側、
現在の台東1丁目30番地の南側半分、
同28番地の全域に相当する。
 なお、台東区谷中4丁目4番地の
天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡)に
ついての説明板が建っています。
 平成14年3月  
   台東区教育委員会 」

 


 (千代田区岩本町 史跡 お玉が池種痘所)

 

 

 

 


蘭方医 伊東玄朴

2021-02-23 | 人物忌


台東区谷中4-4 天龍院)


2月22日は 江戸から明治の蘭方医
伊東玄朴 がなくなった日

 

伊東玄朴は 近代医学の祖で、
官医界における蘭方の地位を確立した。


墓は 台東区谷中の天竜寺にあり
また居宅は 台東区台東1丁目にあった。

説明文には

「 伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。
寛政12年(1800)、肥前国仁比山村
(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。

医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門と
ドイツ人フォン・シーボルトに師事して
オランダ語、西洋医学を学んだ。


文政11年(1828)、江戸に出て、
本所番場町(現、墨田区東駒形1丁目)で開業、

翌年下谷長者町(現、台東区上野3丁目)に
転居し医療を施し、

天保2年(1831)には、佐賀藩医となった。
天保4年(1833)、移転した下谷和泉橋通
(現、台東区台東1丁目)の家は、
象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。

 
玄朴は、嘉永2年(1849)、
幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に
対抗するため、私設種痘所の建設を企画、
同士に呼び掛けた。

安政5年(1858)、神田お玉が池
(現、千代田区岩本町)に設立され、
これが蘭方医学を幕府に
認めさせる突破口となった。

種痘所は
、翌年火災による焼失のため、
玄朴宅の隣地
である
下谷和泉橋通に移転、再建された。

万延元年(1860)には、幕府直轄となり
翌年 西洋医学所と改称、
玄朴は その取り締まりに任命された。

その後は 明治政府に引き継がれ、
現在の東京大学医学部の前身となった。

 玄朴は、明治4年、72歳で没し、
ここ天龍院に葬られた。


ドイツ人ビショップの著書の翻訳
『医療正始』は、
現在でも高く評価されている。


なお、台東1丁目30番には、
種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の
説明板が建っています。

平成14年3月 
     台東区教育委員会   」

なお 妻は
長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の
長女・照(1812 - 1881)

 


小説家 尾崎士郎 

2021-02-19 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/11/01)

 

2月19日は 
小説家 尾崎士郎が亡くなった瓢々忌。

尾崎士郎は

1898(M31)年
  現・愛知県西尾市生まれ。

  中学時代から政治に関心を示し
  社会主義運動にひかれ
  堺利彦・山川均らと交わる。

  早稲田大学在学中  売文社同人となり
1917(T6)年の早稲田騒動では指導者となる。

1921(T10)年 
 大逆事件を取材した「獄中より」が

 時事新報の懸賞短編小説で2位入賞し
 以後本格的に小説家として
 身を立てるようになる。


1933(S8)年から
 「人生劇場」を「都新聞」に連載し

 「青春篇」をS10年に刊行
 ベストセラーとなり、
 以後  流行作家として活躍する。

 その後「愛慾篇」「残俠篇」
 などと続編7作を執筆

 国民各層に熱烈なファンを
 作り出す程の国民文学的長編となった。

 
 この頃から社会主義を離れていき
 小説家・宇野千代
 (1897-1996)と同棲する。

1923(T12)年に出会った
 川端康成(1899-1972)とは
 以来変わらぬ親友であった。

 また「石田三成」「真田幸村」「篝火」
 などの歴史小説も書いたほか

 相撲にも詳しく 長編小説「雷電」など
 相撲関係の著作もあり
 横綱審議委員を務めた。

 太平洋戦争中は
 中国やフィリッピンに派遣され

 また大政翼賛会、文学報国会などを
 通じて戦争に協力し

 戦後公職追放された。

1949(S24)年「ホーデン侍従」で復帰し
1950(S25)年「天皇機関説」文芸春秋読者賞。

1964(S39)年2月19日
 大田区山王の自宅で 
 直腸がんにより死去 享年66。


「人生劇場」の映画は 

1936(S11)年 
   日活・内田吐夢監督をはじめとして
   14回映画化され
 日活 東映 東宝 大映 松竹と
 すべての映画会社が手がけている。

 

 


小説家 山本周五郎

2021-02-14 | 人物忌


(2004/01/17 日本経済新聞)


2月14日は 
小説家 山本周五郎が
亡くなった周五郎忌。

山本周五郎は

1903年6月
 山梨県北都留郡に生まれる。
 本名・清水三十六

 横浜市の西前小学校卒業後
 東京木挽町の質店
 山本周五郎商店に徒弟として住み込む。

1926(S元)年
 文藝春秋に「須磨寺附近」を
 発表し文壇デビュー。

1932(S7)年 
 雑誌「キング」(講談社)に
 初の大人向け小説となる
 「だだら団兵衛」を発表

 以降も同誌にたびたび寄稿し
 時代小説の分野で認められる。

1942(S17)年
 雑誌・婦人倶楽部に
 「日本婦道記」の連載を開始

1943(S18)年
 「日本婦道記」で直木賞に
 推されるが これを辞退

 以降すべての賞を辞退した。

その後 死の直前まで途切れなく
傑作を発表し続けた。

「柳橋物語」(1946)
「寝ぼけ署長」(48)
「栄花物語」(53)
「樅ノ木は残った」(54-58)
「赤ひげ診療譚」(58)
「五瓣の椿」(59)
「青べか物語」(60)
「季節のない街」(62)
「さぶ」(63)
「虚空遍歴」(63)
「ながい坂」(66)

1967(S42)年2月14日
 肝炎と心臓衰弱のため逝去。 

 享年64

*「青べか物語」の舞台となった
 千葉県浦安に 
山本は 
 1928(S3)年から1年間住んでいた。

 また「べか舟」は木造の一人乗り平底舟で
 青は青色で塗られていたから。

*山本の言葉に
「人間の真価は
 何を為したかではなく
 何を為そうとしたかである」がある。

 


 (朝日新聞 1995/08/03)

同名で1962(S37)年 映画化されている。
監督 川島雄三 
出演 森繁久弥 乙羽信子 池内淳子


 

 

 

 

 


ゴジラ

2021-02-11 | 人物忌


鳥羽市石鏡町


前回 円谷英二 伊福部昭に触れたが
ここで 「ゴジラ」についての話題

怪獣ゴジラが出現したのは
1954(S29)年

今年で誕生67年になる。

映画のゴジラは 東京湾に出現し
芝浦付近から都心に上陸し

田町 三田 新橋 銀座 数寄屋橋 
有楽町を破壊しつつ

国会議事堂界隈を焼き尽くして

上野 浅草を踏みつぶしながら
隅田川に入り

最後に行く手を遮る勝鬨橋を破壊して
東京湾へと消えていく。


そのシーンの一部が
三重県鳥羽市石鏡町
(いじかちょう)で
ロケされている。

 

説明文には

 

「 “怪獣ゴジラが日本で
最初に出現したのが石鏡町です”

東宝映画「ゴジラ」の第1作は
1954年に発表されました。

怪獣ゴジラが最初に出現したのが
石鏡町(ゴジラが出現するシーンのロケ地)

映画の中では、
大戸島という架空の地名でした。

多くの町民がエキストラとして出演しました。

町の真中にある坂は、
振り返ると雄大な海が見え

「ゴジラ出現」とあわせて
地元の人々の自慢の坂になっています。

  (中略) 

監督:本多猪四郎 
特殊監督:円谷英二

出演:宝田 明 河内桃子
   平田昭彦 志村 喬 」


ということで

漁師町石鏡町は
一部のゴジラマニアにとっては
聖地となっている。



また 北海道知床や男鹿半島にも
ゴジラが出没していた。

 

 

 


作曲家 伊福部 昭

2021-02-08 | 人物忌


(CD「怪獣行進曲・伊福部昭」)

 

前回 円谷英二に触れ
「ゴジラ」を話題にしたが

そのゴジラで作曲を担当した
伊福部 昭が
2月8日になくなっている。

   伊福部 昭(いふくべ あきら)は
1914(T3)年5月
   北海道釧路町に生まれる。

1935(S10)年
  パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催され
「日本狂詩」が第1位に入賞し、世界的評価を得る。
 同年 厚岸森林事務所に林務官として勤務
1940(S15)年
   北海道帝国大学の演習林事務所に勤務

1943(S18)年
 「交響譚詩」がビクターの管弦楽懸賞に1位入賞

1944(S19)年
   レコード盤が文部大臣賞を受賞
1946(S21)~1953(S28)年
   東京音楽学校(現東京藝術大学)
 作曲科講師を勤め

   芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄、
 池野成、今井重幸、
眞鍋理一郎、
 石井真木ら多くの作曲家を育てた。
1947(S22)年
 「銀嶺の果て」
 (谷口千吉監督)をはじめ

 「ゴジラ」(1954-95)
 「座頭市」(1962-73)
 「ビルマの竪琴」(1956)
 「無法松の一生」(1965)など
   300本以上の映画音楽をてがけた。
1974(S49)年 東京音楽大学教授就任
1976(S51)年 同大学長
1987(S62)年 
  同大学民族音楽研究所所長を経て
  同大名誉教授
1980(S55)年  紫綬褒章
1987(S62)年  勲三等瑞宝章
1996(H8)年 日本文化デザイン大賞
2003(H15)年  文化功労者
2006(H18)年 2月8日死去 享年91

あの独特な旋律などは
どこからと思うが

伊福部家は 因幡(鳥取県)の
古代豪族を先祖とし

幼少期、父親が(北海道・十勝)
音更村長だったため

アイヌの集落との交流に同行し
そこでアイヌの舞踊、アイヌ音楽、

またムックリやトンコリなどの
民族楽器に触れ

大和民族とは異なる文化と
音楽に興味を持つ。

10代前半から独学で作曲をはじめ
日本の民族性を追求した
民族主義的な力強さが
特徴の数多くの管弦楽作品や

「ゴジラ」を初めとする
映画音楽を作曲している。

 

(参考:ウィキペデア)


発明家 平賀源内 2

2021-02-03 | 人物忌


  平賀源内電気実験の地の碑

 

前回に続き 平賀源内 に触れる。

説明にもあったエレキテルが有名だが、
その実験場所が清洲橋近く
江東区清澄1-2にある。

 

説明文には

「 平賀源内は
享保13年(1728)高松藩小史の家に生れ
和洋の学を勉強し物産館の開設、
毛織物の試作、源内焼の製陶、
石綿布の創作利用、水準器寒暖計の創作等
かずかずの発明工夫をなし、
かつ神霊矢口渡の戯作者(げさくしゃ)でもある。

平賀源内は、わが国最初の電気学者にして
安永5年(1777)エレキテルを完成し、
この付近深川清住町現在の清澄1丁目
私宅において電気実験を行ない
安永8年(1780)51歳にて没した。


 昭和51年(1976)1月16日
       江東区 第31号 」

 

*エレキテルは 
オランダ語(ラテン語)の
elektriciteit(電気、電流)のなまり。

 

この地は 武田長春院(官医)の
下屋敷があって、
源内はここに居を構えていた。

そこで 1770(明和3)年
源内が2回目の長崎留学の際、
長崎から持ち帰ったエレキテルを

6年後の1776(安永5)年に
摩擦による静電気発生装置
として修理復元している。

 

なお この復元エレキテルは 
郵政博物館(墨田区押上)と
平賀記念館(香川県さぬき市)
に現存しているそうだ。