あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

女優 高峰秀子

2020-06-28 | 出来事・行事


(「日本映画ベスト150」から)

 

映画「二十四の瞳」に続き

主演をした 高峰秀子(1924-2010)は

歌手 エッセイストでもある。

本名: 松山秀子 旧姓:平山

愛称は「デコちゃん」

 

1929(昭和4)年に 
5歳で子役デビューし
天才子役スターから
大人の女優へ成長。

戦前・戦後を通じて
半世紀にわたり
日本映画界で活躍した。


特に木下恵介 
成瀬己喜男作品に
常連出演し 
小津安二郎 
豊田四郎 稲垣浩
五所平之助などの
日本映画界を彩る
巨匠監督の名作に
数多く出演している。

1979(昭和54)年に
女優を引退し その後は
エッセイストとして活動した。


夫 映画監督・脚本家
松山善三(1925-2016)と
1955(昭和30)年結婚している。

 
主な出演作品

「カルメン故郷に帰る」(1951・木下)
「二十四の瞳」(1954・木下) 7位
「浮雲」(1955・成瀬) 5位
「喜びも悲しみも幾歳月」(1957・木下)
「張込み」(1957・野村芳太郎) 


(「日本映画ベスト150」から)

「浮雲」は 先に触れた 
森 雅之 との共演であった。

因みに 原作者 林 芙美子
(1903-1951)は
今日 6月28日が 命日。

高峰秀子は
「日本映画ベスト150」では
女優ベストテンの
第3位に選ばれており
彼女30歳前後の作品は
充実しており上位に
ランクされている。

当方は 彼女の大人の声に
魅力を感じていたが・・・。

 

 


映画 二十四の瞳

2020-06-25 | 出来事・行事


 (朝日新聞1995/10/12)

この「二十四の瞳」は
「日本映画ベスト150」で
第7位を得ている。

この映画化は 
小豆島を一躍有名にし
観光遺産となり
壷井栄文学館などが創設され 
島中が二十四の瞳一色となる。


(日本映画ベスト150から)


第1作 1954(昭和29)年

 監督:木下恵介
 主演:高峰秀子 

リメイク 1987(昭和62)年

 監督:朝間義隆
 主演:田中裕子

この時使われたオープンセット
(岬の分教場)を活用して
「二十四の瞳 映画村」になった。

 

 

 


小説家 壷井 栄

2020-06-23 | 人物忌

(日本経済新聞 2003/5/10 )



6月23日は 小説家・詩人
壷井栄が亡くなった日。
享年67

壺井 栄は 1899(明治32)年
醤油の樽職人である 岩井藤吉
妻 アサの五女として坂手村
(現在小豆島町坂手)に生まれた。

幼少にして家計が傾いたため
他家の子守をしながら
坂手小学校へ通い
内海高等小学校を卒業。

村の郵便局 村役場等に勤め
傍ら文学書を読む。

1925(大正14)年 同郷の
壺井繁治 をたよって上京
彼と結婚した。

夫の繁治や 黒島伝治
佐多稲子などの
プロレタリア詩人
作家の影響をうけ

1938(昭和13)年 
処女作「大根の葉」を
文芸に発表。

以来「暦」「初旅」
「母のない子と子のない母と」等
300篇にのぼる作品を発表し
新潮文芸賞、児童文学賞
芸術選奨文部大臣賞
女流文学賞などを受ける。

1954(昭和29)年
木下恵介監督の手で
映画化された「二十四の瞳」は
一躍有名となり
今日の観光小豆島の盛況の
端緒を開いた。

1967(昭和42)年6月6日
死の直前に
小豆島町名誉町民に推挙され

同月23日 東京で没した。

 


平和の群像


土庄町にあるブロンズ像。

土庄港の入り口にあり
小説「二十四の瞳」の
登場人物である女性教師と
12名の生徒を
モデルにした群像。

丸亀市出身の彫塑家
矢野秀徳の作で
小豆島バスによって造られ

1956年11月10日に除幕された。

  (参考:ウィキペディア)

 

 


剱岳

2020-06-20 | 出来事・行事


 (写真:深田久弥「日本百名山・剣岳」から)

 

前回に続き「剱岳」に触れる。

深田久弥の「日本百名山」
(新潮文庫 1964年)で

48番目に取り上げられている。


「北アルプスの南の重鎮を
穂高とすれば、
北の俊英は剣岳であろう。

その豪宕(ごうとう)、
峻烈、高邁の風格は、
この両巨峰に相通じる
ものがある。・・・・」

とある。

飛騨山脈北部の立山連峰にある
標高2,999mの山で
富山県の
上市町と立山町に属している。

アルピニストからは
「雪と岩の殿堂」とも呼ばれ
憧れの山の一つになっている。


「日本百名山」では
標高が2,998mになっているが

2004年 国土地理院によって
3等三角点が埋設され

GPS(人工衛星を使った
全地球方位システム)により
測定され
1m上がって
2,999mに改定された。

 

また 山名表記も
「剱岳」「剱嶽」「剣岳」などと
不統一であっため

2003年に 国土地理院によって
剱岳」に統一されている。

 


(国土地理院・測量と地図の科学館 掲示)

 

「日本百名山」には

「明治40年(1907年)7月13日、
陸地測量部の一行によって、
遂にその頂上が踏まれた。

ところが人跡未踏と思われていた
その絶頂に初めて立ったのは
彼等ではなかった。

測量部一行は頂上で
槍の穂と錫杖の頭 を
発見したのである。・・・」

とある。

その後の調査で 
奈良時代後期から
平安時代初期のものと判明し

この時代既に山岳霊場として
修行者が登頂していたことになる。


なお 出土品2点は
国の重要文化財に指定され

現在 富山県立立山博物館に
保管・展示されている。


更に「日本百名山」には

「この発見から二年後に、
純粋な登山を目的とする
4人のパーティによって登頂されたが、
それを案内したのは、
前の測量隊に同伴した
宇治長次郎であった。

そしてこの時一行の登路に
採った雪渓に長次郎谷という
名が与えられた。

宇治長次郎と並んで、
わが国近代登山黎明期の越中の
名ガイドと呼ばれた 佐伯平蔵は、
やはり剱岳東面の雪渓に
平蔵谷 の名を遺した。

そして長次郎谷と平蔵谷とを
分つ岩稜は、やはり
名ガイドの一人の名を採って
源次郎尾根 と呼ばれている。」

と上の写真のとおり。

 

 

 

 

 


剱岳<点の記>

2020-06-17 | 出来事・行事

「劔岳・点の記」(文芸春秋 2006年)

 

先に6月3日
「測量の日」に触れたが


明治時代に行われていた
測量の一端が

新田次郎(1912-1980)の
「劔岳・点の記」に語られている。


今のような十分な
登山装備ではなく

加えて 天候・地理などの
情報がえられないなか

測量のための機器を
携えての命がけの
挑戦・登山であった。


あらすじは

1906(明治39)年
参謀本部陸地測量部の
測量官 柴崎芳太郎に
前人未踏といわれ
また 決して登っては
いけない山とおそれられた

北アルプスの剱岳への
登頂と測量の命令が下った。

それは 山頂に三角点を埋設し
日本地図最後の空白地帯を
埋めるという 重要かつ困難を
極める任務であった。

当時 ほとんどの山は
陸地測量部によって
初登頂されてきたが
未だに登頂されていないのは
劔岳だけだった。

山麓の山案内人・宇治長次郎や
助手の生田信らとともに
測量に挑んだ男たちは

山岳信仰から劔岳を
畏怖する
地元住民の反発
ガレ場だらけの切り立った
尾根と悪天候・雪崩などの
厳しい自然環境
また 同じく日本山岳会も
登頂を計画し双方の
登頂争いとなるなど
未発達な測量技術と
登山装備などさまざまな
困難と戦いながら山頂に
挑んだ 柴崎一行の苦闘の
姿を物語にしている。

 

新田次郎は
「剱岳 点の記」の執筆にあたって

主人公・柴崎芳太郎を
直接知っている

園部蔀(当時日本測量協会副会長)
に話を聞いている。

これらに関する詳細は
(日本測量協会HP)
 
   →こちら

 

また 映画「剱岳・点の記」
   (東映2009年)

も同名で製作されてもいる。
第33回日本アカデミー賞を受賞


監督・脚本:木村大作
出演者:
浅野忠信(柴崎芳太郎)

香川照之(宇治長次郎・現地のガイド)


(国土地理院・測量と地図の科学館 掲示)

 

 

 

 


俳優 森 雅之

2020-06-14 | 人物忌

 (資料:「日本映画ベスト150」から)

 

前回 前々回と 
有島武郎について触れたが

彼の息子に 
映画俳優 森 雅之
(本名・有島行光 1911-1973)がいる。

1911年1月13日、当時札幌で教職を
 務めていた有島武郎と

 陸軍大将・男爵神尾光臣の
 娘でもある母安子のもとに

 長男として生まれる。

3歳まで札幌で過ごし
1914年  旧旗本屋敷だった
 東京麹町の有島邸に家族揃って転居


1916年5歳の時母を結核で

1923年12歳では父を心中で失い
 弟2人と共に叔父の
 有島生馬らの下で育てられる。

1973(昭和58)年10月7日
 逝去 享年62

 

日本映画ベスト150において
「知性派」として

男優ベストテンの6位に挙げられ

彼の出演した映画は
いずれも上位にランクされている。

出演映画
 「羅生門」 (1950年・4位)

 「雨月物語」(1953年・12位) 
 「浮雲」  (1955年・  5位) 

 


有島武郎2

2020-06-11 | 人物忌

 



前回 有島武郎の
新宿区の住居跡に触れたが


育った住居跡が 
千代田区にある。

説明文には

「有島武郎・有島生馬・里見弴旧居跡

白樺派の作家・有島武郎
(1878~1923)をはじめ、

有島生馬(1882~1974)
武郎の弟で洋画家、白樺派の作家

里見弴(1888~1983)武郎、生馬の弟。

『善心悪心』など

短編の名手であった
作家兄弟がここで育った。

彼らの父が明治29年(1896)に
ここを購入し、自邸とした。」

 




「現代日本文学館15」
(文芸春秋版)には

有島武郎と里見弴が
一緒に編集されている。


また 彼ら兄弟の写真は
当ブログ「信州紀行 軽井沢23
三笠ホテル晩餐会
(2020/02/06)

に掲載している。

 
1979年 日本近代文学館「有島武郎展」

 

 


有島武郎(星座忌・武郎忌)

2020-06-09 | 人物忌

日本経済新聞 (2004/03/13)

 

6月9日は 
小説家 有島武郎
(1878~1923)が
亡くなった日
(星座忌・武郎忌)


有島武郎は

1878(明治11)年3月4日

小石川水道町52番地
(現・水道1‐12‐7)生まれる。

1896(明治29)年 
新渡戸稲造を慕って
札幌農学校に進学、

初め新渡戸家に寄宿し
夫人メリーの世話になる。

在学中稲造の創設した
遠友夜学校に関係し
貧しい子女の教育にあたる。

1903(明治36)年 
アメリカに留学、
帰国後母校で教鞭をとる。

1910 (明治43)年4月 
発刊の「白樺」同人となる。

1923(大正12)年6月9日、
軽井沢三笠山の別荘(浄月庵)で

人妻で婦人公論記者の
波多野秋子と情死。

有島武郎の住居跡が
東京新宿区にある。

 

所在地 新宿区原町2-71

 

説明文には

「新宿区指定史跡
 有島武郎旧居跡
 平成3年(1991)12月6日指定

白樺派の中心的作家で、
大正期の小説界に
大きな足跡を残した

有島武郎(1878~1923)が、
最晩年の大正11年(1922)3月から
1年間を過ごした住居の跡である。

武郎は、
明治11年(1878)
東京は小石川水道町に生れた。

7人兄弟の長男で、
次男は洋画家・小説家の有島生馬、
四男は小説家の里見弴である。

学習院中等科を経て
札幌農学校を卒業。

明治36年(1903)
ハーバード大学に留学後、
ヨーロッパ各地に遊学、

明治40年(1907)帰国した。

明治43年(1910)
「白樺」の創刊に加わり、
本格的なリアリズムの
作風で文壇での地位を確立した。

代表作に『或女』『カインの末裔』
『生れ出づる悩み』がある。


この地では、戯曲『ドモ叉の死』を
書いたほか、個人雑誌「泉」が
刊行されたが、
翌大正12年(1923)6月9日
軽井沢の別荘で死去した。

 
平成4年(1992)1月
東京都新宿区教育委員会 」

 

 

 

   


三角点と基準点

2020-06-08 | 出来事・行事

   (国土地理院 地図と測量の科学館)

 



前回 水準点について触れたが

別に「三角点」「基準点」など
と呼ぶものもある。

 その違いについて調べてみた。

 

「三角点」と「基準点」は 
地球の座標 
緯度と経度を表示するが

設置者の違いにより
「三角点」は 
  国土地理院  1~ 4 三角点

「基準点」は
  公共団体  1~4基準点 

 

「水準点」は 標高を表示し

 どちらも水準点と呼ぶが

 国土地理院 1~4

 公共団体   1~4級 

に区分している。

   

1←4の区分は 
数字が小さいほど精度が上がる。

なお「公共基準点」については 

東京都道公共基準点

詳細が説明されている。

 

 

 

 

 

 

 


几号水準点

2020-06-06 | 出来事・行事

一石橋の迷子石



先に「一石橋迷子さがし石標」
に触れたが

その標石の正面下部を
よく見ると「不」に印があった。

 

この印は 迷子とは全く関係がなく
明治期になって刻み込まれた
「几(き)号水準点」とよばれるもの。


(国土地理院・地図と測量の科学館)

1876(明治 9 )年ごろに
内務省が実施したイギリス式の
高低測量点で

記号が 机に類似して
いるところから「机=几」とされた。

また不号水準点ともいわれたという。

当時東京市内の各所
独立した標石のほか

恒久的な建築物や
石組み等に刻まれたりした。


その後は測量方式が
変更されたりして

使われなくなった。

その使い方は 
水準点の横棒部分に
測量器具をあてて
標高を計測した。

基準点は霊巌島水位標を
ゼロメートルとした。

 

*霊巌島水位標については
当ブログ

2011/5/31 大地震 地盤沈下 
で触れている。

 

また 水準点とは、
水準測量に用いる際に
標高の基準となる点のこと。

測量法で定められている
測量標の一つであり、
永久標識に分類される。

水準点には国土地理院が
基本測量として設置・管理する
「~等水準点」と

地方公共団体が公共測量として
設置・管理する
「~級水準点」とがある。

 

以下は“几号水準点”が
見つかった都内各所。

靖国神社大燈籠台座

湯島神社 鳥居左側石柱

お茶の水ニコライ堂 司教館脇


他に 江戸城本丸石垣
桜田門城門石垣
上野浄妙寺 等
都内百数十箇所にあるという。

 

(参照:ラパンヴVol3 地図の謎 ほか)

 


測量の日

2020-06-04 | 出来事・行事

 

6月3日は 「測量の日」

 

日本の「測量法」が
1949(昭和24)年6月3日に
公布されたことに基づき

1989(平成元)年 建設省
(現国土交通省)が
測量法の制定40周年を記念し

毎年6月3日を「測量の日」とした。

 

 

茨城県つくば市にある
国土地理院
地図と測量の科学館」へ出向いたが

今年の「測量の日」関連する行事は
コロナのため全てが中止になっていた。

館内は 二三人の人しかおらず
その為 ゆっくり時間をかけて
見学できた。

 

しかし「地図から読む防災」の
企画展が開催されていた。

世間の目はコロナの禍で一色だが
災害日本 これから梅雨 台風

また 地震も頻発していることにも
注意を払い

コロナと同時に対策・対応を
準備していかなければならない。

タイムリーな企画で
大いに参考になった。

*今後 科学館の資料等は
折に触れ 当ブログで
取り上げていきたい。

 

 


ゴミの名がつく坂

2020-06-01 | 出来事・行事

 千代田区の五味坂




 新宿区市ヶ谷 長延寺谷の「芥坂」


前回「ごみゼロの日」に
触れましたが

東京の町では 
”ゴミ” と名の付く坂が存在する。


千代田区に「五味坂」
(一番町と三番町の堺)

新宿区には「芥坂」が三か所
(長延寺谷・築土八幡町・箪笥町)

 

これらの坂から 
江戸の生活の一端が伺える。


ゴミ坂の名由来については
諸説ある。


雨が降ると流されたゴミが
溜まるからゴミ坂とか

坂道は谷へ通じることが多く
その谷が人目の付かない
ゴミ捨て場化し

そこに通じる坂であるからとも。

「ごみ」という名前から
「芥坂(ごみざか)」や

「埃坂(ごみざか)」の字をあてたり
その意味から「ハキダメ坂」と
呼んだりしている。


江戸時代でも 生活がある以上
ゴミの処理は大変であったようだ。


大名や旗本御家人は
自分の敷地内で処理していたが

町人は 人目の付かない場所に
捨てることになるが
明暦時代からは
ゴミの不法投棄を禁止し

「全てのゴミは 隅田川河口の
 永代島に捨てる」の御触れがあり


町内会が責任(負担)をもって
処理することになり

定期的に船着き場まで運び
あとは幕府が運び
埋め立てに使われていた。


一方 物資の乏しさから
古着  紙屑  壊れたもの 等を

不用品の回収と再利用するなど
リサイクル業者が活躍し 


埋め立て用のゴミは
最小限になっていたようだ。

1900(明治33)年になって
「汚物掃除法」が施行され

本格的な清掃行政が始まった。