あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

小説家 森鴎外 15 鴎外の子供たち

2022-09-28 | 人物忌


 右から 於菟 茉莉 杏奴 類
   (直球和館・森鴎外から)

 

森鴎外には 3男2女の子供がいた。
なお 次男・不律(フリッツ)は夭逝している。


*長男は先妻・登志子との子
   以下は後妻・志げとの子

写真の撮影日は不明だが 
背景にデッサンやイーゼルが見えることから
1931(S6)年 杏奴と類は
画家・藤島武二(1867-1943)に師事しており

渡欧する前と思われる。

当時の年齢は 41,28,22,20歳

 

長男・於菟〔オト・Otto〕 (1890-1967)
 台北帝大学医学部 東邦医大の教授

長女・茉莉〔マリ・Marry〕 (1903-1987)
 二度の離婚後50歳過ぎから小説家・随筆家

次女・杏奴〔アンヌ・Anne〕 (1909-1998)
 洋画家小堀四郎と結婚 後に随筆家

三男・類 〔ルイ・Luis 〕  (1911-1991)

 当初画家を志したが随筆家に

 

皆 今風の名だが 明治期には
 とても考えられない名がつけられている。

 
 鴎外が 世界に通用するよう 

 特にフランス語 ドイツ語でも
 読めるようにと命名した。 

  

なお 子供たちの子(孫)も
 鴎外が名付け親となり


 ○於菟の子

    長男・真章〔マクス・Max〕(1919-2000)
    次男・富 〔トムTom〕   (1921-2007)
    三男・礼於〔レオ〕    (1925-2000)
   * 四男・五男は於菟が命名した
    四男・燓須〔ハンス〕 (1928-2007)
    五男・常治〔ジョウジ〕(1931-2015)
 
 ○茉莉の長男・𣝣〔ジャク〕(1920-1993)

 ○弟・潤三郎の子 兌〔トオル〕

さらに 
 与謝野晶子(1878-1942)の双子

  長女「八峰」 次女「七瀬」

*経緯は 鴎外が誕生祝いに晶子に送った歌

「聟きませひとりは山の八峰こえ
  ひとりは川の七瀬わたりて」

○子供たちの著書(主として家族関係)

  於菟 「父親としての森鴎外」(1955年)

  茉莉 「父の帽子」(1957年)
     「父と私 恋愛のようなもの」(2018年)

  杏奴 「不遇の人 鴎外―日本語のモラルと美」()
     「晩年の父」(1936年)
     「母への手紙」(1947年)
     「父」(1957年)

  類  「鴎外の子供たちーあとに残されたものの記録」(1995年)
     「森家の人びとー鴎外の末子の眼から」(1998年)
     「鴎外の三男坊―森類の生涯」(1997年)

 

 


小説家 森鴎外 14 千住の地

2022-09-21 | 人物忌

「橘井堂医院」の跡地 

 

 

森鴎外が千住に暮らした時期がある。

その跡地の碑文には

「 翁は病人を見ている間は、
全幅の精神を以って病人を見ている。
(中略)

花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、
自分が遠い向うに或物を望んで、

目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、
父はつまらない日常の事にも全幅の精神を
傾注しているということに気が附いた。
宿場の医者たるに安んじている
父の レジニアションの態度が、

有道者の面目に近いということが、
朧気ながら見えて来た。

そして其時から遽(にわか)に
父を尊敬する念を生じた。 」

とある。

*レジニアション(resignation=諦観)

*この碑文は短編小説「カズイスチカ」
(1911年・casuistica=臨床記録)からの引用

千住での経緯

1878(M11)年11月 父・静男は 
 東京府から南足立郡の郡医を委託される。

 翌年 千住に橘井堂医院(きっせいどう)を開業した。
1881(M14)年7月 林太郎は大学を卒業し
 下宿を引き払って千住に住み、

 医師として父とともに医療活動に従事した。
  *この頃の様子は小説「カズイスチカ」にある。
1884(M17)年8月 ドイツへ留学
1888(M21)年9月 帰国して千住の実家に戻る。
1889(M22)年3月 林太郎は結婚して根岸に移り、
1892(M25)年1月 両親も千駄木・観潮楼に移った。

 

鴎外の妹 小金井喜美子
(1870-1956)の「鴎外の思い出」(1956)に

11歳から3年余千住で暮らした様子が描かれている。

 

 

 

 

「鴎外」のペンネームは 

鴎外のペンネームは 
本郷下宿時代からの書き物にあるが
1880(M13)年に千住の父の医院に
移り住んでからと思われる。

 

「鴎外」という号は諸説ある
現隅田川の白髭橋付近にあった
「鴎の渡しの外」
(かもめのわたしのそと)という意味で、

遊興の地に近寄らず
遠く離れた千住を意味しているとか。

  


小説家 森鴎外 13 津和野

2022-09-11 | 人物忌

 

  (1992年撮影)

 

森 鴎外(林太郎)は
1862(文久2)年1月19日
 代々津和野藩の藩医、
 50石どりの家柄の森家の

 長男として生まれる。
1872(M5)年 11歳で上京するまで
 ここで過ごしたが

 上京後再び津和野も、
 この家も訪れることはなかった。

 1922(T11)年 病死(享年60)


しかし 遺書に記された
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」
の言葉から、この家での幼き日々の
生活が生涯の基礎を形成しているようだ。


なお この旧居は森家の上京後人手に渡り、
 一時は他所に移築されていた。

1954(S29)年 鴎外33回忌を機に、
 津和野町が買い戻し、現在地に復元した。

 この旧居も建築以来130年、
 老朽化が著しいため、

1984(S59)年 
 解体、全面的に修理している。


また 旧居は 西周(1829-1897)の
旧居と津和野川をはさんで
国指定(1969・S44年)の
史跡になっている。


   津和野の町並み

 

        (参考:しまね観光)


小説家 森鴎外 12 鴎外と西周

2022-09-05 | 人物忌


 (Goo古地図・明治期から)

 

森鴎外と西周の関係について 
前回 鴎外の結婚の媒酌人として触れた。

 

もう少し掘り下げてみたい。

西神田二丁目3番(西神田公園)にある
町内会の説明文には

「江戸時代のこの界隈は、
武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。

当時の武家地には正式な
町名がありませんでしたが、

江戸城の北西一帯は、小川町という
俗称で呼ばれていました。

明治時代に入ると、武家地だった場所にも
町名が付けられるようになります。

明治五年(1872年)、ここに「猿楽町」や
「中猿楽町」「今川小路三丁目」
「西小川町一丁目」「西小川町二丁目」
といった町が成立しました。

 このころ町内には、
哲学者で啓蒙思想家でもあった
西周(にしあまね)の屋敷がありました。

その屋敷に明治五年から数年間、
寄宿していたのが、
小説「高瀬舟」などで知られる森鴎外です。

ふるさとから上京したばかりの鴎外にとって、
多感な少年時代を過ごした西周邸での生活は、
忘れられないものだったに違いありません。

  (以下略)

       西神田町会    」

 

 

西家は 津和野町の典医で
森家とは親戚関係にあった。

西周の父は 森鴎外の祖父の弟・森覚馬で
西家に養子に入って
周が1892(文政12)年に生まれている。

 

この関係で 鴎外と父は屋敷に寄寓していた。

このときの西周は陸軍大丞 宮内省侍読であり
鴎外の33歳年上でもあった。

 

鴎外は寄寓ときの模様を
「ヰタ・セクスアリ」に記している。

「同じ年の十月頃、僕は本郷壱岐坂にあった、
独逸語を教える私立学校にはいった。

これはお父様が僕に鉱山学をさせようと
思っていたからである。

 向島からは遠くて通われないというので、
その頃神田小川町に住まっておられた、

お父様の先輩の東先生という方の内に
置いて貰って、そこから通った。」


注)「東先生」は西周

 

「ヰタ・セクスアリス」は
1909(M42)年に発表された。

題名はラテン語で性欲的生活を意味する。

あらすじは 主人公の哲学者である父親が、
高等学校を卒業する長男への性教育の
ための資料として、
自らの性欲的体験についてその歴史をつづる内容。

大胆な性欲描写が問題となり、
陸軍の上官から懲戒処分を受けた。

掲載された文芸誌「スパル」7号は
発刊から1か月後に発売禁止の処分となる。

この処分は当時軍医総監という立場に
あった鴎外に対する非難を受けての対応であった。




小説家 森鴎外 11 鴎外荘

2022-08-31 | 人物忌

森鴎外旧居の跡 (水月ホテル鷗外荘)





台東区池之端に
森鴎外の旧居の地がある。

説明文には

「 森鴎外旧居跡

森鴎外は文久2年(1862年)正月19日、
石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。
本名を林太郎という。
 明治22年(1889年)3月9日、
海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、
その夏に根岸から 
この地(下谷区上野花園町11番地)に移り住んだ。
 この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同年8月に「国民之友」
夏季附録として、「於母影」を発表。

10月25日に文学評論「しがらみ草紙」を創刊し、
翌23年(1890年)1月には
処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、
当地で初期の文学活動を行なった。
 一方、陸軍二等軍医正に就任し、
陸軍軍医学校教官としても活躍した。
 しかし、家庭的に恵まれず、
長男於菟(おと)が生まれた
23年9月に登志子と離婚し、
翌10月、本郷区駒込千駄木町57番地に転居していった。

平成15年3月 台東区教育委員会  」

 

森鴎外は
1889(M22)年 西周の媒酌で 
海軍中将男爵赤松則良(1841-1920)の
長女・登志子(17歳)と結婚したため 
この家が新居とされた。

なお 新居には二人の弟(篤次郎・潤三郎)と
赤松家の姉妹(登久子・加津子)が同居している。

しかし 翌年 鴎外は登志子と
生後間もない長男・於菟を残して

千駄木町に転居し破局を迎えている。
注)2012年 別居問題について 
 赤松家の長男が父親に報告する手紙
(M23/10/6付)の下書きが見つかった。

離婚理由は 長男・ 於菟(1890-1967)が
「父親としての森鴎外」(1955年)に記している。

「家庭で良き教養を受けてまた書道、
国漢学、長唄、舞踊などの
たしなみは特に深かったのであるが、
父に嫁した時年なお17歳で
わがままの脱けきらぬ所があり、
気むずかしい書斎にのみ親しむ
父の機嫌をとることが拙かったと見える。」

なお 登志子は1900(M33)年29歳 
肺結核で亡くなっている。

この家は 1886(M19)年に
赤松家の持家として建てられた。
宮大工が建ており基礎がしっかりしていたことから
関東大震災に耐え第二次大戦等の空襲も免れている。

この家が旅館となった経緯は

1943(S18)年 鴎外荘の隣で水月旅館が
創業していたが 鴎外荘が売り出され
1946(S21)年 水月旅館が買取って宿泊できるようにし
森鴎外が『舞姫』を書き文壇にデビューした旧居として
鴎外文学発祥の地としている。

追)当旅館は2020年に
 コロナの影響で予約が激減して
 約1年間の休業の後いったん営業再開したが
 2021年10月15日限りで閉館した。

 


小説家 森鴎外 10 鼠坂

2022-08-24 | 人物忌

   鼠坂 坂下から

   鼠坂 坂上から

 

森鴎外は 坂を題名として
「鼠坂」(1912年)を書いている。

文京区には同名の「鼠坂」がある。

説明文には

「 鼠坂  音羽一丁目10と13の間

音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。
鼠坂の名の由来について「御府内備考」には
「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、

至てほそき坂なれば鼠穴などと
いふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。

森鴎外は「小日向から音羽に降りる
鼠坂と云う坂がある。
鼠でなくては上がり降りが
出来ないと云う意味で 
附けた名ださうだ・・・
人力車に乗って降りられないのは勿論、
空車にして挽かせて降りることも出来ない。
車を降りて徒歩で降りることさへ、
雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と
小説「鼠坂」でこの坂を描写している。

 また、“水見坂”とも呼ばれていたという。
この坂上からは、音羽谷を高速道路に
沿って流れていた、弦巻川の水流が
眺められたからである。

  文京区教育委員会  平成17年3月 」

 

現在の鼠坂は 写真にあるように 
幅4m 高低差14m 100mほどの坂道で

車は通れない。

 

以上が 小説「鼠坂」の舞台であるが 

鴎外が書いた怪談でもある。
あらすじは

人力車も通えない急な鼠坂の坂上に
新築した屋敷は、日露戦争のとき
満州で金儲けをした家主夫妻が
西遊記の怪物が住みそうな家を建てた。

その新築祝いの夜、酔いの回った
家主が以前新聞記者の小川から
聞いた満州での悪行を語りだす。

20歳くらいの中国人女性を服従させ
凍り付くような寒さの抗の中で死なせたと・・・
その夜 小川は幻覚に悩まされて死んでしまう。

 

森鴎外は 軍医として戦地に赴いており
多くのあくどい悲惨な事件を
漏れ聞いていたのではないか。

また 逃げ場のない坂道を舞台として
「鼠坂」の名を用いて 
怨念をテーマとしている。


なお 森鴎外は 
軍医として二度戦地に赴いている。

○日清戦争(1894/7-1895/4) 
 中路兵站軍医部長 
 1894/9 ~1895/5  朝鮮半島

 第二軍兵站軍医部長として中国・山東半島 
   1895/5 ~1895/10台湾(台湾征服戦争)

○日露戦争(1904/2-1905/9)
 第二軍軍医部長 
 1904/2~1906/1 中国大陸

 

 


小説家 森鴎外 9 S坂

2022-08-19 | 人物忌

 
   坂下 根津神社前から

 

 

森鴎外の作品には いくつかの「坂」が登場するが

その一つ「青年」にある“S坂”について触れる。

坂の説明文には

「新坂(権現坂・S坂)
本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた
新しい坂のため新しい坂のため、

新坂と呼んだ。
また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に
下る坂なので権現坂ともいわれる。


森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に,
「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。
……右は高等学校(注・旧制第一高等学校) の外囲,
左は出来たばかりの会堂(注・教会堂 今もある)で,
…… 坂の上に出た。地図では知れないが,
割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに
書いたように屈曲してついている」とある。
旧制第一高等学校の生徒たちが、
この小説「青年」を読み、
好んでこの坂をS坂と呼んだ。
したがってS坂の名は
近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。
根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)年である。
五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を
世継ぎとしたとき、その産土神として、
団子坂北の元根津から、遷座したものである。

   文京区教育委員会 平成14年3月 」

 

現状のこの坂 
多少くねってはいるが S状には見えない
当時の鴎外にとっては
そう見えたのかもしれない。 

登場人物は 前回に記載

注)
・高等学校は、旧制第一高等学校(現在の東京大学)

・会堂は、坂を登りきった右角に
 ある聖テモテ教会(1902・M35年創設)

 


小説家 森鴎外 8 根津神社

2022-08-13 | 人物忌


 根津神社(文京区根津1丁目) 神橋と楼門

 
  (中央公論Adagio 16号)



1706(宝永3)年 
根津神社現社殿が造営された。

五代将軍徳川綱吉が、
綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、
その産土神として、
団子坂北の元根津から、遷座した。

 

「青年・ 壱」に根津神社の描写がある。

「坂を降りて左側の鳥居を這入る。
花崗岩を敷いてある道を根津神社の方へ行く。

下駄の磬のように鳴るのが、好い心持である。
剥げた木像の据えてある随身門
から内を、
古風な瑞籬(たまがき)で囲んである。
故郷の家で、お祖母様のお部屋に、

錦絵の屏風があった。その絵に、
どこの神社であったか知らぬが、
こんな瑞垣が
あったと思う。
社殿の縁には、
ねんねこ絆纏の中へ赤ん坊を負って、
手拭の鉢巻を
した小娘が腰を掛けて、
寒そうに体を竦めている。
純一は拝む気にもなれぬので、
小さい門を左の方へ出ると、
溝のような池があって、
向うの小高い処には常磐木
の間に
葉の黄ばんだ木の雑った木立がある。
濁ってきたない池の水の、
所々に
泡の浮いているのを見ると、
厭になったので、急いで裏門を出た。」

 

 

 「我武維揚」とある

 

陸軍軍医であった鴎外が
日露戦争の“戦利砲弾”を

奉納した時(1906・M39年)の台座が
水飲み台として置かれている。
その裏面には
「陸軍医監 森林太郎」の刻字が見える。

 

  

境内にある「文豪憩いの石」は

  鴎外や漱石が腰掛けたと言われる。


小説家 森鴎外 7 団子坂

2022-08-05 | 人物忌

 

 団子坂上 坂下方面 右へは「藪下通り」 

 

団子坂は文京区千駄木2丁目と
  3丁目境を東へ下る坂

団子坂の説明文には

「団子坂」の名前の由来は、
坂近く団子屋があったからともいい、

悪路のため転ぶと団子のように
なることからといわれる。


また「御府内備考」に七面堂が
坂下にあるとの記事があり、

ここから「七面坂」の名が生まれた。
「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が
望見できたためと伝えられている。

幕末から明治末にかけて菊人形の
小屋が並び、明治40年頃が
最盛期であった。

また、坂上には森鴎外、夏目漱石、
高村光太郎が居住していた。

  文京区教育委員会  」

 

森鴎外「青年」(1911年)には
団子坂界隈の様子がある。

「壱  

四辻(よつつじ)を右へ坂を降りると
右も左も菊細工の小屋である。

国の芝居の木戸番のように、
高い台の上に胡坐(あぐら)をかいた、
人買か巾着切りのような男が、
どの小屋の前にもいて、
手に手に絵番附のようなものを
持っているのを、
往来の人に押し附けるようにして、
うるさく見物を勧める。

まだ朝早いので、通る人が少い処へ、
純一が通り掛かったのだから、
道の両側から純一一人を
的(あて)にして勧めるのである。

外から見えるようにしてある人形を
見ようと思っても、
純一は足を留めて見ることが出来ない。

そこで覚えず足を早めて通り抜けて、
右手の広い町へ曲った。」

「二十一

午後二時にはまだなっていなかった。
大学の制服を着ている大村と一しょに、
純一は初音町の下宿を出て、
団子坂の通へ曲った。

 門(かど)ごとに立てた竹に
松の枝を結び添えて、
横に一筋の注連縄(しめなわ)が
引いてある。

酒屋や青物屋の賑(にぎ)やかな店に
交って、商売柄でか、綺麗(きれい)に
障子を張った表具屋の、
ひっそりした家もある。

どれを見ても、年の改まる用意に、
幾らかの潤飾を加えて、
店に立ち働いている人さえ、
常に無い活気を帯びている。」


団子坂は 多くの文芸作品に登場している。

 ・二葉亭四迷「浮雲」(1891年)
 ・江戸川乱歩「D坂殺人事件」(1925年)

 

新撰東京名所図会(明治40年)団子坂菊人形興行
‘資料・文京ふるさと歴史館

 

団子坂は 菊人形で有名であった。
菊で飾った人形で 芝居や伝承の
名場面を見せる見世物。

江戸時代に巣鴨・染井の植木職人が
菊細工としてお寺で参拝客に見せていたが、

明治になって、団子坂に移ってから
たくさんの見物客を集めるようになり

秋になると団子坂の両側には
菊人形の小屋が 20軒以上立ち並んだ。

最盛期は 明治20~30年代で 
明治44年が最後の興業になった。

 

・夏目漱石「三四郎」(1908年)
「一行は左の小屋へ這入った。
曽我の討入りがある。

五郎も十郎も頼朝もみな平等に
菊の着物を着ている。

但し顔や手足は悉く木彫りである。」


・正岡子規
 『自雷也もがまも枯れたり団子坂』

 と団子坂の菊人形の様子を詠んでいる。

団子坂下近くにある 
せんべい屋「菊見せんべい」

創業は1875(M8)年 
屋号のとおり菊人形見物の土産であった。

 


小説家 森鴎外 6 鴎外と漱石 2

2022-07-29 | 人物忌


  (新潮文庫)

 

鴎外と漱石

漱石は 鴎外より5歳年下であるが
作家活動は わずか10年で
鴎外より早く
1916(T5)年に 亡くなっている。

鴎外はドイツ 漱石はイギリスにと
ともに海外留学体験が 共通点であり
その体験が 作品になり
同時代を生きた作家である。


また 1896(M29)年 正月の 3日
正岡子規の子規庵にて 開かれた句会で
鴎外(34歳)と漱石(29歳)は
初めて出会っている。

 *このときの漱石は 松山中学の教師で 
  前年12月 中根鏡子との婚約のため
  上京していた。

 

漱石が 執筆活動に入ったとき
鴎外は すでに大家の作家であり
鴎外の存在は 大いに影響があった。

著書の贈答や年賀状など
書簡のやり取りを続けるなど
親交が少なからずあり、

1910(M43)年 
慶應義塾大学文学科顧問の鴎外が 

漱石に 教授就任を打診したが
漱石は 辞退している。

「漱石は軍人、官僚が嫌いでした。
鴎外を敬して遠ざけていたのでしょう」と
漱石の長女筆子の娘婿の
半藤一利は 記している。

1916(T5)年12月12日
漱石の葬儀(青山斎場)にも
参列したという。

 
*芥川龍之介の「葬儀記」には
 その記は見当たらない。

 

鴎外は「夏目漱石論」を
1910(M43)年に
箇条書きで記している。要約すると

 1 漱石の今の文壇の地位は
  力量からして当然

 2 二度ばかり逢ったが立派な紳士
 3 門下生と云うような人物
 4 あまり金持ちではないようだ。
 5 漱石の家庭での主人振りは分からない。
 6 党派的野心はないようだ。
 7 朝日新聞に拠れる態度は
  一種決まった調子である。
 8 漱石の本は少しばかり読んだが
  創作家の技量は立派と認める。
 9 創作作家としての技量は
  もっと沢山詠まなくては判断できない。
 10 漱石の長所と短所は 
  読んだ限りでは長所が目につき
  短所は目につかない。

 

 そして鴎外は
  漱石の「三四郎」(1908年)に
  影響されて書いた
「青年」(1911年)がある。


「青年」六に
漱石と鴎外の関係らしき節がある。
少々長いが引用する。

「話題に上っているのは、
今夜演説に来る拊石である。
老成らしい一人(いちにん)が云う。

あれはとにかく
芸術家として成功している。
成功といっても一時世間を動かした
という側でいうのではない。
文芸史上の意義でいうのである。
それに学殖がある。
短篇集なんぞの中には、
西洋の事を書いて、
西洋人が書いたとしきゃ
思われないようなのがあると云う。
そうすると、さっき声高に
話していた男が、こう云う。
学問や特別知識は何の価値もない。
芸術家として成功しているとは、
旨く人形を列(なら)べて、
踊らせているような処を
言うのではあるまいか。
その成功が嫌(いや)だ。
纏(まと)まっているのが嫌だ。
人形を勝手に踊らせていて、
エゴイストらしい自己が物蔭に隠れて、
見物の面白がるのを
冷笑しているように思われる。
それをライフとアアトが
別々になっているというのだと云う。
こう云っている男は
近眼目がねを掛けた
痩男(やせおとこ)で、
柄にない大きな声を出すのである。
傍(そば)から遠慮げに
喙(くちばし)を容れた男がある。

「それでも教員を
罷(や)めたのなんぞは、
生活を芸術に一致させようと
したのではなかろうか」

「分かるもんか」
 目金(めがね)の男は一言で排斥した。
 今まで黙っている
  一人の怜悧(れいり)らしい男が、
遠慮げな男を顧みて、こう云った。


「しかし教員を罷めただけでも、
鴎村なんぞのように、
役人をしているのに比べて見ると、
余程芸術家らしいかも知れないね」


話題は拊石から鴎村に移った。

 純一は拊石の物などは、
多少興味を持って読んだことがあるが、
鴎村の物では、アンデルセンの
飜訳(ほんやく)だけを見て、
こんなつまらない作を、
よくも暇潰(ひまつぶ)しに
訳したものだと思ったきり、
この人に対して
何の興味をも持っていないから、
会話に耳を傾けないで、
独りで勝手な事を思っていた。

 会話はいよいよ栄(さか)えて、
笑声(わらいごえ)が
雑(まじ)って来る。」


ここに登場する
拊石」は 夏目漱石がモデルであり

「鴎村」は 鴎外自身 
     鴎外が漱石に対する思いがうかがわれる。

 

参考:「中央公論Adagio・16号 森鴎外と白山をあるく」
    東京大学「鴎外の書斎から・資料解説」

 

 

 


小説家 森鴎外 5 鴎外と漱石

2022-07-25 | 人物忌


   文京区向丘2-20-7(千駄木町57番地)
  塀の上に猫のオブジェが見える。

 

「夏目漱石旧居跡」(猫の家)として
記念碑が建てられている。

夏目漱石(1867〜1916)は 
1903(M36)年1月 英国から帰り
3月ここ 千駄木町57番地に居を構えた。

前半の 2年間は
一高と東大の授業に没頭したが
「我輩は猫である」(1905)
「倫敦塔」(1905)を発表し

注目を浴びて周囲から
「猫の家」とも呼ばれた。

更に「坊ちゃん」(1905)
  「草枕」(1906)
  「野分」(1907)等を発表した。

1906(M39)年12月
 「西片町ろノ7」に移っている。


現在は「漱石文学発祥の地」としている。

 

森鷗外は 
最初の妻と離婚して弟二人とともに

漱石が住む13年前の
1890(M23)年10月から

この家を 千朶山房(せんださんぼう)
と称して住み 文学活動に励んだ。


鴎外は ここから
1892(M25)年1月 団子坂上の
千駄木町21番地(観潮楼)へ移っている。



  Goo古地図・明治期から

 

なお 鴎外は漱石が
この家に住んだことは知ったが 

漱石は 鴎外が住んでいたことは
生涯知らなかったという。

 

二人の文豪が住んだ この家は
現在 犬山市の「博物館明治村」に
移築・
保存されている。

 

 


小説家 森鴎外 4 藪下通り

2022-07-21 | 人物忌

 


 現在の「藪下通り」 左手は文京区立汐入小学校

 


(goo古地図・明治期から)

 

 

森鴎外がよく散歩道とした
「藪下通り」がある。

観潮楼(森鴎外記念館)から
根津神社北参道近くに続く 

道幅4m 500mほどの道

説明文には
「藪下通り
 本郷台地の上を通る中山道(国道17線)
と下の根津谷の道(不忍通り)の中間、

つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から
駒込方面へ通ずる
古くから自然に出来た脇道である。

「藪下道」ともよばれて親しまれている。
 むかしは道幅もせまく、
両側は笹藪で雪の日は、
その重みでたれさがった笹に道を
ふさがれて歩けなかったという。
この道は、森鷗外の散歩道で、
小説の中にも登場してくる。
また、多くの文人が
この道を通って鷗外の観潮楼を訪れた。

 現在でも、ごく自然に
開かれた道のおもかげを残している。

団子坂上から上富士への区間は、
今は「本郷保健所通り」の
呼び方が通り名となっている。

 文京区教育委員会 平成7年3月 」

 

鴎外の小説「青年」に

「藪下の狭い道に這入る。
多くは格子戸の嵌まっている小さい家が、
一列に並んでいる前に、
売物の荷車が止めてあるので、
体を横にして通る。
右側は崩れ掛って住まはれなくなった
古長屋に戸が締めてある。
九尺二間(くしゃくにけん)と
いうのがこれだなと思って通り過ぎる。

   (中略)

 爪先上がりの道を、
平になる処まで登ると、
又右側が崖になっていて、
上野の山までの間の人家の
屋根が見える。
ふいと左側の籠塀(かごべい)の
ある家を見ると、毛利某という
門札が目に附く。
純一は、おや、
これが鷗村(おうそん)の家だなと思って、
一寸立って駒寄(こまよせ)の
中を覗いて見た。」

 注)「鴎村」は鴎外?

*永井荷風は 随筆「日和下駄」で
「私は東京中の往来の中で
この道ほど興味ある処は
ないと思っている。」
と書いている。

*司馬遼太郎も
「街道をゆく・37号の本郷界隈」で
 触れている。

 

 

 

 

 


小説家 森鴎外 3 観潮楼

2022-07-17 | 人物忌

      (2010・H22)年12月)

完成後の「文京区立森鴎外記念館」
  (文京区千駄木1-23)

 

 森鴎外が 30歳(1892年)の時から
亡くなるまで
30年間住んだ
「観潮楼」の跡地は
記念公園となった後 
鴎外生誕100周年「鴎外記念室」を併設した
「文京区立鴎外記念本郷図書館」が開館し
 鴎外生誕150周年の2012(H24)年には
「文京区立森鴎外記念館」として
開館している。

 

説明文には

「森鴎外(林太郎・1862~1922)は、
通称“猫の家”(現向丘2-20-7
・鴎外が住み後夏目漱石も住んだ)から
明治25年(1892)ここに移った。

2階書斎を増築し、東京湾の海が
眺められたので観潮楼と名づけた。

 鴎外は、大正11年(1922)60歳で
没するまで、30年間ここに住んだ。

 観潮楼の表門は、藪下通りに面した
この場所にあり、門の礎石や敷石は
当時のままである。
庭には戦火で焼けた銀杏の
老樹が生きかえっている。
三人冗語の石はそのままであるが、
鴎外の愛した沙羅の木は、
後に植えかえられた。

 鴎外は、「舞姫」「青年」「雁」や
「阿部一族」などの小説、史伝、
評論などを書き、
ここは文学活動の中心舞台であった。
また、詩歌振興のため観潮楼歌会を開き、
若い詩人、歌人に大きな影響を与えた。

    
  文京区教育委員会   」

 

*「三人冗語の石」は、鴎外が腰掛け
 幸田露伴(1867-1947)
 斎藤緑雨(1868-1904)
 と共に写真撮影をした庭石をいう。

1892(M25)年1月 
 当初平屋であったが 
 12畳の2階を8月に増築している

入居当時の鴎外は
 陸軍軍医学校教官で

 同居したのは(*年齢)
  父・静男 (57) 
  母・峰子 (46)
  祖母・清子(74)

  長男・於菟(2) 
  弟・潤三郎(13)
   他に住み込み女中 

 

 

  (森於菟「父親としての森鴎外」から)

 

森 於菟の「 父親としての森鴎外」
観潮楼の様子が書かれている。

「  楼 の 情景 は 永井荷風 の
「 日和下駄」 の 中「 崖」 の 章 に
精しく、 初秋 の 夕 暮 上野 の 鐘 を
聞き ながら 待つ 所 に 赤筋 の 入っ た
カアキ 色 の 洋服 と 白襯衣 だけの
休日 の 兵隊 さん の よう な 父 が
上っ て 来 て、 気軽 に 対談 する 様 が
描い て ある。
しかし 東南 に 廻り 縁 を 有し、
西 が 上野 の 山 に 対し た
この二階 が 八 畳 と 六 畳 との 二間 と
記し て ある のは 誤り で、
十 二 畳 の 一間、 北西 に 閉じ て
東南 に 開き 東南 の 廻り 縁、
幅 は 三尺、 東側 は 長 さ 二間 で、
谷中 の 森 に 向い その 北端 に
階段 の 上り 口 あり、
南側 は 長 さ 三 間 その 西端 は
西日 を 避け て 戸袋 が
設け られ て いる。
上野 の 山 は この 東南 の 角 の
向う に 見える。
北側 に 一間 の 床の間 と 一間 の
違い棚 あり、 西側 には 六 枚 折 の
無地 の 金屏風 一双 を めぐらし
南側 の 縁 に 近く
その 西 寄り に 机 が 据え て あっ た。」

*永井荷風(1879-1959)
「日和下駄」(1915年)

 

 

 

 


小説家 森鴎外 2 無縁坂と鉄門

2022-07-13 | 人物忌

 (Goo古地図・明治期から)

  左側は旧岩崎家の石垣

 

無縁坂

 前回 森鴎外に続き
 作品「雁」(1911年)の
 舞台「無縁坂」に触れる。

無縁坂の説明文には


「 無縁坂
 「御府内備考」に、
 「称仰院前通りより本郷筋へ
      往来の坂にて、
往古 坂上に
     無縁寺有候に付 
 右様相唱候旨申伝・・・」とある。

 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、
 森鴎外の作品「雁」の
 主人公岡田青年の散歩道ということで、
 多くの人びとに親しまれる坂となった。

 その「雁」に次のような一節がある。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が
  極まっていた。
 寂しい無縁坂を降りて、
 藍染川のお歯黒のような水の流れこむ
 不忍の池の北側を廻って、

 上野の山をぶらつく。・・・」

   (以下省略)
 
    文京区教育委員会  昭和55年1月

 

鷗外の「雁」は
1880(M13)年 東京大学鉄門の真向かいの
下宿・上条に住む学生岡田と、無縁坂の女
お玉の物語だが 鴎外が49歳の時の作品


登場人物は

「僕」主人公
「岡田」僕の下宿先の隣人
    大学のボート部員

「お玉」末造の愛人 
「末造」高利貸し お玉の妾

 

なお 実際に鴎外は
1880(M13)年
本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。

翌年3月 下宿先で火災に遭い
講義ノートなどを失っている。

また 鴎外の妹 
小金井喜美子(1870-1956)の
「鴎外の思い出」(1956)

鉄門や下宿の様子が描かれている。


 

 坂上には東京大学の「鉄門」がある。

     

 

 「鉄門の由来」によれば

明治期の大学は「医科大学」前の
「鉄門」(1879・M12年造)が
正門であった。

 後に 法・理・文の3学部が
神田一ツ橋から移転してき 
共通の公式門として
本郷通りに
正門(1912・M45年)ができた。 


しかしながら 大正期に鉄門前の民有地が
構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。

2006(H18)年 東大医学部創立150周年を
記念して復元された。 


なお 復元された鉄門は東に30mほど
移動しており、下宿屋「上条」も
大学構内となり当時と違っている。

また「鉄門」は
東京大学医学部の通称になっている。


 追)「赤門」は
 加賀藩前田家上屋敷時代
(1827・文政10年)に造られたものだが

 1903(M36)年に15mほど通りよりに
 移築されて現在に位置にある。


 

 


小説家 森鴎外 1

2022-07-09 | 人物忌


   名作のある風景・森鴎外「雁」 (日本経済新聞 2003/11/8)

 

 7月9日は 小説家 翻訳家 陸軍軍医の
  森 鴎外 が亡くなった鴎外忌

森鷗外(林太郎)は

1862(文久2)年1月19日
  石見国津和野町田村(現・津和野町)にて
 代々藩医の長男として生まれる。

1872(M5)年
  父と共に上京し  政府高官の親族で
    哲学者の西周(にし・あまね 1829-1897)
    宅に下宿

 官立医学校へ入学するためにドイツ語を
   学び始める。

1874(M7)年
  第一大学区医学校
  (現・東京大学医学部)予科に入学。

 入学に必要な年齢が足りず 
    14歳と偽って試験を受ける。

1877(M10)年
  本科へと進む。
 ドイツ教官からの講義を受けるかたわら

 佐藤元長(1818-1897)に師事し漢方医学
   さらに漢詩や漢文といった文学にも
   傾倒していく。
1881(M14)年
   大学を卒業。しばらくは
  父の橘井堂医院(北千住)を
    手伝っていたが
陸軍軍医副となり
    東京陸軍病院へ勤務する。

1882(M15)年
   軍医本部に配属され プロイセン王国の
  陸軍衛生制度の調査に従事。

   同時に私立東亜医学校にて
      衛生学の講義を受け持つ。

1884(M17)年
    陸軍衛生制度のさらなる調査や
  衛生学の習得のためドイツに留学

1884~87年
    ラプツィヒ大学、ドレスデンの軍医学講習会
  ミュンヘン大学、
細菌学者ロベルト・コッホの
  衛生試験所などを経て  勉学に励む。

  カールスルーエで行われた 
  第4回赤十字国際会議では
  通訳者を務め称賛された。

1888(M21)年
   プロイセン近衛歩兵第二連隊の軍医に。

  9月帰国し 陸軍軍医学舎と陸軍大学校の
  教官を兼任。

1889(M22)年
   読売新聞の付録として
 「小説論」を発表し  文学活動を開始。

1890~91(M23-24)年
  「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」など
  ドイツを舞台にした小説を

  相次いで発表し 注目を浴びる。
1894~1895(M27-28)年
  日清戦争が勃発し 
  軍医部長として駆り出される。

  終戦後は台湾にて勤務した後に帰国。
1896(M29)年
  陸軍大学校教官に再度就任。
 小池正道との共著「衛生新編」を発表。

 文芸雑誌「めざまし草」を創刊。
1899(M32)年
  陸軍軍医監に昇進。

 北九州に徴兵区をもつ第十二師団の
 軍医部長として小倉へと移る。

1902(M35)年
  荒木志げ(1880-1936)と見合い結婚。

  第一師団の軍医部長の辞令を受け
    東京に赴任。

 「めざまし草」を廃刊した後
 上田敏(1874-1916)らと「芸文」

 後に「万年艸」を創刊。
1904~1906年
    日露戦争に軍医部長として出征。

1907(M40)年
   陸軍軍医総監に昇進し
   陸軍省医務局長となる。

1909(M42)年
  文芸雑誌スバルにて
 「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」

 「青年」などを連載。
  東京帝国大学から文学博士の学位を
    授与される。

1911~18(M44-T7)年
  「雁」「鼠坂」「阿部一族」
 「山椒大夫」「高瀬舟」など
執筆。
  ゲーテなどの外国文学の翻訳も行う。

1916(T5)年
  陸軍引退。
1919~21(T8-10)年
   初代帝室美術院長(現・国立博物館長)を務める。

   次第に病状が悪化。
1922(T11)年
   腎委縮・肺結核により病死。享年60

 

               (参考:ウィキペディア)