あかない日記

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小説家 森鴎外 15 鴎外の子供たち

2022-09-28 | 人物忌


 右から 於菟 茉莉 杏奴 類
   (直球和館・森鴎外から)

 

森鴎外には 3男2女の子供がいた。
なお 次男・不律(フリッツ)は夭逝している。


*長男は先妻・登志子との子
   以下は後妻・志げとの子

写真の撮影日は不明だが 
背景にデッサンやイーゼルが見えることから
1931(S6)年 杏奴と類は
画家・藤島武二(1867-1943)に師事しており

渡欧する前と思われる。

当時の年齢は 41,28,22,20歳

 

長男・於菟〔オト・Otto〕 (1890-1967)
 台北帝大学医学部 東邦医大の教授

長女・茉莉〔マリ・Marry〕 (1903-1987)
 二度の離婚後50歳過ぎから小説家・随筆家

次女・杏奴〔アンヌ・Anne〕 (1909-1998)
 洋画家小堀四郎と結婚 後に随筆家

三男・類 〔ルイ・Luis 〕  (1911-1991)

 当初画家を志したが随筆家に

 

皆 今風の名だが 明治期には
 とても考えられない名がつけられている。

 
 鴎外が 世界に通用するよう 

 特にフランス語 ドイツ語でも
 読めるようにと命名した。 

  

なお 子供たちの子(孫)も
 鴎外が名付け親となり


 ○於菟の子

    長男・真章〔マクス・Max〕(1919-2000)
    次男・富 〔トムTom〕   (1921-2007)
    三男・礼於〔レオ〕    (1925-2000)
   * 四男・五男は於菟が命名した
    四男・燓須〔ハンス〕 (1928-2007)
    五男・常治〔ジョウジ〕(1931-2015)
 
 ○茉莉の長男・𣝣〔ジャク〕(1920-1993)

 ○弟・潤三郎の子 兌〔トオル〕

さらに 
 与謝野晶子(1878-1942)の双子

  長女「八峰」 次女「七瀬」

*経緯は 鴎外が誕生祝いに晶子に送った歌

「聟きませひとりは山の八峰こえ
  ひとりは川の七瀬わたりて」

○子供たちの著書(主として家族関係)

  於菟 「父親としての森鴎外」(1955年)

  茉莉 「父の帽子」(1957年)
     「父と私 恋愛のようなもの」(2018年)

  杏奴 「不遇の人 鴎外―日本語のモラルと美」()
     「晩年の父」(1936年)
     「母への手紙」(1947年)
     「父」(1957年)

  類  「鴎外の子供たちーあとに残されたものの記録」(1995年)
     「森家の人びとー鴎外の末子の眼から」(1998年)
     「鴎外の三男坊―森類の生涯」(1997年)

 

 


小説家 森鴎外 14 千住の地

2022-09-21 | 人物忌

「橘井堂医院」の跡地 

 

 

森鴎外が千住に暮らした時期がある。

その跡地の碑文には

「 翁は病人を見ている間は、
全幅の精神を以って病人を見ている。
(中略)

花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、
自分が遠い向うに或物を望んで、

目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、
父はつまらない日常の事にも全幅の精神を
傾注しているということに気が附いた。
宿場の医者たるに安んじている
父の レジニアションの態度が、

有道者の面目に近いということが、
朧気ながら見えて来た。

そして其時から遽(にわか)に
父を尊敬する念を生じた。 」

とある。

*レジニアション(resignation=諦観)

*この碑文は短編小説「カズイスチカ」
(1911年・casuistica=臨床記録)からの引用

千住での経緯

1878(M11)年11月 父・静男は 
 東京府から南足立郡の郡医を委託される。

 翌年 千住に橘井堂医院(きっせいどう)を開業した。
1881(M14)年7月 林太郎は大学を卒業し
 下宿を引き払って千住に住み、

 医師として父とともに医療活動に従事した。
  *この頃の様子は小説「カズイスチカ」にある。
1884(M17)年8月 ドイツへ留学
1888(M21)年9月 帰国して千住の実家に戻る。
1889(M22)年3月 林太郎は結婚して根岸に移り、
1892(M25)年1月 両親も千駄木・観潮楼に移った。

 

鴎外の妹 小金井喜美子
(1870-1956)の「鴎外の思い出」(1956)に

11歳から3年余千住で暮らした様子が描かれている。

 

 

 

 

「鴎外」のペンネームは 

鴎外のペンネームは 
本郷下宿時代からの書き物にあるが
1880(M13)年に千住の父の医院に
移り住んでからと思われる。

 

「鴎外」という号は諸説ある
現隅田川の白髭橋付近にあった
「鴎の渡しの外」
(かもめのわたしのそと)という意味で、

遊興の地に近寄らず
遠く離れた千住を意味しているとか。

  


小説家 森鴎外 13 津和野

2022-09-11 | 人物忌

 

  (1992年撮影)

 

森 鴎外(林太郎)は
1862(文久2)年1月19日
 代々津和野藩の藩医、
 50石どりの家柄の森家の

 長男として生まれる。
1872(M5)年 11歳で上京するまで
 ここで過ごしたが

 上京後再び津和野も、
 この家も訪れることはなかった。

 1922(T11)年 病死(享年60)


しかし 遺書に記された
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」
の言葉から、この家での幼き日々の
生活が生涯の基礎を形成しているようだ。


なお この旧居は森家の上京後人手に渡り、
 一時は他所に移築されていた。

1954(S29)年 鴎外33回忌を機に、
 津和野町が買い戻し、現在地に復元した。

 この旧居も建築以来130年、
 老朽化が著しいため、

1984(S59)年 
 解体、全面的に修理している。


また 旧居は 西周(1829-1897)の
旧居と津和野川をはさんで
国指定(1969・S44年)の
史跡になっている。


   津和野の町並み

 

        (参考:しまね観光)


小説家 森鴎外 12 鴎外と西周

2022-09-05 | 人物忌


 (Goo古地図・明治期から)

 

森鴎外と西周の関係について 
前回 鴎外の結婚の媒酌人として触れた。

 

もう少し掘り下げてみたい。

西神田二丁目3番(西神田公園)にある
町内会の説明文には

「江戸時代のこの界隈は、
武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。

当時の武家地には正式な
町名がありませんでしたが、

江戸城の北西一帯は、小川町という
俗称で呼ばれていました。

明治時代に入ると、武家地だった場所にも
町名が付けられるようになります。

明治五年(1872年)、ここに「猿楽町」や
「中猿楽町」「今川小路三丁目」
「西小川町一丁目」「西小川町二丁目」
といった町が成立しました。

 このころ町内には、
哲学者で啓蒙思想家でもあった
西周(にしあまね)の屋敷がありました。

その屋敷に明治五年から数年間、
寄宿していたのが、
小説「高瀬舟」などで知られる森鴎外です。

ふるさとから上京したばかりの鴎外にとって、
多感な少年時代を過ごした西周邸での生活は、
忘れられないものだったに違いありません。

  (以下略)

       西神田町会    」

 

 

西家は 津和野町の典医で
森家とは親戚関係にあった。

西周の父は 森鴎外の祖父の弟・森覚馬で
西家に養子に入って
周が1892(文政12)年に生まれている。

 

この関係で 鴎外と父は屋敷に寄寓していた。

このときの西周は陸軍大丞 宮内省侍読であり
鴎外の33歳年上でもあった。

 

鴎外は寄寓ときの模様を
「ヰタ・セクスアリ」に記している。

「同じ年の十月頃、僕は本郷壱岐坂にあった、
独逸語を教える私立学校にはいった。

これはお父様が僕に鉱山学をさせようと
思っていたからである。

 向島からは遠くて通われないというので、
その頃神田小川町に住まっておられた、

お父様の先輩の東先生という方の内に
置いて貰って、そこから通った。」


注)「東先生」は西周

 

「ヰタ・セクスアリス」は
1909(M42)年に発表された。

題名はラテン語で性欲的生活を意味する。

あらすじは 主人公の哲学者である父親が、
高等学校を卒業する長男への性教育の
ための資料として、
自らの性欲的体験についてその歴史をつづる内容。

大胆な性欲描写が問題となり、
陸軍の上官から懲戒処分を受けた。

掲載された文芸誌「スパル」7号は
発刊から1か月後に発売禁止の処分となる。

この処分は当時軍医総監という立場に
あった鴎外に対する非難を受けての対応であった。