あかない日記

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東京散策 東郷神社 海軍経理学校敷石

2019-01-31 | 散策

 

 

  東郷神社境内に
  「海軍経理学校正門敷石」の碑があり

  その前に敷石が縦に敷き詰められている。

 

  
  海軍経理学校の沿革が説明されている。


   「明治7年10月、芝山内天神谷に設けられた
  海軍會計學舎は幾度か
その名稱を変え
  明治40年海軍経理學校となった。

   この間校舎も数度位置を変えて、
  明治21年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、

  更に昭和7年同じ築地の墨田川河畔
 (現在の勝鬨橋右岸)に移築された。

   昭和20年9月、71年間の歴史を閉じるまでの
  同校出身者は
一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として
  海軍戦力の一翼を担い
輝かしい功績を挙げた。
  その間諸戦没事変に際會して國に殉じた者も多く、
  
又軍務を離れても各界各方面で活躍し
  我が國の興隆発展に多大の貢献をしている。

   昭和55年5月 浴  恩  會
         (海軍経理學校同窓会) 」

 

  同じ文面が 靖国神社境内にもあった。

 

 


東京散策 東郷神社 水交神社鳥居

2019-01-30 | 散策

 

 

  東郷神社境内に少々小さめの鳥居がある。

 

 

  
  説明文に この鳥居「水交神社鳥居の由来」があった。

  「水交社」とは 旧日本海軍将校の
  親睦・研究団体で1876年に創設されている。

  会員は 海軍士官・高等文官・士官候補生などで構成されている。
  第2次大戦後 解体したが 
  現在は「(財)水交会」として復活し,

  旧海軍軍人の親睦機関となって 
  現海上自衛隊に引き継がれている。 

  なお 名称「水交」の由来は

  中国の「荘子」(山木篇)中の
   「君子之交淡若水」「小人之交甘若醴」に由来している。

  
   「志の高い者の交友は水の様に淡白で飽きず長続きする。

   志の低い者の交友は甘酒の様に飽きやすく長続きしない。
   したがって君子の交わりは普段は淡々としているが
   一旦緊急の際には相離れることのない緊密なものである。」

   一方 同じように陸軍も「偕行社」が組織されている。 

 

 


東京散策 東郷神社 潜水艦殉職碑

2019-01-29 | 散策

 

  

  境内に 重厚な碑がある。
  東郷神社であるので日露戦争の英霊を
  祀ってあるのかと思ったが

  太平洋戦争中の潜水艦とともに
  戦没した英霊の鎮魂碑であった。

   毎年10月下旬
  潜水艦殉国碑慰霊祭が行われている。

 

   

  左手は 潜水艦横断面を模った碑

  中央に延びる柱は 伊号33の実潜望鏡を、
  背面には殉国者全員の霊名が封入されている。

  

 

         碑文「潜水艦勇士に捧ぐ」


         
              搭載用 魚雷模型


  旧海軍館(平成四年解体)の庭にあったもので

  実物に似せてあるが寸法は実魚雷より小さい。
    
       ―実魚雷の寸法―

  巡洋艦・駆逐艦用 径61㎝ 長さ8.5m
  潜 水 艦  用 径53㎝ 長さ7.2m
  航 空 機  用 径45㎝ 長さ5.7m」

 

 

 

 

 


東京散策 東郷神社

2019-01-28 | 散策

 

                「東郷神社」(東京・渋谷)

  「軍神」とまで呼ばれた東郷平八郎
  1934年亡くなると全国から東郷を
  顕彰する神社の創建の要望と献金があり

  明治神宮に近いこの地 1940(昭和5)年の
  海軍記念日(5月27日)に
  御鎮座祭が執り行われ府社に列格した。

  1945(昭和20)年 東京大空襲によって社殿が焼失したが
  1964(昭和39)年に再建された。

  東郷平八郎の武運から
  勝利の神様として信仰が厚い神社になっている。

 

            神門

       

          東郷家の家紋 
   
    下に蔦の葉 上の菊は皇族を表す紋。

 

               本殿

 

         境内にある「海の宮」

  海軍や海事、水産関係物、崇敬者を合祀奉斎している。

 

 

 

  隣接して 池の先に「東郷記念館」がある。

  しかし これは神社ではなく
  全くの別法人である㈱東日が経営しており
  
主に結婚式場として営業している。

 

 


東京散策 東郷記念公園

2019-01-26 | 散策

 

 

  東郷平八郎の邸宅跡(東京・千代田区四番町)は
   今は記念公園になっている。

 


  東郷元帥は 1881(明治14)年からこの地に住み
  没後 上六公園に隣接していたことから

  東郷元帥記念会から敷地の寄付を受け公園に併合されて
  昭和13年に「東郷元帥記念公園」として開園した。


   碑文には
    「永く区民から親しまれ、地域の文化向上にも
     寄与し人々の尊敬のうちに昭和9年88歳の
     生涯を閉じる」とある。

  また 園内には東郷邸にあった
  ライオン像や力石も残されている。

 

     東郷邸玄関脇にあったライオン像

    

             力石

 

 

          公園脇の坂道にも「東郷坂」と名がつく。

 

    追:  公園は 改修整備工事の過程で
    土壌含有量基準を超える「鉛」が検出されたため
     昨年の7月から当分の間 閉鎖されている。

 

 


神奈川紀行 横須賀市 戦艦三笠4 東郷平八郎

2019-01-25 | 国内・神奈川

    

        戦艦三笠 長官室にある肖像画

       

       東郷平八郎の顕彰(三笠艦内展示室)

  戦艦三笠といえば 東郷連合艦隊司令長官

 
      東郷平八郎の略歴は

  1847(弘化4)年 鹿児島に生まれる
  1863(文久3)年 薩英戦争に参加
  1871(明治4)年 英国へ留学 明治11年に帰国し海軍大尉
  1894(明治27)年 日清戦争に「浪速」艦長として参加
  1903(明治36)年 連合艦隊司令長官
  1904(明治37)年 日露戦争 海軍大将
  1905(明治38)年 日本海海戦では「三笠」に乗船し
      連合艦隊司令長官として指揮を執り

      当時世界最強のバルチック艦隊を破る。
      完勝により国内外で英雄視され、
      「陸の大山、海の東郷」「軍神」

      また「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」
      さらに ジョン・ポール・ジョーンズ、
      ホレーション・ネルソン
とともに
      「世界三大提督」とも呼ばれる。 


  1934(昭和9)年 88歳にて逝去

   位階:従一位 勲位:大勲位 功級:功一級 爵位:侯爵



 

         三笠艦橋の図(靖国神社)


  靖国神社(東京・九段)に 対の大燈籠があり
  その台座にはそれぞれレリーフがある。

  右側に海軍 左側に陸軍の戦いの様子が彫られている。
  その中に 三笠にもあったものと同じ
  「三笠艦橋の図」があった。

  しかし 東郷は 靖国神社には合祀されていない。
  
  靖国神社は  戦死された軍人を祀る神社であるので
  偉大な軍人でもあっても 戦死ではなく 自然死した者は
  靖国神社とは別に祀ることになる。
 
  
  墓所は 多磨霊園にあり 
  軍神として東郷神社に祀られている。

 

 

 


神奈川紀行 横須賀市 戦艦三笠3

2019-01-24 | 国内・静岡

 

 

 

  艦内の展示室には
  旧海軍の制服や装備 日露戦争関連の展示のほか

  東郷連合艦隊司令長官の公室、参謀長室、
  艦長室などが復元されている。


 

 

       三六式無線電信室

 

 

  対馬西方海域を哨戒していた仮装巡洋艦「信濃丸」は、
  5月27日早朝バルチック艦隊を発見し、
  「敵艦隊見ュ・・・」の第一報を発信したが、
  その電報は巡洋艦厳島を経て
  この電信室の三六式無線機で受信し、

  直ちに東郷聯合艦隊司令長官に報告された。

  日本海海戦で初めて無線通信機が
  作戦戦闘場面で使われ、

  大きな効果を上げたという。

 

 

  三四式無線電信機は 
  海軍技師・木村駿吉が中心となって開発された。

  なお「三六式無線電信機」は
  2008(平成20)年度の近代産業遺産に続き

  国立科学博物館の重要科学技術史資料
  (未来技術遺産)にも登録されている。

 

 

        15cm副砲の操法の展示

  射撃指揮官 砲員3名の人型を配置し、
  射撃号令音声により目標を照準して
  発射するまでの流れを説明し、

  また 砲員1名の人型により
  弾薬の揚弾要領が展示されている。

 

          7.62cm砲 

     

         人力操舵用操輪

 

           「時鐘」

 

          15.2cm副砲

  砲の脇に釣床(ハンモック)が吊るされている。
  砲兵は此処で寝泊りしていた。 

  乗組員860名のうち中尉以下
  830名がハンモックで過ごしたという。

 

 

  

  展示室に飾れている 日本海海戦時の三笠艦橋上の絵。
  中央が東郷司令長官 
   左に加藤参謀長、右は秋山先任参謀。

   「Z旗」も見える。

 

           士官室

  艦内士官が会議、食事などに使用した部屋

 

            艦隊旗艦長居室

      壁には歴代三笠の艦長名が掲げられている。

 

 

          司令長官公室


  艦隊の最高士官等の会議が開かれた。

  奥に47mm速射砲砲が見える。

 

          長官室

     

       浴室とトイレ

 

 


神奈川紀行 横須賀市 戦艦三笠2

2019-01-23 | 国内・神奈川

 

 

  マストには ”旭日旗” が高々と翻る。
        この旗 隣の国からは
 
    日本の軍国主義、帝国主義の象徴だという。
  
  艦尾には 帆船時代からの伝統である
   スターンウォーク(回廊)があり
     扉の奥は長官室

 
  1903(明治36)年に連合艦隊旗艦となった。
  
  排水量15140t、全長132m、全幅23m
  機関出力15000HPで最大速度18ノット

  
  主砲40口径30cm連装砲塔×2
  40口径15cm砲×14
  40口径7.6cm速射砲×20
  45cm魚雷発射管×4を装備する。

 


   入口のタラップを上り「舷門」から甲板へ

       順路に従い進む。

 

       信号探照灯

  艦橋の左右に外部の艦船と連絡を取り合うための
  ライト(信号探照灯)が設置されている。

 

 

          海図室

 

          操舵室内部

  艦橋には操舵室・海図室があって
  磁気羅針儀、操舵輪、速力指示器などが装備されており
  通常はここで艦の運航を指揮する。

 

 

 

  艦橋後方に「前部司令塔」がある。

  壁の説明板には 
  「被弾時の被害を局限し操艦能力を維持するため、
   周囲は35cmの厚い
鋼鉄の壁で囲まれており、
   内部には、磁気羅針盤、操舵輪、速力指示器、

   通信器などが備えられている。」とある。

  ここで 司令長官、艦長等が敵弾から
  身を守りつつ戦闘を指揮し、艦を操縦するという。

 

 

         前部司令塔の内部

  意外とさっぱりした内部
   現在ならばレーダーなど種々の計器類が並んでいるだろう。

 

           30㎝前部主砲
 
 最大射程約10km、口径30cm主砲が
  2門装備されている。(後甲板にもある)

 

   

           船首と主砲

 

        三笠からの各砲の射程距離

  主砲の射程距離は
   約10km 副砲約8km 補助砲約3km

 

    30cm主砲弾 徹甲弾と炸薬弾

 

 

 

 


神奈川紀行 横須賀市 戦艦三笠

2019-01-22 | 国内・神奈川

 

 

   静岡県・沼津から神奈川県・横須賀へ
  記念艦・三笠を訪れる。

 


  

   

  戦艦「三笠」は 1902(明治35)年にイギリスで建造された。
  日露戦争では東郷平八郎司令長官が乗艦する
  連合艦隊の旗艦として大活躍している。

  
  特に 1905(明治38)年の日本海海戦では、

  ヨーロッパのバルト海から派遣されたロシアの
  バルチック艦隊を対馬沖で待ち構え
  集中砲火を浴びながらも勝利した。


  1923(大正12)年に現役を退き
  3年後に記念艦として横須賀に保存されたが

  第二次世界大戦後 占領軍の命令により
  主要部分の大砲、マスト、艦橋などが
  撤去されてしまった。


  その後 「三笠」の復元の声が内外で高まり
  募金やアメリカ海軍の支援などにより

  1961(昭和36)年 現在の姿に復元された。
  
  1992(平成4)年 海事遺産賞受賞した。

 


  白い砲弾は 戦艦「大和」の主砲弾
  
  横断幕にある「世界三大記念艦」とは 

  日本の「三笠」 イギリスの「ヴィクトリー」及び
  アメリカの「コンスティチューション」をいい
  自国の独立を守るための重要な海戦において勇敢に戦い
  歴史的な勝利を収めたことから
  世界の三大記念艦といわれている。

 

 

      「記念艦三笠の由来」の説明板

  
  艦名「三笠」は山の名の「三笠山」から命名された。

  因みに “艦名” については 資料によれば
  
明治時代に名づけのルールが決り
   その例は 次のとおり。

    
    戦 艦  →国名 (大和,武蔵)

    巡洋戦艦 →山の名(金剛,霧島)
    一等巡洋艦→山の名(古鷹,羽黒)
    二等巡洋艦→川の名(多摩,天龍)
    航空母艦 →飛行する瑞兆動物の名(翔鶴、飛龍)


 

  

  「Z旗」は 万国船舶信号旗で 
  緊急事態に処するための大いなる
  努力の要求を意味している。

 
  二本の対角線で四分され
  黄(上)・黒(左)・赤(下)・青(右)の
  四色に染め分けられている。


  旧日本海軍では 日露戦争の日本海海戦以来
  「皇国の興廃この一戦にあり、
      各員一層奮励努力せよ」との
  趣旨の信号文にあてられた。

 

 

 

 

   左舷に突き出た副砲が並ぶ。
  下層の副砲の方向は固定式になっている。

   現在の三笠は地面に固定されているが
  これには訳がある。

  ワシントン海軍軍縮条約(1921~1922年)により
  米・英・仏・伊と日本の戦艦・航空母艦等の
  保有の制限が取り決められ
 三笠は廃艦が決定した。
  
  しかし 輝かしい戦歴がある三笠 
  国民の保存運動により解体は免れたが

  現役に復帰できぬようにと
  大阪城ならぬ船体外周部に大量の砂で埋められ

  船底(下甲板)にはコンクリートが注入された。
  
  二度と海へ出航できない状態という条件で保存されている。

 

         艦首飾り

  「三笠」は皇居に正対しており
  艦首には艦首飾り(菊花紋章)が付けられ輝いている。

     

           中央展示室

  こちらは 竣工時から1987(昭和62)年まで
  装着されていた艦首菊の御紋章。

 

 


静岡紀行 伊豆の国市 反射炉と古川

2019-01-20 | 国内・静岡

 

   「一級河川 韮山古川 起点 静岡県」と 橋の欄干“砲弾”形が見える。

    

 

  反射炉の脇に流れる準用河川「韮山古川」から水路を引き
  反射炉で鋳込まれた鉄の塊を大砲として完成させるためには 
  砲身の内部をくりぬく必要があり、
  1か月をかけて砲身の内部をくりぬいたという。

 

  説明文には

 「反射炉の敷地内には 鉄を熔解する反射炉の他に
  砲身をくりぬく錐台小屋や仕上げを行う御筒仕上げ小屋
  
鍛冶小屋等があり 一連の工程を経て
  大砲を完成させる砲製工場でした。

  この韮山反射炉で行われていた製砲の工程で
  重要なものの一つに 
  砲身をくりぬくサン開という工程がありました。

  反射炉で鋳込まれた鉄の塊を大砲として完成させるためには
  砲身の内部をくりぬく必要があり、
、  この作業が行われたのが錐台小屋でした。

  錐台小屋には水車が設置され、錐台に動力を伝えていました。
  韮山反射炉の操業当時のようすを示す

  「反射炉小屋場御用地鹿絵絵図」には、
  反射炉のほとりを流れる韮山古川から箱桶で
  水が引き込まれていることが描かれています。
  韮山古川の水力は製砲工場としての
  操業するために不可欠なものでした。」

 

             反射炉と韮山古川

 


静岡紀行 伊豆の国市 反射炉の構造

2019-01-19 | 国内・静岡

 

 



  反射炉とは 銑鉄(砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で

  不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉。

  銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となるが
  反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており
  そこに炎や熱を「反射」させて 銑鉄に集中させることで
  高温を実現する構造となっている。
  このことから反射炉と呼ばれている。

  溶かした鉄は 鋳型に流し込んで大砲などに加工された。
  発掘調査では 砲弾の鋳型なども発見されている。

  炉体と煙突の部分を合わせた高さは約15.7mある。

  炉体部の外部には伊豆石も使われているが
  この伊豆石は 伊豆半島特産の石材で
  硬質で重く耐久性に優れたものと
  軟質で軽く加工しやすいものの2種類があり

  どちらも耐火性に優れ遠赤外線効果が高いという。

 

   こちらは「湯出口側」 
「  方孔」「出滓口」「出湯口」「炉下通風口」の説明がある。

 

 


静岡紀行 伊豆の国市 韮山反射炉の歴史

2019-01-18 | 国内・静岡

 

 

  韮山反射炉は 1864(元治元)年に
  幕府直営反射炉としての役割を終えるまでに

  鉄製18ポンドカノン砲や青銅製野戦砲などの
  西洋式大砲が鋳造された。

   現在の反射炉はレンガとそれを囲う
  鉄のフレームでできているが

  建設当初は、レンガの上から
  漆喰がぬられたものだった。

 

  1908(明治41)年の補強により鉄のフレームが見える
 

  明治維新後 陸軍省の所管となったが
  荒れるままに放置されていた。

  
  江川英龍没後50年を機に 
   1908  (明治41) 年 鉄フレームで補強され

   1957(昭和32)年の大修理の際にも補強された。
   1989(平成元)年ではさらに丈夫なものに付け替えられている。


  建設時は漆喰塗の「白亜の塔」が 
  補強の鉄フレームがアクセントとなって
  芸術的な雰囲気を醸し出している。

 

 

 

 


静岡紀行 伊豆の国市 反射炉と江川英龍

2019-01-17 | 国内・静岡

 

                  銅像・江川英龍と反射炉



  江川 英龍(ひでたつ・1801-1855)は
  江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。

  通称の太郎左衛門 号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。

  韮山代官は 伊豆、駿河、相模、甲斐、
  武蔵にある幕府直轄地の支配を担当していた。


  嘉永6年(1853年)のペリー来航で
  江戸湾海防の実務責任者であった 

  江川英龍は 洋学とりわけ近代的な沿岸防備の
  手法に強い関心を抱き、

  大砲の鋳造法の洋書のみを頼りに
  大規模な反射炉の建造に取りかかる。

  しかし 1855(安政2)年 完成を見ることなく病死してしまった。

  後を継いだ 江川英龍の三男・江川英敏は
  反射炉の建設を行なっていた佐賀藩に協力を求め
  1857(安政4)
年に完成した。

 

 

 
   「鉄砲方」とは 江戸幕府の職名の一つ。
    若年寄の支配下にあって、銃砲の製造や射撃の教授などにあたった者。
    井上・田付両家が世襲している。
    ほかに長崎鉄砲方・大坂鉄砲方があった。


静岡紀行 伊豆の国市 韮山反射炉

2019-01-16 | 国内・静岡

 

  

   道の駅から  伊豆の国市の韮山反射炉へ

  佐賀藩や薩摩藩をはじめとして
  幕末期の日本では各地に反射炉が造られたが
  現存する近世の反射炉は
  萩の反射炉と この韮山反射炉のみである。

  特に 韮山反射炉は 実際に稼働し
  大砲を鋳造している反射炉で
  あることが特徴になっている。

  2015年に 萩反射炉などと共に
  世界遺産「明治日本の産業革命遺産
   製鉄・製鋼 造船 石炭産業」の
  構成資産として登録された。

  静岡県では「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」と並ぶ
  世界遺産の登録スポットになっている。

  反射炉へは「韮山反射炉ガイダンスセンター」(2016年開館)が
  入り口になっており 予備知識を得てから見学することになる。
  
  施設内では、韮山反射炉の変遷を示す
  写真などが展示されているほか
  映像ホールでは縦5m・横10mの巨大スクリーンに
  操業当時の大砲鋳造の場面が映し出されていた。

   *反射炉とは 銑鉄(せんてつ=鉄鉱石から直接製造した鉄)を
    溶かして優良な鉄を生産するための炉をいう。

 

   


静岡紀行 伊豆の国市 パノラマパーク

2019-01-15 | 国内・静岡

 

 

  道の駅「伊豆のへそ」から IC長岡に近い
   「伊豆の国パノラマパーク」へ

 

  
  標高452mの葛城山の山頂と北麓を利用した観光施設。

  1962(S37)年に開業

   ロープウェイは

  片道1,791m 高低差411mあって 所要時間約7分。

 

 

 

                     (資料から)

  
  快晴ならば 富士山、箱根の山々、南アルプスなどが

  望めるのだったが。

 

 

         「二等三角点」

三角点はとは 経度・緯度・標高の基準になる測量の点で
見晴らしの良い場所に設置されている。
 二等三角点は 設置間隔約8kmで

全国に約5000点設置されてあるそうだ。

 

 


 この葛城山にて鷹狩りをしたということで
            建てられた源頼朝の像。

 

 

  こちらには 大きな下駄が置かれている。

  これは「下駄供養塚」で

  伊豆長岡温泉の旅館やホテルで
  務めを終えた下駄を供養している。

 


  園内「さえずりの丘展望台」には、
  恋人の聖地の象徴である「幸せの鐘」がある。

  伊豆にはこのような施設が多い
  果たしてどこの聖地が・・・