あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

クーデンホーフ光子

2021-08-27 | 人物忌


   結婚当時



8月27日は

「黒い瞳の伯爵夫人」
 クーデンホーフ光子が亡くなった日

 

光子は

1874(M7)年7月24日
 東京府牛込納戸町
で骨董店を営む
    青山喜八と妻・津禰(つね)の
    三女・青山みつとして生まれる。

1892 (M25)年2月 
   当時のオーストリア=ハンガリー帝国の
    駐日代理大使として赴任してきた
   ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に
 見初められ
  大使公邸に
 小間使いとして奉公する。


  諸説あるが 
  ハインリヒが騎馬で移動中に落馬したのを、
 みつが手当てしたのがなれ初めだといわれる。

1893(M26)年 
 光子(18歳)ハインリヒ(33歳)と結婚
 当時東京府に届出された
   初の正式な国際結婚とも。

  長男・ハンス(光太郎)
  次男・リヒャルト(栄次郎)
 の2人の子を生む。

1896(M29)年1月
 帰還命令により夫の祖国である

 オーストリア=ハンガリー帝国へ向かう。
 
  クーデンホーフ家が所有する

 西ボヘミア・ロンスペルク村の居城へ。
(現:チェコ共和国・ポビェジョヴィツェ)

 旅立ちの前に、光子は明治皇后
 (のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、
「どんな場合にも
 日本人としての誇りを忘れないように」と
 特別にお言葉を賜ったと言われる。
 このお言葉が
 以後の光子の生涯に大きく影響していた。

 渡欧後 自分の無学を補うため
 歴史・地理・数学
 ・語学(フランス語・ドイツ語)
  ・礼儀作法など
 家庭教師を付けて猛勉強した。

1905(M38)年
 日露戦争の勝利により
 日本の国際的地位が高まると
 光子への偏見も和らぐ。
1906(M39)年5月14日
 夫ハインリヒが
 心臓発作を起こし急死(46歳)
 
 ハインリヒの遺産は
 全て
光子が相続するように
 遺言がなされていたものの
 一族が財産を巡り訴訟を起こすが
 光子は自ら法律書を読み
 勉強をしてこれに勝訴する。
 
 以後 夫の遺産を相続し

 伯爵夫人として簿記などを勉強し
 領地経営  法廷闘争と取り仕切った。

 


  (NHK・BS ザ・プロファイラー)
 
   そして子供たちの教育のため

 財産を処分しウィーンへ居を移す。
 光子は社交界にデビューし
 「黒い瞳の伯爵夫人」とも呼ばれる。

1914(T3)年に始まる第一次世界大戦では
 オーストリア=ハンガリー帝国と
 日本は敵国として戦うことになり
 二つの祖国が敵国として戦うことになり
 光子への差別は強まった。

 また 長男ハンスと三男ゲオルフの
 2人の息子が兵士として従軍する。
(次男リヒャルトは
 肺の病気で徴兵を免れた)

 光子自身も赤十字社を通しての
 食糧供出に奔走するなど
 多難な時期を送る。

1918(T7)年
 第一次世界大戦で
 オーストリア=ハンガリー帝国が
 崩壊したことに伴い
 クーデンホーフ=カレルギー家も
 多くの財産を失った。
1925(T14)年
 脳溢血により右半身不随となるが
 ウィーン郊外で唯一の理解者であった
 次女・オルガの介護により
 静養の日々を過ごす。
1939(S14)年9月に始まった
 第二次世界大戦後は
 ドイツ難民として中央ヨーロッパを放浪
1941(S16)年8月27日
 世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中
 2度目の脳卒中が発作し
 オルガに見守られながら息を引き取り
 ウィーンのカレルギー家の墓に葬られる。
 
 享年67

 

 

 

 


歌手 藤 圭子

2021-08-22 | 人物忌


  (東京・新宿区 花園神社境内)

 

8月22日は 演歌歌手
 藤 圭子 が亡くなった日


藤は 
1951(S26)年 

  浪曲師の父と曲師の母のもと
  岩手県一関市に生まれ
 北海道旭川で育った。

 本名 宇多田純子 旧姓は阿部

1969(S44)年
 ソングライター石坂まさを
(1941-2013)によって見いだされ

 「新宿の女」でデビューする。

  夜の世界に生きる女性の感情を
  描いた暗く陰湿な楽曲「怨歌」を

  独特のドスの効いたハスキーボイスで
  のびやか かつ深々と歌い上げ
 その可憐な風貌とのギャップも相俟って

 70年作のファーストアルバムは
 オリコンの週間チャートで20週連続1位を

 セカンドアルバムなどは

 42週続けてチャートの1位を独占して
前人未踏の記録を打ち立てている。

1979(S54)年 引退
1981(S56)年
 「藤圭似子」の名(~84)で復帰

2013(H25)年8月22日
 転落死  62歳

代表曲は
「圭子の夢は夜ひらく」(1970)

歌手・宇多田ヒカルは
藤の長女で1998年にデビューしている。


1993(H5)年 当時夫であった

音楽プロデユーサーの
宇多田照實(1948-)と

宇多田ヒカルと共に
音楽ユニットのU3を結成した。


2000(H12)年
 宇多田ヒカルの札幌公演に

 飛び入りして
「圭子の夢は夜ひらく」を歌ってもいた。


  (東京・新宿区 花園神社境内)

 

 


タマスダレ

2021-08-20 | 出来事・行事

 

 

我が県にも コロナ感染

「緊急事態宣言」が発令された。

そして住む街も 

県下一番多くの感染者を出している。

外出・移動もままならなくなり

生活の範囲がぎすぎすしてきた。


庭に目を向けると 

「タマスダレ」が咲き出した。

タマスダレは

ヒガンバナ科 タマスダレ属の球根草

別名「ゼフィランサス」ということもある。

花から和名「タマスダレ」のイメージ 

当方はできないが

白い小さな花を「玉」に、

葉が集まっている様子を

「スダレ」に例えたことによるという。

 

また 花言葉は

「汚れなき愛」「純白の愛」で

白い花をつける品種の清らかなイメージから

さらに「便りがある」「期待」とあり

ゼフィランサスの語源で

西風を意味する「Zephyros」

というギリシャ語に由来している。


一日も早く コロナ感染終息の

便りを期待したい!

 

 


薬学者 大井玄洞

2021-08-15 | 人物忌


   大井玄洞の胸像 

8月15日は 
薬学者 政治家 陸軍軍人
大井玄洞 が亡くなった日

大井玄洞(げんどう)の胸像が
文京区関口の
江戸川公園内に置かれている。

説明文には
「 大井玄洞翁の胸像 
 生誕 安政元年(1855)
  加賀藩金沢に生まれる

 明治33年(1900)より
  小石川区(現文京区)在住

 逝去 昭和5年(1930)8月15日
  伊豆にて没す(享年75才)


江戸川(現神田川)の治水事業は
沿岸の人々にとって、永年の願いであった。

明治43年(1910)の大洪水の後、
玄洞翁は、人々の願いの実現に努力し、

大正2年(1913)護岸改修に着工させ、
大正8年(1919)に完成させた。
人々は、翁の功績をたたえ、
永くその徳を伝えるために、

昭和3年(1928)、江戸川公園内の
当所に胸像を建てた。

 昭和58年(1983)12月
       文京区役所」

大井の概歴
1855(安政元)年
 加賀藩の儒医の子として生まれる。

 藩の明倫堂で学び
 更に藩の道成館で英語を習得した。

1873(M6)年
 大学南校(現東京大学の前身)
 の卒業とともに
文部省上等出仕となって
 大学区医学校
 (現東京大学医学部の前身)に
 ドイツ語通訳として勤務。
 教科書を作るにあたり
 ドイツ語の翻訳で
 「生薬学」の訳語をあてた。

1880(M13)年
 金沢医学校製薬学科
(現金沢大学薬学類の前身)に赴任し、
 同校の教諭と石川県立金沢病院
 現金沢大学医学類附属病院の前身)の薬局長

1885(M18)年 
 これらの職を辞して翌年ドイツに遊学
1886(M19)年 
 陸軍病院薬剤課長心得

1894(M23)年
 第一師団軍医部に配属

1897(M26) 年
 日清戦争に出征

1900(M33) 年
 義和団の乱に伴い召集される。

 事変が終わるとともに
 召集解除となった。

 薬剤官としての生活を終えてから
 東京市小石川に居をかまえ
 ガーゼや脱脂綿などの衛生材料を
 商う傍ら区会議員となり、

1907 (M40) 年
 府会議員となり
 以来5期20年
(1928・S 3)年まで)に  わたって
 地域の発展に貢献した。

1930(S5)年8月15日 死去 享年75





地蜘蛛

2021-08-09 | 出来事・行事

 

前々回は蟻地獄 今回も虫の話

暑い日が続く中
庭いじりをしているとき 土台に
少々気持ちの悪い糸状の管を見つける。

 

調べると「ジクモ」の巣で
クモあるとのことで  びっくり!

その「ジクモ(地蜘蛛)」とは

木の根元や建物の基礎部分などの
地面に10cm程度の縦穴を掘り
次に 掘った穴の中に糸で裏打ちした
細長い袋状の巣をつくる。


その巣を地上部に延長して
先細りの先端部をそばにある壁や
木の幹に付着させているのだそうだ。

この袋の地上に出た部分は
捕虫装置としての機能があり
餌は小型の甲虫 ダンゴムシ 
ワラジムシ などで
これらがこの袋の表面を歩いた時に
袋越しに長大な鋏角で咬みつき
袋を破れるままに巣内に引きずり込む。

食べかすは袋の先端から捨てられる。

この地上部を
つまんでそっと引っ張ると

地下部もいっしょに
引き抜くことができるので

中のクモを捕まえることができる。


しかし ジグモは
頭胸部を腹部の方に曲げると
その長い顎で
自分の腹を切り裂いてしまうので

“サムライグモ” などと呼ばれて
子供のおもちゃになっていたとも。


日本では 本州、四国、九州に分布し
孵化から性成熟するまでに3~4年かかる。

成体の寿命はオスの場合1年足らずだが
メスは卵巣が空にならない限り
さらに4~5年生き続け

1年に1度程度の割合で脱皮も行うとある。

 


経営者 土光敏夫

2021-08-04 | 人物忌


 (BS朝日・昭和偉人伝から)

 

8月4日は 
経営者 土光敏夫が亡くなった日

土光敏夫は 石川島播磨元社長
東京芝浦電気(東芝)を再建し
経団連会長も務め 
“財界の荒法師”
“ミスター合理化” とも呼ばれた。


また 赤字国債が82兆円にまで
膨れあがっていた

昭和50年代、財政を立て直すため
鈴木内閣のもと結成された
第二次臨時行政調査会の会長を務めた。


土光は

1896(M29)年
 岡山県御津郡大野村
 (現・岡山市北区)に生まれる。
1920(T9)年
 東京高等工業学校
 (現・東京工業大学)機械科を卒業し

  石川島造船所入社。
1936(S11)年 石川島芝浦タービン技術部長
1946(S21)年 同社社長
1950(S25)年 石川島重工業に社長として復帰
1960(S35)年 石川島播磨重工業(現IHI)社長
 1964~1972年 同社会長
1965(S40)年
 石坂泰三(1886-1975)に
 請われ業績の悪化した

 東京芝浦電気(現・東芝)の社長に就任し
 再建に努力、率先垂範して
 同社の立て直しにあたる。
1968(S43)年
 経済団体連合会
 (現・日本経済団体連合会)副会長

1972(S47)年
 東京芝浦電気の会長となる。

1974~80年
 経団連第4代会長として
 「行動する経団連」を実践(名誉会長)

1981(S56)年
 第二次臨時行政調査会会長となり
 行革問題に取り組む。
1981~83年
 第2次臨時行政調査会の会長として

「増税なき財政再建」を目指し
 日本国有鉄道をはじめとする
 3公社の民営化など
 一連の行政改革に指導的役割を果たした。
1983~86年
 臨時行政改革推進審議会の
 会長として行政改革実現に力を尽くし
 ”日本を再建した男”とも。

1988(S63)年8月4日 死去 91歳



   (BS朝日 昭和偉人伝から)

また土光の母 登美が 
1942(S17)年に創立した 
橘学苑(中・高校)の理事長として
女子教育に尽力した。


「簡素」「シンプル・ライフ」が信条で
個人は質素に 社会は豊かに。
思想(おもい)は高く 暮しは低く。