結婚当時
8月27日は
「黒い瞳の伯爵夫人」
クーデンホーフ光子が亡くなった日
光子は
1874(M7)年7月24日
東京府牛込納戸町で骨董店を営む
青山喜八と妻・津禰(つね)の
三女・青山みつとして生まれる。
1892 (M25)年2月
当時のオーストリア=ハンガリー帝国の
駐日代理大使として赴任してきた
ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に
見初められ 大使公邸に
小間使いとして奉公する。
諸説あるが
ハインリヒが騎馬で移動中に落馬したのを、
みつが手当てしたのがなれ初めだといわれる。
1893(M26)年
光子(18歳)ハインリヒ(33歳)と結婚
当時東京府に届出された
初の正式な国際結婚とも。
長男・ハンス(光太郎)
次男・リヒャルト(栄次郎)
の2人の子を生む。
1896(M29)年1月
帰還命令により夫の祖国である
オーストリア=ハンガリー帝国へ向かう。
クーデンホーフ家が所有する
西ボヘミア・ロンスペルク村の居城へ。
(現:チェコ共和国・ポビェジョヴィツェ)
旅立ちの前に、光子は明治皇后
(のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、
「どんな場合にも
日本人としての誇りを忘れないように」と
特別にお言葉を賜ったと言われる。
このお言葉が
以後の光子の生涯に大きく影響していた。
渡欧後 自分の無学を補うため
歴史・地理・数学
・語学(フランス語・ドイツ語)
・礼儀作法など
家庭教師を付けて猛勉強した。
1905(M38)年
日露戦争の勝利により
日本の国際的地位が高まると
光子への偏見も和らぐ。
1906(M39)年5月14日
夫ハインリヒが
心臓発作を起こし急死(46歳)
ハインリヒの遺産は
全て光子が相続するように
遺言がなされていたものの
一族が財産を巡り訴訟を起こすが
光子は自ら法律書を読み
勉強をしてこれに勝訴する。
以後 夫の遺産を相続し
伯爵夫人として簿記などを勉強し
領地経営 法廷闘争と取り仕切った。
(NHK・BS ザ・プロファイラー)
そして子供たちの教育のため
財産を処分しウィーンへ居を移す。
光子は社交界にデビューし
「黒い瞳の伯爵夫人」とも呼ばれる。
1914(T3)年に始まる第一次世界大戦では
オーストリア=ハンガリー帝国と
日本は敵国として戦うことになり
二つの祖国が敵国として戦うことになり
光子への差別は強まった。
また 長男ハンスと三男ゲオルフの
2人の息子が兵士として従軍する。
(次男リヒャルトは
肺の病気で徴兵を免れた)
光子自身も赤十字社を通しての
食糧供出に奔走するなど
多難な時期を送る。
1918(T7)年
第一次世界大戦で
オーストリア=ハンガリー帝国が
崩壊したことに伴い
クーデンホーフ=カレルギー家も
多くの財産を失った。
1925(T14)年
脳溢血により右半身不随となるが
ウィーン郊外で唯一の理解者であった
次女・オルガの介護により
静養の日々を過ごす。
1939(S14)年9月に始まった
第二次世界大戦後は
ドイツ難民として中央ヨーロッパを放浪
1941(S16)年8月27日
世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中
2度目の脳卒中が発作し
オルガに見守られながら息を引き取り
ウィーンのカレルギー家の墓に葬られる。
享年67